第5話
――十四歳。
侍女達、その『貴雀会』の働きのお陰で、私はなんとか生きている。
侍女の仕事もそれなりに出来るようになり、もう、あれから九年の月日を過ごした。
何かにつけて、母は私を叱責するし、事あるごとに食事を抜く。
その度に、侍女達はなんとか私に栄養を摂らせてくれていた。
その手段は、看守に隠れて囚人に与える様子に近い。
時に、ハチミツを塗ったすねを舐めさせてくれたり、牛乳をほんのひと口分、飲ませてくれたりした。
母の目に付かなければ、もちろん普通に与えてくれる。
けれど、私の行くところ行くところに、母が目を光らせるようになってしまったのだ。
だから、私を足蹴にしたところを、反抗した私がすねに噛みついているように見せたり、いじめるフリをして頭から牛乳をかけ、私が一滴でも飲めるようにしたり……。
とにかく工夫してくれた。
皆が私の敵でなくてはならない。
優しくしようものなら、その時点でクビになるから。
そんな生活が、ずっとずっと続いていた。
――でも、私は意外と楽しかった。
侍女の皆が私を生かそうとする、その気持ちがとても嬉しかったから。
ものすごく知恵を絞って、栄養価の高いものを口に入れさせてくれた。
その優しさが、私の心を満たしてくれていたから。
**
そんな中で、四年前から、ある『英雄』の噂話が流れてきていた。
辺境伯の息子が年若くして魔物討伐で活躍し、その頭角を現したと。
その当時で、私が十の時に英雄が十六だった。
『英雄』と聞いて、私は胸が跳ねたかと思うくらいにドキリとした。
主神様のお子だろうか――と。
そしてその噂は、どんどん更新されていった。
嘘か誠か、『魔族』が現れたのさえ撃退したという。
魔族は、魔物など比較にならない程に強く、言うなれば人を凌駕する存在らしい。
それを倒すまではいかずとも、ほとんど無傷で勝利したという話だった。
ただ、その際に呪いを受け、美しかった顔が……顔だけでなく全身が、見るも無残に爛れてしまったのだという。
それが二年前のことで……彼は、陰で化け物英雄などと言われるようになり、そのせいか彼の話は流れてこなくなってしまった。
けれど、今年に入ってその英雄が、両親を殺したという話が聞こえてきた。
さすがに親殺しとあっては、いかに英雄であろうと死罪だろう。
そう囁かれていた。
でも実際には捕まるどころか、領地も屋敷も財産も、そっくりそのまま受け継いだという。
そこには、正当防衛が認められたからと言われていた。
何でも、あまりに酷い姿になった英雄を、家の恥だと思い続けていたご両親が毒殺しようとしたらしい。
英雄はそれを見抜いて、その場で斬り捨てたのだという。
その行動には賛否両論あったものの、彼の苛烈な性格と、英雄と呼ばれるほどの武力に、誰も直接文句を言う者は居なかった。
結果として、誰も敵わない、最強の辺境伯が誕生したということだった。
この噂に関しては、侍女達だけでなく両親もしきりに話していたようなので、よほどの事件かつ、事実なのだというのは私にも分かった。
――噂通りの力を持っているとして、そして、その苛烈な性格というのが……主神様の昔話そっくりだ。
もしかすると本当に、その人かもしれない。
彼のために、私はこの人間界に落ちて来た。
この何年かは、英雄の噂を聞くたびに胸が弾んで、苦しくてもさらに頑張ろうと思えた。
――一度でもお会いすれば、きっと間違いなく分かるだろう。
神同士だからこそ、ピンとくるものがあるはずだ。
……未だに、私は女神の力が使えないけれど。
**
いつか、何とかして英雄様にお会いしたい。
そんなことを夢見ながら、侍女の仕事で街に買い出しに出た。
もう何度も来ているし、いつも行くお店の店主とも、顔馴染くらいにはなっている。
ただ、商店街は少し遠くて、常におなかを空かせている私には、少々辛い。
しかも、重いものを買う時に限って私が行かされる……母の差し金で。
侍女の皆は、見張られていて付いて来ることさえ出来ないので、歯がゆい思いをしているらしい。
その辛い買い出しの最中、今日はいつもよりも暑くて、私はフラフラとしていた。
それは当然の話だと思う。
――町まで半時間。
食事も満足にもらえないのに……この暑い中を歩き続けたのだから……。
体力が持つはずがない。
「嬢ちゃん! あぶねぇ!」
「きゃあああ! 誰か! あの子がはねられちゃう!」
(後ろ? 横の方からも聞こえた?)
なんとなく私に言われた気がして、振り返ろうとした時だった。
「どう! どう! どう!」
――ヒヒイイイイィィン!
朦朧としていた私の横側から、馬車が迫っていたのだ。
(あぁ、間に合わない――)
道の真ん中で、ボーっと歩いていたから……。
そもそも、機敏に動ける余裕なんて、この体には残っていないのだけど。
(死んだかぁ……。主神様の、英雄に出会う前に……)
**
「しっかりしろ! 馬には当たっていないはずだ! 目を覚ませ!」
(男の人の、顔が近い……抱えられてる……?)
