2020年のラクダたち

@adgjmptwa1234

2020年のラクダたち

 二人は防波堤に並んで立ち、海を眺めている。空は雲一つなく、平和を象徴するかの如く青いのに対して、海は残酷な程の赤である。防波堤に波が砕ける音だけが、その空間を成り立たせていた。

「君が今考えていることを当てよう」と男が言う。女は海を眺めたまま何も言わない。「どうして海が赤いのか。そうだろう」男は得意げに言った。しかし女は「いいえ」と首を振る。男は大げさに目と口を開いて驚いて見せた。

「普通海は青いものだ。赤い海を見たら驚くものだろう、普通」

「ではわたしは普通ではないのでしょう。確かに赤い海は初めて見ました。でもわたしはこの島国から外には出たことのない、物知らずの人間です。わたしの知らない所で赤い海が存在していても不思議には思いません。もしかしたら世界には、緑や紫の海だってあるかもしれない」

「緑の海か。それもいいね。しかし赤い海を見て驚かなかったのは君が初めてだよ。うん。君は普通じゃあない。では、君が眠っていたこの四年間にどうして海が赤く染まってしまったんだと考える? おっと、プランクトンが原因ではないよ」

「難しい問題ですね。申し訳ありませんが、わたしにはとてもわかりません。だってわたしは海が青い理由も、空が青い理由も知りません。どこかで聞いたことがあったように思うのですが、全く思い出せません。でもなぜそれが思い出せないのかは、はっきりとわかります。興味がないのです。空の青さも、海の青さも。勿論赤だろうと何色だろうと、それは海で、空で、言い方は悪いですが、どうでもいいのです」

「でも予想はできるだろう。作り話でいいんだよ。どんなものでもいいから、君の仮説を聴かせてくれないか。普通でない君の」

「わかりました。そうですね……では。わたしが思うに、世界中の兵士の血が青かった海を赤く染めてしまったのだと思います。きっとわたしが眠っていた四年の間に、地球が壊れてしまう程に大きな戦争が起こっていたのです。平和主義であった日本も、自国を守るために仕方なく武器を持ちました。

 戦争が起こった最初の原因は、一本の歯でした。ハイドロキシアパタイト、簡単に言えばカルシウムやリン酸。馬鹿げていると思うかもしれませんが、一グラムのカルシウムからでも戦争は起こりました。本当にきっかけなんて、小指の爪程の引っ掛かりがあれば、なんでもいいのです。その歯は、世界中の誰もが知っている程に有名なフランスの画家の、門歯の右隣りでした。

 もうすぐ彼が亡くなってから百年になります。彼の最後は自殺でした。愛する妻と小さな娘が一人おりましたが、彼は心に病を患っており、最後までそれが良くなることはありませんでした。皮肉なことに、彼が生きている間全く売れなかった作品たちが、彼の死後には狂っているとしか言いようのないくらいの値段で売れるようになりました。そして例の歯も、わたしたちには想像もできないような値が付きました。

 なんでもその歯は、気のおかしくなってしまった彼が、自死の数日前に自分で抜いた歯だというのです。彼の死後、妻はその歯を暗所にて大切に保管していました。なぜ歯が絵と一緒に世界を巡っているのかは謎ですが、それは世界中の金を持った好事家たちの手から手へと渡っていきました。

 そして四年前、その歯を巡って一つの殺人が起こってしまいました。売値に納得がいかなかったのか、はたまた偽物を売りつけられたのか、詳しいことはわかりませんが、意味のない死があったことは確かです。……意味がないなんて、わたし口悪いですかね。思っていても、口に出して言うものじゃあないのかもしれない。仮にも人が死んでいるのだから」

 女は少し皮肉な笑みを浮かべ、続けた。

「その死に意味を見出せないのは、もしかしたらわたしが斯界に興味がないからかもしれません。わたしは本当に物知らずでして、実際その画家を知っているかと友人に訊かれた時も、それは映画監督かと訊き返して、変な空気になったことがありました。わたしはそこで初めてその画家の存在を知り、実際にインターネットで調べてみると、微塵も絵の世界に興味のないわたしでも、確かに見たことのある作品が多くありました。実際美術の教科書にもその画家の作品はよく載っており、わたしも確実に目にしているはずですが、人物名までは見ていませんでした。その友人はわたしが物知らずなことをからかってよくそんなことを訊いてくるのですが、わたしはその友人に感謝しています。その友人がいなければ、今でもわたしは自分が物知らずであることに気が付けなかったと思います。そしてあなたにも感謝しています。あなたのおかげで、わたしは普通でないと知ることができました」

 今度は女は最大限に口角を上げ、まるで歯医者に診てもらうかのように、その綺麗な歯を男に向けた。その歯には繊維質の野菜を食べた後のように、沢山のアイロニーが挟まっていた。男はばつが悪そうに頭を掻いた。

「僕は、からかっているわけでは……いや、からかっていたのかもしれない。まあしかしそれは君を少しいじめてやりたいというような、そんな感情だよ。君の友人も同じ気持ちだろう。君が普通でないというのは、僕にとっては、ということで、それはつまり僕にとって君はオンリーワンというか、なんというか――」

 男の言葉は尻すぼみになっていった。女は不思議そうに少し首を傾げ、男の顔を下から覗いた。男はそっぽを向いて口を尖らせている。男がそれ以上何も言わないので、女は再び続けた。

「しかし、ある意味本当に意味のない死は、ここからでした。その後、一本の歯を巡る未曾有の事件に世界は揺れました。実は被害者と加害者は、住む大陸も人種も全く異なる二人でして、それ故にこの事件は世界規模で注目の的となりました。被害者は黒人であり、加害者は白人でした。偶然なのか必然なのかは知りませんが、どちらにせよ、それは暴動を起こした者たちにとってはどうでもいいことなのだと思います。世界各地で起こる抗議の暴動、それを抑圧する警察。それによって生まれる無数の死。を受けての暴動。の鎮圧を命ずるお偉い方々。動く警察。そして生まれる続ける死――。

 繰り返しになりますが、きっかけはなんでもいいのです。今回は一本の歯だったけれど、もしかしたら一本の髪の毛だったかもしれない。違いはありません。

 あっという間に事態は肥大し、もはやなにに対しての暴動なのかもわからぬ程でした。一本の歯が一人の命を奪い、それが多くの人の怒りとなり暴動となり、いつの間にかそれはクーデターとなり、そして今度は国を飛び出し戦争となった。一本の歯から食糧や資源の安保問題、人種や宗教の違い、政治や経済的理由にまで発展しました。あははは。もはや喜劇ですね。誰も予想だにしない方向に面舵一杯。あっはっはっはっ。

 海が血で染まる程だから、相当の人が亡くなられたのだと思います。今は戦争の直後だから、海の色は水を混ぜない絵具のように濃いですが、これも時間が経てば時期に薄れていくことでしょう。広島の原爆ドームはその時のままあり続けますが、この海は、元の、わたしたちがよく知る海の色に戻るのです。しかしそれは決して良いことではありません。なぜなら同時に記憶も薄れていくからです」

 女が話終えると、いつの間にか消えていた男が、これまた気付かぬうちに女の隣に立っていた。僕はずっと隣にいましたよ、と澄ました顔が言っている。前を向いて暫く話していた女は、男に顔を向けた。それを合図に、止まっていた時間が再び動き出したかのように男は話し出した。

「即興でこれとはたまげたな。君は本当に普通じゃあない。勿論いい意味でだ。君は小説家にでもなるべきだ。才能があるよ。

 しかしなかなかグロテスクな発想だね。死んでいった兵士の血か。これぞ普通じゃあない人間の発想、と言いたいところなんだけど、意外にもこれが正解に近いんだ。

 実はこの海の赤は、海神の血の色なんだ。なかなか綺麗な色をしているだろう。実は海がこのようになってから、早くも一年近くが経とうとしているのだけれど、薄れるどころか、これからも永遠にこのままなんじゃあないかと思う程に、その美しさを保っているんだ。君の作り話では時間が経てば薄れていくと言ったが、現実ではどうだろう。むしろ月日が流れるごとに、赤が濃くなっているようにも感じる。僕は時々、元の海の色を忘れてしまいそうになるんだ。僕が生まれた時から海はこの色だったと錯覚してしまいそうになる。

 君は海の色も空の色もどうでもいいと言ったが、僕にはとても重要なことのように思える。たまには海の青を、緑に変えてみたいとか思うかもしれない。しかし僕らは元の海の色を重視してしまうんだ。僕がそう思いたくなくても、そう思ってしまうんだ。

 君は神の存在を信じるかい? 僕はこの目で見たものしか信じないと決めているんで、神の存在は信じていない。ではなぜこの海の色を神の血だと言うのかといえば、この血を現在進行形で流している、ある者についての話をしなくてはならない。その者は今、太平洋の比較的日本に近い場所にいる。人型をしているのだけれど、その大きさが異常なんだ。世界最大の生物と言われているシロナガスクジラに対してさえ、その者は比じゃあないくらいに大きい。ある学者によれば、その生物を海から上げたとしたら、海の水位が一気に下がり、地球の環境が一瞬で危機的状況に陥る程だという話だ。性別は女だそうで、出血が体のどこからなのかはまだはっきりしていない。人間に置き換えて、それがどの人種に当てはまるのかもまだ研究が及んでいない。その生物が確認されてから一年以上経った今も研究は大急ぎで進められているが、人類にとってこんなことは初めてで、きっと時間を掛けてじっくりと進めていく必要があるだろう。第一海に沈んでいたとしても、そんなに大きな存在がなぜ今まで確認されなかったのかが謎である。それに呼吸や栄養補給はどうやって行われているのか。これから研究者たちによってその生態系が明らかとなっていくのが、僕は今から非常に楽しみであるのだ。

 人魚でもない、セイレーンでもない、巨大な人間……とも違う。我々は新しい生命体に出会った時に、名前を付けなければいけない。しかし今のところ、専門用語的な呼び名はあれど、これといってはっきり名前があるわけではないんだ。なので我々一般市民はその生物を、海神と呼んでいるというわけだ。と、ここまでが君が眠っていた間に起こった本当の話だ。ここからは僕の仮説を聴いてくれないか。君の仮説を聴いたら、僕も話してみたくなったんだ。なんせこの一年間ずっと、誰にも話すことなく僕の中で温めてきた物語だからね。

 想像しがたいかもしれないが、海神の大きさは、優にこの日本という島国を飲み込んでしまう程だという話だ。そこで僕は、この世の地震や津波なんかは、この海神によって引き起こされてきたものなんじゃあないかと思ったんだ。彼女が背中を掻けば津波が起こり、海底に足がぶつけてしまえば地震が起こる。そしてそれは、人間にとって大きな被害を及ぼす。それをわかった海神は、きっと自殺を図ったんだ。この仮説は都合が良すぎるかもしれないがね。しかし海神は大きさは異常であるが、人型をしている。我々と同じように高い知能を持っていてもおかしくない。

 自殺の方法はこうだ。海の生き物に、自分の体を食い破ってくれるよう指示したのだ。しかしそれでも彼女は死ぬことができない。酸素がなくても息は続くし、海を染め上げる程の出血があっても死ぬことはできない。しかし彼女は、意識はないけれど、心臓は確かに動いているそうだ」

 男が話し終えると赤い海も青い空もが消え、全てが暗闇に包まれた。そういえばいつの間にか女もいなくなっていた。再び明るくなった時には先程の二人はおらず、今度は女が五人、布を纏っただけの原始人のような格好で、サイケデリックな音楽と共に現れた。そして物語は続いていく――。

 

 一区切りが付いたタイミングで隣に目を向けると、桑村さんは腕を組んで椅子に体を沈め、静かに眠っていた。舞台では女たちが妙ちくりんに踊っており、その動きに合わせ、使える色は全部使いましたとでも言うような照明と、奇妙な音楽とで演出をしていた。次々に変わる照明が桑村さんの顔を照らす。本人は、自分の顔の色をこんなにもいじくりまわされているとは知らぬ様子で、実に気持ちよさそうな様子で眠り続けている。桑村さんは目を閉じると睫毛の長さが際立って、それが僕をなんでか少し苛つかせるので、できるだけ僕の前では目を開けていてほしかった。

 幕が下がると同時に拍手が起こった。僕も桑村さんの目覚まし代わりに、大きな拍手を送った。それで驚いたように目を覚ました桑村さんは、口の端の涎をスタジアムジャンパーで拭った。色の落ちた、膝に大きな穴の開いたジーンズと、随分古そうなそのスタジャンを見て、改めて僕と桑村さんの組み合わせは奇妙なものだと思った。僕はスティーブ・ジョブズに倣って毎日同じような服を着ているが――決して服のセンスがないから、いつも同じパターンに陥っているわけではない――桑村さんは、時代も大きさも一回りずれているような感じの服をいつも着ている。しかし、そのオーバーなサイズと古臭いファッションが様になっているから不思議である。

 外に出るともう日は落ち、少し肌寒かったが、暗くなっても凍えないあたりが、完全なる冬の終わりを告げていた。僕と桑村さんは、適当なバーに入った。店の奥にはダーツとビリヤードが置かれている。時間が早いからか、客は僕ら以外にいなかった。僕はこういう店の雰囲気がわからず、とりあえずいつも通りビールを注文したが、桑村さんは店員に人懐っこく話し掛け、一杯目に何を飲むかを相談して決めた。

