イン★ワンダーランド兄さん!

今際ヨモ

さあ、ご愛読しな!

 兄の声がすると、嵐の夜みたいだと思っていた。嗚呼、台風が来たんだ、って。

 ……それも最早、排水口に沈んでしまったけれど。



 優しい父親は母に愛想を尽かして、随分昔に出ていった。母さんが浮気をしていたのだから当然のことなのかもしれない。

 それから、僕の家庭が崩れていくのはあっという間だった。母さんは浮気相手にすら捨てられたとかで、家にいるときはお酒を沢山飲んだ。リビングの床には酒の空き缶が大量に転がっていて、いつも家の中は生ゴミとかタバコやアルコールの臭いが充満していた。


 小学生の僕は家に帰ると、机の上の空き缶を退けて宿題をした。母さんは夜の仕事に備えて眠っている。酒臭い息を吐く母の隣。黙々と宿題に取り組んで、夜はカップ麺にお湯を注ぐ。最底辺の暮らしだとは思っていた。でも、別に不満は無い。三つ離れた兄は部活で帰ってくるのが遅かったけれど、とても優しかったから。母さんがいて兄がいて、それで別に良かったのだ。


 しかし、先に限界が来たのは兄の方だった。

 中学三年生になったある日、兄はカッターナイフで僕の腕を切りつけた。それほど深くなかったとはいえ、薄く切れた皮膚の隙間、ジュワ、と血が染み出す。兄はその血を指で拭うと、持っていた紙に擦りつけた。魔法陣みたいなものの書かれた用紙だった。

 訳がわからないまま、痛くて泣いている僕に、兄は優しく言った。


「黒魔術だよ。大切な人の血を使って、欲しいものを召喚するんだ。俺はお父さんとちゃんとしてた頃のお母さんを召喚するんだ。だからもう、泣くなよ」


 学校で黒魔術の本を見つけたから試しているのだと、兄は嬉しそうに語った。

 そんなもの、上手く行くわけがない。僕はやめてって兄に言ったけれど、聞き入れてくれなかった。

 床に転がった酒の缶を退けて、兄は紙を敷く。僕の血液が染み込んで、魔法陣に茶色の染みがついている。

 しばらく経っても、何も起こらなかった。


「何かやり方が違うのかもしれない。何度も悪魔に呼びかけると、怒った悪魔が来て、罰を与えられてしまうから、今日はここまで。明日も試そう」


 兄はおかしくなってしまったのだ。部屋には生ゴミとタバコとアルコール、それから僕の血の匂いが漂っている。こんな環境でまともでいられるわけ、無かったんだ。

 僕だって、おかしくなりそうだった。母さんは朝にも帰ってこないことが増えた。部屋のゴミを掃除するのは僕の仕事だった。掃除してもすぐ、母さんが帰ってくると汚くなる。母さんなんかいなければいいのにな、と思うことも増えた。

 それでも僕がどうにかやってこれたのは、兄がいたからだ。同じ環境で育つ兄さん。辛くても、それを分かち合い共にいてくれる兄さん。兄さんがいれば、僕は頑張れたんだ。


 優しい父さんと母さんがいて、兄さんがいる。そんなふうな、みんなで笑い合う日々を望んでいることはきっと同じなのに。少しずつずれていく。

 当然、次の日も兄さんは僕の腕を切りつけた。

 嫌だ、やめて、痛いよ、いたい。そう叫ぶ僕の声を無視して、掴んだ僕の腕にカッターの刃を押し当てる。薄く冷たい刃は僕の皮膚を割いて、隙間からジュクジュクと真っ赤な血が溢れてくる。

 魔法陣の書かれた紙に、血が滴った。泣いている僕を余所に、兄は本を見ながら呪文を唱える。異国の言語で何者かに語りかける。こんなに痛い思いをしているのだから、次こそは成功してほしかった。


「……何も起こらないな」


 肩を落として兄がポツリと言う。

 そうやって、兄さんは毎日僕に暴力を振るった。

 うまく行かない日がずっと続くと、兄はついに僕に八つ当たりをしてきた。斬りつけるだけでなく、殴られて、罵声を浴びせられる。

 お前の血じゃ駄目なのかもしれない。お前の血に魔力が足りないんだ。お前のせいだ。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 僕はただ、床を睨みつけて謝るだけ。


