第19話 ルージュが最強に至るために

「ふざけんなよ」


 安酒の入ったグラスでカウンターを叩けば安っぽいベニヤの音が響いた。

 場末のバーで一人。

 ルージュ・エメリーはつぶやいた。

 アイドル時代だったらこんなバーに一人で来ることなどなかった。

 高級ホテルの最上階のバー。クルーズロードの会員制のバー。クルーズ・タウン一の老舗のバー。

 ついこの前まで一流と言われるような店にしか行かなかった。

 もちろんルージュの財布は傷まない。

 ファンだという裕福な老人や新興企業の社長など様々な人間がルージュ・エメリーに一杯のグラスを傾けさせるために大金を払っていた。そしてそれを当然の事だと受け入れていた。


 しかし今は違う。


 みんな離れていった。


 資産を持っている人間は価値に敏感だ。

 価値のなくなったルージュから離れていくのは当然であり必然であった。


「ふざけるな……」


 さっきよりも小さな声であった。

 俯いて目を閉じる。


 しばらくそうしていると、隣の席に人が座った気配がする。


 こんな場末のバーでナンパかとうんざりした感情と。

 この事を理由に腹立ちを嵐のような感情を発散できるのではないかという感情で。


 顔をあげた。


「ああ、やっぱりルージュ・エメリーさんだ」


「だれよ」


「すみません。私こういう者です」


 差し出された名刺を受けとらず、横目で確認する。

 知らない企業名。知らない名前。知らない住所。


 視線をあげた先には名刺を差し出す男。

 後ろに撫でつけた黒髪が妙にテカテカとしている。

 その貼り付けたような笑顔には見覚えがない。


「知らないわ」


「ははは。そうでしょう。あまり表には出ない企業ですので」


 表に出ない。

 という意味は。

 まあ、そういう事である。


「用件は知らないけど裏側に落ちる気はないわよ」


「まま。そう言わずに。お話だけでも」


 興味なさげに視線を外したルージュに対して、男は絶妙な距離感で食い下がる。

 ルージュは軽く座り直してから左腕で頬杖をついて男に向き直る。


「あんたさ。この街に来たばかりのアイドルならまだしも、曲がりなりにもそこそこのラインまでいったアイドルよ。表も裏も知ってるのよ。そして表から裏に落ちた人間の九割くらいは消えてくこともね」


「これは手厳しい。やはりニュービーを騙くらかすのとは全く違いますな。流石ルージュ・エメリーさんだ」


「その手も透けてるのよ」


 ついたため息がカウンターを滑る。


「いえいえ。これは心底からの言葉ですよ。あのチームの中で一流だったのはルージュさんだけでしたから」


「当たり前の事言ってルージュの機嫌を取れるわけないでしょ」


「これは失礼しました。生まれながら一流のルージュさんには一流という言葉は当たり前の形容でしたな」


「わかったなら、ここの代金を払ってさっさと帰りなさい」


 ルージュはこれ以上の会話は無駄だとばかりに男に代金を払わせて終わろうとする。

 自分が帰ればそれで終わりなのだが、久しぶりに自分が褒められた事に気分がよくなっており、その余韻に浸って酒を飲もうと言う算段である。


「ええ。ええ。もちろんここのお代は持たせていただきますよ。ルージュさんと相席できる光栄はなかなかいただけるものではありませんからねえ」


「いいから早く帰りなさいよ」


 安酒を美酒に変える余韻に浸るには男はただ邪魔だった。

 若干のイラつきが言葉にこもったのを敏感に男は感じ取り、おべっかを使うのをやめて、貼りつけたような笑顔を消した。


「ルージュさん、復讐に興味はありませんか?」


 声を落とし、ルージュの懐へスッと入るような声音。


「……ふざけてんの?」


「いえいえ。全くふざけてございません」


「……早く消えなさいよ」


「セシリア・ローズ」


「……」


「ご存知でしょう?」


 その言葉を。その名前を。

 かき消すように。


 空になっていた安酒のボトルを叩き割り、鋭利に尖ったその先端を男の首に突きつけた。


「いい加減に消えないと殺すわよ」


 男はいつの間にか真剣な表情から元の貼り付けた笑顔に戻っていた。

 喉仏に先端が当たって、つぷりと朱の珠が浮き上がる。

 しかし全く表情を変えない。ニコニコと顔だけで笑っている。


「彼女に復讐できると言ったらどうです?」


「……復讐」


「ルージュさんが事務所をクビになったのも、セシリア・ローズが貴女のステージを汚した事が原因でしょう? そんな女をクビにするのが当然なのに貴女がこんな所にいなければいけないなんておかしくありませんか?」


