まだ付き合いたての2人が山で雨に降られたので、死なない程度に寒い山小屋でどうにかする話

霜月このは

まだ付き合いたての2人が山で雨に降られたので、死なない程度に寒い山小屋でどうにかする話

 髪の毛からぽた、ぽたと雫が滴り落ちる。冷たくて思わず身震いしていると、隣の彼女もくしゃみをして。目が合って、笑い合った。


「降られちゃったね……春香、寒くない?」

「寒いです」

「だよねぇ」


 今日はわたしの恋人である悠さんと、悠さんのバンドのメンバーやそのお友達とみんなで一緒に遠出して、朝から山登りに来ていた。ミュージシャンの悠さんは勝手に夜型人間だと思っていたけれど、実はアウトドアも趣味らしくて、なかなかに早起きで。

 今朝も早くからモーニングコールで起こしてくれた。おかげでわたしたちは、午前中の涼しい時間に山頂にたどり着くことができて、いい眺めを楽しんで。

 山の上でビールまで飲んで楽しんで。だけど久々のお休みにわたしたちは浮かれすぎてしまったらしい。


 山の天気は変わりやすい。わかってはいたのだけど、悠さんと二人でおしゃべりに夢中になって、あちらこちらで写真を撮ったりしていたら、少しずつ雲行きが怪しくなってきて。一緒に来ていた仲間たちは、気づいたら先に下山していたみたいで。


 これはやばい来るぞ、と思った瞬間、案の定、雨が降り出した。


 だけど不幸中の幸い、わたしたちは屋根のある場所を見つけた。中はきちんと管理されているようすで、綺麗だったけれど、わたしたちの他には誰もいなくて。

 だからというわけじゃないけど、さっきからわたしは、なんだか落ち着かない気持ちだった。


「服、そのままだと風邪ひいちゃうから、脱ぎなよ。これ、代わりに着て」


 突然の雨だったから、雨具を出す暇もなくて、わたしたちの服はびしょびしょだった。


「で、でも……」

「あ、ごめん、向こうむいてるから……」


 彼女はそう言いながら、上着を差し出す。リュックの中に入れていたおかげで、悠さんの上着はまだ無事だった。


「そうじゃなくて……いや、恥ずかしいのもそうですけど、それだと悠さんが寒くなっちゃう」

「……そんなこといいから。……はい」


 押し問答をしているあいだに風邪をひいてもいけないから、素直に受け取る。


「ありがとうございます。あ、でも……あっち向いててくださいね?」

「はーい」


 悠さんが向こうを向いたのを確認して、わたしは服を脱ぐ。Tシャツと、それからぐっしょり濡れてしまったブラも外す。

 リュックのおかげで、ズボンのほうの被害はそこまでだったから、そちらは履いたままだけど。


 悠さんの貸してくれた上着をそのまま素肌に羽織ると、ファスナーの金属部分がひやっと胸に当たる。ちょっとびっくりして慌ててスライダーを引っ張ると、動かなくなってしまった。


 ……どうしよう。借り物なのに。


「……大丈夫?」


 わたしの着替えがなかなか終わらないから、悠さんは心配して声をかけてくれた。


「悠さん、あの」

「どうしたの?」

「これ、チャックがうまく閉まらなくて……見てもらえませんか」


 恥ずかしいのを我慢して、半分だけ閉まりかけている上着を悠さんに見せる。下に何も着ていないから、素肌が見えてしまいそうで、恥ずかしい。


「どれどれ……ああ、噛んじゃってるね、これ。ちょっと貸して……」


 変なことを心配しているわたしをよそに、悠さんは真剣に、固く布地に食い込んでしまったファスナーと戦っていた。

 さっきから、わたしはこんなに恥ずかしがっているのだけど。それというのも、わたしと悠さんは数ヶ月前から付き合いはじめた恋人同士ではあるのだけど、なかなかタイミングが合わなくて、まだお泊まりとかもしたことがなくて。