 兄の声がすると、嵐の夜みたいだと思っていた。嗚呼、台風が来たんだ、って。強い風の音みたいな罵声に、飛んてくる拳や蹴り。それに毎日腕を切りつけられる日々。

 過ぎ去るのをただ、待つしかないんだから。そっくりだ。



 そんな兄でも、愛を感じる瞬間はあったのだ。

 本物の嵐が来て、雷が凄かった夜。停電の起こった暗い部屋で、兄さんは僕の手を握ってくれた。兄さんは雷怖かっただけ、側に人がいてほしかっただけかもしれない。それでも、人の温度は心地よかったから、僕は手を握り返したのだ。次の日には同じ嵐の日々が来るとしても。


「山羊座の山羊って、悪魔なんだって。俺が呼び出そうとしている悪魔はそいつだ。山羊の悪魔は、呼び出し方に失敗すると、怒って召喚者を殺すんだ。だから上手くやらないと」


 僕の右手をきゅっと握る指。暖かくて、大きくて、兄さんの手だと思った。


「山羊座ってどんな形か知ってるか。今は雨雲で見えないけどさ、晴れてる夜に教えてやるよ。南の空の星座。山羊座って、確かにあるんだ」


 ゴロゴロ、と雷鳴のあとに強く光って、兄の顔が見えた。泣きそうな横顔。父さんに似た優しい目つき。だけど僕の手を握るその左手の指の形は母さんに似ている。

 ドオン。何処かに雷が落ちたらしくて、つんざくような音が響く。兄さんは身を強張らせて僕の手を強く握った。

 兄の声はまるで嵐みたい。過ぎ去るのを待つしかない。そうだとしても、いつか過ぎ去り晴れ間が見えたとき。きっとそこには優しい父さんと母さんがいて、僕達兄弟が幸せに暮らす。

 信じるしかなかった。この指先の温もりが当たり前な日々を。腕に付けられた無数の切り傷が幸せに繋がること。

 生ゴミとタバコとアルコールの臭い。そして兄の温度を感じながら、僕は眠りについた。



 九月は天気が荒れやすい。兄が荒れているのはいつものことだけど、空が荒れる頻度も高い。雷雨の日には、雷に怯えた兄がいつも僕の手を握ってきた。

 この時間だけ、優しかった頃の兄さんに戻ってくれるから、僕は小さな幸せに浸った。


「小さい頃も、兄さんは僕の手をこうして握っていたよね。雷が鳴る度に」

「だって、どうしても怖いから……お前はなんで怖くないんだよ」

「僕だって怖いよ。でもさ、兄さんがいるから大丈夫なんだよ」

「何だそれ。俺がビビってるから逆に冷静でいられるってことか?」

「あはは、そうかもしれない」


 ははは。兄さんが微かに笑う。その視線が僕の腕にある切り傷に向けられる。

 兄さんは、どう思っているのだろう。失敗の数だけ増えていく傷跡に、僕の苦痛の声。もしかしたらもう、黒魔術なんて上手く行かないことに気付いているのかもしれない。


 僕は最初から信じてなかった。それでも兄さんは信じていたから。それに、流した血が。切られたあとも痛む傷が。何もかも、無駄になってしまうから。だから薄氷のような希望に願いを託すしかないのだ。


 もしかしたら、兄さんも同じかもしれなかった。傷の数だけ、僕らの関係は変わっていく。雷の夜だけ僕らは元の仲良し兄弟に戻れたけれど、嵐が過ぎ去ればまた次の嵐がやってくる。兄の罵声と暴力だ。本当は兄さんもわかっているのかもしれないけれど、戻れないんじゃないか。今更やめることも、叶わない願いだと認めることも、とっても苦しい決断だ。