「それなんていうお酒ですか」

 僕は元来人見知りで――これはもう治ることがないと諦めてさえいる――店員とはあまり口を利かず、桑村さんの方ばかり向いていた。男二人で隣に座りながら、しきりに顔を見て話すのはなんだか気持ち悪かったが、これ以上桑村さんと店員の話が弾んでは僕の行き場はなくなると、子どもみたいなことを考えていたら、そうなった。

「ジントニック。なんか聞いたことあるよね。俺あんまりこういう店来ないからわからないけど。普段はビールばっかりだから、たまにはいいね」

 二人は軽くグラスを合わせ、乾杯した。

「ずっと寝てましたね」

 僕は思い出して、少し笑いながら言った。上演中からずっと気になっていたけど、別に口に出す程のことでもないから言わないでおいたのに、酒を飲んだら自然に言葉が出てきた。それはあまりに僕の意志とは無関係に感じられ、驚いた。僕の言葉を軽く無視して桑村さんは言った。

「俺、演劇って随分昔に一回だけ観たことあったけど、あんなに静かだっけ、空間が。唾を飲み込む音も聞えてしまうくらいに、演者の声以外はなにもなかった」

「演者の声が全てじゃあないですか」

「まあ、そうなんだけど。静かすぎてなんだか居心地が悪いというか、俺には向いていないかもしれない」

「逆ですよ。居心地が良すぎて向いていないんじゃあないですか。気持ちよさそうでしたよ、とっても」

 桑村さんは横顔で笑って見せた。桑村さんの怒ったところを見たことがないのをいいことに、桑村さんの前だけは生意気な口を利いてしまう。

「それにしても、正直よくわからなかったな。寝てたからって言われればそうなんだけど。なんだか高校の時の世界史の授業を思い出したよ。興味はあるんだけど、どうしてだかいつの間にか眠ってしまう。で、結局どういう話だったの」

 僕はそれには答える前に、グラスに口を付けた。ここのビールは普段飲んでいるものの倍の値段がしたが、違いはよくわからなかった。強いて言うなら、少し苦い。

 そこで若い二人組の女が入って来た。一人は金髪で派手だが、もう一人は落ち着いた感じの黒髪で、随分とタイプの違う二人が一緒になっているなと思った。そして、自分たちもそう見えているのかとぼんやり考えた。腕時計を見ると、針は八時半を示していた。女たちは常連なのか、店員に軽く挨拶を済ませると、注文した酒も待たずにダーツを始めた。桑村さんの目が金髪の方のふくらはぎを盗み見ているのに、少し呆れた。

「戦争のメタファーが所々に散りばめられていましたね。かなり直接的、というかもうそのままの内容でしたけど。でもあれ、メッセージ性を持たせたいのかもしれないけれど、かなり無理やりな感じはしますね。それに、言いたい事やりたい事が沢山あるのはわかるけど、あれこれ盛り込みすぎて一番伝えたいことがどこにあるのか――って、聞いてます?」

「なあそんなことよりも、どっちがタイプ? あれきっと二軒目だろ。もう出来上がってる感じだよな。黒髪の方、ああ見えて結構――」

「そんなことって、桑村さんが訊いてきたんじゃあないですか。興味ないなら、なんで急に演劇なんて……僕もう帰ります」

「まあ、そんなに怒らないでよ。和樹って本当、……まあ、いいや」

 僕は冗談のつもりだったけど、桑村さんは意外にもジャンパーを羽織って、残りを一気に飲み干した。そして、いつの間にか吸っていた煙草を惜しそうにもう一吸いして、灰皿に押し付けた。二杯目を飲み終えたところだったけれど、今日は早めに帰ることにした。桑村さんが財布を出そうとしたけれど、僕が払った。桑村さんが早々に切り上げたのはきっと、今日がいつもと違って、安い居酒屋じゃあないからだとわかっていた。桑村さんは最初から払う気なんてないと見て、別に僕もそれで構わなかった。

 駅までの道、僕らは上機嫌だった。会話こそ少なかったが、二人とも程良い具合にほろ酔いで、それぞれが別のことを考えて歩いた。僕は、桑村さんがいつもポケットに手を入れて歩くのを真似て、少し早めに出したスプリングコートに手を入れて歩いた。

「今日泊っていい?」

 唐突に桑村さんが言ったので驚いた。

「生憎僕、桑村さんより、さっきの金髪の女がタイプです。僕ゲイじゃあないし」

「あれ、お前も金髪? 意外と派手目な感じが好きなのね。って、泊るってそういう意味じゃあないよ。俺もお前みたいな骨と皮でできたようなのじゃあなくて、肉好きのいい女の子が好きだから」

「スタイリッシュって言ってくださいよ。筋肉付かないの少し気にしてるんですから」

 それからは会話もなく、キャッチも無視して歩いた。駅に入ってからも桑村さんは僕について歩くので、本当に家に来るのかと少し戸惑ったが、まあ別にいいか、と諦めた。この時はなぜだが桑村さんになら、なにを見られてもいいような気がした。別に、なにかあるわけではないのだけれど。

 最寄り駅で降りて、コンビニエンスストアの前を通りかかった時に、桑村さんが「飲み直そうぜ、明日日曜だから学校ないでしょ」と僕の腕をコンビニの方へ引っ張った。「明日バイトなんですけど」という僕の声は届いていないようだった。適当に酒と、つまめるものをレジに持っていくと、今度は桑村さんが払った。ついでに煙草も買っていた。

 桑村さんは部屋に着くなり「学生のくせに、いい部屋住んでるな」と苦笑いで、僕の頭を小突いた。少し酔っているのかもしれない。僕は外に出て歩いたら、全く酔いが醒めてしまっていた。桑村さんはいい部屋だと言ったが、田舎育ちの僕からしたら、僕が住めるような東京の部屋はどこも狭すぎて、良いも悪いもあったもんじゃあなかった。僕は初めてこの部屋を見た時、狭くて縦長だから、棺桶と名付けた。だからここから起き出て、ここに帰還する僕は、もしかしたら吸血鬼かもしれなかった。

 桑村さんは本棚と、それに入りきらなくなって床に積まれた本を一瞥して「音楽は聴かないくせに、本は読むんだな」と呟いた。

 僕らは缶ビールを開けて、軽く乾杯した。桑村さんがスナック菓子で汚れた手をジーンズで拭うのを、僕は目を細めて観察した。桑村さんがその手でテレビを点けてみたら、電車での人身事故が速報していた。

「これ、桑村さんの家の方面じゃあないですか」

「あらら、これじゃあどのみち電車止まってたし、帰れなかったかもしれないな。復旧ってどのくらい掛かるんだろう」

 速報の他には、未だ真実は謎に包まれているというケネディ大統領暗殺事件について、そして打って変わって、ほのぼのと料理の裏技を紹介していたりした。一通りチャンネルを回したが、特に見たい内容がなかったのですぐに消した。

 それからは他愛もない話をいつまでもした。この時の僕は、明日のバイトのことなど全く頭から抜けていた。大体は桑村さんが質問をして、それに僕が答えた。桑村さんはあまり自分のことを話さないけれど、本当に自分の話をしたい人は勝手に喋り始めるので、僕から質問をすることは少なかった。何回か桑村さんの携帯電話が鳴ったが、それに出る様子はなかった。僕もそれについては、なにも言わなかった。五回目くらいでやっと画面を確認したが、それは電源を切るためだった。桑村さんは、僕が煙草を進めても頑なに吸わなかった。「清潔な部屋で吸いたくない」と変に気を使うので、僕も一本貰って吸って見せた。慣れない手つきで火を着け、煙を吸い込むと、案の定思いっきりむせた。煙草は正直好きではなかったし、一生吸うことはないだろうと思っていたが、桑村さんが笑ってくれたので、それでよかった。一口しか吸っていない煙草の残りは、桑村さんが引き取った。

 お互いに欠伸が増えてきた頃、気が付くと腕から外されて机に置かれた腕時計は、深夜三時を回っていた。僕の部屋にある時計は、これだけである。くだらない話ばかりで大いに盛り上がることはなくとも、永遠に喋れると思える程に、僕らは充実した時間を過ごした。桑村さんと僕の関係は、友達と呼ぶにはむず痒いけど、特にそれ以外に当てはまる言葉がないような、不思議な関係だった。

「そろそろ寝るか。明日バイトあるんだし」と桑村さんは伸びをした。僕は別に酒が強いわけではないから、その時間にはかなり酔っていて、確かに強い眠気に襲われていた。「バイトのことわかってんなら、最初から誘わないでくださいよ」と僕の口調は酒に任せて乱暴になった。

 桑村さんに、そのままベッドで寝ていいと言ったけれど、また「清潔な部屋を汚したくない」と言って、シャワーを浴びに行った。桑村さんに適当な着替えを用意したところで、僕は力尽きてカーペットの上で、先に眠ってしまった。机の上の空き缶やごみを片付ける気力は起こらなかった。

 翌日目を覚ましたのは、もうすぐで昼の十二時半になろうとしている頃だった。アルバイト先はここから自転車で十分のところにあるスーパーで、運がいいのか悪いのか、今日のシフトは一時からだったので、急げばぎりぎり間に合う計算だった。アラームをかけ忘れたことを後悔しても、もう遅い。僕は重い体を起こして、シャワーを急いで浴びた。髪も、髭の剃り残しも、気にしている余裕はなかった。

 桑村さんはベットで静かに眠っている。毛布にくるまる姿が、芋虫を連想させた。座卓の上には、昨夜の空き缶とその他のごみとが別にまとめられていた。そんな様子を見て桑村さんを起こす気にもなれず、しかし時間は迫っているので、鍵を座卓の上に置いて家を出た。

 今日も、当たり前のようにいつもと同じ特徴のない服を着ていたが、床に落ちていた桑村さんのスタジアムジャンパーが目につき、黙って拝借した。全身を鏡で確認しなかったので気が付かなかったが、結構サイズが大きくて、手が半分程隠れてしまうことに自転車を漕ぎながら気が付いた。しかしそれは桑村さんが着ていた時も同じだったような気がする。青に黄色のラインが入った襟付きのジャンパーは、僕が絶対に選ばないようなデザインで、だから気分は少し高揚していた。煙草と埃を思わせる匂いがして、それはあまりいい匂いではなかったが、古臭くて少しよれたその着心地は最高だった。

 

 どこに行っても人の多い東京にも、粋がっているような奴らしかいない大学にも、良いのか悪いのか慣れてきた頃、僕は桑村さんと出会った。当時はその奇妙な出会いがとても不思議に思えて仕方がなかったけれど、今となっては全くの必然のように思える。僕がその日に限っていつもと違う帰り道を使ったことも、桑村さんの靴が片方なくなっていたことも。

 それは蒸し暑い夏のことで、僕はバイトの帰り道、夜風に当たりながら自転車を漕いでいた。入学してから大学にバイトに大変疲れていたけれど、蝉の鳴く頃には淡々とタスクをこなしていくみたいに、段々と日々の生活にも余裕が出てきていた。

 僕はたまに、道理から少し外れた意味のないことをするのが好きだった。例えばその日、いつもよりも少し遠回りをしてみたのもそうだった。雨の中をわざと傘をささずに歩くとか、懸命に生きている罪なき小さな蜘蛛を、意味なく靴で踏み殺すとか。普段比較的真面目に生きているせいもあるかもしれないが、時々衝動に駆られて道理を踏み外したくなるのだ。ただ僕が踏み外すことのできるのは、いつだってすぐに修正できる範囲の話だった。

 だから桑村さんを初めて見た時、その道理からの逸脱に、さすがここは東京だなと感嘆したのを覚えている。桑村さん――その時は全くの他人であり、勿論名前も知らなかったが――は僕の家のアパートの前、街路灯の下で、頭から血を流して横たわっていた。僕はすぐに桑村さんに駆け寄ることはせず、まず状況整理というか、自転車に跨ったままでその様子を観察した。今から考えるとその時の僕はなぜかとても冷静で、でもその場合は早く駆け寄るべきだったのだろうと、今になって思う。街路灯がその横たわっている体を照らす。倒れたというよりは、ただ横になって眠っているという表現の方が正しいような、安らかな感じがした。頭の血がなければ、ただの酔っぱらいだと無視をしていたと思う。近くにはケースに入った、ギターなのかベースなのかわからないが、それも一緒に横たわっていた。そして靴を片方なくしてしまっている足は、なぜか感傷的に見えた。道に靴がぽつんと片方落ちているのを見ると、頭が勝手に嫌な妄想をしてしまって少し気が落ちるのと同じように。だってこの国で靴は、常に足か玄関か靴入れにあるべきなのだから。

 僕は冷静に自転車を降り、桑村さんに声を掛けた。僕はこの人が危機的状況にいるわけではないと心のどこかでわかっていたのか「左足の相棒が逃げてしまいましたよ」と、ふざけた文句で肩を揺すった。顔も声も至って冷静なのに、言っていることは頭がおかしくて、真顔の僕は心中で苦笑した。多分これも、道理から外れた意味のないことのひとつなのだ。

 すると「相棒……?」と桑村さんが眠りから覚めたかのように、目を開けた。目にかかった前髪がいささか邪魔そうでもあるが、やはり鼻に沿って垂れた血の方が気になった。しかしその血はハロウィンの仮装のように、どこか作り物めいて見えた。もう出血は止まっているようで量もそこまで多くはなさそうだったし、全然大したことはなかったと、僕は自ら面倒事に巻き込まれに行ったことを後悔した。ただの酔っぱらいが電柱にでも頭を打っただけなのかもしれなかった。少し下がり気味の目が、ゆっくりと僕を捉えた。

「血、出てますよ。頭から」と、今にも再び目を閉じてしまいそうな桑村さんに、もう一度呼び掛けた。それでようやく桑村さんは体を起こした。何が起こったんだというように、辺りを見回している。

