檸檬が降る町
花
episode1
辺りを見渡せば木々の葉は青々しく生い茂り、少しずつ体が暑く感じ始めた。
いつの間にか春はあっという間に過ぎて行ってしまっていたらしく、初夏を迎えていた。
「また暑くなるのか。」
夏が別に嫌いなわけではないけれど、だからといって夏が好きでもない。
今記憶にある夏の思い出といえば、去年の夏に隣町に引っ越してきて一人暮らしをし始めた当時、お金もあまりなくて毎日を生活するのがいっぱいいっぱいだった。それでなるべく節約したくてエアコンをつけないでいたら、熱中症で危なく死ぬとこだったという惨めな思い出しかない。だから今年は熱中症にさえならなければ、後は正直どうでもいい。時間が流れていく波に乗っていればそのまま夏は終わっていくから。
家に帰る途中にのどが渇いてきて、近くのコンビニに足を運んだ。無駄なものを見ることなく、流れるようにレモン味の炭酸水を手に取りレジへ向かった。お会計をし終わると「今感謝際やっているのでくじ引いてください。」と店員さんに言われてくじが入っている箱に手をいれた。それでレモン味の棒が付いているキャンディーを貰ったけど、なんだかレモンばかりが集まってしまって、まるでレモンが好きな奴みたいだ。でも暑くなると無性にレモンの炭酸水が飲みたくなる。コンビニを出て真っ先に炭酸水を喉に流しいれようとすると、突然腕に衝撃が走り持っていたペットボトルが地面に落ちてしまった。誰か知らない人がぶつかってきたらしい。ぶつかったなら謝れよ。一つため息をついて地面に落ちたペットボトルを拾い上げて、キャップを回したとき
「それ爆発しますよ」
と言って、どこからか俺と同じ年くらいの女の子が立っていた。爆発という言葉が気になって戸惑っている内に、手に持っていた炭酸水がキャップの口からシュワシュワと音を立てながら泡と共に溢れだした。そしてようやく気が付いた。
「確かに爆発だわこれ」
俺が持っていたのは炭酸で、振ったらあたりまえに溢れ出るに決まっている。沸々と湧いてくる恥かしさのあまり自分でも笑ってしまった。零れた炭酸水で手はベタベタするが、服には零れなかったのは不幸中の幸いだった。するとさっきの彼女が「これ良かったらどうぞ」と言って白い花柄のハンカチを俺に差し出してきた。
「すみません」
一言謝ってハンカチを受け取って濡れた場所を拭いた。
「ハンカチありがとうございました。これ洗ってお返しします」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ」
そういわれてもこういうのはちゃんとしたいタイプな俺は引き下がらずにいると、女の子は「本当に気になさらなくていいのに」といいつつも最後は折れてくれた。
「あ、後こんなのですけどハンカチのお礼にあげます。」
本当はもっと別のものを渡すべきだろうけど初対面の方だったから変な気を使わせてもいけないと思って、今ポケットの中にあったレモン味のキャンディーを渡した。すると彼女がふわっとした笑顔を見せて「もしかして、レモンお好きだったりしますか?」と聞いてきた。自分で選んだわけではなくて貰ったものだとは彼女が知るはずないためそう誤解されてもおかしくない。「いや、嫌いではないですけど」とそのキャンディーは貰ったものだと言おうとする前に彼女が口を開いた。
「ならこのあと空いてませんか?」
思いがけない一言に一旦思考が停止する。ここは断った方がいい。だって相手は初対面の女の子だ。だけど、彼女の夏を感じさせない涼しげなさわやかな笑顔に吸い込まれてしまった俺は何も考えられなくなって、彼女について行ってしまった。
