ナンバーガールに憧れて

小鳥遊咲季真【タカナシ・サイマ】

第1話

 心身ともに健康であろうとするというのは、しかしそれは贅沢な悩みというか願いであろうと小生は、はてさて、そう思うのだが、そうは思わないだろうか。なぜならば自転車や自動車に乗れば怪我のリスクはガクンと上昇し、社会に出て働くために会社に勤めれば、うつ病やらなにやらで心の病に罹患してしまう可能性はガクンと上昇する。心身ともに健康。それは、それだけで喜ばしいこと。それ以上何を望む。本当に、そのはずなのになと、小生は思う。



「センキュー!」



 それはニセンジュウゴネン、十二月の年末ライブのことであった。コロナが大流行するその何年も前のこと。小生は大学生一年生で、それはその所属していた軽音サークルの一幕。それは実のところというか、いや、これは常識的に考えて、もちろん当たり前のことなのだが、小生はセンキューなどと叫ぶキャラクターではなかった。ここでいうキャラクターというのは性格やその人のキャラクター性という意味のキャラクターであり、アニメや漫画のキャラクターという意味ではない。つまりその場の雰囲気では最悪であった。ざわざわとしていた。普段はスピッツがすきです、いや神ですみたいなことをずっと言って、イカしてる洋楽やら、邦ロックをコピーバンドしてこなかった男が、同学生とコピーバンドを即興で組んでそして最後にはセンキュー! である。好きなバンドはアジカン、ナンバーガール、スピッツです。他はあまり知りませんなどと、語ることのできる話が少なくて、それなのに飲み会やら打ち上げやらには毎回のように顔を出して出席し、会費を払って隅っこの方で一人さみしく、大勢の中で飲んでいるだけの男が、である。いや、他にもバンドは知っている。カナブーンとか、ピロウズとか、エルレガーデンとか、サカナクションとか、ユニゾンスクエアガーデンとか、バックナンバーとか。バックナンバーなんかは、高校生の時である。小生が高校生の時に、ギターやってるぜなんて、軽く言った時に、そこまで親しくない友人に学祭でバックナンバーやろう、なんて言われた事がある。誘われたことがある程度には知っている、逆に言うと何も知らないのが小生であった。



 それはちょっとその場の雰囲気がいいような気がしただけで、しかしその実は下手くそなコピーバンドをやったその時であるに、いつも下手なくせにギターボーカルばかりやる男が、センキュー! などと言ってしまったのだから、本当に最悪である。ギターは黒のボディカラーの初心者用ストラトギター。足元には税込み一万弱で買った格安の格安、オーバードライブとかしか使い方がわかっていないズームのエフェクターボードである。踏み込める選択肢が三つあるエフェクターボードだ。



「いいぞー」



 そんな最悪な状況の中、唯一手でメガホン作りながら、笑いながら返事を返してくれる女の子が居た。彼女も同じ同期、同級生である。名前は七時雨葵(ななしぐれあおい)。よく覚えている。仄かではあったが、恋心をいだいていたような、そんな気がしていたのも無関係ではあるまい。彼女は背が小さい小柄な女の子で、美人というより美少女と呼ぶにふさわしい女の子であった。小生はそれが恥ずかしくて、しかし、葵の周りの女の子も『ちょっと……』という袖を引くような反応だったので、小生はやはり嫌われていたのだと思う。それでも救われていたのは友人というか、話しかけてくれるサークル生が多く居たことだろう。部長氏にも、先輩も多くの人に声を掛けてもらえたので、ある程度は居心地悪いながらも、快適に過ごすことが出来ていた。中でも入部前に、小生のようなやつでもギターを持っても良いのかと思って恐る恐るしていた時に、優しくしてくれたのが部長氏である。部長氏は名前を皆方氏と言った。ここでは皆方氏と呼ばせていただく。



 皆方氏はサークルの文化棟に座ってサークル紹介をしていた。小生は一年生で入ってまもなくの頃で、友達が一人もできず、知り合いもできず、軽くショックを受けて大学生デビューに大失敗していたときである。学食を利用するのに通り道であった文化棟は運動部ではない、文化部ばかりが集まった文化部の部室が地下から四階まで密集している棟である。四月の終わり頃だろうか。新入生歓迎ライブをやるから見に来てくださいと、ビラを受け取ったのが始まりだったように思う。なんてことはない、演目にスピッツのコピーバンドを見つけただけである。それだけである。小生はそれだけで、のこのことそのビラを受け取り、なんか言われるままに翌日の新入生歓迎会に招かれてしまったのである。



 当日、文化棟の一階に、少しひらけたところに集められた新入生たちは、交代で地下の防音室に連れて行かれた。友達のいない、友達とは来ていない小生は案の定一人ぼっちである。話をすることもできずに、天井を見たり、指をいじったりして、その番が回ってくるのを待っていた。その時に話し掛けてくださったのが当時二つ上の先輩、皆方氏であった。彼は好青年だった。とても皆に好かれそうな、そんな爽やかな良い人であった。小生程度の人間にも話し掛けてくれるのである。優しいお方なのだ。



