自殺少女はフィフティフィフティの夢を見る

樽トッキ

***

「さあさあ、その足を一歩踏み出す前に聞いてほしいことがあるのですが。あなたは今ちょうど分岐点に立っています、その右足を底無しの眼下に向かって落とすか、それとも後ろに帰るための一歩を踏むため動かすか、さあ、なんともどちらとも言えない、この分岐点にいるわけですが」


 まるで押し売りセールスかなにかの蓋が開けられたみたいな感じだった。聞いてもいないのに始まるのが本当にセールスである、私はその文句を聞き、二度ほど瞬きを重ねながら黙り込んだ。ついでに体は固まっている。


 頭上に青い空が広がる屋上に来ていた。どこの屋上か、と言われるとよくわからないのだが、とりあえず、隙間狭しと並ぶ建物たちのうちの一角ではあるだろう、廃ビルと呼ばれるそれかもわからない。茶色に錆びてぼろぼろとしている階段を踏んで、まあ施錠機能なんてない扉を開け、この屋上に来た私は、白い雲が描かれたみたいな輪郭くっきりと浮く青空を背景にして、さてここで死を見つけようと思っていた。ようは、飛び降り自殺を図りに来ていた。

 なぜ自殺なんて、という疑問はこの際捨て置く。軽くだけ触れるなら、人はたくさんいてそれぞれに悩みがあり、進む道もまた多色であるということ、それでいうところの私という人間が、ただ自殺の道を踏んだというだけの話である。野暮な話だ、閑話休題。セーラー服の裾をひたひたと揺らして風をはらませる私は、これまた錆びたフェンスのふちを掴んで跨ぎ乗り越えて――手のひらが赤茶に汚れたくらいには、このビルは腐っているようなのでやはり廃ビルだ、人っ子一人いないし管理はされていないのだろう――その幅、約五十センチ程度の足場を踏んで、右足を浮かせていたところだった。


 セールスの言う通り、私はこの右足を足場の安全圏より踏み出させ、眼下に広がる路地裏らしきそこへ向かわせようと考えていた。飛び降り自殺をしに来たのだから当然である、黒いローファーを履く右足は、だからそのように、今空中を踏んでいる。落ちるために踏み出せないのは、私の目の前に今、セールス文句をかけてきた不可思議な存在がいるからであった。

 私に目線の高さを合わせてくるのは少女のようだった。二重のぱっちりとした鮮明な目をこちらに定め、睫毛を揺らして時折瞬きしている。青い目の上で綺麗に揃えられた前髪と、耳の下で二つにくくられた後髪、その色は色素の薄い軽やかなブロンドだった。鼻筋も、唇も、それらすべてを描く輪郭線も、柔らかく整ったそれらであって、とても端正な顔でもあった。そして、やや幼さの影が残るところから、綺麗というより可愛いの形容詞が浮かぶ顔だ、いえるのは違わず整った容姿をもっている彼女であること。彼女は私とぴったり視線を合わせて、私の目の前にしゃがんでいる。

 膝をくっつけてしゃがむ彼女は、全体的に白かった。透けるような白い肌と、纏っている白いワンピース、加えてもっとも白の印象を強め際立たせているのは、その背中にある大きな白い翼だろう。


 そう、なぜだか私の目の前には、片翼が一メートル以上の幅をもっていそうなほどの立派な翼を背に携えた少女が、当然の顔をしてそこにしゃがんでいるのである。もちろんそこに足場はない、あるのは空気、酸素二酸化炭素エトセトラである。空中に浮く形の彼女は、しかし当然の顔をしてそこにしゃがみ、私と目を合わせ、そしてぱちりと一度瞬きしてみせてきた。


「あらあら、思考停止というより、思考混濁のような現状ですか? ええ、よーく考えてください、あなたはちょうど、そこから落ちて死ぬか、心を入れ替えて屋上を後にするかの、二択による分岐点に立っていますから。それらはちょうどフィフティフィフティです、どちらにするもあなたの自由、意思決定がそれを左右します。『よーく考えよ〜』です。命は大事だよ〜、と歌っておきましょうか?」


