白い箱と脚と道のカマキリ
在都夢
白い箱
女子の脚に支配された私の心を作ったのは小学二年生の時の同級生だった。名前はカナちゃん。背が高くて、高学年に負けないくらい大きかった。
カナちゃんはよく走る子だったから年がら年中短パンを履いていて、そのすらりと長い脚を誰彼構わず見せびらかしていた、というのはもちろん私の醜い執着からくる思い込みだったけれど、カナちゃんの脚は本当に素晴らしかった。細すぎるわけでもなく、かといって太すぎるわけでもなかったし、校庭を走りまくってたわりにはシミも傷も一つもなくて健康的に日焼けした肌がまるで宝石みたいに輝いていた。
ああ、カナちゃん。
私はいつもカナちゃんの脚を思い出してしまう。
カナちゃんの脚は、心が強固にねじくれてしまう前の私に鮮烈な印象を焼き付けた。私はカナちゃんの脚に夢中だった。カナちゃんが走るところ、カナちゃんの脚が躍動するところ、ふくらはぎが弾み、太ももがたわむところを見たくて見たくていつも背中を追いかけていた。カナちゃんが校庭の真ん中まで走っていってジャンプしながらドッジのボールを天に掲げた時、つまりカナちゃんが上半身を二トンの質量で押し潰された時にも私はカナちゃんの脚を見つめていた。二トンの物体はちょうどカナちゃんの股間あたりまでを押し潰し、カナちゃんを自転車のタイヤに轢かれたカマキリみたいにした。カナちゃんの上半身は完璧に潰れ、厚さがほとんどなくなっていた。地面と物体に挟まれた隙間から血すら流れてこなかった。それくらい見事に押し潰されていた。対してカナちゃんの下半身はカマキリの胴体みたいに厚みを保っていた。まるで脚だけそこにスンと、出現したみたいだった。綺麗な綺麗なカナちゃんの脚だけがただそこにあった。
校庭は放課後でたまたま私とカナちゃんしかいない。もうものすごくグロテスクな現場に子供が一人きり。すぐに親とか先生に連絡するべきだった。
でも、何だろう、すごく触ってみたいと思った。
何しろ私はカナちゃんの脚を見ているだけで触ったことなんてなかった。カナちゃんの脚の感触をただ想像するだけで実際に触れてみようなんて考えたこともなかった。
もちろん触るなんて駄目だ。上半身を失ったカナちゃんは死体で、そんな状態のカナちゃんに触るなんて倫理的に間違っていて、友達としても最低でバレたらきっといじめられるだろうし、おかしいやつ扱いされるだろうし親からも怒られるだろうし帰るべきなのは確実だった。
「あ!」
でも触っていた。
すごいすごいすごい!
声が勝手に出ていた。全然抑えられなかった。
カナちゃんの脚は想像していたよりもずっと柔らかかった。ふくらはぎなんてまるでマシュマロみたいだった。一撫でするたびに腕に鳥肌が立ってきた。目の前がチカチカして心臓が跳ね始めた。私はどうなってしまったんだろう? 体が勝手に動いてカナちゃんのふくらはぎを自分の太ももで挟み込んで膝立ちになって、今度はカナちゃんの太ももに頬を当てていた。嘘みたいに頬が沈み込んだ。カナちゃんの太ももはまるで宇宙だった。何でも吸い込んでしまうみたいに広大だった。ぼうっとする。何も考えられない、と思っているとちょうどめくれ上がった服の隙間からカナちゃんの膝裏が私の肌に触れた。私の頭が焦げたように熱くなった。カナちゃんの膝裏は微妙にしっとりしていて温かった。嘘だ!? 生きてるの!? そんな疑問が浮かんだけれど私の頭はカナちゃんの太ももに支配されていたのでまともな考えをできなかった。浮かんで来るのは「もっと触れていたい」。それだけだった。心臓が爆発するように音を鳴らした。鼻血が垂れてつつつーと太ももを伝っていくのが見えたけれど離れることができない。だってその時の私はカナちゃんの太ももだった。ふくらはぎで足裏だった。私は完璧に同化していた。脚以外何もいらないと思った。息すら止まっていた。
でもそうしていられたのはほんのわずかな時間だった。