「相棒が逃げた? あいつはホーミーでもガールフレンドでもない。それに俺が逃げて来たんだ。あんな奴なんてもうどうでも、……それよりあんた誰?」

 少し目を細めて「なんなんだ?」とでもいうように桑村さんは僕を見つめている。確かに僕は「相棒が逃げた」と言ったが、それを今ではすごく後悔していた。元より意味の分からない状況を、僕はさらにややこしくしてしまったらしい。

「僕は坂上和樹です。相棒っていうのは、あなたの左の靴が逃げたことを言いました」

 桑村さんは目を丸くして、伸ばしたままの足にゆっくりと目を向けた。

「お前、靴のことを相棒って呼んでいるのか。確かに左足の靴が――いや、相棒がいない」

 桑村さんはそう言って、息を漏らすように笑った。僕は靴を相棒と呼んだというより、二つで一つのセットである靴だから相棒と言ったのだけれど、それについての訂正はしなかった。この人のことは全く知らないが、この人はきっと普段から、道理から外れた人なのかもしれなかった。だから僕がなにか言うと、この人はややこしい方に舵を切って、なかなか話が進まないように思えた。僕はわざとそういう方に行きたくなることはあるが、この人は無意識にそっちに進んでしまっているような気がした。

 桑村さんは先程まで一緒に寝転んでいたケースからギターを取り出し、それを胡坐の上に乗せ、チューニングを軽くすると僕に向かって言った。

「坂下和樹、夢はあるかい」

 そう言う桑村さんの膝にばかり目が行った。桑村さんが胡坐をかいて初めて気が付いたが、ジーンズの膝には大きな穴が空いていて、どこまでも広がる青空に数本の飛行機雲が引かれるように、僅かな白い糸が心もとなくそこを横切っているだけであった。

 初対面のこの人が素面なのかそうでないのかは知らないが、わかったことは、いよいよ面倒事の渦に体がもっていかれそうであるということだけだった。それと、この人は僕のことを下に見ているようだったが、もう訂正する気力もなかった。僕は観念して、硬い地面に腰を下ろした。

「はあ、夢は学校の先生になることですけど……」

「教師か……まあつまらない夢だけど応援するよ。夢も感情もない、アリンコのような人間に比べればまだいい」

「はあ、どうも。あのそれより、血が出てますけど」

 僕は自分の頭を指差して、出血を指摘した。

「そりゃあ人間だからね。殴られれば血も出るさ。このギターで殴られたんだ。咄嗟に避けなければ、俺は今頃お陀仏だったかもしれない。そう、女は力がないからと油断するのはいけない。すぐに包丁を持ち出すからな。まあ今回はギターだったけど」

 桑村さんはそう言って、ギターを二度叩いて笑った。その手にエレキギターは、不愛想に鈍い音で返事をするだけだった。こうして、街路灯をスポットライトに、僕だけのための小さなライブが始まった。

 響かないギターと、たまにかすれる桑村さんの声が、その瞬間は確かに東京の片隅に存在した。乱暴なのか優しいのかわからぬ声が、ビートルズのレット一トビーを歌った。普段全く音楽を聴かない僕は、この曲が誰の曲かもわからなかった。後になって、なんとかインターネットで探し出したのだった。調べてみてわかったのだが、その時に桑村さんが歌った歌詞は結構適当だった。それでも桑村さんの声はとても魅惑で、僕は口を閉じるのも忘れて聴き入ってしまった。先程まで路上にだらしなく寝転んでいた人と、今目の前で歌う桑村さんは、全くの別人のように思えた。

 その後桑村さんは、ドントレットミーダウンを感情を込めて歌った。「ドントレットミーダウン」と曲中に数え切れない程言うので、覚えようとしなくても、メロディーと共にそのフレーズが僕の頭に焼き付いた。

 それから桑村さんは、エドシーランのパーフェクトを歌い出した。桑村さんの選曲は謎であったが――思いついた曲を適当に歌っていたのだろうが――友人に洋楽好きな奴がいて、この曲は知っていた。そいつは、カラオケに行っても洋楽ばかり歌うので、いつもブーイングが起こってしまうということだった。僕は流行りの曲も知らないし、音痴であるしで、カラオケにはあまり行ったことがなかったが、そいつの為に何度か付き合ったことがある。僕は歌わないどころか、盛り上げもしない、ただそこにいるだけであったが、彼はそれで満足な様だった。

 しかし僕らだけの世界は束の間で、街路灯の下で座り込んでいる僕らに向かってクラクションを鳴らす車に、飲みの帰りか、やけに煩い声で話すサラリーマン風の集団に、僕らの空間はいとも簡単に破られてしまった。こんな時に、東京の猥雑さを感じてしまう。僕の郷里では、夜に車は殆ど通らない。バリバリというバイクの音が、遠くの国道から微かに聞こえるだけだ。そして極めつけに、僕らに声を掛けてくる者があった。僕らというより、主に桑村さんにだ。

「桑村! 探したんだよ、もう」

 夜なのに甲高い声で話し掛けてきた女の声に、桑村さんは驚いたように振り向いた。いつの間に近づいてきていたのか、僕らは腰に手を当て仁王立ちするその女が話し掛けてくるまで、その接近に気が付かなかった。女はタンクトップに、僕のボクサーパンツよりも短いようなショートパンツ姿であった。茶色に染めた髪が、鎖骨に触れそうで触れない。部屋着なのだろうが、僕は慣れない女の肌に、咄嗟に目を逸らした。

「すみません。こんな夜に。――いやっ!血、出てるよ。それ、もしかしてわたしが」

 女は僕に一言謝ってから桑村さんの腕を掴んで抱き起そうとして、額から垂れている血に気が付いた。僕はもうその血にすっかり慣れてしまっていて、女が指摘するまで存在も忘れていた。それは、元から顔に刻まれていたタトゥーで、まるで桑村さんの一部になってしまったかのようだった。

「いや、さっきこいつと喧嘩してさ、少し怪我しただけだから。な? でもほら、音楽の力で仲直りしたから、もう大丈夫」

 桑村さんは僕に笑いかけてきたので、僕も一応笑顔を作った。多分、口角を糸で釣り上げたような、ぎこちない笑顔だったと思うが。女は疑いと困惑の目で、桑村さんと僕を交互に見た。そして桑村さんの前髪を除けて、傷を確認した。その二人の距離感は、完全にアベックのそれだった。先程までは「あんな奴なんてどうでも」と投げやりに言っていたくせに、女の前での男の立場は弱いなと僕は苦笑する思いであった。

 女は先程よりも丁寧に頭を下げ、桑村さんに「ほら、行くよ」と早くギターを片付けるように促した。女が頭を下げた時に胸の膨らみが直に見えて、なんて無防備な人なんだろうと、勝手に動揺してしまった。

 去っていく二人の後ろ姿を見つめながら、僕は彼らのことをよく知らないのに、なんでかすごくお似合いの二人だと思った。不思議な時間だったなと思いながら、僕も自転車をアパートの玄関横に立てかけた。最初は面倒事に自ら関わってしまったと後悔したが、桑村さんの歌声はとても素敵で、確実に僕の胸に深く沈んだ。きっとギターを弾いて歌を歌うのが仕事なんだろうと思った。

 僕の部屋は一階で、鍵をさそうとしたところで、足音が近づいてくるのが聞こえた。首だけでそちらを見ると、歩いて行った桑村さんが再びこちらに向かって軽く走って来る。

「これ、都合良かったら来て。一時から。そんじゃあ、おやすみ」

 目を細めてそれだけ言うと桑村さんはまた軽く走って、待っていた女と並んで歩き始めた。胸に押し付けられた紙に目を落とすと、それはライブのパンフレットのようだった。桑村さんの歌声が、また耳に蘇った。それは熱く燃え盛る炎のようでいて、中心には青がぎらぎらと揺れていた。

 

 桑村さんのバンドは、午前一時からの出番だった。沢山バンドの名前が書かれている中で、そこだけペンで印をしてあったから、たぶんそれが桑村さんのバンドなのだろうと理解した。こんな遅い時間でも起きている人間がいて、そこに今日は僕も交わるのだと思うと、なんだか不思議な気持ちであった。僕は普段十一時には寝る支度をして、そこから一時間は本を読んで気持ちを落ち着かせるのだった。そして今日は十時にはやることを終えて、まだ時間があるなと時計を見ずに本を読んでいたら、迂闊なことに、予定出発時刻を大幅に超えてしまっていた。

 地下に続く扉を開けると、思わず身が縮む程の爆音が体に響いた。売れないバンドのライブだからと高を括っていたが、ライブハウスは想像していたよりも大きな会場だった。このような場所とは縁のない人生であったから、はっきり言って僕は少し怯えていた。入り口で貰ったドリンクチケットでビールを飲むと、少しその気持ちも和らいだような感じがした。驚いたのは、皆が同じTシャツを着ていることだった。僕と同じく後ろの方で落ち着いてドリンクを飲んでいる中には着ていない人もいるにはいるが、なんだか僕は場違いに思えて、入って早々に後悔を覚え始めていた。そのシャツは、黒地に白い文字で「バッド・ナイス・デイ」と力強く、書道のように書かれていた。なぜ英語をカタカナして、それをさらに毛筆で書くのかと、どうでもいいことを考えてしまった。それが桑村さんのバンド名であることは、パンフレットを見て知っていた。いかにも適当な感じのする名前であったが、大切なのは曲だろうと、それ以上「バッド・ナイス・デイ」という名については考えないことにした。

 眼鏡を忘れてしまったのは迂闊だった。前に行くには勇気がいるが、この距離だとステージにいる人の顔は見えない。眼鏡は、映画を観る時と、車を運転する時には必須だった。初めてのライブだったので、次からはちゃんと持って来ようと思った。次があればの話ではあるが。

 しかし歌声は、あの夜聴いた桑村さんの声ではなかった。それに、顔ははっきりと確認することはできないが、ボーカルは白に近い金色の髪をしていた。それでは、その隣でギターを弾くのが桑村さんだろうか。ステージから落ちてしまう程に前に出て演奏しているその人の背格好は、確かに記憶の中にある桑村さんと一致した。僕は、桑村さんがボーカルでなかったことが意外だった。正直、今歌っているボーカルよりも、あの夜に聴いた桑村さんの歌声の方が、僕の心に響くなにかがあるような気がする。というよりも今の演奏は、僕にとっては白目をむいてしまいそうな程に、音の刺激が強かった。僕は大きい音が苦手であった。これがロックンロールというものなのだろうか。

 ボーカルは狂ったように歌う。それに応えるように、皆が手を上げて飛び跳ねている。なんだかすごい世界で、僕は、たぶんこれを見るのは最初で最後になるだろうと、その光景を目に焼き付けた。沢山の後頭部が上下に跳ねるその様子は、昔ゲームセンターでやったもぐらたたきを思い出した。こんなにもぐらが密集していたら叩き放題じゃあないかと、どうでもいいことを考えてしまった。それにしても、音と振動で視界が歪むようだった。もう一度あの夜の歌声に会えると淡い期待を持って来てみたが、この時には既に帰りたいような気がしていた。そんなことを考えていると、いつの間にか曲が終わっていて、ボーカルが話し始めた。

「長いようであっという間でした。バンド結成から七年、辛いこともあったけど、本当に楽しかった……」

 ボーカルの金髪はそこで、下を向いて目を押さえた。泣いているようだった。観客は拍手と歓声で励ました。

「皆に支えられてここまでやって来れました。本当にありがとう。次が最後の曲になります。世界で一番熱い三分間にしましょう……塩辛い蜂蜜!」

 場の空気が変わったような気がした。観客の盛り上がりも、今までにない程大きくなっていった。先程の曲では歌わなかったギターの人も、今度は一緒になって歌っていた。僕はそこで確信を持った、確かにそれは桑村さんの声だった。ボーカルの声も観客の声も涙ぐんでいたり、かすれていたりで、もう訳が分からない程に会場は大騒ぎであった。しかし先程まで帰りたいなと思っていた僕は、そこで考えを改めた。この時間は演者も観客も魂の燃え盛る、情熱が感じられた。僕だけが取り残されているようで、一人どうすればいいのかわからなかった。

 するとステージ上の桑村さんが、客に向かってピックを思いっきり投げた。僕にはそれがスローモーションのようにゆっくりに見えた。その一瞬、客がピックの落下位置に目掛けて集まる。そして気が付いた時には、理由もなしに僕もその中に飛び込んでいった。飲み終わったビールのカップは、それと同時に明後日の方向に放り投げた。無意識だった。降って来るピックを目指して、思い切り腕を伸ばす。ステージの照明が逆行となり僕には何も見えなかったが、なにかを掴んだ感触があった。周囲では悲鳴なのか歓声なのかわからぬ、声という声があちこちで起こった。歌はまだ続いている。僕はなにか小さく硬い物を感覚があり、その拳を高く突き上げた。すると、ピックを取った僕を確認したらしい桑村さんが「男かよ!」と叫んだ。大きな音に交じって笑い声が起こったが、それは尚も続く音楽にかき消された。

 そして三分間という短い時間を、ここにいる僕らは、ハヤブサの如く、止まることなく飛行した。曲が終わると客は「ありがとう!」と口々に叫んだ。ステージ上ではその声を聞いて、メンバーそれぞれが涙を拭っていた。僕はいつの間にか汗だくで、息を切らしていた。ありきたりな表現だが、その時間は本当に「魂の三分間」だったように思う。少なくともふざけた曲名にツッコミを忘れてしまう程に、僕は興奮していた。