 彼女はしれっとそう言ってきた。相変わらず語り口の長いセールスである、これでも押し売りセールスはお断りなのだが、客の顔色も状況も鑑みず押しかけてくるところはだいぶ迷惑な相手のようだ。彼女は膝の上で両腕を組み、うんうんと頷いて見せてきた。きゅっと上がる口角が、私に思考を促して、そして私を待つ意思を示している。

 私の目の前に、ちょうどなにか踏み台があるのかも知れない。見えない空白のそれを踏んで、彼女はそこにいられているのかも。そうは思うが、客観的な視点の私がそれを否定する。有り得なさすぎる。ほかに考えられるのは、その翼によって飛んでいることだが、開かれてそこにある反面、ばっさばっさとそれが働いている様子はない、むしろ静かに止まっている。ああ、私には彼女がなぜ空中にいられるのかが理解できないが、すべてを理解することが世の中に必要なことではないだろう。人間そう優秀ではない。

 軽やかで、澄んだ質の彼女の声は、しかしそれでも私の耳にするりと入り込んできて、それで馴染みを見せてくるから不思議だった。理解ができないはずなのに頭に入ってくる柔らかな声、話しかけられて、私は自然と二択を検討していた。だから体が固まっているし、黙り込んでいるのである。いや、思考の結果というより、驚きと混乱の結果、かもわからないが。

 私は大雑把な人間だ。現状をまとめ上げてしまうならば、私は目の前に翼を持った天使の少女を置いていて、彼女に自殺をするかやめるかに関する選択を迫られている、という感じである――と認識するで終えていた。なかなかにシュールだ、頭がおかしくなったのか、もしかすると私はもうすでに死んでいるのかとさえ思えるシュールさだが。

 ゆるいウェーブのかかった金髪の二つ結びを背中に流す彼女は、ここで首を傾げた。そのせいで片方の髪束が肩を滑り落ちて胸元にかかる。綺麗な金髪だった、アメリカ系白人女性の大多数がこんな見事な髪を持っているのだろうか、と想像してみたらなんとも羨ましくなるほどである。代わり映えのない私の黒髪は、面倒なので肩に付く前に切られている。


「いくらでも待ちますから、焦らず考えてください。あ、その間お話でもします? いいですよぉ、第一回シンキングタイムwith天使の駄弁りです! どんどんぱふぱふ〜、さてなんのお話をしましょうか」


「……なら、聞いてもいいですか?」


「ええ、どうぞ〜! 迷える子羊よ、導きの天使になんでもお訊ねなさいな」


 いちいち口調が騒がしい人だった。声が可愛らしく弾んでいるのに内容がよく掴めない、なに言ってるかわからない類の相手である。それでも見た目が愛らしい天使であることに違いはないので、苛立ちよりも受け入れが起きた。ああ、天使とはそういうものかと、納得した私の頭はもはや思考を放棄している。

 私は、風に吹かれたせいで顔周りで乱れる毛先を払って、右耳に髪をかけながら、とりあえず彼女に問いかけてみた。


「お名前はなんと言うんですか」


「私の名前ですか〜、なんとも粋なことを聞きますね〜、ジャパニーズ流の粋、ってやつですね! なら、ズバッとお答えして差し上げます、私の名前は大天使ミカエルです!」


 目を細めて自慢げに笑みを返してくる彼女は、そう言ってふふんと翼を揺らした。先が少しだけ動きを見せる。その、日光を跳ね返すほどに白く眩しい翼を一瞥してから、私は彼女に目を戻したが、その間の沈黙に、彼女はなにかしらの解釈を置いたらしかった。一変してあわあわと口を開いてくる。


「う、嘘じゃあないんですよ、本当です、私は大天使ミカエルです、本当に。すごいでしょう、大天使ミカエルですよ、迷える子羊をずばばっと導けちゃう最高の天使です」


 自分で最高とまで言ってしまうのか。突っ込みは飲み込んだが、彼女はさらに焦りを浮かべてきた。


「あえっ、いや、ほ、本当です! 嘘は言っていません! 天使は嘘をつかないんですよ、ええ、本当です」


 必死になにか重ねてきた彼女は結局、一人おろおろとして、くたっと首を垂れてしまった。ここまでの一切、私は沈黙である。


「うう〜、なんともつれない目を向けてくる人間さんですね〜、わかりました、嘘は言っていませんが言っていないことがありました。すみません……。私は大天使ミカエル"見習い"です……大天使ミカエル第千九十四世――の候補生です。正式に名乗るのであれば、大天使ミカエル踏襲候補生が小天使エリアナです」