校庭に降ってきた物体は白くて四角くて子供を押し潰せるくらい大きかった。サイコロを巨大化させたらそんな感じ。立方体。とても目立つ。つまり大人は放っておかない。
私は病院に連れて行かれ三日後に小学校に復帰し、カナちゃんが死亡した事実はそれとなくクラスに伝えられ実にあっけなく処理された。白い箱に潰されて死ぬということはそれくらいありふれていたし、カナちゃんの箱に潰されなかった部分、つまり脚だってちゃんと病院から帰ってきていた。
よかった。
カナちゃんとまた会える。
また見れる。また触れる。
私はそう思って母親と一緒にカナちゃんの家に行ったけれど、カナちゃんの脚はすでに火葬されて骨になっていた。骨壷の前で呆然と立ち尽くす私にカナちゃんの両親はお礼を言ったけれど、全く耳に入って来なかった。
「ねえどうして燃やしちゃったの? カナちゃんまだ生きてたんだよ?」
帰り道、母親にそう聞いた。
「違うよ。カナちゃんはもういないの。天国に行っちゃったの」
「違う。生きてる!」
「違くないよ。カナちゃんは悪い箱に体を乗っ取られちゃったの。脚だってもう普通の人のじゃないんだよ」
「カナちゃん人だもん! 生きてたもん!」
「カナちゃんはマミちゃんと遊んでた時から人じゃなくなってたんだよ……」
と繰り返す母親はあくまで私を諭そうとしていたけれど、私は怒っていた。理解できるはずもなかった。どうして意地悪するんだろう?
カナちゃんが死んでしまったんだよ? カナちゃんの脚がなくなってしまったんだよ?
いっそ白い箱に潰されてカナちゃんと同じところに行きたいと思ったけれど、思っただけだ。
私はどんどん大きくなって、あの素晴らしいカナちゃんの脚の感触が薄れていった。
中学生になった私は必死にカナちゃんの脚の代わりを探した。だけれど、そんなものはあるわけがなかった。カナちゃんの脚は完璧だった。同級生の脚が代わりになるはずもない。
でも私の視線は常に、下に落ちていた。
スカートから伸びる脚たち。
完璧じゃない。
でも脚だ。脚として存在しているのだ。
その確信が私を駄目にしてしまった。中学二年。夏。ショート丈の靴下ばかりの女子の脚が私の目に入って来た時、私は盛大に鼻血を出した。ぶぱっと勢いよく噴き出して廊下と自分の制服を汚した。気がつくと同級生雛町のそれほど形の良くない短い脚に触っていた。廊下のど真ん中で雛町を押し倒してスカートを捲り上げ太ももに顔を埋めた。カナちゃんの時と違って太ももの前側の、脚と脚の間にできた窪みに自分の顔を挟ませた。
「はあ!? はあ!?」
雛町の叫ぶのを聞きつつ私はどこか冷静に、「ああやっぱり違う」と思っていたけれど体はちっとも離れようとしなかった。なぜか? 女子の脚に触れているからだ。やはり私の頭はカナちゃんによって縛られてしまっている。
「はあ!? ざけんな!? 何こいつ!? こいつ!?」
雛町の脚が動いて私の肩を蹴った。痛い。まるで虫か何かに纏われつかれているみたいに雛町は半狂乱になって私を叩いた。それでも私は動かなかった。動けなかった。額を蹴り飛ばされてようやく脚から解放された私を見ていたのは教室から騒ぎを聞きつけて出てきた同級生たちで、「こいつこんな奴だったんだ」という顔が頭上に並んでいて、私は中学の残りの生活が酷いものになることがわかった。
いじめについて語ることは上手くできない。同級生たちが私に行ったのはいじめというより攻撃だったからだ。人間に似た動物を撃退するための対抗策だったからだ。
無視されるのは当たり前だった。それは別に良い。痛くはないからだ。でも同級生たちが行うのは攻撃だった。人類が他の動物を仕留めるために古代から使われてきた投擲という手段でそれは成された。
いろんなものが投げつけられた。
テニスボール。野球ボール。ゴルフボール。シャーペン。定規。ハサミ。スマートフォン、硬くて重くて尖っているもの全般……。
