気を付けてー天ぷらー 第七話


「忘れていないわよ」


勝也は結婚記念日や誕生日はしっかり覚えていて、よくサプライズをしてくれた。勝也の好物の天ぷらを食べに連れて行ってくれたり、料理を作ってくれたり。


お吸い物を頂く。三つ葉とミョウガがさっぱりしていて違和感なく胃に流れ込む。


「でも天ぷらって作るの大変なのよ。イカは跳ねるし」

「知っている。家では時々作ってくれてありがとう。それに、今日の墓参りもありがとう」

「見ていたの」


勝也は頷く。


「天国にはテレビのようなモニターがあって、そこで地上の様子を見られるんだ。他にも墓参りに来られると、風呂に入った後のように心身がさっぱりする。だから墓参りはモニターを見なくてもわかる。ああ、今日来てくれたんだなって」

「そうなの」


墓参りは大事なのかもしれない。もちろん死者を弔う意味でも大事だけれど、さっぱりするというのなら、ちゃんと気持ちも伝わっているのだ。


でも、勝也が小春を見ていると思うと、覗かれているようで気恥しい。見られて困ることもあまりないけれど、一人でこっそり泣いているときもあるのだ。


自分と同じくらいの年齢の人が、夫婦で歩いているのを見ると羨ましくなる。人には人の事情がある。どの夫婦にも苦労はある。だから人と比べても仕方がない。


でも、生きて夫婦で一緒にいる人を見るたび、心の中に塵が積もっていく。彼らに向けてもどうしようもない怨念みたいな汚い感情が湧いてくるのだ。


「小春のこともたまにモニターから見ているよ。拓也と光也はどうしている。家にあまり来ていないみたいだが」

「あの子たちは全然家に寄り付かないのよ。連絡もめったに来ない。でもまあ拓也は結婚しているし奥さんと仲良くやっているのじゃないかしら。光也も仕事がそこそこ成功しているみたいだけれど、知らされていないからよくわからないわ」


勝也は真顔になった。


「あの親不孝どもめ。小春に散々世話になっておきながら」

「まあ、幸せであればいいのよ。便りがないのが元気な証拠ともいうし」

「そうはいっても普通は母親のことを気にかけるだろう。よし、俺が夢枕に立ってやる」

「そんなことできるの」

「してみせるさ」


言ってかき揚げを食べる。勝也は大根おろし付きの天つゆが気に入ったようだ。小春は塩で食べるほうが好みなのだ。天ぷらを食べた日は、それ以上塩分は取らないようにしている。


店内にも、楽しそうな声が響き渡っていた。ざわめきが心地いい。


「子供たちが離れていったのも、私のせいなのかしら……」


ぽつり、と小春は言った。後悔が胸の内からあふれ出てくる。


「どうしてそんなことを思うんだ」

「あなたが死ぬ日の朝、私は腹を立てたわ。テーブルから落ちたゴミを、さっきも言ったけどあなたは気づいていて拾わなかった」

「まあ俺も、朝の支度で忙しくて。小春が拾ってくれるだろうと俺も軽く考えてしまっていた。悪かったよ」


勝也が落としたごみを、拾ってゴミ箱に入れたのは小春だ。


「朝は私も忙しかったのよ。拾わなかったことにイラついて、小言を言ったわね」

「ああ」

「それから私、あなたを無視した」

「そうだな、あの日の朝、俺が何を話しても機嫌が悪くなって黙っていたな。無視されると参るんだよ。空気が重くなって」


勝也は困惑したように首を縮ませる。


困ることを敢えてした。どうしてあんなことをしてしまったのだろう。


「それで、出て行くあなたになにも言わなかった」


いっていらっしゃい、気を付けて。それが、いつもの見送る会話だった。


気を付けて。その言葉を言うと、いつも無事に帰ってきた。


あの時いっていらっしゃい、気を付けて。と言っていれば、勝也は事故に遭わずに済んだのだろうか。仕事も上手くいっていた。


でも、なにも言わなかった日に、別れが来てしまった。


小春はうつむく。ゴミなんて、勝也の命に比べたらどうでもいいことだったのに。


「確かにあの日はいつも聞いていた言葉を俺は聞くことができなかった。それが寂しかったよ」


「ごめんなさい。ちゃんと言えばよかったと、ずっと後悔していたの。些細なことで父親を無視した母親を、子供たちは見ていたはずよ。それで愛想をつかしたのかと、今なら思うわ」