 つまりはその、お互いの身体をまともに見たことはないわけで。


 だからこういうときでも、恥ずかしくなってしまうのは、仕方がないと思う。


「手がかじかんでうまくできないや……。春香、そのままじゃ寒いでしょ」

「……寒い、ですね」

「じゃあ、仕方ないよね?」


 数分格闘して諦めた悠さんは、そんなことを言う。


「仕方ないですね……」


 何が仕方ないんだろう、とふと思ったところで、急に身体が温かいものに包まれた。


「……あったかい?」

「はい、とても……」


 悠さんとはいつもそばにいるけれど、ここまで近いのは初めてだった。


 背中にぎゅっと腕をまわされて、密着する。

 そのままの姿勢で、悠さんは何事もなかったかのようにしゃべりだすのだけど。悠さんが何か話すたびに、耳元で聴こえるその声と息遣いに、頭の中がクラクラしてきてしまう。


 ただでさえ素敵なのだ、悠さんの低音ボイスは。ずっとファンだったから、その憧れの存在がこの距離感にいることを考えると、今でも不思議な気持ちで。


 心臓の音が、やけにうるさかった。


「なんかあったかくて、眠くなっちゃいそうですね」


 誤魔化すようにそう言うのだけど。


「ダメだよ? 寝たら死ぬよ?」


 悠さんはそう言って、わたしの身体を、抱きしめたままゆらゆら揺する。


「ふええ」

「いやいや、これくらいの寒さじゃ死なないから。……ちゃんと起こすから、眠かったら寝ててもいいよ」


 そう言って笑う。


「……さすがにこの状態で眠れるわけないです」


 思わずそう、抗議の声を上げると。


「だよねえ」


 悠さんもまた、同じ気持ちだったみたいだった。

 胸の奥がきゅーっとなって。お腹の中がなんだか熱い。


「あの……悠さん……わたし……その……」

「え、なに? なんか言った?」


 勇気を出して、耳元でそうっと言ったのに、わざわざ聞き返してくるなんて、いじわる。


 だからもう、強行手段を取ることにした。


(……ちゅ)


 悠さんの首筋に、わたしは口付ける。


「……ひゃっ」


 思わぬ攻撃にびっくりした様子で、悠さんは声を上げる。なんだか可愛い。


「ちょ、ちょっと春香、なにすんのっ」

「何もしてないですよ? わたしは」


 わたしも知らん顔をしてやる。


「へえ、そういうことするんだ?」


 そう言いながら悠さんは、わたしを抱き寄せていた手を、わざわざ離して、すーっとなぞるように背中を触ってくる。


「んっ……ひゃぁっ……ぁん」


 ……何これ。

 思わず、変な声が出てしまう。困る。


「悠さんのバカ……」


 悔しくて堪らなかったので、こちらもくすぐったいことをしてやろうと、わたしは自分から悠さんにくっついて、頬に触れる。


 そしてキスしようとするふりをして、唇を違う場所に落とした。

 悠さんの耳に。


「……んぅ……ちょっと、春香……。これ以上そういうことされると、我慢できなくなっちゃうんだけど」


 悠さんが、ちょっと怒ったようにそう言うもんだから。


「……別に……いいですよ……?」


 わたしは真っ直ぐ目を見つめて、そう言った。精一杯の、勇気を出して。

 悠さんとなら、この先にだって、進めるかも。ううん、進みたいって、思ってしまったから。


 ……だけど。


「……ダメでしょ」


 悠さんは、そんなことを言う。


「こういうのはさ……こういうところじゃ、ダメでしょ」

「……?」

「だって……初めてなんだし」


 そう言いながら、わたしの頭をポンポンと、撫でるように触る。


「だから続きは……」


 抱きしめる腕の力を、いっそう強めて。まるで幼い子どもに言い聞かせるみたいに。


 悠さんはわたしの耳元で、言う。


「無事に帰ってからね」


 笑顔の奥に見えるちょっとだけ苦しそうな様子も、ぎゅっと抱きしめてくれた腕の温もりも。


 ぜんぶがぜんぶ、愛おしくて。


 わたしは素直に、目を閉じたのだった。



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