投擲という手段が選ばれた理由は私にも予想できる。近づきたくないからだ。女子の集団は私に恐怖していた。だって私の頭はいまだに女子の脚に取り憑かれていて、ものを投げつけられようが関係なく、揺れるスカートから伸びる脚を正面から見据えていて、何を投げつけられようが瞬きもしなかったからだ。私は一種の化け物だった。
額に大きな傷を作ったビーカーが投げつけられた時も私はタイツに覆われた脚を見ていた。バスケ部の向井洋子の脚。筋肉がある。触ってみたらどんな感じなんだろう? きっと反発力があって私の指を押し返してくるはず。柔らかさは? 案外柔らかいかも。筋肉は硬いよりも柔らかい方が力を発揮するというし、きっと柔らかい。太ももの内側の内転筋を眺めているともう我慢ができなくなって私は向井の太ももに手を伸ばしかけ、そのまま向井にビーカーを投げつけられた。
「触んな馬鹿」
向井は冷静だった。
他の女子みたいに泣き叫んだり震えたりしなかった。ただただ私を撃退しにかかった。
ビーカーで切った傷のせいで顔面血まみれの私のお腹を踏みつけると向井は、ヒョイっと屈んで私の顔を殴った。
重い。
体重もだけどパンチ力が。
向井のパンチは私の鼻を折り、一発で意識を飛ばした。次に目を覚ました時にはベッドにいて、担任と校長、それから向井本人が私のベッドの前に並んでいた。
担任が最初に口を開いた。
「青山さん。調子はどう?」
「顔が痛いです」
担任が校長たちの方に振り返り、「痛いそうです」と見ればわかりそうなことを言ってから私に向き合うと「青山さん。あの時のことを話してくれる?」と言った。
「あの時?」
「そうよ。どうしてその」と担任は言い淀んでから「クラスの子の脚に触るの?」
クラスの子の脚に触る?
まるで私が日常的に同級生の脚に触っているかのような言い振りだけれど、そもそも中学生になってから女子の脚に触れたのは、雛町の脚にだけでそれ以外は全くの冤罪なのだ……とは言い切れないことを私はわかっている。
私が女子の脚を眺める時の顔は気持ち悪い。
目だけが血走っていて表情筋が全く動いていないのだ。普段はそんなことないのに、女子の脚を眺める時にだけそうなるから余計にキモい。
「触ってなんかいませんよ」
触れるものならだけど。
「でも向井さんは触られたって」
と言いかけた担任を当の本人の向井が遮るように、
「別に触られてないです。勝手に言ったこと変えないでください」
「ええ? じゃあどうして殴ったの?」と担任。
「触ろうとして来たから」
話はそれで終わりとばかりに向井は立ち去ろうとする。校長も担任もあっけに取られている。全く役に立たないなこの人たちはと思っていると、向井が保健室のドアを開ける直前に私の方を向いて言った。
「殴ったことは悪かったって思ってるから。でも二度と触って来ようとしないで」
なんてクール。
向井はクールだった。出会った時から向井はこうだった。クールビューティ。
きっと涙を流すことなんて一生に一度もないんだろう。
それってすごく良いことだと思う。
そう勝手に私は向井のことを尊敬するようになったけれど、向井と話すことはなく、そのまま中学を卒業し、同じ県立高校に入学しても特に絡むことはなかった。
まあ私は頭を女子の脚にやられた変人だから。
仕方のないこと。
入学した高校には同じ中学だった人が何人もいて、私が雛町のような女子を襲う奴だと言いふらされていた。もちろん友達はできない。
クールオブビューティ向井はどうだろう? 友達はいるのかな?
いるようには見える。いつも何人かとつるんでいる。そこでもクールだ。普通によく喋るけれど一線を越えようとして来た相手には容赦しない。軽口です、みたいな感じで流そうとしても絶対許さない。すでに何人か女子を泣かせている。怖い人だなあほんとの本当に一生泣く側になることはないんじゃないか?