そういえばさっき、馬車に撥ねられて……死んだのだ。
神界に戻されたのかな。
また女神の皆に、ポンコツって言われてしまう。
「おい! 娘! 娘!」
(耳元でうるさい……)
たとえ男神様の低くて良い声でも、近くで大きな声を出されるのは嫌だ。
(――って)
「……あれ?」
(生きてる?)
「気が付いたか! 頭を打っていないか!」
「……えぇっと……」
どこも大して、痛くない。
いや……お尻を打ったみたいで、ずきずきとして、そしてジーンとしびれている。
「どこの家の者だ! 医者に診せるから使者を送ろう!」
「あの……」
抱えてくれている大きな手が、私の貧相な胸をがっしりと掴んでいる。
「胸……」
「胸が痛むのか! おい! 医者まで急ぐぞ!」
「ちがくて……手が、触ってるというか」
「何っ? ――っああ。すまん!」
街の皆さんが見ている中で、すごく恥ずかしい……。
気付いてもらえない小ささだというのが、知れ渡ってしまった。
でも、まだこれから大きくなるという希望が、私には残されている。
(――はず)
「とにかく、医者に連れて行く。良いな?」
「えぁ? あああ、いえ! 急ぎますので! 早く戻らないと、また怒られてしまいます」
そうだ、こんなところで介抱されている場合ではない。
怒られるのは本当に嫌だ。
ごはんも貰えないし、英雄に会う前に死にたくなってしまう。
「そんな事を言っている場合か! お前の家の者には俺から言ってやる。だから安心しろ」
優しい……。
風格のある服装。
どこかの貴族に違いない。
声が若いから、ご令息だろう。
――顔を全て覆う仮面をしていて、お顔が分からないけれど。
それから私は医者に連れて行かれて、お尻に薬草の湿布を貼られた。
そこで仮面の君から、魔力が使えないのだなと言われて少し凹んだ。
分かる人には、教会で測定などせずとも見て分かるらしい。
「はい……どうやら、そのようです」
「ふむ……。俺には、単純にそうだとは見えないがな。ともかく……アニエス嬢はヒルミダ家の娘だと言ったな。その侍女服は何だ。それに、その体……。いや、すまん。しかしお供も連れずに外出しているとは。……冷遇されているのか」
治療院に向かう馬車の中で、どこの誰かを聞かれるままに答えた。
それを伝えたことで、令嬢なのに侍女服を着ていることも、一人で買い出しをさせられていることも、全てバレてしまったのだ。
「……えぇっと……はい。魔力無しの子なんて、貴族にとって汚点でしかありませんから」
隠したいと思った時には、すでに名乗ってしまった後だった。
だから、今さら取り繕っても仕方がないと思って正直に言った。
「そうか……。なら、婚約者は居まいな」
「それはもちろん。こんな能無しに、貰い手など居ません」
「好都合だ。お前が嫌でなければ、俺が婚約を申し込みに行こう」
「えっ?」
話が見えない。
これは頭でも打っていて、まだ夢の中か聞き間違いか……何か不測の事態に陥っているらしい。
「まあ、後で嫌だと言われるかもしれんが」
そこで話は終わった。
ふわりとお姫様だっこをされて、また馬車に乗せられた。
何が起きているのか理解を超えてしまっているせいで、なりゆきに身を任せてしまうくらいには混乱したまま。
そして約束通りに屋敷まで送ってもらい、仮面の君は父と母に顛末を説明してくれた。
――でも。
「辺境伯殿。これは我が家の教育に関わる事。許す許さないまで口を挟まないで頂きたい」
そう言われると知っていた。
父が、母が、こんな事で許してくれるはずがない。
私はただ、彼の優しい雰囲気に触れていたくて、怒られるのを承知で連れられたのだ。
その仮面の君は……今、辺境伯と呼ばれた。
「――えっ? 辺境伯様?」
「なんだアニエス! 口を挟むんじゃない!」
うっかり口を開いたせいで、父に怒鳴られてしまった。
「すっ、すみません」
辺境伯様ということは、あの英雄様だ――。
これはなんとか、もう少し関係を繋いでいきたい。
でも、今また声を出せば、今夜のごはんを貰えないどころでは済まなくなるだろう。
それは…………耐え難い。
今日も、朝から何も食べていないのに。
「ヒルミダ伯爵。後日、話がある。どこか都合をつけてくれないか」
「何っ? 我が家にこれ以上関わってくれるな!」
「いいや。悪い話ではないはずだ。明日にでも書面を送る。間違いなく読んでくれよ?」
そう言い残して、もはや会話になどならないと悟ったのだろう。
英雄様は帰っていった。
(英雄様……)
魔力の無いこんな私にも、真摯な対応をしてくれた……。
貴族であれば、魔力無しの令嬢など、まともに相手をする価値もないだろうに。
でも――あの人の目に止まるチャンスを、ここで使ってしまったなんて。
もっと侍女として立派に仕事が出来たなら、雇って頂けないかを申し出るくらいは出来たかもしれないのに。
……まだ早い。
私には、まだ何も――。
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