23.奇跡の価値

 覚醒は唐突だった。


 猛烈な飢餓感。


 最初に脳を支配したのはそれで、飢えを満たす熱くて甘いエネルギーが口から流し込まれていることを本能が理解した。貪るようにしゃぶりついた直後、エネルギーを供給していた熱い塊が離れてしまった。

 追いかけようとして――呼吸の仕方を思い出した身体が息を吹き返す。

 冷たい湿った空気が入れ替わって呼吸器に忍び込み、その温度差にラテは思わずむせてしまった。


「げほ……っ! えほっ、えっ、っほ……!」

「っはあ……っ! 良かった、はあはあ……ラテ、僕が分かるか!?」


 新鮮な空気をうまく受け入れられずにいると、世界に波紋を起こす声が鼓膜を揺らした。

 新たな刺激を起点に、ゆるんだ水晶体に像が結んでいく。


 視界いっぱいに誰かがいた。

 甘露の如く心身を癒やすエネルギーをもたらした人。

 それを捕まえようと伸ばしたはずの手が思うように動かず、少しだけ持ち上がって、落ちる。


「無理するな。見えてるか? ラテ、この指は何本だ?」


 目ざとい男は落ちた手を拾い上げて優しく撫でる。燃えるような体温が、今は心地よい。

 それから撫でていた指先をラテの眼前に持ってきて、注目を集めるように遅く振った。


「三本……。……社長?」


 意識して言葉を発すると同時、産湯に浸かってぼんやりとしていた思考が急速に明晰さを取り戻していく。


 自身が横たわっていること。そんな自分に覆いかぶさっているのが知っている男、鷹詰貴朗であること。

 前後が全く記憶にない事実が発生している現実を理解し、そしてなぜそんなことになっているのか理解出来ずに混乱が脳みそに訪れる。


「えっ? あっ、あれっ? わた、私……えっ?」


 口から漏れる言葉を統制出来ずにいるラテを見て、タカローは逆に安堵し、落ち着きを取り戻していた。


「ふー……っ。さしあたり峠は越えた、と言っても良さそうだ。免許取った時以来だけど、意外と覚えているものだね……」

「これ、どういう……?」

「ああ、ああ。ごめん、状況を説明しないとか」


 妙に冷静なタカローに引っ張られて、ラテもまた高鳴っていた鼓動が心持ち穏やかに整っていく。


 そうすると、掲げられた指越しに見つめていた深みのある瞳がやわらかく揺れたことに気付いたし、日頃「女性の多い場だから清潔感だけは気にしている」と公言している身だしなみが乱れに乱れていることにも気付いた。

 髪は先端が縮れ、頬には鮮烈な青黒い線が電子回路のように走っている。口元は逆に擦れた赤黒い絵の具が広げられていた。


「社長、これは……?」


 ラテの問いにタカローは一瞬、眼を上天に向けた。そして再び向けられた視線の強さに、整ったはずの鼓動が不正に乱れた。

 タカローは重い唇を開いた。


「結論から伝えよう。この車に雷が落ちてね、君の心臓は止まり、息がなかった」

「か、かみなり? しんぞうが、止まった?」


 内容に思わずそのまま返してしまったが、ラテはどこか遠いところにある心の中が納得するのを感じる。

 頭はともかく、自分の身体は何が起きたのかを察していた。


「電子機器は全滅、救急車がすぐに来れる状況でもない。申し訳ないけど、人命救助を優先して、心臓マッサージと人工呼吸を行った。もうダメかと思ったよ……運転免許を取った時に人形で練習したきりだったけど、まるきり無駄じゃなかったってワケだ。年に一回、人命救助教育セミナーを社長権限で実施するのも辞さない気分だ」


 無意識に自由な手が伸びて、タカローのざらついた唇に触れた。火傷した皮がめくれて、指先が痛い。


「ありがとう、ございます――」


 その行為を終えてしまうのが名残惜しくて、過度に溜まった酸素を漏らしていく。

 言葉を切らないでいる内は許される気がして。

 いくらでも続けられると思ったのに、タカローがそっと離れてしまうと同時に終わりを迎える。少しだけ、寂しさがあった。

 タカローの額から流れ落ちた汗がラテの頬を叩いた。


「少し、休んでいてくれ。近くの人に救急車を呼んできてもらうから」

「休む……」


 その単語を切欠に、瑪瑙ラテはどこか朧気だった自意識を完璧に蘇らせた。


「ライブッ! ライブは……ライカさんはどうなりましたかっ!?」


 手を突いて跳ね起きる。全身が引き攣れて、酷い痛みがあった。けれど、それよりも優先することがあるのだ。


 そのまま走り出しかねないラテの肩に手を置いて、タカローはそっと諭した。


「ダメだ。奇跡的に蘇生したけど、君はさっきまで心臓が止まってたんだぞ。電流が全身を奔って、動くのも辛い火傷だって負っているはず。すぐ治療へ向かわなければ、後遺症が残るだろう。プリズムヴィジョンの社長として……、何より君のファンとして、君の未来を閉ざすような真似は許せない」

「間に合うんですね!? 私は……、行きます。間に合うのなら。ライカさんを捕まえなきゃいけないから」


 そう言う瑪瑙ラテの瞳には強い覚悟が潤んでいた。

 とても正面から見つめられず、タカローは目を伏せて頭を振る。


「間に合うかどうかは分からない。移動手段はこの有様だし……それに行ったところで、君に満足なパフォーマンスがこなせるとは思わない。行くだけ――無駄だ。聞き分けてくれ、治療に専念しよう」