行先も分からないまま彼女と二人で肩をならべながら青く生い茂った道を歩いていた。隣で歩く彼女は一緒に並ぶと小さくて可愛らしいのに、上品な顔立ちに似合った黄色のワンピースが大人ぽく仕上げられていて綺麗な女の子だった。それにほんのりと嫌みのないいい匂いがする。
「良い香りしますよね」
突然そう言われて、驚いた。俺声出てなかったよな?と自問したところで返事などないから余計に不安になっていると、
「ここ檸檬の花があるんですよ。檸檬の花は果物のレモンとは違って甘くてやわらかな香りがするんです、知ってました?」
そう言って綺麗な顔で俺の顔を覗き込む彼女に心臓がうるさくなる。心臓の音が聞こえてしまわないように落ち着かせようと檸檬の花とやらの香りを肺いっぱいに吸い込んだ。彼女の言う通り、さわやかですっきりとした上品な香りがふわりと広がった。
「檸檬の香りがすると一気に初夏を感じられますよね。夏好きならなんだかワクワクしませんか?」
「もしかして俺夏が好きそうに見えてます?」
「レモンが好きってことはてっきり夏もお好きなのかと。」
もう一度言うが決してレモンが好物ではない。それに仮に俺がレモンが好きだとしても、だからといって夏が好きなのとイコールにはならない気がする。勝手に勘違いされているようだけど、わざわざ訂正するほどでもないため何も言わなかった。
「そういえば、まだお名前お聞きしてなかったですね。私は
「
それからお互いに簡単な自己紹介をした。聞けば彼女は俺より一つ年下でこの街にはずっと住んでいて今は駅の近くで一人暮らしをしているらしい。それから彼女の実家には二匹の猫がいる話とか、五つ下の妹がいる話などを彼女は楽しそうに表情をころころ変えながら俺に話してくれる。
綺麗な顔立ちの上に愛嬌もあって可愛らしい姿を見せてくれる彼女は彼氏というものはいるのだろうか。いや、いないわけないか。そんなことを頭の中で考えていると、「つきましたよ」といわれた場所を見れば小さなアパートが目の前に建っていた。
「あの、どこに連れてこうとしてますか」
「私のお家ですが。」
この子はもしかしなくても馬鹿なのかもしれない。普通初めて会った特に男なら尚更、一人暮らしのアパートに連れて行く人なんかいない。
「さすがに家は入れないです」
「あ、潔癖症ですか?」
「そういうことじゃなくて、」
一生ポカンとした表情をしている彼女におもわずため息が出る。だけどこの際だから教えてあげないと今後が心配になるので、少し強く声を出した。
「初めて会った男を家に連れてくるのは不用心過ぎませんか?そんなんじゃいつか襲われちゃいますよ。」
彼女は「心配してくださってありがとうございます。」と丁寧にお辞儀すると何かを思いついたように目を見開いた。
「ならちょっとだけ待っててもらえますか?」
問いかけてきたくせに俺が答えを出す前にアパートの階段を駆け上ってしまった。残された俺はただただ立ちつくしかなくて、さっきよりも気温が上がったせいか顔が熱くなるのを感じる。まだ初夏だというのに昼間はそんなの関係なくむしむしと嫌な空気に包まれる。喉が渇く。そう思って手に持っていた炭酸水を飲もうとしたとき、アパートの階段の上から彼女が「お待たせしました」と叫んで、急いで階段を駆け下りて来る。
「あの、一緒にピクニックしましょう」
「ピクニック、?」
彼女はよくテレビに出てくるような大きな籠を持っていて、いかにもピクニックしたいという気持ちが溢れ出たような表情で俺の顔を見つめて来る。その顔を見たらなんだか断れなくて、流れるまま彼女とピクニックを開催することになった。
それで俺たちはアパートの近くの木々に囲まれたこじんまりとした広場にやってきた。木が夏の優しい風に吹かれて小さく踊るようにして揺れている光景が綺麗で、その自然をもっと感じたくて思いっきり息を吸った。そしたら、あの初夏を感じさせるような甘くてやわらかな匂いが体を包みこむ。