 黒魔術をやめたところで、僕らの関係は戻らない。傷はいつの日か治るかもしれないけれど、傷付けられた事実が消えるわけじゃないから。

 もう僕らは戻れない。


 雷の夜。手を繋ぎながら僕らは他愛もない話をする。その話題の中に僕の傷のことも家族のことも黒魔術のことも存在しない。腫れ物を扱うみたいに、触れようともしない。


「ねえ、兄さん」


 雷鳴が遠く聞こえる。


「僕は、兄さんのこと大好きだよ」


 瞬間、空が光った。兄さんは僕の方を見ていた。強張って、硬い表情。それが、緩りと困ったような微笑に変わる。父さんにそっくりだった。母さんが浮気をしていることがわかって、出ていこうとする日の。

 ごめんな。もうお前たちと暮らすことはできない。本当にごめん。

 それだけ言い残して、キャリーバッグを引っ張って消えてしまった。あの日の父さんとそっくりの顔で、兄さんが微笑んでいる。

 返事は無かった。雨音と風の音ばかりがする。握っていた兄さんの左手が離れていく。


「……うん。そっか。ありがとうな」


 視線を逸らして、兄さんは床を見つめていた。どうしてこっちを見てくれないの。責めるような目で、僕は黙ってその横顔を見ていた。



 当たり前のように、次の日も腕を切られるとしても。僕は家族愛を信じて耐え続けようと思っていた。


 ……思っていたけれど。例外もあるらしい。


 台風の続く日。その日も雷が鳴っていた。雷鳴に怯えて耳を塞ぐ兄さんを見つけると、僕はその隣に腰を下ろした。そうしてその左手に触れる。


「──触るな!」


 その日の兄は、少し違った。

 手を振りほどかれて、拳が飛んでくる。ゴン、と頭蓋骨に別の骨の当たる痛み。

 驚いて目を見開いていると、容赦なく腹に足が食い込んできた。衝撃で転がって、一緒に巻き込まれた空き缶がカランカランと鳴る。中に少しだけ残っていたアルコールが溢れて、臭いが散らばった。


「お前のせいで上手く行かないってわかってんのかよ!」


 また始まった。嗚呼、と失望混じりに息を吐いて、兄の顔を見た。


「何が足りない? 悪魔よ、何が足りないんだ、血が足りないのか? 弟を殺せばそれで満足か? なあ、答えろよ悪魔!」


 足りない?

 今まで沢山切られて痛い思いをしたのに、まだ足りないのか?


 雷鳴と共に、外が光る。ドオン、と激しい音が轟いた。兄はカッターナイフを放り投げ、思わず耳を塞いで蹲っている。

 その時ばかりは、兄がとても小さく、弱く、矮小な存在に感じた。

 立ち上がって、足を踏み出す。空き缶を蹴った感触がして、カラン、と乾いた音がした。


 嗚呼、どうして。母さんは自分で缶を片付けないし、兄も平気な顔で放置する。どうして? 僕が片さないと台所の生ゴミとか灰皿のタバコとか床の空き缶を放置するんだろう。どうして父さんは僕らを置いて出ていって、それで一度も会いに来てくれないの。小学校の卒業式や、中学の入学式。兄の高校入学だって、会いにこなかった。浮気した女の子供なんてもう、自分の子供として認められない? 浮気されるような男にも問題があるんじゃないか。自分は欲求のまま女とセックスして孕ませて産ませて放置? 母さんも、そんな男だから愛想を尽かしてもっと大切にしてくれる男に縋りたくなったに違いない。結局捨てられたんじゃ元も子もないけれど。それなら僕ら兄弟は捨てられた子供で、愛されない子供で。でも、そんなのは小学生のときから漠然と理解していたことじゃないか。


 それでも兄さんがいるから頑張って生きようと思っていた。けれど、この人はもう、僕のことを自分の欲求を叶える材料としてしか、見ていないのだ。

 ……魔法が解けたみたいだった。

 僕は兄を一瞥して、台所に駆けていった。

 ろくに料理なんかしないくせに、戸棚の下にしっかりと包丁は仕舞われていた。最後に使ったのはいつだろう。思い出せないくらい新品みたいな包丁に、反射して僕の顔が映し出されている。

 暗く沈んだ瞳は、兄さんにそっくりだった。最悪だ、と思った。どうしたって僕ら、兄弟だ。

 だからもう、なんかどうでもいい。

 終わらせてやる。何もかも!