そう思っていると、向井が泣いているところを見つける。
塾の帰りに寄った夜のコンビニの駐車場で、向井が、声を上げながら泣いていた。
思わず自転車から降りた。
向井がハンドバッグを両腕で抱き締めながら、まるで映画のクライマックスかとでもいうように感情を溢れさせていた。肩を震わせハンドバッグに涙まみれの顔をなすりつけ、ぺたりと地面に座っていた。
「どうしたの?」
聞くと顔を上げてきた。
「あんたか……どうしてここにいんの?」
思わずどきりとした。綺麗な泣き顔だったから。
「塾帰りで」
「……ふうん」
向井が立ち上がって涙を肘で拭う。その時向井のハンドバッグの中身が見えた。
手だった。女の人の手。
「勝手に見ないでよ」
向井がバッグを抱き寄せて、口を覆い隠す。
「手?」
「……」
向井が後ずさる。
「別に誰にも言わないよ。言う人いないでしょ私」
「……歩きながらでいいでしょ」
と言って向井は私を追い越す。コンビニで夜食でも買おうと思ったけれど、諦めて私は自転車を押しながら着いて行く。
「……お姉ちゃんがいるの私」と向井が言う。
「そうなの?」
「……でも一ヶ月前に死んだ。白い箱に潰されて」
白い箱。カナちゃんが死んで以来私の人生に関係ないと思っていたものだ。この頃も毎日のように降ってきていてたくさん人を圧殺している。
でも向井は全然家族が死んだって風じゃなかったのに。
「……学校の外で毎日泣いてたし」と私の顔を見て涙目で向井が言う。
「見られたのあんたが初めて」
初めてと言われても反応に困る。
何も言えずに黙っていると、
「お姉ちゃんは画家だったんだよね。結構人気で暮らせるくらいに稼いでて、ずうっと絵を描いてるような人で、家族のことなんて何にも考えないような人だったの」
「うん」
「性格もいいわけでもないしさ、ズボラだし適当だし、会ったら毎回喧嘩するし……でも死んだら死んだで泣けてきちゃうんだよね。よくわからない箱に潰されてこんな手だけになってるってのに」
「……」
私はカナちゃんのことを思い出す。脚だけになったカナちゃん。似たようなことが起こることもあり得るんだろう。もっとも向井は私みたいにはなってないとは思うけど。
「……あんたもさ、友達潰されたって聞いたけど」
向井が歩くスピードを緩めて肩越しに私を見る。不意に放たれた一言に私は驚く。
どうして知っているんだろう? と思うけれど、まあそうおかしいことでもない。通っていた小学校で友達を潰されたのは私一人だけ。情報なんて簡単に伝わっていく。問題はどういうつもりで向井がそれを言ったのかだった。
考えているうちに向井の家に辿り着く。一軒家。結構大きい。屋上テラスもある。そこで向井は立ち止まる。
「……どうして生きてる間は話したくもなかったのに、いなくなってからだと触りたくなっちゃうんだろーね」
そう言いながら、ハンドバッグから姉の手を出して、向井は姉の手の甲を撫でた。優しい手つきだった。それから私に目を向ける。特に何も言わなかったけれど、向井の表情から私に共感ぽいことをしているんだとわかった。姉の手に向けるものと同じくらいの優しさをもって、私に接しようとしているのだ。
白い箱に大切な人を殺された同類。
どこかからそんなエピソードを聞いてしまっただけで。
向井は口を開く。
「青山。あんたのこと誤解してたかも。脚フェチの変態とかじゃなかったんだ」
あれ?
それは違うと思う。
確かに私にだってそういう、寂しいとか悲しいとかって気持ちはあると思うけれど、でも私は最初からカナちゃんの脚が好きでそれがカナちゃんが圧死してしまうという異常な状況を通して強化されただけで、元々あった私の性質なのだ。
否定しなければならない。
そうしたいはずなのに私は涙を流している。
脚フェチの変態ではないと誤解してくれたから? 自分の心がわからない。私の頬を伝う涙が嘘なのかもわからない。でも涙は止まらなかった。
「そんな泣かないでよ」
と向井が苦笑する。
違う。これはそういう意味の涙じゃないの、と言いたいけれど、否定する言葉が浮かばない。どうしたらいいんだろう。
「……私が泣かせたみたいじゃん」
向井が泣きっぱなしの私の腕を引っ張り、家の中へ連れ込む。家の中には誰もいない。私を引っ張ったままリビングに行き、ソファに私を座らせると向井は言った。
「ほら、落ち着きなって」
私は全然落ち着かない。自分の繊細さに唖然とする。今のいままで一人ぼっちで痛い目ばかり遭っているのが普通だったのに、いきなり優しさを与えられただけで、こんな風になってしまうのか? そんな風で大丈夫なのか?
