片翼の魔女

大瀧潤希

第1話 告白、その前からの日常

「なぁ、香音。俺は、お前のことが好きだ」


 夕闇に包まれた教室。橙と翡翠の重なった色合いが、机や床を照らす。


 ポニーテールの彼女——友利香音ともりかのんは、半袖シャツから伸びる腕で、窓を開けた。夏風が入ってきて、薄茶色の髪を揺らす。


「その……付き合ってほしい。どうかな」


 僕——青川結あおかわむすびは、緊張から震える拳を握りしめて、彼女の答えを待った。


 香音は僕の眼を見つめてきて、無表情にこう言った。


「私、あなたと、その、交際っていうのかしら……。そういうことをするつもりはない」


 僕は、一瞬で絶望というものを体感した。額に汗が流れる。


「どうしてなんだ? 僕のことが嫌いなのか?」


 そう言ってしまってから、すぐに後悔した。自分のことが気持ち悪いと思ったのだ。だってそうだろう。まるで今の自分はストーカーのように、諦めが悪い男じゃないか。相手の迷惑とか、そういうことを気にせず詰め寄って、何になる。


 香音は俯いて、目元から涙を流した。


 まずい。泣かせてしまった。咄嗟にごめんと謝る。


「私はね、恋がわからないの。というか、愛情がないのよ」


 え、愛情がない? それってどういう意味なのだろう。


 香音は涙を拭って息を吐いた。


「それはどういうこと?」


「……私はね、親から虐待を受けてきたの。こういうこと、あなたに話すべきじゃないって思うけど、でも、正直に言うね。親から毎日のように暴言や暴力をされてきた。親から愛されてこなかった。だから、私は愛情というものを知らないのよ」


 カミングアウトされたことに、僕は内心驚いていた。彼女の悲痛な過去——いや、それはまだ今も続いているのだろうか。そのことに、同情、という安っぽい言葉は使いたくないけど、そう感じた。


「これでわかったでしょ。あなたと交際しても、きっとあなたの思うような彼女にはなれない。あなたのことを、愛せない」


 ——僕は以前読んだ本に書かれていたことを思い出していた。


 親から愛されなかった子供は、他人を信用したり、愛することが難しいという。心に負った傷がそうさせてしまうらしい。


「なあ、こんなこと、言うのは間違っていると思うけど、言わせてもらう」


「なに?」


 僕は真っ直ぐに彼女の弱々しい瞳を見つめた。


「僕はたとえお前に苦しい現実があっても構わない。お前から愛されなくても、大丈

夫。——とは、まあ言い過ぎだけど、僕はお前がそうでも、全力の愛情を注ぐよ。だって、僕はお前のことが、どうしようもなく好きなんだから」


 一息にそう言うと、彼女は相変わらずの強張った表情で、「わからない」と呟いた。


「どうして? 私には魅力なんてないし、誰よりも面倒臭い女だし、そんな女の何がいいの?」


 彼女のその自信なさげな言葉に、僕は笑みを浮かべた。


「あのときのこと、覚えているか?」


 彼女は首を傾げた。それを見て、僕はある春の話を始めた。


 それは、初めて香音と僕が出会った、錆びれたガードレールが続く下り坂から、僕がこうして告白するまでに至る、四か月間の短くも長い話だ——。


  1


 僕は、周りから「お前って変わっているよな」と言われることが多くある。そして僕も、自分のことを冷めた人間だと思っている。友人付き合いも極力控えて、上っ面だけの関係にとどめているからだ。メッセージアプリなんかでも、返信はあまりせず、必要最低限のコミュニケーションにしていた。

 だって、面倒臭いから。


 そして、二年生の新学期。四月二十五日。桜の花弁がひらひらと舞う坂道。僕は俯いて歩いていた。


 ああ、学校だるいな。どうして行かなくちゃいけないんだろう。


 最初の頃は楽しかった。偏差値の高い高校に入学出来て、両親も喜んで、それでよかった。だが、いつからか現実に絶望するようになった。


 そのきっかけは何だったかな。思い出そうとしても、無理だ。だから多分、些細なきっかけだったのだろう。


 そう耽りながら道を進んでいると、うずくまっている、同じ高校の女子生徒がいた。


「——アラン・スパン・ネロン」


 唐突にその女子生徒が、何やら不思議な言葉を発した。すると、風が吹いた。


 そして、蝶の大群が彼女を包み込んだ。青いモンシロチョウだ。


「これで大丈夫かな」


 彼女は立ち上がり、スカートの裾を手でパンパンとはらった。


 そんな彼女に僕は興味がわいた。先ほどの不思議な言葉はやはり理解出来なかったが、この彼女には何か特別な能力が宿っているのかもしれない。と、考えるのはファンタジー小説やライトノベルの読みすぎかな。