 

 明くる日、重い体に鞭を打って洗濯物を干していると、ジーンズのポケットから例のピックが出てきた。昨日は柄にもなくあんなに興奮していたのに、いや、興奮していたからこそ、ピックのことは全く忘れていた。それにしても、あの最後の曲は凄かった。僕にはまだまだ知らない世界が沢山あるのだなと、改めて思った。青いそのピックをよく見ると、小さな数字が書かれていることに気が付いた。昨日は手元があまり見えないライブハウスの中だったので、気が付かなかったのだろう。ピックに書かれた数字は、左から右に行くにつれ段々と狭く、小さくなっていって、もう殆ど数字なのかもあやしいような感じであった。裏返すと先程より大きく「080」と書かれていて、成程、昨日僕を見て叫んだ桑村さんの言葉の意味がわかった。油性で書かれていなかったら、僕はこれに気が付かなかっただろう。むしろ気が付かない方が良かったかもしれない。自ら殴った傷を心配して追いかけて来てくれる程に、優しくて、そしてなんともいっても美人の女性が傍にいるというのに、それは、ホーミーでもガールフレンドでもない、じゃあなんだ? セックスフレンドか? を、もっと増やそうというのだから、苦笑した。果たして彼女も昨日のライブに来ていたのだろうか。

 

「もしもし」

「――ん?」

 十コール鳴って出なかったら切ろうとしたら、九コール目と十コール目の間で桑村さんの声が聞こえた。本当に掛けてもいいものか迷ったが、もしかしたら偽物の番号かもしれないと、むしろそうだったらいいと半信半疑で番号を押したら、ちゃんとコールは鳴るし、携帯の向こうから聞こえる声は確かに桑村さんのもので、自分から掛けたくせに少し面食らってしまった。桑村さんの声は、明らかにまだ夢の中にいるような感じだったので、夜にするべきだったと後悔した。僕の地元の友達にも、夜から朝にかけての時間しか連絡のつかない奴がいるのを思い出した。

「あの、昨日のライブで、桑村さんが投げたピックを取った者ですけど……」

「ああ、うん。君ね、覚えているよ。ライブ来てくれてありがとう。きっと来てくれるんじゃあないかと思っていたよ。だってあんなに真剣に俺の歌聴いてくれたの、君が初めてだったから。でたらめに歌っただけだったけど」

 桑村さんは、昨日のライブより以前の出来事を言っているのだろう。声は相変わらず眠そうにかすれていたが、僕は嬉しくて、遠慮なく会話を続けてしまう。

「覚えててくれたんですか」

「だって君、……えっと、名前何だっけ」

「和樹、坂上和樹です」

「ああ、そう。和樹。俺がアンプも繋がずに適当に弾いて、歌っただけなのに、正座して聴いてたじゃん。俺、嬉しかったよ、あの時は」

 正座? 記憶にないが、僕は無意識のうちに正座していたのだろうか。それとも、それ程真剣に聴いていたということを言っているのだろうか。

「そんなことよりもさ、和樹青年。今夜暇?」

 

 正直に言うと、その日桑村さんと飲んだ記憶は曖昧だった。大学の仲間と飲む時は、一杯目のビール以外は、弱いお酒も交えて色々な酒を試す気持ちで飲んでいるが、桑村さんがずっとビールなので、僕もそれに倣っていたらいつのまにか記憶がなくなっていた。記憶はないのに、ちゃんと自分のベッドで目を覚ますのは不思議な感覚だった。次からはもう少し自制しようと反省しつつ、昨日の記憶を呼び起こしていた。

 

 桑村さんに連れられ、ハーモニカ横丁の「ブルースカイ」という居酒屋のカウンターで飲んでいたのは覚えている。ジョッキを持つ手が疲れる程に、飲んだ気がする。

「僕、昨日が人生初のライブだったんです。凄かったです、とても痺れました。なんというか、あの場にいた皆の魂が一つになったような……本当、音楽の力を見せつけられました」

「大袈裟だな。でもありがとう。それくらい言ってもらえると、音楽やってた意味あったんだなって思えるから」

 桑村さんは少し困ったように笑い、続けた。

「昨日で、俺らのバンド、解散だったんだ。だから昨日のが最後のライブ」

「はい。それは気が付きました」

 会話が途切れ、沈黙が流れた。僕は桑村さんが、これからも音楽を続けていくのかが気になった。僕は昨夜のライブで、もうすっかりファンになってしまったようだ。しかし、なんとなくそれを訊くのには勇気が要り、訊かない方がいいと判断し、飲み込んだ。その代わりに過去のことについて訊いた。

「いつから音楽やってるんですか」

 すると心なしか、桑村さんの表情が晴れたような気がした。そして僕を焦らすように、煙草をゆっくりと吸って吐いた。煙草の箱には、ラクダが描かれている。

「ギターを始めたのは高一。本当はずっと欲しかったけど、俺の家貧乏で小遣いとかなかったし、かといって弱い奴から金を巻き上げようなんて考える不良じゃあなかった。親の財布から金抜くこともしなかった。こう見えて根は真面目なのよ、俺。だから欲しくても買えなくてさ。高校生になって、バイトして買った。初めてのギター……ってなんだかいい響きだね」

 僕は肯いた。桑村さんは続ける。

「中学生の時は、色んな音楽をひたすら聴いてた。近所のレコード屋のおじさんの所通ってさ、ブルースから始まり古いジャズにロックに、本当に色々教えてもらった。勿論、そんなのわかる奴学校にはいなくて、でも驚いたのが、ライブハウスにはおじさんみたいに音楽に詳しい奴が結構いるんだよ。見た目は冴えない学生なのに、楽器持てば人が変わるっていうか、本当に音楽好きな奴らばっかりだ、って感動したのを覚えている。今から考えると俺も含め、皆して超下手だったけどね。まあ、それは今もだけど。それでも、好きなことについて話ができる仲間ができたのは本当に嬉しかったな。

 学校行って、ライブハウスも行って、ってしてたら寝る時間なくてさ。段々学校が面倒臭くなってきた。それに、既にその時には将来音楽やりたいなって思い始めてたから、じゃあ今俺が学校行く意味あるのか? って思ってしまったんだ。一度思ったら、その疑問は大きくなるばかりで、結局高二の夏休みを待たずして、学校を辞めた。そのことで、親とは滅茶苦茶に喧嘩した。親は俺のことを思ってだったんだって、今になってわかるけど、当時は俺に意見してくる親が疎ましくて仕方なかった。結局ちゃんと仲直りせずに東京出てきちゃったから、それだけは後悔だな。――和樹は学生だよね?教師目指してるって言ったっけ」

 それからは僕の話になった。桑村さんの話した後では、僕の人生の平凡さが際立った。教師を目指していることの理由も、正直特になかった。

 その後二時間たっぷり飲んでから、二人は二軒目の暖簾をくぐった。これが良くなかった。僕はそんなに酒が強いわけではないのだから、はしごなんてしないで、大人しく帰るべきだった。店の名前は憶えていないが、そこでは店長と常連客の会話が聞こえてきて、その下品さに苦笑したのまで覚えている。その店で覚えている会話がほんの少しだけある。

「神って信じる?」

 桑村さんは不意に訊いた。桑村さんが喋ると、煙草の煙も口から外に漏れ出た。

「酔ってるんですか? 神なんて」

 僕は笑った。桑村さんも笑った。桑村さんは酒が入った方が大人しくなるけれど、僕は普段無口な分、酒が入ると自然と口角が上がってしまう。

「神はね、皆の心の中にいるんだよ。自分だけの神が。信じる信じないの問題じゃあない。いるいないの問題でもない。神の正体に気が付くか、知らないままでいようとするかだ」

 桑村さんは言った。僕は笑った。全てが可笑しく思えた。今なら箸が転んでも、僕は笑うのだろう。僕をみて、桑村さんも呆れ半分小さく笑った。


  空は赤や橙色、桃色に紫が混じり合った美しいマジックアワーを作り上げていた。僕は、地元の夕日がこの世で一番美しいんだと信じていたが、案外どこで見ても変わらないんだと知って、少し気が落ちた。それが田んぼの水に反射するか、ビルディングの窓に反射するかだけの違いだけであった。見上げたマンションの窓が一つ一つが赤く染められて、その様も案外悪くないと思うのであった。

 今日は体調が悪いと嘘をついて、アルバイトを少し早く抜けさせてもらった。元来真面目な僕はそんな嘘なんてついたことがなくて、本気で心配してくれた店長には申し訳なく、心の中で謝った。夕日に向かって、自転車を漕ぐ足を速めた。風が頬を通り過ぎていくが、もうそこに冷たさはなかった。

 アパートの扉は鍵が掛かっていた。桑村さんは、もうここを後にしたのだろう。そういえば、鍵を掛けたらどこに隠すなりするかを言っていなかったと思い出して焦ったが、ちゃんとポストの中に返されていた。ポストには、昨夜のコンビニエンスストアのレシートも入っていて、裏に「上着高かったんだぞ!!」と子供のような字で書かれていた。僕は衝動で、部屋を出る時に桑村さんのジャンパーを着て出てしまったが、貰おうなんてことは考えていなかったので、心外だった。

 鍵をさして部屋に入ると、まだ微かに煙草と酒の、籠った臭いがした。布団は団子のように丸まって、居心地悪そうにベッドの隅に追いやられていた。勿論桑村さんの姿はなく、ハンガーに掛けておいた僕のスプリングコートもなくなっていた。

 桑村さんの携帯に掛けてみたが繋がらず、昨夜もそうであったが、電話に出ないのなら携帯の意味を成さないではないかと、少し怒りを込めて、できるだけ丁寧に机に携帯を置いた。その時の心情と行動の矛盾が、まだ僕の心の余裕を表していた。

 靴下も脱がずにベッドに身を投げると、昨夜からの疲れが決壊したように出てきて、団子のように丸まった布団に顔を埋めて、そのまま眠ってしまった。

 

 僕にとって、桑村さんとの時間は非日常的なものだ。ひと月に一度程度しか会わないからそう感じるのだろうけど、別になにか特別なことをするわけでもなく、ただくだらない話で夜を明かすだけのことだった。そんな次の日は決まって憂鬱で、昨夜の高揚した気分とは一転、また同じことを繰り返すだけの日常に戻る。次に連絡があるのはいつだろうと、早くも、もう次を考えているのであった。大学の仲間からは得られない刺激が、そこにはあった。桑村さんには絶対に言わないが、僕は桑村さんのことが、結構好きなのだろう。

 三月にもなると冬の匂いは全く失せて、街は少しずつ開放的になってきた。椎名林檎の正しい街という曲に「都会では冬の匂いも正しくない」という歌詞があり、それを思い出していた。母の車ではその曲が入ったアルバムが、僕が物心ついた時から東京に行くために駅に送ってもらったその日まで、変わることなくずっと流れていた。多分これからも、母が免許を返納するまでそのままなのだろう。雪の降らぬこの街の冬がたとえ正しくなくても、僕は既にそれに慣れ始めて、二度だけ降った今年の雪に、都会人に交じって感嘆したりもしてみた。大学の友人が空から降って来る雪に、口を大きく開けて食べようとしていたのは微笑ましくて、僕も真似して笑ったのは最近のことだった。月日はまさに光陰矢の如しで、春が来るということはつまり、僕が上京してから一年が経つということであった。

 十時のアラームで目を覚まし、大学に行く準備をした。僕は大学から程近いアパートに住んでおり、それは朝が弱い僕の、強い味方であった。大家さんから聞いた話だと、このアパートに住むのは殆どが大学生らしく、それらが卒業したとしてもまた次が入って来るから、まあ安泰だということだった。僕は適当に相槌を打ってそんな話を聞いていたが、このアパートに入って来た人皆に同じ話をしているのだろうか。

 トレンチコートの代わりに、ハンガーに掛けてある桑村さんのスタジアムジャンパーを羽織った。髭はいつも通り綺麗に剃ったが、髪はなにもしないままにした。それは特に理由があってのことではないが、桑村さんを意識していないと言ったら嘘になるかもしれない。桑村さんはいつも、髪を伸ばすままに自然な風でいた。しかし僕の髪は癖があって、桑村さんのような自然な直毛にはならなかった。最後に全身鏡で姿を確認し、リュックの紐を少し長くしたりしてみて、家を出た。

 

 その日は、ぼんやりと講義の声が聞こえてくるだけで、全く頭に入ってくれなかった。今読んでいるSF小説のことを考え、一昨日観た演劇について考え、そして桑村さんについても考えた。

 一昨日の演劇は「もしも、君の左眉を舐めることができたなら」という奇妙な題だった。僕がメタファーに気が付けていないだけかもしれないが、君の左眉を舐めることと、内容との関連については謎だった。失礼だが、桑村さんのバンド名も、これも、案外適当につけているのではないだろうか。

 あの日、桑村さんはきっと寝ていて知らないだろうが、劇中にこのようなシーンがあった。

「君は神の存在を信じるかい?」

 僕はその時、あっ、と思ったのだ。以前、桑村さんと飲んでいて、そんな話になったことがあった。あれはまだ残暑の厳しい時で、桑村さんのバンドが解散してから間もない頃だった。あの頃から、時の流れの早さが怖くもあった。

 

 気が付くと講義は終わっており、生徒が次々と教室から出ていく。僕は我に返り、今日はそれが最後の講義だったので、鞄に荷物を入れて席を立った。

 玄関の方に歩いていて、気のせいかもしれないが、なんだか周りの視線を感じる。僕は気が付かないふりをして歩いているが、僕になにかあるのだろうか。それとも意識過剰なだけだろうか。

