第6話
その日の夕食は、やはり貰えなかった。
――英雄様の優しさに、甘えてる場合じゃなかったのよ。
でも、あの時に一人で帰ったところで……難癖をつけられて同じ目にあっていた可能性は高い。
……治療院では、緊張して空腹を忘れていたのが少しだけ悔やまれた。
恥を忍んで食べ物をねだれば、何か食べさせてもらえたかもしれない。
――ううん。ダメ。
こんな風に、誰かを頼るのが普通になってしまっては……。
だけど、もう他に、命を繋ぐ方法が見つからない。
侍女達の頑張りも、より厳しい母の注視を振り切れなくなっている。
(チーズのひと欠片でもいいから、食べたいなぁ)
不意に他人から優しくされたことで、心の弱い部分がとめどなくあふれてきてしまう。
――寝よう。明日も仕事があるし、ふらふらしているとまた怒られる。
**
早朝から空腹に耐えつつ、いつも通り洗濯をしている時だった。
父が私を呼び付けて、執務室に連れて来られた。
父が直接何かを言うなんて、珍しいこともあるのだなと思った。
視界にさえ入れようとしない徹底ぶりは、一カ月以上すれ違うことさえない程だというのに。
「アニエス。お前に縁談が来た。明日にでも引き取り……ゴホン。迎えに来るそうだ」
――エンダン?
「嫌とは言わせんぞ。なにせもう、返事を伝えた後だからな」
エンダンという言葉が、いまいち頭に入って来ない。
「何を呆けている! いちいち鬱陶しいやつめ! 結婚が決まったのだ! お前の!」
「え? えぇっ?」
私が魔力のない欠陥品だというのは、もはや貴族中に知れ渡っていると思ったけれど。
知らずに決めたのなら、後で返品するなどと言われないだろうか。
――というか、英雄様への道がさらに遠のいてしまう……。
純潔を守るのは難しいだろうか。
ならば、途中でなんとか逃げるしかない。
「何を考えているのか知らんが、余計な抵抗をするんじゃないぞ? 本来なら持参金を渡しても見つからん嫁ぎ先なのに、向こうから結納金を持って来たのだ。絶対に逃がしたりせんからな」
……読まれてしまった。
それもそうか、きっとありありと、顔に出てしまっていただろうから。
「返事は!」
「…………はい」
「ふん! 心底疎ましいやつだと思っていたが、役に立つ日が来るとはな。気分がいいから、今日は仕事を休みにしてやろう。それにしても……貧相な体だな。顔もやつれきっていて明日が来る前に死にそうではないか」
――誰のせいだ。
とは言わなかった。
「……申し訳ございません」
「いちいち腹の立つ反応をするんじゃない! はぁ、もういいとっとと失せろ。食事を摂らせてやるから、何か食っておけ。明日までは生きておけよ?」
「ありがとうございます。失礼いたします」
――食事を摂らせてもらえないのを、知っているくせに。
そう思いながら、今日で最後になるかもしれない父の顔を、お辞儀をしながら睨んでやった。
すでに机に向かっている彼は、こちらに見向きもしていないので好都合だった。
……でも、何か食べられるならありがたい。
食べて少しでも、明日逃げるだけの体力を、養っておかないといけないのだから。
**
部屋に戻ると、すでに食事がテーブルに置いてあった。
そのすぐ側に、『ご結婚、おめでとうございます』と、メモが添えてある。
運んでくれた誰かが、我慢しきれずに書いてくれたのだろう。
メアリー、ミンシア、エリー、ライラの誰か。
……でも、英雄様の元に行きたい私としては、おめでたいとは言えないのだけど。
――気持ちだけ、ありがたく頂戴しておこう。
そして、メモは見つからないように蝋燭の火で燃やした。
――それにしても、私なんかを貰い受けるなんて、奇特な人も居たものだ。
もしかするとだけど、愛玩用という名の奴隷に……などという、酷い考えの人かもしれないけれど。
いや、もしかするとではなくて、普通に考えればその可能性が限りなく高い。
顔だけ見たら、すぐに逃げよう。
そう。私はもう、どうやって逃げるかということしか、考えていない。
**
そして、ついに迎えた朝。
旦那様ご本人、自らがお迎えに来るらしく、相当に我慢出来ない人物なのだろうと思った。
――馬車の中で、体を触ってくるかもしれない。
そういう危機に対して、私は抗う術を持たない。
言うなれば売られた身。
大人しく耐えるしかない。
まさか馬車の中で致す……などという気狂いではありませんようにと、祈って運に任せるしかない状況だ。
とにかく、移動中に逃げるのが難しくなった。
「アニエス様、浮かないお顔ですね?」
自室で、身支度をしてくれている侍女の一人が言った。
腰まである長い髪は痛んでいて、ぐいぐいと引っ張られている最中だった。
視線を上げると、ちょうど鏡の自分と目が合う。
その長い金髪をアップにしてもらっても、少しタレ目なままの優しい顔。
その碧い瞳を見つめて、確かに少し沈んだ表情だなと思った。
「ううん……そんなことないですよ?」
彼女達は、普段食べ物をくれる侍女達ではないから、貴雀会ではないだろう。
こっそり逃がしてくれと言ったら、すぐにでも親を呼ばれてしまうに違いない。
明るく作り笑いをして、そしてまた、目を伏せた。
うすく開いた瞳には、九年ぶりくらいに身を包むドレスが映る。
フリルの付いた、可愛い純白のドレス。
(侍女服以外のものを着るなんて、本当に久しぶりね)
私はこれでも、やっぱり一応はご令嬢だったのだ。
女神の力も発現しないまま、魔力も無く、落ちこぼれで憎まれた令嬢。
今から、売られた先の旦那様が、私をいたぶるために迎えに来てしまう。
それでも――。
私はまだ何とかなるし、きっとどうにか打開できると信じている。
でなければ、今までにもっとひどい目にあって、きっとすでに死んでいただろうから。
だから、諦めずにずっと命を繋いできた。
貴雀会の皆にも、支えられてきたのだ。
私自身は、侍女の仕事を覚えるのでいっぱいなだけだったけれど……。
今日は、なんとしてでも逃げてみせる。
そうして別の環境に飛び込んで、きっと順応してみせる。
そんな決意をしていたら、別の侍女が私を呼びに来た。
「アニエス様。アニエス様の旦那様が、お見えになりました――」
深くお辞儀をする彼女は、こっそり食べ物をくれる貴雀会の一人だった。
「……はい。ありがとうございます。すぐに――」
見ると、彼女は涙をこぼしていた。
頭を下げたその足元に、ぽたぽたと雫が落ちていく。
私は彼女の側に差し掛かった時に、一言だけ、小さく伝えた。
「今まで、皆さん本当にありがとうございました」
メアリー。
ミンシア。
エリー。
ライラ。
その誰かである彼女。
いざ、その誰もが居ない所に行くのだと思うと、胸が張り裂けそうなほどの痛みを覚えた。
――不安と恐怖。
そして、寂しさ。
だけど……私は首を横に振って、迎えの馬車の元へと廊下を歩いた。
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