「ねえ、さっきの言葉、一体なに?」


 そう問いかけると、彼女はきつい目付きで僕を睨み、さっとスカートを翻して学校の方へと歩き出してしまった。


 まだ、ここにいるモンシロチョウを眺めながら思った。


——変な女。あんな態度はないだろう。


 内心、少しむかむかとしながら、彼女の歩いた方へと向かった。



 午前中の授業が全て終わり、真面目な雰囲気が弛緩し、だらけきった空気になるいつもの教室。


 僕は購買へと向かうために教室を出る。廊下を歩いていると、両手一杯にパンを抱えて走ってきた小太りの男子生徒とぶつかった。パンが床に落ちる。


「す、す、すみません」


 必死にパンを集めている男子生徒と一緒に僕も拾う。


「大丈夫だよ。怪我はない?」


 男子生徒はまた謝り、全て拾い終えたら去って行ってしまった。


 あれだけの量を一人で食べられるのかな。だとしたら大食漢だな。


 そう思って、再び購買へと目指す。そこは一階にあるので、現在の三階から階段を使って降りないといけない。


 階段、いつも疲れるんだよな。とジジ臭いことを思いながら一段一段降りていく。


「セロメニョーセ・スパーノ」


 階段の踊り場で、今朝出会った彼女が再び何かしら唱えていた。


 声をかけるべきか、それかスルーするべきか悩んだが、これも何かの縁だろう。


「また変な言葉を使っているのか? もしかして、呪文? なわけないよね」


 そう言うと、彼女がこちらを見つめてきて、そして途端に慌て出した。


「どうしよう。どうしよう」


 そんな変な慌てかたに、僕は不安になった。だが、その不安はなぜかすぐに消えた。特別なことは何もしていない。きっかけもなかった。


「ちょっとこっちに来て」


 彼女が僕の腕を引っ張り、二階の男子トイレへと入る。休憩時間なので、男子生徒がちらほらといた。だがそれを意に介さず彼女は僕を個室に入れて、それから彼女も同じように中に入り、鍵を閉めた。


「えっ、まさか……今から始まんの?」


 外から下世話な会話が聞こえる。僕はこの状況に耐えかねて、彼女に問いかけた。


「どういうこと? 説明してくれよ」


 声を潜めて言うと、彼女は眼を瞑りまた不思議な呪文を唱え始めた。


「ロック・オン・ザ・ゲート」


 それからすぐに外の会話が聞こえなくなった。多分、男子生徒達は帰っていったのだろう。


「ねえ、一体それはなに?」


 彼女は眼を開けて、僕を潤んだ瞳で見つめてきた。


 もしかして、泣く寸前? まったく状況が理解出来ないんだけど。


「ごめんなさい。あなたに聞かせてしまった呪文は、不安をなくす呪文と、それからさっきのが人を愛する呪文なの」


「へぇ、そうなんだ。……ってなるかよ。呪文がどうとか知らないけど、そういうのって何だっけ、スピリチャル? 僕、信じないから」


「信じる、信じないは個人の勝手。でも、呪文は聞いてしまったら、その人に効果を与えてしまうの。不安の呪文は反復詠唱のものだから、今日限りだけど、さっきのは持続性のあるもの。だからあなたはこれから一生、人を愛します」


 ……そう言われて、はいそうですかとなるわけがない。彼女が言っていることは現実味がないし、まったく信用出来ない。


 僕は顔を手で覆って、うーん、と呻きを漏らした。


「ごめん、気を悪くしないでほしいんだけど……そういうのはっきり言って人に押し付けないほうがいいよ」


「そういうのって、どういうこと?」


「スピリチュアルだよ。僕はまったくそれを信じないし、見えない世界だからさ」


 そう言われて、彼女は落ち込んだのか、少し頭が下がる。


 言い過ぎたかな……;。彼女を気遣う言葉をかけようとするも、言葉が思いつかない。そう頭の中でしどろもどろになっているとき、彼女はがちゃり、と扉の鍵をあけた。


「最後に忠告してあげる。私が使った呪文はあなたに有害な作用を及ぼすものではないし、逆に幸福な将来が待っていることでしょう。でも、変な気は起こさないようにね」


「変な気ってどういう意味——」


 彼女は一睨みすると、個室トイレから出ていった。


 呆然とした。あれは何だったんだ。訳のわからないオカルト信仰者に、毒されたか?