「あの、リュック開いてますよ」

 急に声を掛けられた。手が全部隠れる程の大きなパーカーに、所々肌が覗くダメージジーンズを履いた女性だった。僕は驚いてリュックを前に持ってくると、確かにチャックが全開になっており、ロールプレイングゲームなどで登場する宝箱に扮したミミックの如く、それは口を大きく開けていた。幸いにも中身は全部入ったままであった。遠藤周作のファーストレディも、ちゃんとそこにいた。しかし僕は恥ずかしさに、自分でも顔が赤くなるのを感じた。

「ありがとうございます」

 自分でも驚くほどに小さな声しか出なかった。親切に声を掛けてくれた女性を見やると、破れたジーンズから覗く白い肌よりも、金に色を抜かれた髪よりも、その後ろに背負っているケースが目に入った。僕はそれを捉えたまま、硬直してしまった。女性は「ああ、これ?」と少し笑って、後ろに向かって指をさした。

「ギター弾くんですか」

 僕は先程の恥ずかしさをかき消すように、前のめりで言った。

「いや、これはベース」

「あっ、ベースか……」

 女性の即答に、なんだか少し怒られたような、あるいは嘲笑されたような気がした。しかし、そんな僕の心情とは裏腹に、女性は目を輝かせ「興味ありますか?」と訊いてきた。その目の輝きに、僕は「はい」と言う他なかった。チワワのように目の大きな人だなと、一歩後ずさりながら思った。多分その時の僕は、声も顔も、なかなかにぎこちなかったと思う。ちなみに僕は犬が苦手だ。

「よかったらライブとかやってるんで来てください。客全然足りなくて、誰でもいいから来て欲しいんですよね」

 そう言って女性は笑った。笑うと糸切り歯が二本出っ張っており、カレーを食べた後のような黄色をしていた。「誰でもいい」という言葉を僕に向かって言ってしまうところと、歯の汚さが気に入った。

「今から練習ですか」

「うん。そうですよ」

「練習見学させてもらえませんか」

「は?」

 女性の顔が驚きに固まった。しかしそれは僕も同じで、自分でもなぜそんなことを言ったのかはわからなかった。初対面だというのに、僕は完全に距離感のおかしい、変な奴だ。これではまるでナンパではないか。

 

 僕は松井さんと並んで歩いている。目指す場所は、松井さんのバンド練習が行われるスタジオだ。松井さんは吉祥寺で降りた時に「スタジオまでは秒」だと言ったが、僕らが歩き始めて十分以上経っているように感じるのは、全くどうしてだろう。駅を出発してから、松井さんと同じようなケースを背負った人が三人、散歩中の犬五匹、そのリードを引いた飼い主が三人、赤い風船をもった女の子と、僕らはすれ違った。そして僕らは、蝸牛程のスピードで歩くおばあちゃんの後ろをついて歩くような形である。その人は、今時珍しく風呂敷を背負っていた。

 僕は正直に言って、女性と話すことがあまり得意ではない。しかし、松井さんからは、いい意味で女性特有の雰囲気があまり感じられない。話し方、仕草がどことなくさっぱりしており、ボーイッシュであった。彼女との間に気まずさはなく、つまりとても楽であった。

 僕らは、大学から電車を経由してここまで来た。その間松井さんは、無垢な子供のように、絶え間なく僕に話し掛けた。この短時間で僕は彼女の名前、年齢、好きな食べ物、嫌いな煙草の銘柄、バナナについての雑学を二つ聞いた。そこで同い年だとわかって、お互いに敬語はやめた。僕は質問に答えるだけであったが、それでも名前、家族構成、好きだった給食のメニュー、最後の晩餐に食べたいもの、それにお気に入りのセクシー女優を教えた。繰り返しになるが、僕は質問に答えただけだ。しかし僕は殆ど出鱈目を言ったのだった。例えば兄が百一人いるだとか、好きだった給食はちゃんこ鍋だとか。その度に彼女は「わんちゃんかよ」「相撲部屋かよ」と糸切り歯をむき出して笑うので、それが僕を調子に乗らせた。本当を言ったのは、名前と年齢、それと最後だけだった。なんだかこのくだらなさは、桑村さんを思い出させた。桑村さんのジャンパーを着ているから、変なところが伝染したのかもしれなかった。

 

「あれだよ」

 松井さんが指さす先は、飾り気のない黒い外観に「スタジオ マイケル」とこれまた黒い文字で書かれている建物があった。二階建てで、小さな窓すらも黒く、僕は、全てを黒に塗りつぶした、意味のないルービックキューブを想像した。

 相変わらず前を歩くおばあちゃんはゆっくりで、背中に背負った唐草模様の風呂敷が、蝸牛の殻に思えて仕方なかった。松井さんは小さな前ならえをして、それを前後に動かしながらその場で足踏みをし、汽車の真似をしている。横からこの老人を追い越せばいいものの、それをしないので、僕は松井さんに従っている。もしかしたら松井さんも、僕に従っているのかもしれない。建物は見えているのに、まだたどり着けない。なんだか不思議な感じであった。

「見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれよ」

 汽車の真似を続けながら、松井さんは急に歌い出した。「なんの曲?」と僕が問うと、松井さんは大げさに驚いた。

「知らないの?ブルーハーツだよ。TRAIN-TRAIN」

 僕が首を傾げると、松井さんは訝し気に目を細めて僕を見た。そして松井さんは続きを歌った。サビに入ると、確かに聞き覚えがあった。

「ずっと思ってたけど、坂上君って少し変わってる。そんなイカした服着てるのに」

「音楽は全く聴かないんだ。本は読むけど」

「全く聴かないくせに興味あるって言ったの?」

「全く聴かないから、興味があるんだ」

「わたし、音楽と煙草のない人生なんて信じられない」

 僕は笑った。僕が生きるは松井さんにとって「信じられない」世界らしい。音楽も煙草もない世界で生きてきたから、桑村さんに憧れたのかもしれないと、一瞬そんな考えが浮かんで消えた。

 

 結局僕らは前にいる老人に合わせ、随分時間を掛けてスタジオに辿り着いた。扉を開け「おっす」と短く挨拶をして松井さんは中に入った。「遅いぞ遅刻魔」と中から声がした。後ろについて僕も中に入ると、松井さん以外のメンバーはもう揃っているようで、先にいた四人は不思議そうに僕を見た。自分の楽器を練習していた者、携帯電話を見ていた者、談笑していた者。それらの目が一斉に僕を捉え、僕は少しうろたえた。四人は全員男で、歳は僕らとそう変わらないように見える。

「見学の坂上君です」

 松井さんは軽く皆に僕を紹介して「ここ座ってる?」と隅に立てかけられていたパイプ椅子を勧めてくれた。僕が小さく座ると、四人はそれ以上僕に関心を示さなかった。

 最初は各々が自分の楽器を調整したり、軽く演奏したりしていた。驚いたのは、それぞれが煙草を吸いながら演奏していることだった。それと、桑村さんの解散ライブでも思ったが、スピーカーからの音にはそう簡単に慣れることはできなかった。時間が経つにつれて、耳がその音を許し始めたが、僕には音楽ではなく本だったのは、そういうことなのかもしれない。本の中で爆発が起こったとて、隕石が降って来たとて、当たり前にそれは実際に大きな音が読者に降って来るわけではない。そういえば、電車なんかで話声の大きい人がいると、僕は無意識に疲れてしまうということがしばしばある。

 暫くそんな時間があり、五人全体で合わせ始めた。松井さんのベース、ギターが二人、長髪のドラム、なにかスポーツでもやっていそうな、大きな体をしたキーボード。ボーカルは、基本センターにいるギターが担当しているようだが、それぞれの前にマイクがあり、皆で歌うような感じらしい。

 五人で合わせた瞬間、確実に空気が変わったように感じた。桑村さんのバンドのような激しさとは違い、落ち着きのある曲調で、絶妙な音の重なりが上品に洒落ていた。僕は全くの素人であるが、この人たちは自分の世界を持っているなと思った。正直桑村さんのバンドの演奏よりも上手な感じがする。多分五人は今、僕の存在を忘れていて、五人だけの世界にて音を奏でている。そして僕も自分の存在など忘れて、演奏に聴き入っていた。

 一曲終わると、それぞれが意見を出し合った。僕にはとても素敵な演奏に思えたけど、改善点は溢れる程にあるようで、それぞれが僕にはよくわからぬ専門的な話をし始めた。僕は知らぬ言語を聞き流すようにその光景を眺めていたが、突然、僕から一番近い位置にいたキーボードの大男が「君はどんな音楽を聴くの?」と低い声で訊いてきた。僕は当然答えに窮した。正直に「音楽は聴かない」と答えてもいいのだけれど、それではあまりに素っ気ないような気がした。それは見学という名目でここにいるからかもしれない。名目といっても、そこに実質があるわけではないのだが。

「ブルーハーツ……とかですかね」

 僕は咄嗟に思いついた名前を口に出した。

「いいね」

 大男はそれだけ言うと、キーボードを弾きながらリンダリンダを歌った。これは僕も知っていた。居心地の悪さから松井さんに目を向けると、腕で口を覆って笑いを堪えていた。

 

 それから僕は、音楽を少しだけ嗜むようになった。松井さんに教わりながら、色々なジャンルを一通り聴いてみた。中でも、松井さんが最近聴いているという、若手のバンドのCDを借りて聴いてみたが、それは確かに、僕の心にも深く響いた。そのバンドはジャンルに捕らわれることなく色々な音楽に挑戦していて、詳しいことはわからないが、聴いていて気持ちがいいし、繰り返し聴きたくなるような魅力があった。そして、松井さんのバンドの曲にも、どことなく似た所があるように思えた。

「わたしはこのバンドに滅茶苦茶影響受けてるけど、当たり前にこのバンドだって色んな音楽から影響受けてるんだよね。メンバーそれぞれの演奏の仕方に、趣味が表れているし……ほら、ここのギターなんてジャズそのものなのに、曲自体はロックなテイストで――」

 松井さんの話の大半は僕には難しかったけれど、それでも彼女が真剣に、あるいは楽しそうに話す様子は、見ていて飽きなかった。そして僕は今まで知らなかったが、小説なんかより音楽の方が良い言葉が沢山詰まっているではないかと、気が付いた。

 時にはギターの簡単なコードを僕にも教えてくれたり、僕の下手くそなギターと、松井さんのベースでセッションしてみたりした。

 松井さんが下を向いてベースを弾くと、つむじの黒が目立った。日を増すごとにその黒は少しずつ大きくなっていったが、松井さんは、一向に染め直す様子はなかった。時折落ちてくるその金の髪を耳に掛けると、松井さんの耳に住まうピアスたちと目が合った。

 僕は松井さんの練習を邪魔して、首筋に口づけをすることがあった。最初はただのおふざけのつもりあったが、二人で過ごす日々が、次第に松井さんへの感情を持たせた。松井さんはそれを嫌がることなく、受け入れてくれた。松井さんは僕の愚行を許してくれているが、心の奥では嫌がっているのではないかと、僕は不安になることがあった。僕はその不安から、松井さんに対して罪悪感を覚えずにはいられなかった。それと同時に、慣れた様子で松井さんが僕を抱きとめるから、その余裕が、僕を嘲笑しているようにも思えた。その度に僕は、必死に彼女を求めずにはいられなかったが、松井さんは決してそうではないようだった。

 後になって僕の愚行が若かったの一言で片付けられてしまうのかもしれないと思うと、怖かった。しかし、その反面で僕の言い訳はいつも、若い男女が集った結果、それは必然的に起こることなのだと、矛盾した言い草に落ち着かせてしまうのであった。僕は音楽越しに、核にある松井さんを見つめたが、松井さんは音楽の深い所を見つめ、そこから少しも焦点をずらさなかった。それは桑村さんにも、共通する所があったように思う。それでも桑村さんと僕がライトに付き合うことができたのは、性別という、変に面倒くさい壁がなかったからだろう。

 

 そして、季節は駆け足で廻った。七月も後半になると、蛙やミミズは、僕らになんの悲しみをもたらすでもなく、いつの間にか道で干からびた。玄関を出ると、昨日まではなかった蛙やミミズの死骸がそこにあり、僕らは少し顔を顰め、それらを避けるだけだ。

 音楽を通じて仲良くなった松井さんと僕は、いつからか、ただ音楽越しに笑い合える関係には戻れなくなっていた。松井さんは度々僕をライブに誘ってくれることがあったが、今ではそれもなくなっていた。僕も意識的に聴いていた音楽が少なくなり、また本に時間を割くようになった。

 それでも僕らは続いていた。むしろそれが続いていくということなのかもしれなかった。二人は同じ部屋で、それぞれに時間を過ごした。相変わらずいつまでも弦に触れ続ける松井さんを僕は横目に見ていたが、それは松井さんから見た僕も同じようだったかもしれない。

 しかし僕が時間も忘れ本に没頭していると、松井さんの方から僕の首筋に顔を埋めてくることがあった。一方通行ではなかったんだと知れて、僕はそれが純粋に嬉しかった。そこで初めてお互いの気持ちを知れたと思う。知れたからといって、その先になにがあるのかなんて、気が付けそうにもなかった。

 こんな風にして、僕らと同じ年頃の青年らは、日々を浪費していくのだろうか。相変わらずな大学生活と、すれ違うことに慣れてしまった僕ら。交わる地点は、今や音楽ではなく、男女の関係だけであった。同じような毎日が続いていくのに安堵と退屈を覚え始めた。そしてなんといっても、この頃の暑さが気怠くて仕方なかった。