 小生は年を聞かれて答えた。二つ下だねと、彼は言った。名前は覚えていない。名字は皆方。サークルの部長。みんなからも、周りからも部長、部長と呼ばれていた。


「軽音サークルは初めて?」


「え、ええ、はい。お恥ずかしながら、ギターにも触ったことがありません」


「そっか、初心者だね。大丈夫。やればできるよ」


「そ、そうですか」


「好きなアーティストとかいるのかな」


「ええと、まあ、一応。スピッツとかですかね」


「ああ、良いよね」


 

 小生は知っている。この時の良いよねは、ロビンソン、チェリー、空も飛べるはずの三大良いよねなのである。ニセンジュウゴネン現在で三百曲強のラインナップを誇るそれらすべての曲ではないのだ。アルバム曲や、シングルのカップリングの良さを指していることではないことを知っている。



「バニーガールとか、好きだよ」


「めちゃくちゃいい曲ですよね! すごいわかります!」



 なんと、なんと会話の流れからどうかと思ったが、しかし小生の思い込みが過ぎたようであった。バニーガールとはスピッツ十三作目のシングル、あの有名なチェリーのビー面曲で、その後発売されたアルバム、インディゴ地平線にも収録された楽曲のことである。スピッツのライブでは定番の一曲であり、ロックなサウンドに絶妙な歌詞が、日本語の妙とも言えるような実に悦に入る事ができる一曲である。良い曲だ。素晴らしい。



 それから小生は地下の防音室、練習室へと案内された。そこには狭い部屋にドラムセットが一つ、ギターアンプーーアンプというのは音を増幅させて大きく聞くための機械。小生もこの時その存在を初めて知ったーーベースアンプ、キーボードアンプがあった。エフェクターボードを持ち込んで、置いてある人も中にはいるのだという。エフェクターボードというのは、札束とかがぎっしり詰められて裏取引されていそうなあのアタッシュケースに、ギターやベースのエフェクターというものをぎっしり並べたもののことである。主に踏んで使用する。エレキギターは普通にアンプに繋いだだけでは、普通の音しかでない。そこでエフェクターを繋いで、そのスイッチを押して弾くと、エフェクターとアンプを通して初めて、ジャーンという音がジャギーンという歪んだ音になるのだ。小生はその違いだけで、虜になった。そう過言ではなかった。初めてギターに触らせてもらったこの時の感動は、しかと覚えていて忘れはしない。恐る恐る受け取り、ストラップーーギターを肩から掛ける紐のようなやつ。これでギターを支える。カラフルなものから柄付きまで多彩に種類が存在するーーを掛けた。そしてピックーーおにぎり型の三角形の小さな、爪より少し大きいくらいの大きさ。主にプラスチック出できている。親指と人差し指で挟み、これでギターの弦を弾いて音を出すーーでギターの六本の弦を弾く。チューニングーー音を合わせることーーはすでに先輩方がやってくれていたが、改めてやり方を教えてくれた。エフェクターのように踏むタイプのチューナーがあるらしく、それが便利だと教わった。チューナーを踏むと、チューナーのディスプレイの真ん中に英字が出てきて、その下に矢印が出ている。これを赤から緑に合わせることで、チューニングするということだった。合わせ方は弦を緩めたり締めたりするペグを回すこと。これはネックと呼ばれるギターの頭についていること。そんなことも、小生は何も知らないのだなと、思った。ギターの弦が六本であること、上の太い六弦から下の細い一弦にかけてそれぞれドレミに該当するEBGDAEと音が振られており、チューニングはそれに合わせる。エレキギターの種類が、ストラト、レスポール、リッケンバッカーなどたくさんあること。音を変えるエフェクターもたくさんあり、基本の歪みオーバードライブから、ブースター、ファズ、音を繰り返すディレイ、ワウ、リバーブ、トレモロ。これを並べるのがエフェクターボード。



 ギターの演奏もいくつもあり、コード弾きという基本の弾き方。つまり和音である。ローコード、ハイコード、パワーコード。スピッツのマサムネがアコギで弾いているのはローコード、比較的簡単で基本的なやつ。ロックのリードギターが、スピッツのテツヤが弾いているのがパワーコード。どっちも弾くんだけど、イメージとしては、そのようなイメージに近い。ピロピロしているのは、プリングやハンマリング、合わせたトリル、スライドやらグリスなど派手なやつまで。



「なかなか、難しいっすね」


「まあ、あとは練習量と慣れだよ。曲を何曲かやって、覚えていくうちに覚えるよ」



 好きな曲をやると覚えやすい。なるほど。好きこそものなんとやら、ってことですかな。



 地下室での講習会が終わると、今度は飲み会だった。一同連れ立って文化棟を出発して地下鉄へ。街中へ繰り出す。予約されていた団体部屋に通された。そこにはすでに十数人が宴を始めており、そして大学生の集団飲み会初めてとなる、小生にとっては初めての飲み会が始まったのであった。

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