19.最強台風、襲来
死ぬかもしれない。
群衆の中で暴風雷雨に耐え忍びながら、少女は何度となくそう思った。
プリズムのファンが集う掲示板やSNSの情報から、デモではないけれども武道館の前に並んでしまおうという『ユーザーイベント』に軽い気持ちで参加してしまったのが運の尽き。
台風ヤバい。正直舐めていた。
いくら最強台風と言っても、日本列島を舐めるように縦断しているのだから、途中で失速して熱帯低気圧に変わるだろうと楽観していた。
おそらくここに集まっている半分以上の人間が同じパッパラパーでお気楽な考えでやってきて、そして全く失速せずに猛威を奮っている自然の恐ろしさに心身を震わせている。
暗雲に覆われた夜闇の下、服が濡れるのも構わずに四足を地面に降ろして、近くにある誰かも分からない手足と絡め合う。限界まで姿勢を低くして、頭を身体の下に入れる。そうしないと猛烈な暴風で、冗談ではなしに吹き飛ばされそうなのだ。
時折、バキバキと破砕音がどこからか聞こえてくるのも恐怖を煽った。折れた枝が飛んできたら絶体絶命のピンチである。
ゲリラ豪雨みたいな粒の大きい水滴は絶えず身体を打ち続けて痛いし、まだ日も明けていないのにすでに疲労困憊。組体操の如く一体となっているだけなのに、周囲から発される「ハァ、ハァ」という吐息が妙に耳につく。もちろんそれが性的興奮から来るものではないことを、少女は身を以て理解している。感じているのは間違いなく生命の危機だ。
先程まで散発的に誰かが『遠久野ライカ』に捧げていた鬨の声もいつの間にやら消え失せている。
士気を上げる心積もりだったのだろうが、自然界の脅威に対して人の小ささが目立っただけに終わったのかもしれない。
「……っ、ハアッ……! あとどれくらい……!?」
近場から聞こえた問いに、少女は腕に巻いたスマートウォッチを見た。防水機能は付いているが、まだ無事だろうか。
風が緩んだ一瞬で叩いた画面に映るのは午前二時の表示。生きているスマートウォッチに安堵と、そして表示時刻に絶望が与えられた。
「まだ半日も……」
ニュースで見た台風予報が脳裏に蘇る。
この最強台風メーカラーは進行が遅く、丸一日は関東に居座るだろうと予報されていたはず。
つまりは開場の時間までずっと怯え続けなければならないということ。
クーラーの効いた部屋でゴロゴロしながらUtubeを楽しんでいた昨日が懐かしい。
少女は思った。もうやだ帰りたい。
だが、今更ここを離脱なんて出来はしない。
第一に、移動する方が危険だから。
何千人で塊になっていても、下から吹き抜けてくる風で身体を持ち上げられそうになっているのだ。一人で歩くどころか、まともに立つことすら難しい。
そもそも少女の位置は外側に近いとはいえ、完全なる外周には位置していない。離脱するには塊を断ち切る必要があり、現状では不可能な要望であった。
第二に、ここまで耐えたのに、という気持ちがある。
少女がこの列に参陣したのは前日のかなり早い段階だった。電車が動かなくなるのを考慮すれば当たり前だが。
すなわち十時間以上も少女はここで待機しているということになる。予想外に強い台風で泣き言を漏らしているが、かけた時間を取り返したい想いが強い。
そして第三に――少女は『遠久野ライカ』のファン、観測者だった。
目も眩むような倍率のチケット抽選を潜り抜け、必死のやりくりで捻出したライブお楽しみ代を注ぎ込み今日を迎えたワケだ。
心は折れそうになっているし、台風に歯向かう愚かな真似をしている自分に後悔しているけれども、それはそれとしてライカのライブには必ず参戦したい。
かろうじて意識を保っている唯一の光だ。
少女だけでなく、集まった人たちが意志を一つにして耐えていられるのは、ひとえに「ライカのラストライブを観る」という目的があるからだ。万が一、中止の決定が大本営から成されたら、この一団は小さな蟻のように吹き飛ばされるだろう。
「はあ……はあああ……っ! 負けるかあ……っ! こうなったら、ぜったい、ライアリを摂取するんだから……!」
少女は草凪アリアも好きだった。というよりは、アリアに絡まれているライカが推しだった。
結構なウザ絡みをされることが多いにも関わらず、しっかりと受け止めてあげるライカ。受け止めてくれることが分かっているからこそ、他のメンバーにはしないような絡み方をするアリア。その関係性に尊さを見出しているオタクである。
気合を入れるため、退路を断つために呟いた少女の台詞が、周囲に波及していく。
ライアリ尊い。ライラテなんだが? ライタマなんだよな……。ライユリが至高。
各々がそれぞれの推しを吐露していく。
それはプリズムの所属メンバーを網羅してゆき、誰と絡んだとて失われない永遠の尊みを共有する。
遠久野ライカを根源に、より一体感が増してゆく。
一個のユニヴァースすら発現させてしまいそうだと、疲労で緩んだ脳内に精神的麻薬が回りつつあった、その時。
――やたら車高の低い車が奥から現れて、群衆の横に停車した。
「みなさん! 私は株式会社プリズムヴィジョンのスタッフです!」
頭上からキンキンと響く音が降ってきた。拡声器で割れた女性の声。
これが恵みの慈雨になるか、それとも終わりを告げる燦雨なのかは不明だ。しかし、状況が変わる音粒なのは誰もが理解した。
「ここは大変危険なため、スタッフの指示に従って日本武道館の中に移動してください! 気象庁によると、この後、わずかに風が緩むとのことです! そのタイミングで一斉に移動します! お隣の方にも伝えてください!!!」
スタッフは同じ内容の台詞を何度も繰り返す。
台詞の意味が疲れ切った脳みそにじわりじわりと浸透してゆく。
そして朧げに把握し始めた者たちは、左右の顔と視線を合わせて言葉の意図を確認する。
スタッフが推測を決定づける台詞を放ったのは、その直後であった。
「プリズム5thライブは予定通り開催します! 長時間の待機となりますが、みなさんは武道館の中でお待ちください!!!」
「……っっしゃああああああッ!!!!!」
「ライカあああああああああああああ!!!」
誰からともなく歓声が沸き起こり、それはいくつも十重二十重に重なって、暴風の唸り声をも撃退する地響きとなる。
調子に乗って立ち上がった阿呆が風に煽られたのはご愛嬌。
明確に終わりが見えたことで、心を鉄骨で補強した少女たちは、夜闇の台風、メーカラーの襲撃を辛くも耐えきるのだった。
「しんど……」
物販にラインナップされたロゴ入りシャツとフェイスタオルが死ぬほど売れるのは、群衆がすっかり腰を落ち着けた頃の話である。
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