第8話 触れられたところが、今は熱く。
「今日は……もう、諦めようかしら……」
皇宮の中庭にルーシーはぐったりと座り込んだ。ドレスが汚れてしまうから、本当は地面に直接座るようなことはしたくないのだけれど、今だけは仕方がない。
なんせ、虚空に向かって高らかに宣言したとき、まだ中天にも差し掛かっていなかった太陽が西の空に沈み切り、かけ始めた月が空に高く浮かび上がる今の今まで、ずうっと、皇帝を探して皇宮の中を歩き回っていたのだから。
「皇帝陛下はかくれんぼがお上手なのね。広場にでも連れて行こうかしら。きっと子供が夢中になって探すわ」
むくれながら、ルーシーはくたびれた足をそっとさする。書庫にいると聞いて行ってみれば、もう玉座の間に戻ったと言われ、いざ玉座の間に着いてみれば、今度は中庭に行ったと言われる。陽炎を追いかけるように、果てのないかくれんぼだった。
「でも、子供はお嫌いかしら。嫌いなものだと困るわ。好かれなければいけないのだから」
「誰に好かれたいのだ」
「っ」
唐突に聞こえた低い声にルーシーは肩を飛び上がらせる。危うく上げそうになった悲鳴をすんでのところで飲み込んで、ゆっくりと振り返ると、皇帝が首を傾げて立っていた。その表情は硬いけれど、雰囲気は柔らかでルーシーは拍子抜けして思わずじっと皇帝を見つめる。視線の意味を問うように、皇帝はさらに首を傾げた。
「あ、ええと……」
「あぁ。なんだ?」
かすかに、皇帝の口角が上がっている。声に笑みが滲むから、まるで避けられているみたいだといじけていた気持ちは溶けてしまって、ルーシーは気が付いたら口を開いていた。
「あなたの、お好きなものはなんでして?」
ルーシーの口から言葉が滑り落ちる。無意識に落ちた言葉が空気を震わせて、ルーシーは一瞬遅れて我に返った。皇座であんな風に喧嘩を売っておいて、次に会ったときには好きなものを聞くなんて、手のひら返しが早いにもほどがある。
まずは先程の非礼を詫びてから、と思っていたのに、皇帝があんまり優しく聞くものだから、口が勝手に喋ってしまった。
これでは、あの人二人いるのかしら、なんて皇帝を揶揄できない。
「あぁ、いえ、違うんですの。わたくしは、ただ、先程のお詫びを」
「リュクスのパイ。昼寝。木漏れ日。川のせせらぎ。――それから、」
ルーシーの言葉を遮って好きなものを並べた皇帝は、そこで一度言葉を切った。彼の形の良い唇が言葉を紡ぐために小さく動いて、けれど、それは無愛想な形に閉じられる。
「最後のおひとつは?」
ルーシーが問いかけると、皇帝はふいっと視線を逸らした。その子供みたいな仕草にルーシーは驚いて目を瞬かせる。「なんでもない」言う声が頑なで、ルーシーの口から吹き出すように笑みがこぼれた。
「ふふっ、ふ、ふふふっ」
だって、あんな風に眉間に皺をよせて指先で誰かをこき使うような人が、追及を逃れるために目を逸らすなんて、意外にもほどがある。
「なにを笑っている」
皇帝はむっと唇を尖らせて、ルーシーを睨みつけた。
今、そんな顔をされても余計に笑いがこみ上げてくるだけで、ルーシーはさらに肩を震わせる。皇帝は余計に眉間の皺を深めたけれど、それでもルーシーの笑いが止まらないと分かると、白い手袋に覆われた右手を、まっすぐに彼女に伸ばした。
咄嗟に、避けようと体を引いて。
けれど、わずかに遅く。
皇帝の指先がルーシーの頬を摘む。
むに、むに、むに。
――痛い。
痛い、のに、温い。
「俺を笑うとは、不敬だぞ」
皇帝はそう言いながらも、顔には微かな笑みを浮かべたままだった。呆気にとられるルーシーの頬をもう一度やわくつまんで、最後に親指で目元をするりと撫でてから、皇帝は手を引いた。
手が離れると、さっきまで何ともなかった夜の空気がそこだけ冷たく感じられて、彼の手が温かったことを強く知ってしまう。
息が、できなかった。
「帝国の夜はよく冷える。温かくして休め」
彼はそう言って、ルーシーの頭に手を置いてから中庭を去っていった。その背が見えなくなって、カツカツと床を蹴る靴音が遠く、聞こえなくなって。
それでようやく、ルーシーは詰めていた息を深く吐いた。力が抜けて、へなへなとその場に座り込む。
(分かっていた。分かっていたことだけれど……彼はやっぱり、わたくしに触れても、死なないのね)
触れられたところが、今は熱く。
長いことその場に蹲っていたルーシーが、皇帝を『でーと』に誘い損ねたことに気が付いたのは、結局、次の日の朝だった。
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