番外編
番外編:男の過去
この世界は持たざる者には厳しく、持つ者に優しいのだ。
誰が言ったかもう覚えていないが、彼の信念にもなった大事な言葉。彼の核の部分と言っても良い。この言葉を胸に考え、行動しているのだから。
彼の生まれは帝都の貧民街。母は娼婦だった。父親は客の誰かで顔も知らなければ、名前もどこの誰なのかも分からない。自分という人間が生まれたのだから、父親という存在はこの世のどこかにいるのだろうが、彼にとっては居ないも同然だ。どうせ手を差し伸べてくれる事などありえないのだから。
名前も付けられなかった彼は、母から愛された記憶もない。産み落とされた時から母にとっては邪魔な存在だったからだ。だから彼が五歳の時に病でこの世を去った時は、悲しくなかった。母の死体を見ても「どうやって片づけよう」としか思わなかったのだ。
幼くして天涯孤独になってしまった彼を救ったのは、貧民街のリーダー的存在である「ブルーノ」だった。喧嘩っ早く、すぐに手が出るどうしようもない奴だったが、彼のような幼くして両親を失った孤児を拾っては、養ってくれていた。
食事などの世話をしてもらいながら、窃盗や詐欺、衛兵に見つからないように薬物を売る方法などの技術を「ブルーノ」から教わる。
彼は孤児の中でも抜きん出て頭が良かった。だから、盗みも詐欺も高い成功率を誇る。
目に見える成果は彼を「ブルーノ」のお気に入りにした。彼は「ブルーノ」の仕事について行かせてもらえた。孤児の中では、これ以上ない名誉で誇りである。鼻が高かった。
俺は他の奴らとは違うんだ。ずっと思っていた言葉を頭の中で繰り返し言って、実際に彼らとは違う待遇を受ける自分を誇らしいと思っていた。
そんなある日。「ブルーノ」により気に入ってもらえるように、彼はいつも以上に良い金づるを探していた。
貧民街の近くにある市場を見下ろせるように建物の屋根に立つ。ここは、港から運ばれてきた新鮮な野菜や果物、魚が並び、質の良い商品が並ぶ。この辺りでは見ない小綺麗な格好をした人が、外套を羽織って、人混みの中に紛れている事があるのだ。
彼は目を凝らし、一人の貴族風の男性に目を付ける。小太りで動きが鈍そうだ。人混みの中で歩くのに慣れていないようで、なかなか前に進めていない。
こいつにしよう。彼はにんまりと笑い、屋根から降りて小太りの男へ近づく。
尻のポケットに入った財布を通りすがりに盗る。簡単なことだ。
いつものように人混みに紛れて逃げようとした時。細い彼の腕を掴む者がいた。
「待て」
引き留めてきたのは小太りの男。まさかこいつ気付いたのか? 彼は焦るが、表情は冷静さを取り繕う。何だよ、と苛立たしげに言うと男は彼が胸元に入れて隠していた財布を取り出した。
「これは私のものだ」
彼は目を見開いた。こんな間抜けそうなデブに気付かれただと?
「お前、年は?」
「七歳」
素直に答えると、男は同情したような表情を浮かべ、彼を見つめる。
男の態度に彼はカッとした。お前の同情なんか要らねえ、と自分のプライドを土足で踏まれたような気持ちになる。気付けば男に殴りかかろうとしていた。
だが、彼の小さな拳は男の逞しい手に遮られている。
腕を引こうとしたがびくともしない。
「このまま衛兵に突き出しても良いんだが……私に提案がある」
こいつの話を聞く気はなかった。どうせ嘘だから。嘘を言って彼を騙し、衛兵に突き出すに決まっている。
「小姓として私に仕えろ。そうすれば、衣食住は保障してやるし、体術や勉学だって教えてやるぞ」
衣食住。今の生活では、ままならないもの。住む場所があって、綺麗な服が着れて、お腹いっぱい食べられる生活を保障してくれるって。
こんな臭くてボロ布みたいな服を着て、害虫みたいに大人からあしらわれなくて済む。
人生が――変わる。
嘘だったとしても良い。途中で逃げればいい。今、差し出された手を取らなければこんな機会、二度と訪れないかもしれないのだから。
彼は差し出された手を取ろうとした――貧民街のみんなは? 世話をしてくれた「ブルーノ」は?
こいつに言って全員雇ってもらうか? いや、さすがにそんな事はしないだろう。もし、お人好しだったとしてもあの数を雇うのは無理だ。こいつにどのくらい資産があるかは分からないが。
それにこの世界は弱肉強食。一瞬の隙を見せて、情を見せたら、喉元を簡単に食いちぎられる。みんな自分が生きるので精一杯だから。彼は決意した。七年住んだこの街を出ようと。みんなに黙って消えても、孤児はいつの間にか消えているものだ。誰も心配しない。
彼は手を差し出した。男は問う。
「お前の名前は?」
「ブルーノ」
「そうか。私はサミュエル・ツォフィンゲンだ」
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