勝也はため息をついた。


「そんなことで怒るような子供達でもないだろう。俺が死んだあと、拓也や光也はお前のことを責めたのか? 父さんを無視した母さんのせいで死んだと」


小春は首を左右に振った。


「そんなことは言われていないわ」

「じゃあ、それはただの思い込みというものさ。あいつらは昔から好き勝手やっていたから、気が向いたときにでもまた戻ってくるのじゃないか。いや、そうするように仕向けるとさっき俺が言ったか。はは」


勝也はあくまで明るい。だが反対に、小春は涙を流した。


「とにかくあの時、無視をしてしまってごめんなさい。いってらっしゃい、気を付けて。と言えなくてごめんなさい。会社へ行く前だったのに、雰囲気を悪くしてしまってごめんなさい」


あとからあとから涙が溢れてくる。


十五年間、ずっと抱え込んでいた。生きているときに、些細なことでも後悔をすることなんてしてはいけないのだと肝に銘じた。それでも、勝也が帰ってくるわけじゃない。今こうして会えていることが奇跡だ。


「泣くな、泣くな。もうそんなことはいいから。泣いたらこの天ぷらにも失礼だ。美味しく食べよう。ほら、かぼちゃも甘みがあってうまいぞ」


それでも泣いている小春に、勝也は立ち上がり、肩に手を置く。不思議と手のぬくもりをちゃんと感じることができた。まるで本当に生きているみたいだ。


「あの朝無視をしたお詫びに、私、夜天ぷらを作ろうと思っていたの。病院から連絡を受ける前は、あなたは夜、変わらず明るい声で『ただいま』って帰ってくると思ったから。電話を受けたのは、材料をなににしようかと考えていたときよ」


小春の肩から手が離れる。涙をハンカチで拭き、見ると勝也は微笑んでいた。


「あの日の夜、天ぷらにしようとしてくれていたのか。それだけで俺は嬉しいよ」

「あまりに急なことで、あの日は結局何も食べなかったのよ。食べられなかった」

「俺も、悪いことをしてしまったな」

「それはいいのだけれど……後悔だけが残って。今も」

「後悔しているということは、それだけ俺のことを思ってくれている証拠だな。もういいよ。もう、いいんだよ」


もういいよ。その言葉で気が楽になった。そうして、謝罪の言葉を、この人は受け入れてくれた。もともと気にしていないのかもしれないけれど。


携帯の怪奇現象の話は言わずにいた。言ってしまったらまたなにか起こりそうな気がしたからだ。携帯は別段故障していなかった。あの時使っていた携帯はガラケーだったので、もう二度ほど機種変して今はスマホにしている。


勝也は何も知らない。二人で天ぷらを食べている。塩のついた白米の味が、暑さと涙で体から失いつつある塩分を補ってくれているようにも思える。


「……こうして気持ちを伝えられてよかった」


「俺も小春の気持ちが聞けて嬉しい。不思議なことってあるものなんだな。死後にこんな奇跡が起こるものなのかと思ったよ。それよりも残りを食べてしまおう」

 言って勝也は再び箸を持つ。嗚呼、勝也と食べている間は幸せだけれど、食べ終えたらまた別れが来てしまうのだ。それを思うと胸が締め付けられそうになる。


「食が進まないか?」

「あなたと別れるのが寂しくて。家にもあなたがいてくれたらってずっと考えていて。でもあなたが死んでしまったから、私もそっちへ行きたいの。天国でも地獄でもいい。あなたと二人で暮らしたい」


本音だった。十五年、本音を隠しながらうわべだけで生きて来た。それは死にたいといっているのと同義だから。


「まだ早いよ。俺は小春がこっちに来られるほうが悲しいぞ」

「…………」

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