第6話 私は新天地で……

 『千年樹デントロ』の麓、王城と繋がる通用門の広場に、弱々しい木漏れ日の朝日が模様を作りはじめました。


 旅装というわけではありませんが、私はいつもより重ね着をして、お気に入りの藍色のワンピースとウールのショール風ジャケット、足元はスパッツとレギンスに毛皮のブーツを履いてやってきました。大きなトランクは父が運んでくれて、母とともに私を格子模様の広場に送ってくれました。


 母とは昨日話す暇がなかったので、これが別れの挨拶となります。私の金髪に混じる青い髪の毛は母譲りで、魔導師として名を馳せていた母曰く「漏れ出た魔力が髪の色を青くしているの」ということらしいです。私の髪のインナーカラーが時々真っ青になるのは、そういうことだとか。


 すでに五十を過ぎた母は、研究者気質なためか薄化粧をして髪を一つに結える程度のおしゃれしかしていませんが、どこか若々しく見えます。それも魔力のおかげでしょうか、その秘訣を聞く前にまさか嫁ぐことになるとは思ってもみませんでした。今更聞くわけにもいきません、涙の別れのシーンですもの、ええ。私だってそのくらいはわきまえています。


 涙ぐむ母は、私の手を取ってこう言ってくれました。


「遠い土地でも頑張りなさい、エルミーヌ。くれぐれも体には気を付けて」

「はい、お母様。ありがとうございます」


 深々と頭を下げ、ふと私は気付きました。


 母のローブの内側には、私の作ったレースが使われていたのです。そういえば、頼まれていくつか作ったこともありました。蔦模様の青い糸で編んだレース、何に使うのと尋ねても慌てて誤魔化して教えてくれなかったのは——いえ、詮索はやめましょう。だってうっかり屋の母は、自分のことを厳格に躾ける親だ、と信じているのですから。


 詳しく聞きたかったものの、私はそのレースを見なかったことにして、口をつぐむことにしました。母をこれ以上泣かせたくはありません。


 くるっと踵を返して、お別れです。大丈夫、二度と会えないわけではありませんもの。


 父の待っている広場の中央に足を踏み出し、父の横を通ろうとして、思い出しました。


(そういえば、イオニス様は? 一緒に戻られるのではなかったのかしら)


 広場を見渡しても、早朝の通用門前にいるのは私たち親子だけです。『千年樹デントロ』と繋ぐ直通路ですから、門番もいません。


「あの、お父様、イオニス様は?」

「閣下は先に戻られている。お前をこの転移魔法陣で送るよう言い残して」


 そう言って、父はトランク二つと、小さな何かを広場の中央へと置きました。


 陶器が石畳に当たるような音がして、ふわりと風が舞います。淡い赤色の魔力を帯びたつむじ風が生まれ、広場を埋め尽くさんとする精緻な魔法陣がひとりでに描かれていくではありませんか。


 私がサフィール家で見た魔法の系統とはまた違う、高度かつ大胆な紋様が出来上がり、光が明滅します。中心へ足を踏み入れれば、ドラゴニアへ繋がっている。初めて使う転移魔法陣ですが、魔力の流れから、と感覚的に理解できるのです。明滅は魔法が発動する準備はできた、ということでしょう。