「おかしいわ」


 その言葉に力はなく。

 いつの間にかビンの切っ先はクビから外れ地面へと矛先を向けていた。


 男は喉仏に浮かんだ朱の珠を正確に親指で拭う。

 処刑のガイドラインの様に線が一本首筋を疾った。


「そう、おかしいんです。ルージュさんはなに一つ悪くないのに。セシリア・ローズが全て悪いのに。ご存知ですか? 最近、セシリア・ローズはカフェでファンを増やしてライブの動員も鰻登りらしいですよ? そんなのおかしくないですか? そこにはルージュさんが立っているべきなのに」


「……少しはわかってるみたいね」


 ルージュへの肯定。

 セシリアへの否定。


 今のルージュ・エメリーが求める言葉だった。


 あの女をクビにした夜は最高の気分だった。


 でもなぜか次の日から全てが上手くいかなくなった。


「ええ。ええ。だったら貴女がセシリア・ローズから全部奪ってもなにも問題ないのですよ。なんせ元々は貴女が持っているべきはずのものなのだから」


「確かにそうね」


 ライブの失敗も。

 ルージュの怒りが上手く発散されないのも。

 周りの態度も。


「私がそのチャンスの話を持ってきているとしたらお話を聞いていただけますか?」


「聞くわ。御託はいいから本題を言いなさい。時間の無駄よ」


 全部。

 セシリア・ローズのせいだ。

 それを取り返すのはルージュにとっては当然の行為だと思われた。


「流石トップアイドルになるお方だ。決断もお話も早い」


「あんたは話が長いのよ。ルージュはさっさと要点を言いなさいって言ってるのよ」


「ええ。ええ。そうですな。私どもからルージュさんに提供できるのはアイドルバトルへの出場枠とそれに優勝するための力の提供です」


「は? なんでアイドルバトルなのよ。私はストレートのアイドルよ。そういう話はアスリート系や美しすぎる系に持ってきなさい」


 前提が崩れる。

 期待した分食った肩透かしの大きさにルージュは怒りすら忘れている。


「それがルージュさんじゃないとダメなんですよ」


「ルージュはバトルなんてした事ないわ」


 話は終わりだとばかりに右手をひらひらと振るルージュ。


「そう。それが大事なのです」


「理由は?」


 男の嬉しそうな顔に言葉に。

 ルージュは少し興味を取り戻す。


「それがルージュさんに負っていただく責任にもなるのですがよろしいですか?」


「ルージュが聞いてるのよ言いなさい」


 内容によってはまだ目がある。

 復讐。

 甘美な響きがルージュの攻撃性をちゅくちゅくと刺激する。


「私どももそろそろ裏側から表側に出ていきたいのですよ。でもね、裏の人間が表に出ようとしても色々と難しいんですよ。とても難しい。ですがチャンスがないわけじゃない。その唯一のチャンスこそがアイドルバトルなんです。あれはこの街のボス。ドン・クルーズが管轄してますからね。弱肉強食なこの街で唯一平等な機会が与えられる場なんです。勝利者には平等に名声が与えられる。そして私どもは表舞台で担ぐ神輿としてルージュさんを選んだ……」


「長いわ。つまりあんたが言うルージュが負う責任ってのはアイドルバトルで優勝してあんたの事務所から表舞台に出ろって事でいいのよね?」


 男の長い言葉をルージュは遮った。


「ええ。ええ。その通りでございますよ。流石ルージュさんですな、頭の回転が早い。いけませんね。年をとると、どうしても言葉を弄してしまう。しかしここまで素晴らしいとは。ルージュさんを選んだ私の目は口よりも有能でしたな。素晴らしいの一言に尽きますね」


「だから、長いのよ」


 うんざりとした態度とは逆に、ルージュの腹の中ではすでに決意が据わっていた。


「すみません。いやあルージュさんを見てるとその魅力でついつい口が滑らかになってしまうのですよ。で、どうでしょう? 私どものお話をご検討いただけますでしょうかね? いや、いやいや。すぐにご返答いただきたいなんて烏滸がましい事は言いませんので。それはもうごゆるりとご検討いただければと……」


「やるわ」


 あとは決意を言葉にするだけだった。


「……は! 本当ですか!?」


「ええ。あんた、ルージュの有能さを理解してるようだし。ルージュはなにをやっても無敵なのはわかってるから」


 男の甘言は酒よりもルージュ・エメリーを酔わせていた。


「流石! ルージュさんはご決断が早い! 世のトップアイドルは全て決断が早いと言いますが、ルージュさんはその比ではありませんね。すでにトップオブトップと言っても過言ではありません。まさに神速! 女神のご加護が多分に宿ってらっしゃる。その素晴らしい神速でこちらの契約書にサインをいただけますか?」


 すうと差し出されるペライチの書類。

 カウンター上の名刺にさし代わり、ルージュの前に差し出された。


「ここね? ペンをよこしなさい」


 不自然に滑らかなベニヤ板のカウンターの上を滑るペンの音だけが饒舌にバーの中に響いた。

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