メルチ

宝飯霞

メルチ

 ロストムという美しい青年が近所に住んでいた。絹のような輝く金髪は緩い巻き毛で、凛々しい眉毛、すっと通った鼻筋、色白、薄い唇は常に微笑みをたたえ、長い睫に縁取られた青い瞳は淫靡で、悩ましく、人々を引きつけずには置かない。


 メルチは十一歳の可愛い少年であった。その時、ロストムは十七歳だった。ロストムはいつも、自分よりも年の離れた大人たちと遊び歩いていた。大人の集団の中に、ぽつんと美しい花のようなロストムの姿があるのをメルチはよく見かけた。メルチは心の中にある強い想いを膨らまし、思い悩んでいた。それは、ロストムに対する恋の熱情である。ロストムの姿を見かける度に、メルチの小さな胸は激しい高鳴りを起こし、頭のてっぺんまで熱い血が上った。息が詰まって体が震えた。体を巡る血は熱く茹だって、メルチの頬と耳を赤く染めた。メルチはロストムを神のように尊敬し、自分の全てを捧げるように愛していた。

「あのように美しい人は、この世に二人といないだろう」

 メルチは彼のために緑生い茂る野原に寝そべって、草の青い匂いを嗅ぎながら詩を書いたり、晴れた日に外に出て、太陽の温もりを感じながら彼に触れて貰う妄想をよくした。そうしている間は、メルチの心は甘美な喜びで満たされたのだ。


 月日が流れ、ある噂が流れ初めた。その噂を耳にした、メルチは胸を抉られるような痛みを感じた。なんでも、ロストムが悪い集団と連んでいるというのだ。メルチは嘆息した。信じたくなかった。神のように美しい理想のロストムの肖像が汚されてしまったのだ。思えば、ロストムの父も悪い集団と連んでいる噂が昔からあった。ロストムが父の後を継ぐのも当然の結果なのだ。だが、メルチは、ロストムのために涙を流した。


 メルチは二十歳になった。

 この日は休日で、お祈りのために、朝から教会へ出かけていた。メルチは教会へ行くと、いつも心の中で唱える言葉がある。それはこういったものだ。

 神よ、なぜでしょうか。あなたはしてはいけないことをしました。最も美しい者をあなたは悪の世界に誘い込み、汚してしまったのです。そして未だ彼を救い出す気がないようです。あなたの罪はそれだけではありません。ロストムを悪の世界に捨て置いたままにする事は私を苦しめる事でもあります。私は、ロストムの顔を思い浮かべると、溢れる愛のために地獄の苦しみを味わいます。空腹で、飢えた子供のように内蔵を絞られる痛みに喘いでいるのです。いくら泣き叫んでもあなたは私の願いを聞き入れず、悪事に手を広げることに忙しいのです。いったい私がどんな悪いことをしましたでしょうか。強いて言えば、ロストムを今まで愛し続けてきたことでしょうか。それとも彼の幸せを毎日祈り続けてきたことでしょうか。神よ。今一度、よくお考えになってください。私はあなたを悪魔などとは思いたくありません。あなたは神なのです。神に相応しき行動をお取りになってください。私はあなたを信じております。

 この日も、いつものごとく血液の流れをせき止めるほど両手を堅く組んで、メルチは祈っていた。

 すると、突然、耳をつんざく発砲音が轟いた。信者がいっせいに立ち上がり、ざわめいた。メルチも立ち上がったが、何が起こったのかわからなかった。状況を知ろうと必死に目を凝らし、人々の足の隙間から、血を流して倒れている男の顔が見え、メルチは理解した。そして、再び銃声がして、悲鳴が上がり、メルチも身震いした。出口は銃で武装した者共によって塞がれていた。彼らはみな黒い布で姿を覆っている。メルチは彼らがどういった連中であるか直ぐにわかった。残虐性で有名な某巨大組織の組員である事は、彼らの格好を見れば一目瞭然である。メルチは運命めいたものを感じた。その組織こそ、ロストムが仲間に入ったと噂されている悪い組織だったからである。


 やがて、メルチは他の信者と共に捕らえられ、見窄らしい小屋へ連れて行かれた。そこで衣服を奪われ、裸にされ、鞭で激しく打たれた。それから、水の中に顔を沈められたり、虫を食わされ、他にも、とても口に出来ないようなあらゆる拷問を受けた。