 中央へと進み出る私と、魔法陣の外へ出ようとする父が、すれ違います。


 そのとき、父は確かにこう言ったのです。


「すまんな、エルミーヌ」


 それは穏やかになっていくつむじ風に乗って、掻き消えるような声でした。


 私は振り返らず、はっきりと答えます。


「大丈夫ですわ。心配なさらないで、お父様、お母様」


 まっすぐ進んでトランクの取っ手に手をかけて、赤い明滅する光を掴むように一歩を踏み出す。


 踏み出した私のブーツの底が、広場の石畳ではなく土の地面を圧した瞬間。私の視界には、もう王城も『千年樹デントロ』も、父も母もいません。


 嗅いだことのないような澄んだ空気が胸へ充満し、足元から立ち昇ってくるような湯気にも似た魔力の暖気が手足を包みます。


 夕暮れの紅葉彩る見事な庭園に、私はいました。


「ここが、ドラゴニア?」


 無意識に出た問いに、誰かが答えてくれました。


「はい。ここはドラゴニア九子連合国きゅうしれんごうこくが一つ、『第九竜頭領エンネア・ケファリア』」でございます」


 ハッとして、真正面へと顔を向けると、六人のメイドたちが横一列に並んでいました。そのうちの一人——ヘアバンドのように鈍色の角が銀髪の頭に巻き付いている、竜生人ドラゴニュートの妙齢の女性です——が歩み出て、恭しく一礼します。


「お荷物をお持ちいたします」

「は、はい。あなたは?」

「オルトリンデ・リューグと申します。エルミーヌ様お付きのメイドを拝命いたしました。よろしくお願いいたします」


 礼儀正しく、聞き取りやすい声をした彼女は、もう一度深くお辞儀をします。私の両脇にあった大きなトランク二つの取っ手を軽々と両手で運び、後ろにいた人間のメイドへ渡しつつ、庭園から伸びる道の先へと招き入れます。


「どうぞ、こちらへ。イオニス様がお待ちです」


 黙って頷き、私はオルトリンデの後ろについていきます。


 チラリと見た残りのメイドたちは、人間ばかりのようですが、どこか違う気もします。今は詮索するときではない、そう思って私は緊張しながらも、オルトリンデを追いかけました。


 整備された土道は埃一つ立たず、美しい紅葉した落ち葉もまた道の隅に寄せられて、丁寧に管理されていることがよく分かる庭園の道を少し歩くと、三階建ての石造りの屋敷が見えてきました。と言っても、見えている部分はほんの一部でしょう。歩きながら、オルトリンデが案内をしてくれました。


「こちらは主屋に当たる紅玉館アントラクスです。さらに奥には旦那様が執務をなさる城塞があり、周囲は城壁代わりの魔導炎壁マギプロクスが囲んでおります。目には見えませんが、外敵の侵入を阻む最高レベルの防壁がございますので、ご安心くださいませ」


 はあ、と私が感嘆のため息を漏らしている間に、屋敷の玄関口であろう豪奢な観音扉が竜生人ドラゴニュートの使用人の青年によって開かれていました。あまりにも自然かつ静かな動作すぎて、まったく存在すら感じさせないほど、何もかもの出来事がスムーズに流れていきます。


 その流れで、緊張をほぐす暇もなく、私はいつの間にかイオニス様がいらっしゃるという応接間の前にやってきていました。


 驚く私をよそに、オルトリンデは応接間の扉を開き、私を中へと導いていました。まずい、まだ心の準備ができていない、と思うと同時に、心のどこかに嬉しさもあり、薄ぼんやりとしかまだ覚えられていない旦那様ことイオニス様がここにいらっしゃるのだと胸が高鳴ります。


 第一印象はとにかく立派な竜生人ドラゴニュートの殿方だった、としか覚えていませんが、無理もありません。実は私、魔力が有り余りすぎて、何でもかんでも魔力の感覚で物事を覚える癖が付いてしまっています。姿形よりもどんな魔力を纏っているのか、という情報が先立ち、そのせいで——竜生人ドラゴニュートという強大な存在は、その魔力にばかり目がいって、他のことを覚えられなかったのです。


 確か昨日会ったイオニス様は、立派な竜生人ドラゴニュートで真っ赤なお方だった、とは思うのですが、それだけです。だから、もっとよく見て、しっかりと知らなければ、と緊張を飲み下して、私は応接間へと足を踏み出します。


 シャンデリアのある高い天井、開かれた採光用の三面もあるガラス窓、厚いクッションのあるソファが円形に並び、ルビー細工のローテーブルの向こうには誰かが立っています。


(イオニス様……かしら?)