 蹲っている兄の髪の毛を引っ掴んだ。

 無理矢理床に転がして目を見開くそいつの、喉に、勢い良く包丁を振り下ろした。


 ぶちゅっと音が鳴る。

 僕の腕を切りつけたときと比にならない量の出血に、少しだけ怯んだ。

 だけどもう、引き返せないんだ。

 引き抜く。粘ついた体液が散って、床を、頬を汚す。

 振り下ろす。ごぷっと、兄の口から赤い泡銭が跳ねた。

 暴れ、抵抗されるのが鬱陶しく、兄の胴に跨った。何か訴えようとしているのか、ただ苦痛に喘いでいるのか、兄は最期に魚みたいに口をパクパクさせていた。

 僕に謝ってくれていたら、少しだけ気分が良いのだけど。


 兄の声がすると、嵐の夜みたいだと思っていた。嗚呼、台風が来たんだ、って。一年中止まない雨が降っている。暗く重たい雲。……のように感じる存在なので、殺してしまった。


「…………」


 肩で呼吸を繰り返す。両手も床も、人間の体液でベチャベチャだ。

 片付けないと。咄嗟に思ったのは、そんなことだった。

 血走った眼を見開いて、虚空を見つめる兄の瞼を閉じる。そうして両足を掴むと、風呂場まで引き摺っていく。

 途中でちらと見た、兄の書いた魔法陣。そこには兄の血がベッタリと付着していた。もう何も見ないでも詠唱できるようになった呪文を唱えてみる。


 当然、悪魔なんてこないのだ。


 馬鹿な人だったな。僕もこいつも。乾いた息を吐いて、風呂場に入る。

 とにかく汚かったから顔にシャワーを浴びせた。流れて排水口に吸い込まれる血を眺める。雨のように、どこにも停滞しないで、どこか遠くへ流れていってしまえと思う。


 兄の声がすると、嵐の夜みたいだと思っていた。嗚呼、台風が来たんだ、って。

 ……それも最早、排水口に沈んでしまったけれど。


 台所の戸棚の下を探すと、ほとんど使ったこともないような、四角い刃の包丁が見つかった。凄くちょうどいいから直ぐに兄に使うことにした。


 兄と手を繋いでいる雷雨の夜。その時間だけは、僕は安心して過ごせたんだ。

 だから。

 横たわる兄の左手首目掛けて、包丁を振り下ろした。一度では骨を断ち切れない。硬い感触を破壊する。何度も何度も何度も何度も何度も包丁を打ち付けて、そのせいで風呂場の床に傷が残ったけれど。

 肩で息をしながら、切り離した左手を拾い上げる。

 子猫くらいの重さがある。肉塊の、確かな質量。


「兄さん」


 それを右手で握れば、もう全部、いつも通りだった。

 断面から滴る血も気にならないで、僕はフラフラとリビングに戻った。母さんが帰る前に、空き缶を片付けないといけないから。


「え」


 リビングに、誰かがいた。

 血に濡れたフローリングを黒い革靴で踏みしめて、スーツのその人は、ゆっくりと振り向いた。

 山羊だ。

 頭部には山羊の骸骨がついていて、被り物とか特殊メイクのようには見えない。スーツの襟元から覗く首筋は、背骨のようなものが見えて、明らかに人間以外の何かであるということが、嫌でも理解できた。

 

「召喚に応えたぞ、人間」


 地の底から響くような、気味の悪い低い声。だけど不思議と、心地よさすら感じる。

 だって多分、僕は選ばれたのだから!

 兄さんでは駄目だった。僕が悪魔に認められたのだ。


「汝の願いを叶えよう。さあ──」


 悪魔が黒い手を差し出してくる。

 僕は口角を吊り上げ、兄の左手を投げ出して。

 血に濡れた床を踏みつけて。


「僕の、僕の願いは──!」


 悪魔の左手にしがみついた。

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