 誰もなにも言っていないのだが、彼女はそう白状してきた。彼女が押し通せば、私は彼女を大天使ミカエルと認識して終わりだったのに、なんとも素直な天使さまである。

 彼女――ミカエル候補のエリアナは、しゅんと目を伏せて落ち込んでいるようだった。私はなにも言っていないし目で訴えたつもりもないけれども、まあ、なんでもいい。エリアナ、という名前の不可思議な存在はやはり天使である、と知れたことは私の思考を次へと進めた。


「なら、エリアナさん」


「エリアナでいいですよぉ、ついでに敬語でなくても構いません。今時のじぇーけーはタメ口が主流ではないですか?」


「ならエリアナ、どうして私のところに来て、選択を促してるのか、聞いてもよければ聞きたくて。自殺をするかやめるかちょうど二択とあなたは言ったけど、それは今死ぬか生きるか、私の可能性はそれぞれ五十パーセントくらいってこと?」


 エリアナはひとしきり落ち込むように膝を抱えて、ぷくっと唇を尖らせていたが――拗ねているともいうしそうにしか見えなかったのはやはり黙っておく――私がそう質問すると、ぱっとすぐに顔を上げた。そうしてまた鮮明な表情に戻って、「はい!」としっかり頷いてきた。


「未来の分岐が起きています、こんな綺麗に分岐しているのは初めて見ました。大抵の人は未来がほぼほぼ決まっているんですが、あなたの場合はすぱっと二択ですね。あなたが選ぶことで、未来は変動します。享年十七歳となるか、その先に続く未来を手にとるか、です」


「ふうん、そうなんだね。じゃあエリアナ、なんで私のところに来たのか、聞いてもいい?」


「?」


 私の次の質問に、エリアナはまたこてんと首を傾げた。絵の具で染めたように濃く綺麗な碧眼、深海と揶揄するのが適切に思える青い瞳が、私を捉えて、疑問を浮かべている。

 聞き方が悪かったかも知れない、と思って、私はすぐ言葉を訂正した。


「私は天使を初めて見たけど、普通の人はそうだと思うし、見ないまま死んでいくと思うんだよね。死ぬ時に来る迎えが天使なのかもしれないし、そこはわからないけど、私の前にあなたが現れたのが不思議に思えて。例えば、私が屋上から引き返す選択をしたら、この先も私は生きるわけでしょう、それでも私には天使を見たという記憶が残る」


「はい」


「天使は人に見られてもいいものなの?」


「ええ、だめなものですね」


 即答だった。エリアナは即答して、ああと納得したように小さく笑った。


「なるほど、言いたいことがわかりました。簡単に、分岐点に立つ人間の前に現れるものなのか、という疑問があるわけですね。答えとしてはノーです、普通分岐点に立つ人間の前に天使は来ません、それは人間その人自身が選択を思考し検討していく必要があるからです、それが人生というやつですから。なので、例えそこに死が絡んでいようと、通常天使は観察しているだけです、肉体から魂が解き放たれれば、天界までお連れするために関与しますが」


「今が例外ってことだよね、なんでわざわざ例外を起こして私に分岐点だと教えてくれたの?」


「うーん、難しいことを聞かれますねぇ。まず、こんなに綺麗な五分五分の分岐点は初めて見たからというのが大きいかも知れません。なぜそのように五分五分になったのか、気にならないといえば嘘になります。さらに言うと、あなたは私と一目を合わせたときに、『生存』のほうへ百パーセント傾きましたが、なぜだか現在はまたフィフティフィフティに戻っています。揺れ動くのが人間の心で人生ですが、なんとも不思議な心をなさるのですね。私はそれが気になってしまって、こうしてお声をかけてしまった次第です。まあ、特別な事例ということで、報告書をまとめ提出する予定ではいますよ」🐹