 嘆息一つ零し、僕もトイレから出た。



 中庭のベンチ。側の花壇にはパンジーの花が咲いていて、そこにアゲハ蝶が群がっている。


 僕はそこで、購買で購入した焼きそばパンを食べていた。


 すると、肩をトントンと叩かれた。


 何だ? と思って後ろを振り返る。すると、立っていたのは小柄な女子生徒だった。右手にマヨネーズのボトルが握られている。


「マヨネーズはいかが?」


「は?」


 灰色の髪をゆらゆらと揺らし、マヨネーズの赤いキャップをあけて僕の焼きそばパンにそれを塗ろうとしてきた。咄嗟によける、


「お前、一体なにしようとしてんだよ」


「マヨネーズは神なんです。焼きそばには絶対、マヨネーズです」


「はぁ? マヨネーズは神でも何でもないぞ。馬鹿言ってんじゃねぇよ」


「馬鹿じゃないです。おっはーでマヨちゅちゅ、です!」


「そんな平成のアイドルの言葉を言うな。お前は慎吾ママか?」


 僕はしずしずと俯いた。今日は厄日か? おかしな連中に遭遇しすぎている。


「名前なんて言うんだよ」


「この子の名前ですか? マヨネーズ三号です」


「マヨネーズの名前を聞いてるわけじゃねぇ。ってか、マヨネーズの名前って何だよ」


 すると、女子生徒は小首を傾げた。「じゃあ、誰なんです?」


 それからしばし、女子生徒は無言になった。何か考え事をしているのか。すると、顔が真っ赤になって、


「マヨネーズプレイはエッチです!」


「ふざけんじゃねぇよ! どう解釈して勘違いしたらそうなった? 名前を聞いただけだろ」


 囚われている。こいつはマヨネーズに囚われている……。


「森加奈です……」


「森か……。どうしてマヨネーズがそこまで好きなんだ?」


 僕はこの女に少し、興味がわいてきていた。マヨネーズに対する愛好は偏っているが、容姿をよく見てみると、整っている。


「マヨネーズが絶対正義だからです。この世界ではマヨネーズが最高神で、マヨネーズの前では人民はひれ伏さなければなりません」


 前言撤回。なんか阿呆らしくなってきた。僕は痛くなってきたこめかみを押さえて、重苦しい息をついた。こいつに女らしさを感じていた僕が馬鹿だった。


「わかった。それでお前はどうしたい?」


「あなたのその焼きそばパンにこの神がかったマヨネーズを塗ってあげたいです」


「それでお前は消えてくれるのか?」


 童心な瞳で森は首を傾げた。「帰りますよ。あなたをマヨラー教の信奉者にしたら」


 もう文脈が合っていないが、これ以上不毛な会話をしたくない。焼きそばパンを差し出した。それに森はこんもりとマヨネーズをのせる。おいおい、あんまりにものせすぎじゃないかって思うほどで、これじゃあ焼きそばパンマヨネーズのせ、なのか、マヨネーズ焼きそばパンなのかわからない。主語の違い……。


 でも、文句を言って口論になるのが嫌なので仕方なく口に入れる。咀嚼していたが、まあ、割といけるななんて思う。でもそれを森に伝えると負けた気がするので言わない……いやいや、自分は何と戦っているんだ?


「どうです?」


「……うーん、不味くはない」


 すると、森の眼が輝きだした。マヨネーズを両手にそえて、ぴょんぴょんと跳ね出した。


「そうでしょう。美味びみでしょう。美味すぎて失禁しちゃうくらいに! さぁ、漏らしちゃってください。その姿を撮影してSNSで拡散して、面白いハッシュタグつけて全世界に——」


「僕の社会生命がその時点で途絶えるわ。お前は僕に何がしたいんだよ!」


 あれれ、いけませんか? と言ったように森はとぼける。こいつ、確信犯だな。


「ごめんなさい。私、興奮しちゃうとそういうところあるんです。SNS大好きなので」


「イマドキ女子高生はみんなそうだから驚かないが、さっきのは違うだろ。何、人が漏らしているところをSNSで拡散する、だよ。ふざけてんのか」


「ひぃぃ、怖い。謝るんで許してください。マヨネーズ一年分郵送するんで」


「そんなに消費出来るか。お前、出るとこ出るか」


「だから、マヨネーズプレイはエッチですって!」


 駄目だ。会話にならない。そう思っていると、予冷が鳴った。


 焼きそばパンが半分ほどしか食べられていなかった。しかし、このままこの場にいるのはまずい。嫌だ。だからベンチを立ち、歩きながら食べることにした。


 すると、そんな僕の前に森が立ちふさがった。


「何してんだ? 邪魔なんだけど」


「私に名前を聞いておいて、あなたが名乗らないのは卑怯です」


 卑怯って何だよ。重苦しい息を吐いて、僕は名乗った。


青川結あおかわむすびって言うから」


 すると、訝しげな表情を森が見せて、


「偽名じゃないですか? そんな可愛い名前。なんか女の子みたいですね」


 と、言った。僕はそれを聞いて少し腹が立った。僕の名前を聞いた人の第一印象がいつもそんな感じ。そんな反応、もう見飽きた。


「はいはい。もういいかな」


 校舎へ戻ろうとしたとき、森がまた目の前に立って、にこりと微笑んだ。


「仲良くしましょうね。マヨラー同盟です」


 ……なんかこいつ、憎みきれないところがある。だから僕も微笑を湛えて、


「まぁ、そうだな」


 と呟いた。森は手を差し出して、僕と握手した。「では、これで」と森が言う。


 すたすたと去っていく。その背を眺めながら息を吐いた。

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