泣き止めない。
「ヤバいね青山」ついに向井が笑いながら膝立ちになって、一瞬捲れ上がったスカートの下の内腿が見えた。
え?
私の涙は一瞬で引っ込む。そして同時に安心する。良かった脚フェチの変態のままで……と思ったところでいつもの病気が始まった。鼻の頭が熱くなってドロっと今にも血が出てきそうで脚のこと以外もう考えられない。背中に汗も出てくる。座っている私に目線を合わせるために、膝立ちになっている向井の脚にはうっすら筋肉の筋が浮かんでいて、きっと触ると硬いだろう。でもそれでいい。それがいい。私の欲望は進化して来ていて、ただ柔らかいだけじゃ駄目になっていて、私の大きくなった体を受け入れることができるくらいの深みが必要になってしまっているのだ。本当にもうどうしようもないが止めることもできない。
触っていい?
危うく口に出すところだった。
「ちょっと待っててお茶用意するから」と言いながら台所の方に回る向井を見て鳥肌が立つ。そうだそうだ。私は向井の脚を触ろうとして殴られた。迂闊なことはしていけないし、そもそもあっちは私を慰めようとしてくれている。失礼。
「適当にくつろいでて」
私はそれに従う。なんでもいいから気を散らさないと向井の脚を見てしまう。スマホを出してネットに繋がる。白い箱の記事があるから見る。いろんなものがある。その中に「どうして白い箱は正確に人を潰すことができるのか?」とあるのが目に留まる。どうしてだろう? 気になる。
「おー、泣き止んでんじゃん。偉いね」
とコップを持って向井が戻ってくる。テーブルに自分のを置き、私の隣に座った。
「落ち着いた?」
「……まあ」
全然落ち着いてはいないけれど。
「ねえ普段何してんの」
そんなこと言われても。
「……勉強?」
「はは」と向井が笑う。「なんで質問してんの」
「何かはしてるはずなんだけど……」
「なんだけど?」
「……主に寝てる?」
「あは。何それ。ものすごく疲れた人じゃん」
と向井がさっきよりも大きな声で笑うので恥ずかしくなる。顔を逸らそうとすると向井は身を乗り出して目を合わせようとしてきて、
「教室でもさ、下ばっか見てないで前向けばいいのに。青山結構可愛いよ?」
「……やめてよ別に可愛くなんてないし」
「あはは。時々鼻血出して目見開いてんのとかきもいけどさ、ちゃんとした格好すればいけると思う」
「……いや私はちゃんときもいから。中学でもいじめられてたじゃん女子全員に」
「ああ、あれ? 雛町が扇動してただけでしょ。まああんた何考えてるかわからなかったし、私だってどっちかって言えば嫌いよりだったけど今は結構好きだよ?」
内心頭を抱える。
それは姉の死で心が弱ってしまっているというだけだ。簡単に他人を自分の内側に入れない性格なのに、同類的な存在が現れたというだけであっさり線の内側に入れてしまうくらい弱っているというだけなのだ。
そもそも今自分で言ったようにいじめ放置されていたし。
ソファで隣、腰と腰がくっ付くくらいの距離にまで近づいた向井にどう接しよう考えていると、テーブルの上に置いてあったハンドバッグが動いているのが見える。目を見開く。よく見ると動いているのはハンドバッグじゃなくて中に入っていた手だ。向井の姉の。
手が指を使ってテーブルの上を張っていく。すぐに床に落ちて見えなくなる。
向井は私と話すのに夢中で気づいていない。
「あれ……」
「あれって?」と向井。
私は指を指すけれど、落ちたところにはもう何もいない。
どこへ行った。
「どうしたん青山」
キョロキョロすると向井の後頭部に、向井姉の手が引っ付いているのを見つける。髪の毛を鷲掴んでピクピク痙攣しているみたいに動いている。何かをしていることがわかるけれど、しかし向井は気づいていない。何の感触もないようにキョトンとしている。
「え? 後ろなんかいる?」と、そんな頓珍漢なことまで言う。
ああ、もう。
「お姉ちゃんの手が……」
「お姉ちゃん? 誰の?」
「向井さんのだよ」
「え? 私の?」
「それ以外誰がいるの」と私はつい声が荒くなってしまう。「頭の後ろに蜘蛛みたいに張り付いてるんだって。どうして気づかないの」
「えーっと……何言ってるのかよくわかんないけど、私、お姉ちゃんなんていないよ?」
さあっと。
私の背筋が震える。