「そんなこと」


 少し前まではラテの凹んでいた部分を励ましてくれていたのに、今では逆に貶める材料になっていて、つい笑ってしまう。

 ラテは反応の鈍い腕で、抑え込もうとする男性の筋張った手をどかす。


「社長が……タカローが教えてくれたんじゃないですか。私の武器は、この胸で燃える心だって。かつてないほど脈打つこの情動をぶつけられるのは一人しかいないんだって」


 押しのけて車から出ようとするラテの前にタカローは立ち塞がる。


「……僕は、君がライカを捕まえるには奇跡を起こす必要があると考えている。君が万全だとしても、神様の気まぐれが要るんだ。万全でない君がライカを捉えるにあたって、どれほどの奇跡を要するのか……。分かっている負け死合に君の命をベットするつもりはない」


 今、ここに至って、鷹詰貴朗は味方ではなかった。


 瑪瑙ラテがラスボスたる遠久野ライカの下に辿り着くためには、彼を説き伏せなければならない。

 例えそれが身を切る優しさから来る判断だとしても。


 間違っている。この場において、彼の優しさはきっとラテにとっても、タカローにとっても、そしてきっとライカにとっても間違っている。


「タカローの理論だと、情熱こそが奇跡の実現における最も重要なファクターであるはず。過去イチでモチベーション高い今の私が奇跡、起こせないとでも?」

「奇跡は……もう起きてる」


 タカローは眉間を指先で揉んだ。乾いた赤色が滲んだ。


「落雷が直撃する確率はおよそ百万分の一。そして、普通、車の中にいたら安全なはずだが、今回はその異常を引いて僕も君も感電している。さらに、被雷した場合、通常九割ほどが死に至る。僕が君のように心停止せずに済んだのも超低確率の事象で、すぐに救助活動を行えなければ君が蘇生することはなかったはずだ。分かるだろう、君が事故に遭ったことも、それでなお生きていることも奇跡なんだ……!」

「なるほど……。じゃあ、私はすごく立場にいるんだ」


 ラテの感想に、タカローは目を丸くした。

 瑪瑙ラテはやわらかく微笑んだ。タカローには、その笑みの片端に小悪魔の片鱗が映っていたかもしれない。


「どいてよ、タカロー。空前絶後の伝説、創りに行くから」


 そっと押した、自分よりもずっと大きい身体が力無く下がっていく。


「奇跡ってそんなに定量的で即物的なモノなの? いくらでも条件を満たし続けて、奇跡を起こし続けてやればいいんでしょう?」

「そんなことが君に出来るのか」

「さあ? 分かりません、だって今はもう条件を満たしていないから」


 ラテが疑問のニュアンスで回答しても、おざなりに邪魔をする通せんぼの腕はゆらりと揺らいでいた。硬さを失ったつっかえ棒は遮断の意味をなさない。


「どんなことも観測されなきゃ……誰かに見つけてもらわなきゃ。奇跡を見つけてもらうためには、観測者たちがいる場所に行かないと」

「それは……、……そうだな。その通りだよ」


 強くタカローの肩を押す。

 彼は抵抗することなく、車の外に降り立ち、激しい雨音に身を晒した。


「こういう時に……もっと感情で物を言える人間であればといつも思うよ。理屈ばかり考えてきたのに、君を止める言葉が出てこない」


 事実上の敗北宣言。

 ラテはそれを鼻で笑った。


「だって前提が間違っているんだから、それで考えた理屈が私に通るわけがないでしょう?」

「前提……?」


 きょとんとして、タカローは尋ねた。


 おそらくは。


 彼もずっと長い間追い詰められてきて。

 だから、こんな簡単なことも間違えてしまうようになったのだと思った。


「私はアイドルじゃない。Vtuberですよ。こんな撮れ高確定の状況、逃すとでも?」


 個人事業主が、再生数を取れると分かっている動画を撮らずにいられるものか。

 ここまで身体を張っているのに、みすみす取り落とすのはありえない。


 瑪瑙ラテの正答に、鷹詰貴朗はポカンと口を開いて、それから噴き出した。


「くっく……、っはははははッ! 確かに! Vtuberなら、こんな珍しいコトは動画のネタにすべきだ! くくくっ、軽いなあ、奇跡がッ!」


 高らかに響くタカローの笑い声は、雷雨では押し潰せない朗らかさがあった。

 ラテは笑い続ける彼の隣に立つ。

 顔を叩く大粒の雨であっという間に全身が濡れ鼠だ。だが、どこか清々しい気持ちでいた。


「ええ。動画のネタにはありきたりだけど、ちょうどいい煽り文句ですよね」

「安い! あれだけ高く考えていた奇跡がここにきて原価割れしてるよ……参ったな」


 漏れた嘆息を咳払いでごまかして、タカローが訊いた。


「僕にも魅せてもらえるかな、奇跡」


 こくりと頷いて、ラテはタカローの左胸を拳で叩いた。

 ただの凡庸なVtuberでしかないけれど。


 ――あなたと彼女が、私を暗闇の底でも煌めいていると言ってくれるのなら。


「観ててください。プリズムのアイドル系Vtuberが起こしてきますよ、奇跡――軽率にね」


 そして瑪瑙ラテは雨の中を駆け出した。視線集うスポットライト目指して。

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