 竜生人ドラゴニュートの魔力は、本当に膨大なものです。応接間に入った瞬間、その空気にさえイオニス様のものであろう魔力が漂っていました。ただそこにいるだけで魔力を持つ生物として最高峰の存在がいる、と感じさせるには十分な、それでいてプレッシャーを感じません。


 だって、私が目を見開いて捉えたその方は、ほんの少しですが微笑んでいました。


 このドラゴニアを統べる九人の君主の一人。『竜爵ヴァシリアス』の称号を持つ竜生人ドラゴニュート、見目麗しいその角持つ男性は、私へ穏やかに呼びかけます。


「よく来たな、エルミーヌ」


 昨日とは随分と印象が異なりますが、間違いありません。魔力ではなく、この目でしかと捉えたイオニス様が、そこにいらっしゃいました。


 呆けている場合ではありません。私はすみやかに右手をお腹の前に、左手を背にして頭を下げ、略式ながら敬礼をします。


 そして、一世一代の口上を述べるのです。


「改めまして、エルミーヌ・サフィールと申します。このたびは、イオニス・ハイドロス・ナインス竜爵閣下へ嫁ぐよう王命を受け、拝命いたしましてございます」


 やった、きちんと言えた。んん、こほん。言えました。


 引きこもりの私だってできるのです。どうだ、と胸を張りながら私は顔を上げます。


 ところが、です。


 顔を上げると、すぐ目の前にイオニス様がやってきているではありませんか。


 それどころか、私の背中に手を回し、身を屈めて私の頬の隣にイオニス様のお顔がやってきました。これは抱擁? いきなり?


 そのまま、私の首筋に冷たく柔らかいものが触れました。もうダメです、私は悲鳴を上げます。


「ひええ!? な、何を」

「じっとしていろ。ただのマーキングだ」


 意味不明な単語です。今、マーキングだなんて言葉を使う要素がどこにあるのでしょう。


 そこで私は思い出しました。ラッセルからの助言、竜生人ドラゴニュートは匂いをつけたがる、それに——舐める、とか。


 まだ想像はしていません。しかし、まるで身体中の血液が沸騰したかのごとく、噴火のごとく力がほとばしります。


 気付けば私は、その力を全力でイオニス様へと叩きつけていたのです。こう、手のひらから、ドーンと。


「いやあ!」


 その間、数秒もなかったかもしれません。私の声など掻き消えるほどの轟音が連続し、わけも分からず尻もちを付いていました。


 応接間中に粉塵が立ち込め、視界が塞がれています。咳き込みながら、多分前方にいるであろうイオニス様へ平謝りです。


「も、も、申し訳ございません! くすぐったくて!」


 だんだん視界が晴れていくと同時に、私は見てしまいました。


 夕暮れの空が見えている。ガラス越しではなく、ぽっかり空いた空洞……気のせいでしょうか、砕けた建材の石も見えています。


 まずい。どうなったか分からないけれど、非常にまずい事態であることは分かります。


 かつて、私が魔法の制御にまだ躍起になっていたころ、大地を干上がらせたり大洪水を起こしたりした悪夢が蘇ります。今の状況、空洞を囲む盛大に欠けた石材、明らかに破壊跡です。


 まだ姿が朧げにしか捉えられていないイオニス様の声がして、頭が真っ白で思考なんてぐちゃぐちゃで動けない私を動かしました。


「分かった、もういい。今日は部屋で休め」


 これ幸いと私はかつてない早さで立ち上がり、回れ右をして応接間から逃げ出します。


「は、はい! 失礼いたします!」


 そこからはまさしく脱兎です、応接間——すでに扉はなくなっていました——から逃げ出し、颯爽と追いついてきたオルトリンデになだめられながら、そのまま自室にと用意された部屋へ飛び込みました。


 色々感情が渦巻くものですが、そこはアレです。そう、アンガーマネジメントで気持ちを落ち着け、そして——とりあえずベッドに入りましょう。寝たら何か変わるかも、なんて子供のような希望を持って、私はゴソゴソと布団を被りました。


 翌日、とんでもない事実が待ち受けているとも知らずに、安眠したのです。

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