何かが起きている。でも何が起きているのかがわからない。
「さっきからどうしたの? 何? 緊張でもしてるの?」
と向井がさっきまでと変わらない笑みを浮かべる。後頭部に手を貼り付けたままで。
「……本当にわからないの?」
「え? 何? 何言ってるかわかんないけど」
ソファから腰を浮かそうとすると、向井が私の両膝を押さえた。立ち上がれない。
「ねえ青山ってさ。女子の脚好きでしょ?」
「……好きじゃないよ」
「好きでしょ」
向井の手が膝から浮き上がって私の肩を押す。私はあっさり倒れてしまう。そして向井が私のお腹にのしかかってくるのを止めようとしたけれど、力が強くて無理。向井が「ねえ、脚触る?」と言うのをただ聞くことしかできない。
もちろん触りたいけど……。
そんなのは駄目だ。今の向井はおかしい。
「ほら脚だよ脚〜」
猫撫で声で向井が言って私の顔を太ももで挟む。自制心が一瞬で吹き飛ぶ。
「あははあは、鼻血が出るってすごい興奮してんじゃん」
当たり前。太ももに顔を挟まれて興奮しないわけがない。どうしてそんなこともわからないんだろう? じゃなくて私は感動した。初めて触れた向井の脚の素晴らしさに。ひょっとしてカナちゃんのより良いかもしれない。カナちゃんがあの時白い箱に潰されないでそのまま成長したらこんな素晴らしい脚になったのかもしれない……って感想を私に抱かせるくらいの脚だった。無理だ無理。こんなの耐えられない。
「……いやだ」
でも私はこんなことを言う。
カナちゃんの脚より素晴らしい脚なんてあるわけない。
「嘘とかやめなよ。よだれも出てるのに」
挑発的な口調で向井が脚をグリングリンと回す。私の顔も、太ももに引っ張られてグリングリン動く。その瞬間、私の浅はかな否定なんて意味もなさないように、私は向井の脚と同化を果たしている。頭が揺れる。
「ねえ屋上行こ?」
と向井が言う。揺れた頭が勝手に「はい」と返事をする。でも私自身の脚は興奮で震えっぱなしで生まれたての小鹿みたいで、立ち上がってもろくに歩けなさそう。だというのに向井が私の背中に覆いかぶさってくる。
「おんぶして?」
と言って私の腰に、長くて筋肉があってでもほんのり柔らかくておよそ完璧な脚を巻き付けてくる。
はい喜んで。
一歩を踏み出す。
ずんっ!
私の腰に巻き付いた向井の脚が跳ねる。私の腰の筋肉と一緒に跳ねた。その衝撃で視界が真っ白になる。
「ほら! 歩いて! 早く! 早く!」
ずんっ!
ずんっ!
ずんっ!
階段を登る。一歩一歩が地獄のような一歩だ。鼻血が滝のように出て血痕を残していく。
「もっと! もっと! お姉ちゃんに会いに行くんだからそんなスピードじゃ間に合わないって!」
向井が怒鳴ってお腹辺りで脚をぐりぐり動かす。
ずずんっ!
私は屋上への扉を開けると膝から崩れ落ちる。向井を背負っているから二人分の体重で地面に叩きつけられる。
腹ばいでうめきながら私は、
「お、お姉ちゃんって言ったぁ……」
「え? 言ってないよ何言ってんの」
向井がのしかかりながら膝で、私のお尻を押す。ばちばちっと頭の中で何かが弾ける。
「な、なんでこんなことするの……」
「お姉ちゃんに会いたいからだよ。当たり前じゃん」
そう言うと向井は私の肩に顎を乗っけて、腕と脚で私の全身を抱きしめた。
「一緒に生まれ変わろ? もうあと二分くらいで白い箱が降ってくるからそれまで一緒にくっ付いてよ? ね? ね?」
ああそういうこと。私は一人で納得する。
どうして白い箱は正確に人を潰すことができるのか? という答えは、つまり人が自分から白い箱の落下地点に移動してしまうということなのだ。頭を操られて自分から死にに行ってしまうということなのだ。
それがわかって何になる。
こんな感じに冷静に考えている風の私だけど、それは単に向井の素晴らしい脚の感触が与えてくる衝撃がキャパオーバーしたというだけで、実際のところは全然冷静でなくて、こうやってあえて別のことに意識を割かなきゃおかしくなってしまいそうで、弱々しく向井の脇腹を叩きながら「やめて……」と言うことしかできない。
本当に私はやめてほしいのか。悪魔のような考えが浮かぶ。本音を言えばやめてほしいわけがない。私はこのまま向井の脚に絡みつかれたまま白い箱にぶちゅっと潰されてしまいたい。カナちゃんみたいに。
カナちゃんみたいに?
