虹色の魔女、獣人の国から『布教』を始めます!~し、信じてください。だんな様への愛と推しへの愛は別モノなんです!~

雨愁軒経

1 それがお前で本当に良かった

 石畳で舗装された路上でのジャンピング土下座は、すごく痛かった。

 しかし今のアイリスには痛覚に余裕を割いている暇などない。五体投地の勢いで地面にへばりつき、伏して願う。


「どうか私と結婚してください! 何でもしますから!」


 運命というものを、はじめて感じた気がした。

 こういう時にどんな言葉を発するのが正解かなんてことは、色恋沙汰を遠ざけていた自分にはわかるべくもなかったが、ただ必死で伝えなければならないと思った。

 押し潰れるくらいに擦りつけていた頬が、石畳の表面に帯びた太陽の熱を感じはじめた頃、ようやくアイリスは、周囲に漂う沈黙に気が付いた。

 溜め息のひとつさえない。ただ風の音だけが通り過ぎ、大通りの喧騒を届けてくれる。


「あ、あのう……」


 興奮の波が引くと、生来の引っ込み思案な気性が取り残される。半ベソになっておずおずと顔を上げたアイリスは、こちらを凝視する眼光と目が合い、思わず「ひっ」と悲鳴を上げた。

 切れ長だった双眸は今や大きく見開かれ、その中心で怪訝に揺れる琥珀色の瞳は、まるでこちらの正気を疑っているようだ。筋骨逞しい体をマントのように覆う銀色の髪は、元々雄々しく遊ばせているものだったが、心なしか、今は一層逆立っているように見える。頭のてっぺんにある種族特有の三角耳も、ピンと伸びていた。

 彼はヴィジェル・ヴィトニル。通称『銀狼王』。多種族の獣人による連合国家クティノスの新元首に若くして選ばれ、新時代の英雄と噂される狼族の代表である。

 無言に耐えきれなくなったアイリスは、かたかたと歯を打ち鳴らした。


「え、と、あの、その……!」

「何だ?」

「ぴいっ!?」


 ギロリと一点に注がれた視線に射抜かれ、アイリスは身を縮こめて飛び上がった。立ち上がろうとした足がもつれて、そのまま仰向けに倒れ込んでしまう。

 アイリスは、頭を打つ衝撃を覚悟してぎゅっと目を瞑った。

 しかし、何かに触れたのは背中の方だった。

 一瞬の硬さの後に、ぐっと体が沈み込むような感覚。以前友人から安眠にいいと勧められた、反発の少ない枕のようだと、アイリスは思った。


「(ああ、すごく落ち着く。まるで噂に聞く腕枕のような……よう、な?)」


 思わず心地よさに身を委ねかけて、ハッと我に返る。

 しかし瞼を開けば、視界いっぱいに映るヴィジェルの顔。


「おい大丈夫か、怪我はないか?」

「(えっ、腕、腕――私、抱きっ!?)」


 アイリスは別の意味で意識が飛びそうになった。

 呼吸もできずにいるのを知ってか知らずか、ヴィジェルが体を起こしてくれたことで、彼の顔がさらに大きくなる。


「ったく、そそっかしいな。あの時の堂々とした姿はどこへ行ったんだ」

「あの、時、とはっ、何、でしょうっ!?」


 密着するように抱えられたことで彼の体温にのぼせたアイリスは、ちょうど耳の辺りに触れている胸元から伝わってくる鼓動に弾かれるように、素っ頓狂な声で答える。

 目を白黒とさせていると、ヴィジェルの後方に控えていた二人の男性のうち、快活そうな鳥の獣人が腹を抱えて笑い出した。


「ぷっ、あははははは! ヴィジェル様が睨むから、怖がっちゃってるじゃないすか」


 気高い鷲のような白い髪の中に燃える、太陽のような赤の毛束が、彼が肩を震わせる度にぴょこぴょこと跳ねる。


「睨んでいるかはさておき。先程の状況は、か弱い女性を大男が跪かせている構図でしかなかったのは確かでしょうね」


 もう一人の、深緑の艶やかな長髪をした理知的な美丈夫が、口元に指を当てて柔らかく頬を緩めた。腕を上げたことで袖のずれた手首や、襟元から覗く首筋に、翡翠のような鱗が見受けられる。

 ヴィジェルは顔を顰め、鬱陶しそうに手を払った。


「俺の所為じゃねえだろ。むしろ勝手に土下座された挙句、ひっくり返られて困っているのはこっちだ」

「ああ、レイチョウ領に伝わる三つ指を付く作法に似た、気持ちのいい土下座でしたね」

「だからそれが気に入らねえんだって」

「気に入ら――っ」


 蚊帳の外で話を聞いていたアイリスは、口から魂が抜けるようだった。

 やらかした。大失敗をしてしまった。元首相手ならばそうするべきかと思った故の行動だったが、彼の機嫌を損ねてしまったらしい。


「とりあえず、『魔女』様を離してあげたらどうっすか? さっきから赤くなったり青くなったり、大変なことになってるっすよ」

「……ん? ああ、悪い」


 ヴィジェルが腕を離したことで解放されたアイリスは、その場にへなへなと座り込んだ。


「すまない、きつく締めすぎたか?」

「いえ、そういうわけでは……」


 むしろ抱かれ心地は最高だった。比較材料は知らないが、すっぽりと体が収まる安心感は、文字通り天にも昇るようだったといえる。


「申し訳ありません、私……御気分を害すようなことを」

「まったくだ。『虹色の魔女』ともあろう女が、結婚だなんてな」

「……ふぇ?」


 にわかにヴィジェルの言葉を咀嚼できずに、アイリスは目を瞬かせた。

 するとヴィジェルは、アイリスの前に片膝を突くと、真っ直ぐにこちらを見つめて言った。


「五年前にはただの一兵卒だった俺が、フェンリルの王となり、クティノスの元首にまで上り詰めると決めたのは、他でもない『虹色の魔女』――お前のおかげだ」

「私の……?」

「ああ。だから、してくださいなどと言わないでくれ。むしろ俺の方から頼みたいくらいなんだ。ヴェストリアが人を嫁がせてくると聞いたときは困惑したが、今になってみれば、それがお前で本当に良かった」


 大きな手のひらが頬に触れてきて、汗に張り付いた髪をそっと梳いてくれる。


「『虹色の魔女』よ。どうか、お前の名前を教えてくれないか」

「わ、私は……アイリス・フェルデレーヴ、です」

「アイリス。美しい響きのする名だ」


 鋭い目を優しく細め、犬歯を見せて笑うヴィジェルに、アイリスは顔からぼんっと煙を上げて気を失うのだった。

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