第31話 嵐の夜 2

 

 夜の山だったから、そこが何かなんて確認するのにかなりの時間を要した。

 これは、寺院だ。

 

 うらぶれた廃墟のような寺院の中から、嗅ぎ覚えのある気配がいくつもあった。直接見なくとも分かる。あの時代、多くの人間が経験した死臭だ。

 魔女たちは息を呑んだ。

 

 部屋の中で、人影が動いた。

「やめろォ!」

 黒に紛れて姿のはっきりしない男が叫び、坊主頭の男を棍棒のようなもので殴り倒した。

 

 風もないのに、ふつりと残りの火が落ちた。


 灯りが途絶えた部屋の中。掠れた男の笑い声が徐々に大きくなっていく。倒れた坊主頭が右手で祭壇の上を指差したので、はじめて、わらっていたのはそいつだと知った。

「ハロルド、もう遅い……厄神は復活した」

 その言葉に反応するように、祭壇の上で異形の影が蠢いた。棍棒を握った男――ハロルドがそれを見て怯えたように一歩後退りした。坊主頭の男は朗々とした声でまじないを読み上げた。

 

「〈五芒星の六賢者が封印せし十三の大厄神、名を――〉」

 

 告げようとした坊主頭の脳天へ、ハロルドが勢いよく振り上げた棍棒を叩きつけた。頭蓋が割れ、肉叩きで柔らかい中身を潰すような、嫌な音だった。それが2度ほど続いた。

 

 しかし、そのおかげで祭壇の上にを結ぼうとしていた異形の気配が霧散したようだった。

「はあ、はあ」

 ハロルドは、しばらく中腰で息を切らせた。だんだんと雲間が開いて、寺院の外から月明かりが差し込み、彼の姿が浮かび上がった。その手は可哀想なほど震えていた。しだいに波打つような呼吸へと変わり、ハロルドは涙交じりに声を上げた。

「なんて、なんてことだ……おお、神よ!」

 彼は棍棒を投げ捨てて外へ走り出した。魔女たちはハロルドが錯乱して何をするかしれないと思い、後を追いかけた。

 

 彼は、細い木の空の前で膝をついていた。服が汚れるのも構わずに跪き、震える手で懐から何かを取り出した。

 人形だった。

 ハロルドは両の手で人形を握ったまま、何度か頭を下げるように躰を前後に揺らした。祈るような、ためらうような、全てを振り切るような動作に見えた。

「わ……」

 一言発して、彼は俯いた。そのまま何かを堪えるように呼吸を数秒、震わせた。鼻を啜って唾を飲み、決心を固めたような仕草でハロルドはもう一度、口を開いた。

 

「〈我が遠きふるさとはすでになく……我を証明する種胎も潰えて……ついにこの身この魂ひとつを以て、あ、あなたに証明しよう〉」

 

 時折裏返ったり震える不安定な声で詠唱しながら、ハロルドは人形のようなものへ彫っていた。

 

「〈この魂が洗い清められ、再び巡ることはなくとも……〉」

 

 ガリ、と人形から木片が落ちた。


「〈必ずや、成し遂げる!〉」

 

 そしてハロルドは吐血した。そのまま人形を抱えて前のめりに倒れ込んだ。もう頃合いかと魔女たちは彼の顔を覗き込んだ。


「……やはり身がもたなかったか」

 

 ハロルドが吐いた血の中に、歯が数本混じっていた。おそらく服の下で肉体の崩壊も始まっているだろう。

 この男はもう無理だ。一介の術者に過ぎたる術を行使しようとしたのだから仕方がない。あの魔術を発動させるのに相応しい対価をハロルドが持っていないことは、彼自身がよく分かっていたはずだ。

 

 ハロルドはしばし呆然と魔女たちを見つめていたが、やがて血を吐き出しながら掠れた声で言った。

 

「お前たち……殺せ、私を……」

 

 魔女たちは顔を顰めた。この男は放っておいてもどうせ死ぬ。

 

「残念だけど、ババアにはその力がない」

 

 だから諦めなと、人が死ぬ間際にしては冷たく突き放した。

 すると、ハロルドは必死な形相で1人の魔女の腕を掴んだ。

 

「39人分の贄が揃えば、あれ・・は完成するぞ……!」 

「ちょっと!」

 

 どこに残っていたのか抵抗する魔女の顔を引き寄せたハロルドは、顔を赤黒く染めながら言った。

 

「邪神を媒体に、生まれる……!」

 

 魔女たちは驚愕した。彼女たちの背後、寺院の中から再び恐ろしい気配を感じた。

 

 一目見た時、寺院の中にある死体は贄だと分かった。厄神を召喚するなんて、馬鹿な奴らだと思った。殺された坊主頭のまじないを聞いて少しヒヤリとしたものの、彼女たちが長い間生きてきて厄神を召喚出来た人間など、ほんの一握りしかいなかった。多くの者はまず喚べない。召喚の資格と条件を知らないからだ。よしんば喚べたとて、力量がなく失敗するか、贄の数を見誤って喰われるか、御しきれずにその場で厄神もろとも潰えるか。

 だから、今回もそうだと思い込んだ。うまくいきっこない、いくわけがないと、思い込もうとした。村にいた時、確かに何か目覚めたと分かったのに!

 

 神を降ろすことが出来るのは、本来、神より授かりし資格能力が与えられた者だけ。人はそれを巫女や神子と言う。しかし、その両方がない人間は目を借りなければならない。降ろすものとは別の“神”に見届けてもらうのだ。それで召喚は成立される。

 正しい手順を踏み、過不足のない贄を用意し、乞い願う。

 

  馬鹿だったのは、アタシらだった。直感をなかったことにするなんて耄碌したものだ。

 

「殺せ……わたしを……あれを封印するのだ……」

 魔女たちは息を呑んだ。そして、

 ハロルドに言われた通り、術の巡りも不安定な人形へ力を流した。人形を依代にした厄神の封印。最後に念の為持って来ていた古い魔術道具のひとつで巻いて、細い木の空の中へ置いた。


 本当なら、封印を見届けたいところだが、厄神の側にいればただの餌になりかねない。

 

 暗い顔で村へ戻ると、家の中からリリアが走って飛びついた。

「あの子、げんきになったよ!」

 嬉しそうな顔で言うので明るい顔を取り繕ったものの、最初は何のことかと怪訝に思った。

 手を引かれるまま納屋に入ると、お産を終えた白猫がすっかり母の顔をして仔猫の世話に、夢中になっていた。リリアの手が母猫に群がる仔猫を指して「黒猫ちゃん、お乳ものめるようになったの」と教えてくれた。先ほどこの手の中で死んだはずの小さな黒い塊が誰よりも元気に乳を吸っていた。

 

 お産を手伝った魔女は顔面蒼白で口元を抑えて、つぶやいた。

 

「なんてこと……」

 

 死んでいたはずの仔猫が、生き返っていた。


 ◇

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