あかみさまとは関係のない話集
麦茶ブラスター
あかみさま、ダメでした
暑い。真夏の民家は湿度と気温のダブルパンチで酷い暑さだ。
セミの鳴く声、温風が軒先の風鈴を揺らす音。
大粒の汗が額を伝って、テーブルの上に落ちる。
しかし、金縛りにあったように私の足は動かない。
「暑いなあ。ほら、飲めよ」
目の前の男は私と同じように玉のような汗を流しながらも、笑顔で言う。
彼の丸々とした顔には赤いにきびがぶつぶつと浮かんでいる。着ている白いTシャツは黄ばんでいて、露出している肌は大分日に焼けていた。
男と私が挟んで向かい合う、そのテーブルの上にあるのは、ガラスコップに入った麦茶。それだけ。
「ぬるくなっちまうぞ?」
男は張り付いたような笑顔を続けながら、ぼりぼりとにきびを掻いた。
嫌だ、と言おうとした口を、理性が抑える。
「にしても、久しぶりだなあ、●●。10年ぶりかあ?」
沈黙を貫く私を余所に、男は笑顔のまま話し始めた。
「東京はどうだった?恋人は出来たのか?俺はさ、こんな山奥で……」
私が答えなくとも、男は一人で話し続ける。その間も彼はずっとにきびを掻き続け、にきびからは血が滲み始めた。
「…ってこともあってさあ。やっぱり、東京にもいたのか?」
何の話も入ってこない。だって、私は●●ではない。
「まあ、いたら帰ってこないよなあ」
この廃村に写真を撮りにきただけの、ただの廃墟マニアだ。
この家だってただの廃屋だった。ボロボロで、とても人が住める状態ではなかったはずだ。
そういえば、なんでこの村は廃村になったんだっけ?……いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「こっちは、●●が居なくなってから大変で…」
男から目を逸らしたまま、ズボンのシミを見つめていると、彼の喋りが止まった。
「おい」
明らかに、さっきまでとは異なる声のトーン。
思わず、顔を上げた。上げてしまった。
「飲めよ」
男の顔が、笑っていない。いつのまにか彼のにきびは顔中に広がっている。
「なあ、頼むよ。飲んでくれよ。もう、いないんだよ」
男は鬼気迫る表情のまま、顔をかきむしり始めた。
額に出来たにきびを、唇に出来たにきびを、眼球に出来たにきびを、引っ掻く、ひたすらに引っ掻く。
私は目を逸らした。そこには男の顔があった。下を向いた。男の顔があった。上を向いた。男の顔があった。
なぜだか私は、男の変化から目が離せなかった。
「頼む足りない頼む頼む頼む頼むなりたくない頼む頼む頼む頼む」
そのうち顔中のにきびがぼこぼこと膨らみ始め、瞬く間に男の顔は蓮コラのようになった。
「むむむむむ、むむむむむ……」
そんな状態になっても、男は何やら喋り続けている。
「わかった、わかったよ。麦茶を飲んだらいいんだろ?」
もうやけっぱちだった。ガラスコップを掴み、中の液体を口の中へ注ぎ込もうとした瞬間。
「ちがう」
水気を含んだ声が耳に届いた。明らかに、男の声ではなかった。
ぐじゅ、ぐちゃ。
視界に入った「それ」の姿に、私は思わず、ガラスコップから手を離してしまった。床に落ち、割れ、茶色い液体が散乱する。
男は既に「何か」になっていた。いや、正確には「なり損ない」と言った方が正しいかもしれない。
その頭部は風船のように膨張し、赤く血の滲んだにきびに覆われていた。体は煮込んだ肉のようにぐずぐずになり、不快な音と血の臭いを漂わせ始めている。
その何かは、私に向かって、赤黒く変色した手を伸ばしてきた。
「なあ、●●」
口がどこにあるかも分からなくなったそれが、はっきりと男の声を出した。
べちゃべちゃの手が、私の首を掴む。むせかえるような血の臭い。腕が動かせない。足は動かない。
「なんで、飲んでくれなかったんだ」
そんな声が聞こえたと思うと
ぱああん。
その頭が、弾けた。赤や黄色の内容物が床に撒き散らされる。よく見るとそれらは全て、
御札だった。
「あかみ、さま……?」
御札に書かれた文字が目に入った瞬間、私の意識はぷつりと切れた。
「……!?」
目が覚めると、私は変わらず民家の中にいた。
目の前の男の姿が、元に戻っている。
貼り付いたような笑顔のまま、彼は口を開いた。
「暑いなあ。ほら、飲めよ」
私は一度麦茶を飲もうとした。それなのに、なぜ…
いや、「なぜか」はもう分かっていた。
私は男の言う●●ではない。しかし、男は私を●●と認識している。
そして、この男が……いや、別の「何か」が望んでいるのが、「本当の●●が麦茶を飲むこと」なのだとしたら?
セミは鳴いている。温風が軒先の風鈴を揺らす。
テーブルの上のガラスコップは空っぽだった。
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