 ひょいっと肩をすくめる仕草に、私は再び口を閉じた。エリアナは自ら規約違反だと言っておきながら、まあ報告書出すから問題ないくらいの言いようをしてきている。天界天使業界にも報告書制度があるのか、としみじみ思ったが、まあそんなものなのだろう、やはりなんだっていい。私は彼女にそれまでの話をしてもらって、なるほどと一つ頷いてみせた。

 さて、天使さまはもともと、この五分五分の分岐点に立つ私へ、さあお選びなさいと思考を促してきていた。その通り、私は分岐を検討しようと思って、その思考を本格的に始めてみる。せっかくなので、エリアナにも聞いてもらうことにした。


「まず、私は飛び降り自殺をしようと思ってここに来て、いざ飛び降りようと思ったときエリアナに声をかけられた。びっくりして足を止めて、今までこうして、飛び降り自殺を中断しているんだけど」


「ええ、いまだ五分五分の分岐点にいますね」


「うん。じゃあ、その五十パーセントずつの選択肢の、どちらを取るかって話なんだけど」


「はいはい」


 律儀に相槌を返してくれるエリアナは、真っ直ぐ私の話を聞いていた。私はエリアナではなく眼下に視線を落とて、正直身がすくむその光景を捉えながら話した。


「エリアナが言う通り、どちらにしようか決まらない。どうしようかな、と思うんだけど、どっちのメリットデメリットも検討しなきゃだなと思って。決まらないからまだなんとも言えないんだけど、とりあえず言えるのはさ」


「おお、なんですかなんですか?」


「当初の目的は百パーセント達成した、ってことなんだよね」


 ここでぷつっと、エリアナの相槌が途絶えた。私が瞳をちらと向ければ、エリアナは案の定きょとんとした顔をみせている。間抜けさも愛らしさに変わるなんて罪な顔だと思う。

 とん、と右足のつま先を踏み場で鳴らして、私は話を続けた。


「誰にも言ったことがないんだけど、小さいころ、私は天使を見た記憶があって、あれは絶対に天使だと思ってた時期があったんだよね。誰かに話せば馬鹿にされるか頭おかしい扱いされるから、もちろん自分の記憶に留めてたけど、小さいころ、本当にそれらしきものを見たことがある。ちょうど、エリアナみたいな白い翼のある、ワンピース姿の女の子でね」


 自分の、ショートより少し長い程度の毛先を、右手の指で拾いながら目を伏せた。エリアナと違う黒い髪、でも記憶に残る、今でも鮮明なあの少女は、これとは真反対の、綺麗な透けるブロンドヘアだった。


「ふわふわの長い金髪を、耳の下で二つに結んでて。白い肌をしていて、目は青くてとても綺麗だった。その子は小学校の校舎の屋上にいて、私がランドセルを背負いながら下校しようとしてたとき、こっちを見下ろしてた。ああ、私を見てたかどうかはよくわからないけど、とりあえず下を見て、なにか楽しそうに笑っててね、それがよく見えたんだよ、今でも覚えてる。白い翼の天使だと、思ってびっくりしてさ」


 エリアナを見れば、記憶はよく思い起こされた。忘れず持ち続けてきた天使みたいな少女の記憶、それを想起させ、あまつさえ重ねてさえくるエリアナの容姿は、私に過去の再来を思わせる。いうなれば記憶とそっくりだった、記憶通りの天使だし、きっとそうなのだと思う。

 瞳をわずかにも揺らさずに私を凝視する彼女は、とても混乱しているようだった。思考停止さえしていそうだ、なんだか面白くて少し笑ってしまいながら、思考整理の話はまだ半ばだったと思い至る。


「私はどうしてももう一度、あの不思議な神々しい天使さまを見てみたくて、ずーっとそれを考えてきてた。本を読むのが好きなんだけど、天使だとかそういうのが出てくる話は特に好きというか、興味が引き寄せられて、よく読むよ。オカルト系の話はあまり面白く思わないけど、天使だけは気になってきた、ずっとそんな感じ。私はたぶん、いつだったかな、小学校……三年? くらいのときに見たあの女の子に、目を奪われちゃっててね」