「あ、気づきました?ここ檸檬の木が成っていて花の匂いが広場中を包み込んでいい匂いがするんです。この時期の私のお気に入りの場所です。」
お気に入りの場所。なんだかわかる気がする。
檸檬の木の下にシートを敷いて座ると彼女が籠の中を探り出した。
「これ昨日作ったレモンのパウンドケーキと、レモネードです。」
「これまたレモン尽くしですね」
「私の実家にレモンの木があって毎年沢山送られてくるんですよね。それで毎回山ほど貰っちゃうからレモネードなんてすごい量出来ちゃうので、レモンお好きだと聞いてついおもてなししたくなって」
まだ俺がレモンが好きだと勘違いしてる彼女は、楽しそうに笑顔でレモネードをコップに注ぐ。
透明のグラスに宝石のような氷とレモネードの爽やかなレモン色が太陽に反射してキラキラと輝いている。
見ているだけで涼しく感じられるし、喉が乾いてくる。
1口喉の音を鳴らしながら流れていくレモネードは甘くて
時々感じる酸味がレモンの風味を味わえて凄く美味しい。レモンのパウンドケーキも沢山のレモンが使われているからレモンの味をしっかり感じられる。
「うっま」
思わず心の底から声が漏れてしまうほど美味しくてあっという間に食べ終えてしまった。
「本当にレモンがお好きなんですね。喜んでもらえて良かったです」
「あいや、…まぁ」
「じゃあ、レモン好きな夏樹くんに1つ問題です」
「え”ぇ」
突然出してくる問題に驚いたのもあるけれど、それよりも初めて名前を呼ばれたから変な声が出てしまった。
”夏樹くん”自分の名前なんて今までうざいくらい聞いてきたのに、なぜだか彼女の透き通った可愛らしい声で呼ぶ俺の名前は初めて聞いたような感覚で心臓が音を立てて動いてくる。
「檸檬の花言葉って知ってますか?」
「花言葉…貴方が好きです的な?」
「んー違います」
「答えは?」
「”心から誰かを恋しく思う”て言うみたいですよ。凄く切ないですけど、私はこの言葉嫌いじゃないです」
「…そういう恋をしたことがあるんですか」
「……はい。」
今きっと彼女はその恋の相手の顔が浮かんだのだろう。
さっきまでの無邪気な姿ではなくて、少し頬を赤らめてじっと檸檬の木を見つめている。
「私5年間片思いしてた人がいたんです」
「5年間も…?」
「結局高校卒業したら会わなくなってしまって、気持ちすら伝えることが出来ずに終わってしまったんですけどね。」
「そうだったんだ」
「あ、今はもう吹っ切れてますし好きって気持ちもありません。それに今思うと気持ちを伝えなかったことで彼との思い出を綺麗なまま残すことが出来たから良かったなって思ってます」
その”彼”との思い出が綺麗なまま残せた、という言葉がずっと頭の中にいて忘れられない。何でも気持ちを伝えることが良いこととは限らない。時には伝えないことで思い出を綺麗な形で残すことも大切なのかもしれないと思えた。そして彼女は「だけど、きっともうこれからも彼以上に好きだと思える人はいないと思ってます。私の中では1番恋した相手でしたから」と最後に言っていた。
あれから、彼女とは別れて自分の家に帰った頃には手に持っていたレモンの炭酸水は温くなっていた。1口流し入れると、炭酸が少し抜けていて何でか酸味の後に苦味を感じた。今日の楽しい思い出と共に彼女の過去の話が頭に浮かんでくる。浮かぶ度に不思議な気持ちになってしばらくぼうっとしてしまう。鞄の中に入っていた彼女の白い花柄のハンカチを思い出して洗濯機に入れ、シトラスの香りがする洗剤と共に回した。
𝓉ℴ 𝒷ℯ 𝒸ℴ𝓃𝓉𝒾𝓃𝓊ℯ𝒹
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