「想像してみなよ。こうやってさ、脚と脚絡みついたまま死ねるってさ、すごく良いことじゃない? だって死ぬ時一人じゃないんだよ? 一人のまま死ななくていいんだよ? 寂しくなんかない。一緒に死ねるの。ねえ青山?」
と言いながら向井が体勢を変えた。ぐるんと私をひっくり返して自分が地面に背中をつける形になった。それで私の顔が空の方に向いて、それを見つける。
小さな点が空にある。白い箱。降ってきている。私たちを潰すために。
向井が私の耳元で囁く。
「見えたね白い箱。もうすぐだね」
力が抜ける。向井の脇腹を叩いていた手も地面に落ちてしまう。
もう良いんじゃないか諦めてしまおう。別に咎めるような人も特にいないし幸せなうちに死んでしまおう。そうしよう。向井の言うことが正しいのだ。女子の脚に狂ってる私がこの先順風満帆な生活を送るのは無理っぽいしそれでいいんだ、うん。
白い点がどんどん大きくなってるのを見ながら向井が「妹には悪いけどまあいいよね」と言う。
「……妹?」
「うん。妹もすぐにこっちに来て貰えばいいし、まあ気にしないで」
いや、妹いるんなら早く言ってよ!
一気に覚醒した私は向井の後頭部に張り付いていた手を引きちぎって、夜空に投げつける。どこに落ちたかも確認しないで私は向井を突き飛ばし前方に転がる。次の瞬間、さっきまで寝転んでいた場所に白い箱が、ズズン! と落ちてくる。白い箱は屋上を突き破り向井家の中に落ちていく。
危ないところだった。死ぬところだった。いやまあ別に死んでも良かったけれど、死んだ向井の妹に会えない。そしたら向井の妹の脚を見れない。向井の妹なら絶対絶対素晴らしい脚をしているに違いないのだ。ああ危なかった。
「ざーんねん」
とカナちゃんの声が聞こえたので、振り返るけれど誰もいない。さらっと幻聴聞こえたぽいけれど、カナちゃんの霊的な何かだと思うことにする。きっとそうだ。
「……お姉ちゃんに会えたのに」
見ると向井が涙を流している。
「……どうして止めちゃったんだよ」
向井は白い箱の洗脳的な何かから目を覚ましたのだろうか? それはわからないけど、まあ多分平気っぽい。向井は両手脚を投げ出したまま横たわっていて、動く気力もなさそうだったから。
「箱なんかに潰されたって、あなたのお姉ちゃんには会えないと思う」
「……会えたよ」
向井が今にも消え入りそうな声で言う。
「無理だよ。あの白い箱がそう思い込ませてるだけだから」
「……あんたに何がわかるんだよ」
「わかるよ。今さっきいたから」
「……意味わかんない」
「わからなくてもいいよ」
向井が泣き声を上げる。
「……お姉ちゃんやだよ。いなくならないでよ、寂しいよ……」
私は向井の頭を撫でる。
空を見上げれば、たくさんの白い箱が流れ落ちて来るのが見える。泣いている向井の脚を見るのは自重して、白い箱の流星群を見るのに集中する。きっとこれから何人も死ぬことになるんだろうけれど、私たちは結局生きているし素直にそれを喜べばいい。とりあえず私の方は、向井の妹の脚を見るまではそんな感じに過ごせそう。
人潰す割に結構綺麗だった。
白い箱と脚と道のカマキリ 在都夢 @kakukakuze
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