 話せば話すほど、そうだと確信できた。口にしたことのない話を言語化するのはとても意味があるらしい、どこかふわふわしたそれが輪郭線を増し、確固たるものとして思考の核に据えられていく。


「もう一回、目にするためにはどうしたらいいのかと考えてきてたんだよ。華の十七歳がなにしてんだってね、思うでしょ、私も思うよ、面白いでしょう? で、まあ、天使に会うためには死を見るのが一番かと思って、今日試しに来たってわけ。実際死ぬ気だったのは確かに半分くらいだよ、私は心の底から死のうと思って来たわけじゃなくて、天使を見る手段にこれが使えるか試しに来ただけだから。だめそうならやめるつもりだったし、いけそうならやるつもりだった、でも予想外にも早く、天使は私の前に現れたから」


 瞬きさえもやめてしまったような石化状態のエリアナが間抜けさを晒し続けている、やはり面白い。緩く首を傾げながら、私はそんなエリアナに、思考の結果を言葉で教えてみた。


「『天使に会う』って目的は、もう達成されたわけだけど、人間の欲は尽きないってやつ。私はそのせいで五分五分の分岐点にいるんだと思うよ。このままここから帰ったあと、また天使に会うことができるのか、もしかしたらここで飛び降りれば、天使さまは私を連れていってくれるんじゃないか、と思ったりするけど、でも、死んだらなにもないかもしれないし、天使さまにまた会える保証もない、だからもしかしたらここは死なずに帰ったほうが、また会える確率が高いんじゃないか、と思ってたりもする――メリットデメリットの天秤だよね。ところでエリアナ、天使さまは迷える子羊を導いてくれるんだったね」


 エリアナの表情が、ほんの少しずつ変わっていく過程を見ながら話していた。強張る頬が、透けるような白色に赤みを宿してきているのは目の錯覚だろうか。でも、耳のふちもじわじわと、赤くなっていくエリアナを前に、しかし見間違いではないと思った。そして可愛いとも思った、やはり彼女はとても愛らしく可愛い見た目をしている。きっと内面もそうに違いないと思うくらいには。

 右手を伸ばしてみた。触れられる距離にしゃがんでいるのは、パーソナルスペース内にいるのは相手が選んでそうしてきたことだから、きっと触れたって怒らないだろう、と思うことにしてしまって、私はそっと、彼女のふわりとした髪に触れた。指先が触れた瞬間、ほんのり冷たさを覚えるウェーブの髪は、溶けそうなふわふわさでそこにあって、あまりにも特別に思える。

 結われたそこを、ほんの少し指で拾いながら、私は初めて天使に触れて、そして天使に導きを乞うた。今では鮮明に真っ赤な頬を持つエリアナに、口角を上げて問いかける。


「迷える私に、よければ教示をくれる? 私はどうしたらいいのかな、ここから下りるか、それともフェンスの向こうに戻るか、どうしたら、あなたにもっと近づけるんだろうね。それとも、こうして天使に触ろうとする私は、もういっそ悪魔みたいに煩悩に塗れた人間かな? なんかそんな気がしてくるけど、でもエリアナ、大抵の恋する人間なんて、煩悩まみれだと思うんだよ、自分を肯定するわけじゃないけど」


 エリアナはここで途端に立ち上がって、一歩私から距離をとった。私の手からエリアナの髪が滑り抜けていく。やはり彼女に重力はないのかなんなのか、落ちることもなく彼女は浮いている。少し翼が揺れているけれど、それで飛んでいるというより、私にはその微細な動きが動揺の表れに思えてならなかった。実際、彼女は両手を胸の前で握って肩を縮め、真っ赤な顔でそこに立っている。

 やや見上げる私に、エリアナは首を横に振ってきた。震えるような動きにも思えた。


「あ、あなたは、もう……迷ってないです、分岐点を超えてます、生存に踏み切ってます。私が教えることはもうなにも……」


「へー、よくわかるね、さすが天使も伊達じゃないんだろうな。今死ぬよりいいかなと思って、案外エリアナがまんざらじゃなさそうだから」


「まっ!? わ、私はそんなっ、別にその、ななななにも言ってませんが」


 あわあわと焦りの限界を越しそうな慌てようだ。エリアナはやはり首を横に振っていた。私はふうんと言いながら、ほんの少し視線を下に下げる。立ち上がった彼女の全身を初めてまともに見ることができていた、白いワンピースを着る彼女は、そのワンピース丈をなかなか短いものにしているらしい。太腿の中ほどで揺れる裾から白い足が伸びているのを見て、なるほどと感嘆を覚える。天使の御御足はやはりなかなかだ。