 

 僕はマイクを右手に、魂を込めて歌っている。なんの曲なのかは自分でもわからない。ただ、とても激しい音楽だ。スピーカーから音が振動となって体に伝わってくる。

 右を見ると桑村さんがギターを弾きながら、頭を凄い勢いで振っている。そんなに頭を振って、首から上が、ぽんっと飛んでいかないのかと少し心配になる。飛んでいかなかったとしても、脳震盪は起こしそうな勢いである。そして、頭は激しい動きをしているのに、左手の指はピアノを弾くかのように細かく、素早い動きをしている。まるで二人の人間が、一つの体を共有しているかのようだ。激しく荒ぶる魂と、冷静で正確な魂。

 左を見ると松井さんがベースを弾いている。地響きのように低く、力強いその音を出すのが、華奢な彼女であるという点が、なんとも格好よく眩しい。もしかしたら、いつも大きなサイズの服を着るのは、自身の体の大きさを無視して、彼女には少し重そうなベースの方に合わせているのかもしれない。

 僕は松井さんを横目に歌い続ける。僕は束の間視線を、手をだらしなく上げ、自分の好き勝手盛り上っている観客に向ける。女は髪を振り乱し、男はどこかの民族の如く高く飛び跳ねる。その足場は見えないが、ホッピングかトランポリンで飛び跳ねているのかもしれない。いや、それにしたってもう少しで天井に頭が付きそうな程であるから、おかしい。まあ、でも、いいか。そんなこと今は。

 僕はまた桑村さんのいる右を見た。すると桑村さんは、頭から血を流して仰向けに倒れている。ストラップを付けたまま、ギターも腹の上に倒れている。無防備に手足を狭いステージの上で伸び伸びと広げる様は、まるで草原で寝転んでいるかのようでもあり、ギターと心中を図ったようにも見える。僕はそれを見て動揺したが、曲は関係なく続くので、僕は歌うのをやめられない。僕が歌わなかったら、曲が止まってしまう! 僕の代わりはいないのだ! しかし桑村さんは、眠っているかのような安らかな表情であり、それを確認した僕は、別に放っておいても大丈夫だろうという気になった。

 そして再び松井さんに目を向ける。すると驚いたことに、松井さんは下着姿になっていた! 正直桑村さんが倒れていたことよりも、此方の方が僕を大きく動揺させた。僕は、驚きに目を見開きながらも歌い続ける。しかし、意識が段々と松井さんの白い肌に飲み込まれていく。松井さんの肌から目が動かせなくなる。頭では歌うことに集中しなければいけないとわかっているが、僕の頭は二つの思考がせめぎ合っていた。ステージの床に脱ぎ散らかされた男物のように大きな服からは想像できない、ふっくらとした、女性らしい曲線に、黒い下着が食い込んでいる。松井さんはベースのスラップに集中していて、僕の動揺には気が付いていないようだ。僕は、自分の鼓動が大きく速くなっていくのを感じた。ただでさえ激しいこの曲のリズムをも超えて、鼓動の音は、煩く僕の中に響いた。血が巡り、下半身が熱くなるのを止められなかった。

 すると不意に、松井さんのブラジャーのホックが外れた。後ろが解放されたそれは、松井さんの肩にぶら下がっただけの、ただの布と化した。松井さんの動きに合わせて、危なっかしく揺れる。少しでも大きく動くと、するりとブラジャーが肩から外れてしまいそうだ。僕はいよいよ歌に集中できなくなってきた。息が整わない。体が怠く、頭が痛い。相変わらず興奮している下半身に加え、頭も熱も持ってきた。そういえば、桑村さんはどうなったんだろう。僕は松井さんから意識を逸らそうと、桑村さんのことを思い出し、考えた。

 僕は、松井さんから逃げるように桑村さんの方を見た。ぼんやりとする頭を左から右に動かすだけで、頭が大きく痛んだ。しかし、先程まで倒れていた桑村さんの姿が、そこにない。アンプを繋いだままのギターだけが、汚いステージの床に残されていた。僕は更に動揺した。急に僕は怖くなった。バンドのメンバーが欠けた状態で、曲を続けることはできるのだろうか。しかしどんな状況でも歌い切らなければいけない。それが僕の使命のように思えた。だからか、桑村さんはすぐに戻ってくるような気がした。そう信じることしか、今はできなかった。きっと頭の血を拭くために、一時的に姿を隠しているだけだと、自分に言い聞かせた。

 観客の様子が気になった。客が桑村さんの失踪に気付いて、パニックを起こしたりして曲が止まってしまうかもしれない。前に目を向けると、客の動きが止まっていた。皆、先程までの狂気にも似た盛り上がりは失せ、魚の目で此方を見ている。もう髪を振り乱す者も、高く飛び跳ねる者もいない。僕は不味いと思った。瞬間、一筋の汗が背中を伝った。盛り上がらなければ、客がいなければ、僕らは成り立たない。好きなだけで生きていける程、甘い世界ではないのだ。自分でそんなことを考えてみて、あれ、僕に音楽のなにがわかるのだろうと思った。僕の声はかすれ震えて、もう曲が止まってしまうかもしれないと、弱気になった。

 桑村さんが消えたこの状況。僕たちだけでどうしようと、助けを求めるように松井さんの方を向いた。松井さんは、消えた桑村さんも、先程よりも肩から外れ今にも滑り落ちそうなブラジャーさえも気にせず、尚も音に集中している。僕は、先程松井さんに覚えた興奮は何処へ、こんな状況でも音の世界に入り込んで気持ちよさそうにベースを弾く松井さんに、怒りすら覚えた。「この音楽馬鹿!」と一喝したい衝動に駆られた。でも歌を途切れさせるわけにはいかない。最後まで歌い切らなければ。それが僕の使命だ。もう僕は半泣きになりながら、それでも歌い続ける。

 するとその瞬間、松井さんのブラジャーがするりと肩から落ちた。あっけなく滑り落ちたそれは、きっかけがあったわけではなく、限界を迎えたような感じだった。それを見て僕は、頭が真っ白になった。声も出なくなった。歌が途切れた。桑村さんもいない。僕は、終わったと思った。なにが終わるのか、はっきり言葉にはできないし、自分の理解も十分ではないような気がしたが、確かに僕の中の何かが音を立てて弾けてしまった。右手にしっかり握っていたはずのマイクは、手から滑り落ち、床に落ちた衝撃で、耳をつんざくような甲高い音で鳴いた。

 

 僕は、はっとして目を覚ました。自分でも顔が強張っているのがわかる。汗の不快感と股間の違和感は、夢と連動していた。

 シャワールームから橙色の光と、水の音が漏れている。僕は、座卓の上に置いた携帯電話で時刻を確認した。画面の明るさに目を瞬かせながら見た時刻は、午前五時を過ぎた頃だった。もう一度寝ようと目を閉じるも、同じ夢が繰り返されるような予感がして、汗も気持ち悪いし、諦めて体を起こした。

 左腕が痒く、どうやら蚊に刺されてしまったようだ。網戸を残し窓は開けているが、ちゃんと電気式蚊取り線香のスイッチをオンにして寝たはずなのに、意味を成していないではないか。電源が切れていないことは、黒い豚の尻が青く光っているから確かだ。こういう時僕は、我慢をせずに好きなだけ掻くようにしている。大事なのは今掻きたいという気持ちで、痕が残るとかそんなことはどうでもいいのだ。

 僕は扇風機を回し、ぼんやりとシャワールームから漏れる光を眺めていた。どのくらいそうしていたのかはわからない。シャワーを浴びるだけだから、そんなに長い時間は経っていないはずだ。

 暫くして、松井さんが光の中からゆっくりと出てきた。そしてベッドを軋ませながら、僕の隣に座った。僕らは電気も点けずに、夜の闇に包まれるままになった。明かりといえば、相変わらず間接的にしか姿の見えないシャワールームからの光と、青く光る豚の尻だけだ。

 松井さんは今、大きなTシャツとパンツだけだ。部屋でブラジャーを付けないのは、いつものことなので、見なくともわかる。松井さんの濡れた髪から香る匂いが、僕と同じ匂いで、それが僕の興奮を誘う。松井さんが薄暗闇のままバックの中を探り、煙草を取り出した。最後の一本だったらしく、箱を手で握り潰す軽い音がした。最後の煙草を咥えたら必ず箱を握り潰すのは、彼女の癖だった。着火した使い切りライターを、咥えた煙草に持って行く。すると松井さんの顔が火に照らされた。松井さんは比較的童顔なのに、その時は光の加減か、随分老けて見えた。

「起こした?」

 松井さんが煙を吐くついでのように、言った。僕は松井さんに出会って、知らない世界を沢山知った。同じ大学に通う学生であるのに、僕らの生活は全く違うものだった。今日だって松井さんは、遅くまでライブハウスにいたのだろう。驚いたのは、この静かに寝静まったように見える東京のどこかでは、夜通し爆音と閃光を浴びて朝を迎える人もいるということだ。そして、そのなかに桑村さんもいるはずだ。桑村さんと最後に話したのはいつだっただろうか。たまに、松井さんに桑村さんを見てしまうことがあるが、なんだか気持ちが悪いので、そんな考えが浮かぶ時はすぐに打ち消した。

「いや、なんだか恐ろしい夢を見てしまって目が覚めたんだ」

 僕は視線を、尚もシャワールームから漏れ出る光に戻した。松井さんがなにを見ているのかはわからない。しかしこの空間で見るものといったら、シャワールームのどこか懐かしい感じのする光か、不気味に光る豚の尻か、薄らとしか見えない静かな部屋だけだ。

「どんな夢?」

 松井さんが僕の方に顔を向ける気配があった。

「それが思い出せない。とても怖くて、起きてしまったのは覚えているんだけど」

 僕は、当たり前に嘘をついた。しかし不思議なもので、そんな嘘をついた途端に、覚えていたはずのそれがどんな夢だったのかが、僕の中で曖昧になった。ただ、なぜか僕が歌っていたことは覚えている。命を削るように、激しく歌っていたような気がする。松井さんは返事の代わりに、大きなため息のように煙を吐いた。沈黙――。 

 古い扇風機の音だけが、虚しくもこの空間を支配していた。松井さんが実家から持ってきたという扇風機は、首の動きが滑らかではないし、音も煩い。その低く唸るような音は、毎度僕にピンクローターを思い浮かべさせた。

「蚊に刺された」

 僕は思い出したように呟いて、左腕を掻いた。刺された箇所が、先程よりも熱を持ち腫れている。僕は暗くてよく見えないそこに、感覚だけで爪を立て、バツ印を付けた。

「お盆、実家帰るの?」

 松井さんは唐突に訊いてきた。生まれも育ちも東京である彼女は、僕からすれば生粋の都会人だ。通おうと思えば実家からも通学できると以前言っていたが、早く家を出たかったとも言っていた。

「いや、帰らないつもりでいる」

「あっそ」

 松井さんは灰皿に煙草を押し付けた。なにかを考えているように、必要以上に長い間そうしていた。それが合図であるように、少し真剣な声に変わって言った。

「坂上君って、わたし以外にも、こういう関係の女の子いる?」

「え?」

 急な質問の意味を瞬時に理解できなくて、吞気に左腕を掻いていた右手が、意図せずに止まった。その時だけ蚊に刺された痒みを忘れたが、言葉の意味を理解していくと同時に、左腕の痒みも戻ってきた。しかし意味を理解できても、どう答えていいのかわからなかった。「いない」の一言でいいはずなのに、僕がどう答えるか以上に、松井さんがなぜそのような質問をしてきたのかに思考が割かれた。そうして僕が答えに詰まると気持ちの悪い間が生まれ、それを「気持ちの悪い間が生まれた」と頭で考えている瞬間にも、それは悪化していく。

「ごめん。忘れて」

 松井さんはぶっきらぼうに言った。今のは完全に僕が悪いとわかった。しかし松井さんは僕に謝る隙も与えず、髪をタオルで拭きながら洗面台へ向かって行った。僕は再び光の中へ消えていく松井さんを見つめた。暗い中、一方向から照らされる彼女の脚は、影ができて、とても細く見えた。本当はふっくらと饅頭のように柔らかいのに、この時は、不健康に痩せた別人の脚に見えた。視界の傍らに残された吸殻が、僕を睨んだような気がした。

 

 午前二時半、僕は松井さんのアパートへ車を走らせていた。眠くならないようにコーヒーを飲んでから家を出たが、運転自体久しぶりで、眠気よりも心配なことは多々あった。ラジオのスイッチを入れると、これは本当に電波に乗っているのかと苦笑してしまうような、下品な話題で盛り上がっていた。それが僕に夜の匂いを濃く感じさせ、良かった。

「茅ケ崎の朝日が見たい」

 松井さんが突然にそう言ったのは、四日前のことだった。僕は冷静に「うん、行こう」と同意した。松井さんは度々突飛なことを言うので、僕はそれに慣れてしまっているのであった。