 くたくたになって、メルチが毎晩涙ながらに死を望むようになった時、組織の連中がオレンジ色の囚人服を手に現れ、それを皆に着るよう命じた。それはメルチ達の処刑の日がやってきたことを知らせる物だった。やっと、苦しみの日が終わると、メルチは光を見いだしたような気になった。世の中には死ぬことよりも恐ろしいことがある。自分の思い描く良識や常識の通用しない世界で生きねばならないということは、死ぬことよりも苦しいことである。死によって、自分自身の尊厳が救われる場合もある。

 メルチは囚人服に身を通した。囚人一人一人に、一人の組員が付き添うことになっていた。リーダー格の組員の説明では、

「おまえ達の隣に立っている男が、おまえの首を切り落としてくれる介添え人だ」というのである。

 メルチは自分の襟首を掴んでいる奴を振り返った。黒い衣服に身を包んだ男は、黒い布で顔を覆い、目元の部分だけ見えるようにしている。その青く澄んだ美しい目と、ほんの少し覗いている若者らしい艶のある白い肌を見たとき、メルチの心臓は激しい高鳴りを起こした。身体がぶるりと震え、腹の底から熱いものが込み上げてきた。メルチは喜びのために恍惚として意識が吹き飛びそうになった。脳に甘い微睡みを催す温かい液体が注がれ、それは耳の穴から溢れて、垂れ流れ、首筋を擽りながら伝い落ちてくるのだ。

 メルチは心臓をどきどきさせながら、男の顔をおどおどしながら、しかし、慈しむように眺めた。男はメルチに凝視されたことで、不快に思ったのか、苛立たしげに目を細める。すると、彼の長い睫が目の下に影を作った。それは彼の美貌を一層引き立てる役目になった。


 ああ……。


 メルチは歓喜に打ち震えながら顔を上気させた。


 ロストム……、彼はロストムだ。

 なんという偶然だろう。メルチの心は激しく掻き乱れた。


 メルチ達は、それぞれの介添え人に付き添われて、海辺の砂浜へやって来た。海水のしょっぱい匂いが鼻を突く。波は静かに打ち寄せは引いて、白い泡を砂浜に残す。

 メルチ達は美しい海を背後にして、横に整列させられた。そして、砂の上に両膝をついて立たされ、両腕は背中に回され、手錠をはめられている。それぞれの介添え人が己の担当する囚人の襟首を掴み、空いたもう一方の手を脇差しに添えていた。牛の首を落とすときに使うような刃の長いナイフで、彼らはメルチ達の首を落とすつもりらしい。

 メルチの隣に膝を突かされている白髪の老人は、最後のお祈りをぶつぶつと呟いていた。メルチも最後のお祈りをした。そうしながら、我が背後に立って、我が襟首を引っ掴んでいる美しい人のことを考えていた。なんと強い力で襟首を握ってくれていることだろう。彼があのロストムなのだ。彼はメルチを見ている。メルチを捕まえている。彼の堅く握られた指の一本が、メルチの後ろ髪を一束巻き込んで、ぐいぐいと引っ張っていた。そのチクチクする痛みが心地良くて、メルチは緩やかな至福を感じた。

 ロストムはメルチを支配したくてたまらないのだ、だからこんなに強く襟首を掴むのだ、そう思うと、メルチは満たされた心地になり、恋のときめきのために顔が上気し、心臓が痛いほど鼓動を打って、頭がくらくらしてくる。そして、殆ど何も考えられず、意識が霧の中に漂って朦朧とした。


 やがて、組織のリーダーが合図を送り、ロストムはメルチの頭のてっぺんの髪の毛を鷲掴み、メルチの首に腕を回して冷たい刃をメルチの首筋に押し当てた。メルチは、はっと息が止まった。彼の固い腕の筋肉を顎の下に感じたとき、メルチの胸に一枚の淡い色の花びらが落ちた気がした。背中が柔らかな芝生の上に沈んでいく……。


 突如、ぶちり、と皮膚が破れ、メルチは首に強い痛みを感じた。メルチは顔をしかめた。

 ロストムはバイオリンを掻き鳴らす様に激しい動きで刃物を動かし続けた。血が一気に吹き出て、メルチは痛みと苦しみのために呻いた。呻いたところで、彼は手を止めてくれなかった。

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メルチ 宝飯霞 @hoikasumi

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