 エリアナはバッと隠すように裾を握って押さえつけてきたので、視線をもとのところに向け直した。正確には瞳を上げる過程で、やや前屈みな姿勢のせいか、控えめな膨らみのある胸元に吸い寄せられかけたし、Vカットの襟元から覗く綺麗に浮いた鎖骨なんかにも目がいったけれど、可哀想なので煩悩は押さえ込んだ。エリアナはあまりにも真っ赤で涙目だったから、慣れないんだろうとよくわかった。

 そもそも、目に毒――天使にその表現は不適切か、目によすぎる格好をしているのはそっちだと思うのだが、またこれも飲み込んで言わないことにする。代わり、私はよく笑みを結んで、からかうように眉を上げた。


「また会いにくるね? もしくは、会いにきてくれるのを待ってるね、エリアナ」


 かあっと首から迫り上がるエリアナの熱が鮮明で、堪えきれず普通に笑ってしまった。ここまで真っ赤な天使もそうそういないだろう、あまりに人間味にあふれていて可愛らしく、純朴な反応に加虐心が刺激される。ただ、あまりいじめすぎてもよくないのはわかっている、私は大人しくフェンスに手をついて、右のつま先を引っ掛け、引き返すためにそこを跨いだ。


 五分五分の分岐点に立っていたと、エリアナは私を称したが、うちの片方に踏み切って、私はそれを選択した。人生の岐路に立ったとき、人間というのはそんな感じでやっていくのだろう、私はこれでもいろいろと悩んで天秤にかけ、こうして決めたわけだから、人が思うことは人それぞれで、なにに悩むかも多種多様であるし、そこからどうするかなんてみんな違ってみんないいだ。例えば私のことを、たかが初恋に会うために死を見ようとまでした考えなしと嘆く人もいるだろうが、私にとってだかが初恋ではないのだからそれていい。

 天使が人間に会うことは基本タブーであるようだから、もしかしたら私は、もう二度と彼女に会えないかもわからない。けれど、本心ではまた会えるような気がしていた、それは真っ赤になって反応したエリアナを見てそう思えたという話で、だからこそ私はここをあとにするが。もう会えないかも知れない、という可能性はきっと五十パーセントぴったりではないだろう、もっと低いかも知れないし高いかも知れない。ただ、どっちであれまた、彼女のいうフィフティフィフティに持ち込んで、私が選択するだけだ。青空を背景に死まで見つけようとした私に、可能性の低い高いはこの際関係ないだろう。

 私はフェンスの内側に戻ってから、振り返ってエリアナを見た。変わらずそこにいる彼女は眉を下げて困惑を極めつつ、赤い耳を晒したままに私を見ている。よくよく笑いかけて、私はエリアナに手を振った。


「じゃあまたね、次会うのはどこだろうな、考えておくから、また会えるといいね。ところで今日も可愛いねエリアナ、変わらないなと思ったよ」


「か、かわっ……!?」


 可愛いの文句にさえこんな飛び跳ねるなんてうぶな天使だ、天使という存在自体がうぶなのかもわからないが、まあなんだっていい。また会いたかった天使さまに会えて、また会うことを決めながら彼女に本心が伝えられたのだから十二分だ。むしろ上出来すぎて自分を抱きしめたい。


 こうして五分五分の分岐点から片方に転んだ私は、きっとまた同じの岐路を踏んで、夢に会おうと試みるのだろう。遠くない未来で彼女に会うことを繰り返すその分岐を、きっとこれから幾度も経験するに違いない。私の存在を稀有に思って興味深く近寄ってきてくれるうぶな天使さまに、そうしていつかもっと触れられたらと思って、私は次を考えるのだ。

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自殺少女はフィフティフィフティの夢を見る 樽トッキ @himajin01

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