 例えば、まだ出会って一か月くらいのこと。僕の部屋で初めて二人が身体を重ねた時。全て終わって、松井さんが一服をしながら「観葉植物買いに行こうよ」と汚い歯を見せて笑ったことがあった。彼女とベースの重さを背中、あるいはペダルに感じながら、僕らはホームセンターに向かって、沈みかけた夕日の中を自転車で行った。育てるのが簡単そうという理由で、松井さんは小さなサボテンを選んだ。そしてなぜか僕も、松井さんと同じサボテンを買った。「どっちが大きく育てられるか勝負しよう」松井さんはそう言って笑ったが、未だ僕らのサボテンは、一卵性双子のように、瓜二つの見た目をしていた。多分、ある朝お互いのサボテンが入れ替わっていても、気が付かないと思う。僕は本棚の上に、松井さんは小さなアンプの上に、今も双子のようなサボテンが僕らを見守っていた。なぜ急に観葉植物が欲しくなったのか、その理由を僕は訊かなかった。けれど、なんとなくわかる気がした。しかしそれは本当に気がしただけに思える。だって、実際に松井さんの頭の中がわかったことなど、僕には一度もないのだから。

 当時僕は、急に連絡の取れなくなった桑村さんの影を、松井さんに重ねていたように思う。彼女と一緒にいる時だけは、桑村さんのことを忘れることができた。それなのに、ふとした瞬間に、彼女から桑村さんを思い出すことがあった。それは煙草の煙だったかもしれないし、いつ見ても破れたジーンズだったかもしれない。そして、僕のことなど眼中にないというような、音楽に掛ける熱い思いもそうだ。僕はその場から一歩も動けずに、夢に向かって努力をする二人を、ただ見ていることしかできなかった。二人を見ていると、自分の人生の意味がよくわからなくなった。果たして僕は、どこに向かって走ればいいのだろうと、自嘲気味に笑えてくる。

 茅ケ崎の朝日を見に行くと約束したのは、松井さんの部屋でだった。お互いが一人暮らしなのをいいことに、この頃僕らはだらしなくアパートを行ったり来たりした。大学に近いのは僕の部屋で、ライブハウスに近いのは松井さんの部屋。そして、タワーレコードに近いのは僕の部屋で、紀伊国屋書店に近いのは松井さんの部屋であった。

 僕は、松井さんのアパートの前に車を止めた。街路灯が見慣れないこの車を、不思議そうに見下ろしていた。走っている途中で自分が眼鏡をしていないことに気が付いたが、戻るのも面倒くさくて、そのまま走った。行き先の書かれた看板は見落とすかもしれないが、信号を見落とすなんてことはないだろう。僕は車を降りて、松井さんにメールをした。壁の薄いアパートだから、チャイムは鳴らさないで欲しいということだった。毎日変な時間に帰って来るくせに、こんな所で気を遣うのは少し不思議であった。

 メールをして程なく、アパートの外階段から松井さんが降りてきた。僕は、一瞬誰が降りてきたのかわからなかった。松井さんは、男物のような大きなシャツに、わざとらしく破けたジーンズのイメージが強くあるが、今日は、白い涼し気なワンピースに厚底のサンダルを履いており、肩まで伸ばすままになっていた髪は、顎の少し上まで短くなっていた。小さな鞄を肩から提げている。

 僕は車に寄り掛かったままで「マリリン・モンローが来たかと思った」と柄でもないことを言った。しかし彼女はそれに対して、あまり嬉しそうではなかった。

「男の子は好きだよね、そういう所謂セックスシンボル。でもわたしは、オードリー・ヘプバーンの方がいい」

 彼女はそう言うと、さっさと助手席に入った。素直に「素敵だ」と言えないのは、本当に思っているからであるのに。

 僕らは会話も少なに出発した。松井さんは鞄からCDを出して、カーステレオに入れた。サザンオールスターズだった。「気が早い」と僕が言ったら「いいの」と素っ気なく返された。それから会話はなく、二人ともサザンの曲に耳を傾けていた。少ない街灯があるだけの闇を、僕らは同じ車に乗っているのに、別々に進んでいる気がした。

 赤くて小さい、ミニトマトのような僕らの「わナンバー」は、なんとか暗いうちに、茅ケ崎の海岸へと滑り込んだ。CDは、最後のキッスが丁度終わったところだった。僕らはまだ暗い砂浜を歩き、服が汚れるのも気にしないで、並んで砂の上に座った。松井さんは履き慣れないスカートだからか、いつもよりおしとやかな動作であった。時折海から吹く風が松井さんのスカートを膨らませたが、その様子はやはりマリリン・モンローで正しいように思わせた。あるいは、リタ・ヘイワ―スでも正しいかもしれない。寒くはないが、暖かくもなく、僕らは自然に体を寄せ合って座った。

 松井さんは小さな鞄から煙草を取り出して吸った。いつも大きなベースを担いでいるからか、今日の松井さんの荷物の小ささが、僕の中で際立っていた。

「なにが入っているの」と僕が問うと、煙草を咥えたままの口で「煙草とCDと口紅。あと、最近買った小型のチェキ。まあ、つまり、なにも入っていないさ」と松井さんは言った。

 

 日が昇るまで、僕らは色々なことを話した。ベースによって硬くなった松井さんの左指。僕のアルバイト先でのやらかし。お互いに大学の単位が危ういこと。どうでもいいようなことを沢山話した。松井さんとこんなに話したのはいつぶりだろうと考えて、出会った日以来ではないかと思った。松井さんのバンドを見学しにスタジオに行ったあの日。大学を出発して、電車の中も、ライブハウスに着くまでも、そして帰りの電車でも、話は尽きなかった。もう半年近く経とうとしている。もしかしたら僕らにとって、あの日が最高点だったのではないかと、悲しいことを考えてやめた。

「お互いの嫌いなところ話そうよ」

 空の闇が少し青みを帯びてきた頃、松井さんが爽やかな調子で言った。その吹っ切れたような顔が、僕は辛かった。

「ないよ」

 僕は言った。本当だった。松井さんは「嘘だよ。今日くらいは本当のこと言えよ」と言って、僕の顔を覗き込んだ。僕は少し考えた後「言いたいこと、言わないところかな」と打ち寄せる波に向かって言った。

「それ、わたしの科白だよ」と、松井さんも波に向かって言った。

「正直疲れるよね。気を使い合うっていうか、格好つけ合って、素直になれないの」

 松井さんは続けて三本目の煙草に火を着けた。砂浜に、煙草の死骸が並べられていく。

「それでも楽しかった。僕はいつも松井さんのことばかり考えていいた」

「今更言われてもな」

 松井さんは照れたように笑った。

「それに、それも嘘だし。だって坂上君、どこにいても難しそうな本ばっかり読んでるし。人の家に来てまで本読まないから、普通」

「じゃあ僕は普通じゃあない」

 僕はこの言葉をどこかで聞いたような気がした。普通じゃあない、普通じゃあない――。そうだ、いつか桑村さんと観た演劇で、繰り返し出てきた科白だ。桑村さんが観てみたいというからお供したのに、本人はぐっすり眠っていた、あの日。そういえばそこでも、男女で海を見ているシーンだった。そこでの海は赤くて、僕らが今見ている海は、当然のように青い。

「なんで海は青いか知ってる?」

 僕は、煙を吐く横顔に向かって言った。まだ日は拝めないが、段々空が明るくなってきた。松井さんの姿を、改めて見た。厚底のサンダルは脱いで、松井さんの横に揃えて置かれている。そのすぐ近くに、吸殻も置かれている。根元の黒が目立ち始めていた髪は、しっかり均一に染め直されていた。短くなったその髪を、僕は彼女の耳に掛けた。嫌がるかと思ったが、松井さんはなにも反応を示さなかった。髪を耳に掛けると、沢山のピアスが覗いた。確か両耳合わせて、九か十くらい開いていると言っていたような気がする。「ダーツの的じゃあないんだから」と僕が言うと、そばにあったピックを投げつけられたのが、既に懐かしく思える。

「知らん」

 松井さんは海を見つめながら言った。確かに僕もどうして海が青いのかなんて、今はどうでもよかった。ただ、この大きな海を見ていると、時間を戻してやり直したいとだけ思った。時間を戻すとして、松井さんに出会った日なのか、出会う前なのか、僕が果たしてどちらを選ぶのかは、自分でも見当が付かなった。

 そして、地平線から太陽が顔を覗かせた。地平線という基準があると、太陽が昇ってくる様子がわかりやすい。あっという間に朝がやって来てしまった。僕の地元は日本海側であったから、太陽といえば夕日を思い出すが、この時は沈みゆく太陽より、昇ってくる朝日の方が感動的に僕の心に映った。僕は、自然と涙が頬を伝った。松井さんが驚いたように僕を見て「泣いているの?」と訊いてきた。「白、發、中しか鳴かない」と僕がごまかして言うと、松井さんはもっと驚いたように「つまらない! つまらない男!」と叫んだ。実のところ、僕は麻雀のルールなんてなにも知らなくて、これは桑村さんの常套句なのであった。

 

  相変わらず僕の大学生活は、冴えないものであった。最低限の勉強だけして、残った時間はアルバイトと本に費やした。友人も大体同じようなもので、どの煙草が美味しいとか、あそこの飲み屋は破格に安いだとか、そんな話ばかりで、本当に僕らが教員を目指しているのかも危ういように思えた。

 二人で朝日を見に海に行った日から、松井さんとは会っていない。あれから、僕は今まで以上に本を貪るように読んでいた。桑村さんと連絡が取れなくなり、松井さんとも離れてしまった今、僕の心にはドーナツのようにぽっかりと穴が開いてしまって、それを塞ぐためにはどうすればいいのかわからなかった。穴の存在はずっと前から知っていたのに、今になってその深刻性に気が付いたというような感じだ。だから僕はその穴に腰かけて、足を奈落に投げだして本を読んだ。穴の存在を無視することができないなら、いつかその穴が塞がる時を気長に待つしかない。

 そして少しずつではあるが、自分でも散文を書いてみたりした。頭の中にある世界を文章にすることが、こんなにも難しいことだったと知って驚いた。それでも、桑村さんと松井さんでいう音楽が、僕にはこれだったのかもしれないと思うと、没頭して抜け出せなくなった。時には文章を書くのに夢中になって、勉強の時間を喰ってしまうこともあった。こうして時間を忘れ本を読んで書いていれば、いつもの調子で桑村さんから飲みの誘いが来るのではないかと、根拠もなく思うことができた。

 

 大学の講義中でも、僕はノートパソコンを開いて文章を書いた。といっても、家で書いたものの直し作業が殆どだった。僕は、この直しの作業が一番重要と言っても過言ではないという所まで理解できるようになっていた。なので、自分の書いた文章を繰り返し読んでは、修正した。時に教授から注意を受けることもあったが、そういう場合は素直に謝った。謝りながらも、頭では先程まで直していた文章のことを考えた。

 今日も後ろの方の席を確保し、ノートパソコンを開く。同じ教室に松井さんがいたが、お互いに無視をした。松井さんは相変わらず金髪で、大きな服を着て、ベースと共に行動していた。変わったことといえば、髪が少し伸びたことと、半袖でなくなったことくらいだ。隣に座っている男と、なにやら親し気に話している。きっとそいつは、松井さんの腹にあるほくろの位置など知らないだろう。きっと知らない。知らないと、願いたかった。

 講義が始まるのと同時に、僕は昨日書いた分を改めて読み始めた。

 

 猫田は俺に深々と頭を下げた。細い髪が、さらさらと猫田の肩を滑り落ちる。僕はギャグ漫画で読んだ、お辞儀をしたら、ランドセルが開いていて中身が全部飛び出してしまう場面を思い出した。勿論猫田のランドセルは、中身が飛び出ることはなく、ちゃんと背中に乗ったままだ。

 俺は猫田の肩を掴んで、頭を上げさせた。

「なんで猫田が謝るんだよ」

 猫田の目を見ると瞳がうるんでいので、俺は面食らった。猫田は涙が落ちてしまわぬように目を見開き、口をきつく結んでいた。猫田は泣き虫だった。前なんか、机の上に小さな蜘蛛がいただけでも泣いていたし、給食が食べきれなくて泣いている姿は、もう見慣れてしまっている。

「泣くなよ。お前悪いことしてないじゃん」

 俺はなだめたつもりだったけど、それは逆効果だった。目の縁に盛り上がった涙は、暫く小さく震えてそこに留まっていたが、猫田が瞬きをしたら、あっけなく頬を伝った。俺は涙を拭ってやりたかったけど、ハンカチなんか持っていないし、その頬に触れるのも憚られた。さっきまで鉄棒で遊んでいたから、今俺の手はとても鉄臭い。猫田は涙を拭うことなく流れるままにしている。依然口は結んだままだ。

 俺らは、校門脇の花壇の前で立ち尽くした。正直言って、俺は猫田のことを少し苦手に思っている。決して悪い奴じゃあないのは知っている。それに顔も可愛い。だけどすぐ泣く所は、はっきり言って面倒くさい。俺は男兄弟しかいないし、こういう時にどうすればいいのかわからない。女心は複雑だと心の中で溜息をつき、俺は花壇に咲くチューリップに目を逸らした。

 その時、グラウンドから「明日もサッカーやろうぜ」「いいよ」と誰かの話声が聞こえた。そちらを見やると、同じクラスの男子数名が、こちらに向かって歩いて来る。これじゃあ俺が泣かせたと思われるじゃあないか。俺は少しためらったが、自分の手をズボンで拭い、猫田の手を取って校門を出た。後ろから「おい! カップルだ! ヒューヒュー!」と声がはやし立てたが、聞こえないふりで走った。

 学校脇の桜並木を暫く走って、手を離した。涙は落ち着いたようだったが、相変わらず猫田の顔は暗い。近くに駄菓子屋があったので、俺はそこに行くことにした。好きな駄菓子でも買ってやれば、猫田の気が晴れると思ったからだ。俺がなにも言わずに歩き出すと、猫田も後についてきた。

 駄菓子屋にはいつものばあちゃんが、いつ見ても変わらぬ格好で店番をしている。本を読んでいるのだが、それ以上ずらせない程に眼鏡を鼻の先に掛けて読んでいる。俺が低学年だった頃は、しわしわだけど気前の良いじいちゃんが店番をしていた。そのじいちゃんは、店の中でも子供の前でも平気で煙草を吸っていた。だからこの駄菓子屋はいつ来ても煙草臭かった。今のばあちゃんになってから煙草の臭いは消えたが、じいちゃんが使っていたステンレスの灰皿は、じいちゃんの写真と一緒にいつまでも店の奥に置かれたままだ。

「なんか好きなの選べよ」

 俺は、格好つけて声を低くして言った。と言っても、手持ちは五十円玉が二枚と十円玉が三枚あるだけで、多くは買えない。

 しかし猫田は、首を振って遠慮した。俺が「いいから選べよ」と言うと、猫田は少し困った様子で、当たり付きの十円ガムを一つ選んだ。

 猫田が遠慮するから、俺は女子が好きそうな駄菓子をいくつか選んで、奥にいるばあちゃんの所に持って行った。今日は暖かく気持ちのいい陽気なのに、ばあちゃんはひざ掛けを足に巻き付けるようにしていた。小さなビニール袋に駄菓子を入れてくれて、ばあちゃんが「今日はおっぱいアイスじゃあないんだね」と微笑んだ。猫田に聞かれていないかと俺は動揺したが、猫田は店先で行儀良く待っていたから、多分聞かれていないはずだ。

 猫田は、ぼんやりと遠くを見ていた。「何見てんの?」と俺がさっき買った駄菓子の袋を持ってその後ろ姿に近づくと、ゆっくりと振り返って「なにも」と小さく言った。

 俺と猫田は、そこから程近い神社で駄菓子を食べることにした。公園だと誰に会うかわからないし、神社だったら落ち着いて話ができると思ったからだ。さっき買ったイチゴの糸引き飴を猫田に咥えさせると、猫田は少し笑って「ありがとう」と言った。やっぱり俺の予想通り、女子はイチゴに弱い。

 賽銭箱の脇に並んで座って、ビニール袋をひっくり返した。「いっぱい買ったね」と猫田は楽しそうに菓子たちを眺めている。しかしそれらに、勝手に触れようとはしない。俺が「一緒に食べようぜ」と言ったら、遠慮がちに自分で選んだガムを取った。猫田のガムはハズレだった。

 気まずくなる前に、俺から話を切り出した。また泣きだしたらどうしようという考えがよぎったが、完全に二人きりのこの状況だったら誰に見られるわけでもないし、もしその時は、猫田の気が済むまで傍に居てやろうと思った。

「俺んちさ、結構貧乏なんだよね。兄弟多いし。だから保険金が入って逆に良かったって笑ってたよ、うちの親父。この前なんか、祝い事でもないのに寿司食べたし」

 俺はできるだけ軽い調子を心掛けた。猫田の方を盗み見ると、ここに来る前の曇った表情に戻っていた。膝を抱くように座り、スニーカーの先をぼんやりと見つめている。猫田の涙を思い出して少し気が沈んだが、明るい調子を崩さぬように続ける。

「それに、猫田が謝るのは違うだろ。猫田のお父さんも悪くない。完全なるうちの親父の不注意だ。別に小指一本くらいなくても生活はできるし、今までとなんも変わらないよ。仕事以外は寝てばっかで母ちゃんによく怒られてるからな。酒好きだし。その天罰が下ったんだよ、きっと」

 尚も猫田の表情は晴れない。むしろ、ぶ厚い雲を引き連れてきたようで、先程よりもいささか不安気に薄い眉毛が下がった。猫田が口を結んだままなので、俺はどうしたものかと思案した。すると、猫田が呟くような小さな声で「違う」と言った。

「猿山君のお父さんの不注意なんかじゃあない。あれは機械が悪かったの」

 猫田の言葉が上手く呑み込めず、俺は開いた口を塞ぐのも忘れ、猫田を見つめた。猫田は続ける。

「わたし、お父さんとお母さんが話してるの聞いちゃって。深刻そうな声で話してるから、なんだろうって扉越しにこっそり聴いてたの。そしたら猿山君のお父さんの名前が出てきて。そこで事故のことを知ったの。もしかしたら猿山君のお父さんが猿山君に隠しているのかもしれないけど、使っていた機械が相当古い機械だったらしくて。その機械は十分な点検がされていなかったみたいなの。だからいつ不具合が起きるかわからない状態だった。それに、本来ならそんなに古い機械は、とっくに新しいのに取り替えてなくちゃいけないはずなの。でもお父さんはそれを怠ったから……。小指だけで済んだのは奇跡だって――」

 最後は涙声になっていた。俺は、一週回って冷静に聴いていた。「おこたった」の意味だけ理解できずに、猫田の声でそこだけが頭の中で反響していた。次に俺の口から出た言葉は、殆ど無意識だった。

「それを俺に言って、なんになるの?」

 俺は、自分の言葉の鋭さに驚いた。これでは猫田を泣かせてしまう。しかし、否定しなければと思えば思う程、頭が石で固まったように言葉が思いつかない。俺は、今自分がどのような顔をしているのかわからなかった。泣きそうな顔かもしれないし、怒ったような顔かもしれない。でも多分、今の俺にはなにも表情はない。

 猫田、泣かないで。そう願いながら猫田の顔を見た。すると、猫田は驚いたように目を見開いていたが、その目に潤いは一切なかった。今までが嘘であるかのように、渇いたその目で俺を見ている。俺はその目に見つめられ、なぜだか、右手に包帯を巻いて帰って来た日の父の、悲しそうな眼を思い出した。「小指一本二百万らって、これなら指売って生きた方が楽らいね」そう冗談を言って弱く笑った父の眼。父が酒を飲んだ時にだけこぼす愚痴。「俺らの給料が上がったことなんか一回もねえのに、社長連中はベンツにクラウンに――ほんね羽振りの良い生活送ってるんらて」俺は適当に相槌を打つ。高級車に憧れがないと言えば嘘になるが「沢山荷物積めるから、プロボックスが一番いいじゃん」と、つまみの青菜の浸しを一口貰う。俺は子供ながらに気を使った。親父は驚いたように俺を見る。家族全員は乗れない、親父が仕事の荷物を積むのために買った、うちの唯一の車。もう大分乗ったが、それを買い替える余裕もない。「そうらね」と父は微笑んで、コップに入っていた焼酎を一気に飲み干した。

 一拍遅れて、猫田の目の縁に涙が盛り上がる。その様子が、俺には不自然に映った。言わなくてはいけない言葉は一向に出てきてくれないのに、猫田を傷つけてしまうような言葉が、俺の意識とは無関係に口に出てしまう。

「なんでお前が泣くんだよ」

 猫田の顔が歪んだ。見る見るうちに涙は盛り上がり、そして耐えきれなくなって、一筋頬に流れた。先陣を切った奴がいると、もう後はダムの決壊の如く、猫田の目から涙が次々にあふれた。俺は酷いことをした。男がそんな言葉を投げつけるなんて、とても情けない。そう思う反面、もっと傷つけてやりたい衝動にも駆られた。

 猫田の涙の理由は、言葉にしなくともなんとなく伝わる。俺を、俺の家族を、不憫に思っているのだろう。猫田の家は、ここらで有名な豪邸だった。それに比べれば俺のトタンでできた家は、犬小屋程度に見えるかもしれない。実際、猫田の社長にうちの親父は雇われているわけだから、強ち間違いではないのかもしれない。

 そんなことを考えていると、俺の目にも涙が溜まっていた。鼻の奥が、ツンと痛い。それでも俺は、泣くわけにはい。瞼を閉じてしまわないように、目に力を入れる。しかし、重さに負けた一粒の雫が、俺の弱さを告げるように、目から零れた。

 その涙が頬を伝うより早く、俺は走ってその場から逃げた。背中で大きくランドセルを揺らしながら、駄菓子屋も桜並木も通り過ぎて、当てもなく走り続けた。走ることで紛らわせられるかと思った涙は、息を切らして走れば走る程、溢れて止まらなくなった。

 

 僕の眉間には、無意識に皺が寄る。直したい点は沢山あるのに、それをどう直すのがいいのかわからない。昨日書いた分を読み返して、僕は思わず笑いそうになった。少年時からクラウンの良さを理解する者なんて、いるのだろうか。僕だって車のことは、よくわからない。暗いのに救いのないこんな話は、誰が楽しめるのだろうと、自虐的な気持ちになった。 

「なんでお前が泣くんだよ」

 急に耳元で声がした。僕は驚いて、力任せにノートパソコンを閉じた。勢いそのままに振り向くと、そこには松井さんが立っていた。気が付かない内に講義は終わっていたらしい。僕は自分の集中力にも驚いた。

 久しぶりに話すから僕は少し緊張したが、松井さんは全くいつも通りで、意識していたのは僕だけだったかと少し恥ずかしくも思った。僕らは中庭にある喫煙所に移動した。喫煙所といっても、汚いスタンド灰皿がぽつんと置かれているだけの、誰も寄り付かないような日当たりの悪い場所だ。松井さんは、僕が鞄から煙草を取り出すのを見て、目を丸くした。

「急に煙草始めるなんて、失恋でもした?」

 自分も火を点けながら、意地悪な笑みを浮かべて松井さんは言った。僕はなんて答えればいいのかわからず「うん」とだけ言った。暫く会話はなく、お互いに煙を吐くだけの時間が流れた。しかし、海に行った日の車内のような気まずさはなく、それぞれがゆったりと、暮れ始めた秋の空を眺めている。そういえば、大学に来るまでの道には、美しく黄葉した銀杏並木があった。なんとなく過ごす毎日にも四季の変化は確実にあって、しかしこうしてゆっくりとなにもしない時間でもなければ、見落としてしまっているのかもしれない。僕は雲を作って空に届けるかのように、天に向かって煙を吐いた。

「小説書いてるの?」と松井さんは澄んだ瞳で僕に問うた。隠すことではないけれど、僕は少し恥ずかしかった。また小さく「うん」とだけ答えた。

「全く上手くならない。まあ、誰に見せるわけでもない、ただの趣味だけどね」

「わたしも最初はそうだった。でも本気になったら最後だよ。夢を見てしまうからね」

「夢を見ることは良いことじゃあないの?」

「てやんでい、大罪だよ」

 松井さんの言葉の意味が、僕にはわからない。でもなぜだか、僕の頭には桑村さんが浮かぶ。解散ライブで、ボーカルとマイクを奪い合うように歌っていた桑村さん。桑村さんのバンドは、どうして解散してしまったのだろうか。それが、罪を重ね過ぎた結果なのだろうか。

「でも松井さんは夢を見ているじゃあないか。将来はやっぱり音楽を仕事にするんだろう?」

「そうしたいけど、わたしは弱いからね。……強くないから、こんな意味のない勉強してるんだよ。わたしの親、どっちも高校の先生でさ、勉強には結構厳しい人たちなんだよね。中高生の、遊びたい盛りの夏休みも、全部塾に通わさせられてさ。他では怒らないけど、勉強に関しては口煩くて、わたしの成績が下がったら、塾が悪いからって隣町の塾に移されたり……。おかしな話だよね。そんなんで、結局親に音大行きたいって言い出せなかった。それに関しては、とても後悔してる。今だって、正直ここに通う意味がよくわからない。でも、それを親に伝える勇気もない。家を出て前よりはやりたいことやれているけれど、それも所詮卒業まで。音楽を仕事になんて夢、許してはくれないと思う」

「許される許されないで、諦めなくていいと思うんだけど」

「違うよ坂上君。結局全部わたしの弱さなんだよ。本当に追いかけたい夢があるのなら、親でもなんでも殺すさ。でもそれができないのが、弱い証拠だ」

 やはり松井さんの言いたいことは、わかるようでわからない。しかし、以前の僕らにはできなかったような、本音で語り合えている気がする。僕は、松井さんが生徒の前に立って授業をする光景を思い浮かべて、笑いそうになった。正直松井さんが先生なんて、似合わない。僕は笑みを隠すように、ラクダの描かれた箱からもう一本煙草を取り出して咥えた。

 

 閉店間際のスーパーは客もまばらで、やはりそんな時に僕は、今書いている物語について考えるのであった。しかし、今日はそれもなかなか集中して考えることができない。そして、どれだけ睨んでもレジの時計は早くは進まない。それよりも今は、昼に会った松井さんが脳裏に浮かんでくる。

「話し掛けてもらえて嬉しかった。避けられているのかと思っていたから」と僕が言うと「それはわたしの科白だよ」と松井さんは言った。相変わらず僕らは、同じような会話を繰り返している。海で、お互いに嫌いな所を挙げた時もそうだった。意外と僕らは、似た者同士なのかもしれない。似た者同士だから最初は惹かれ合ったけれど、それ故に深い所までは付き合えなかったのかもしれなかった。案外真逆の二人の方が、上手くいくものなのだろうか。例えるなら、異なる極を持った磁石のように。

 疲れた様子のサラリーマンが、割引シールの貼ってある総菜を持ってやって来た。すると丁度、閉店を告げる音楽が鳴り始めた。この音楽を聞くと、思わず伸びをして着ていたエプロンを放り投げたくなるが、しかし、ここからまだ三四人客がレジに駆け込んで来るのが常であった――。

 十月頭でも夜になると、自転車で切る風が随分涼しく、冷たいと感じる程であった。僕は春ぶりにまた、桑村さんのスタジアムジャンパーを引っ張り出して着ていた。一度は消えた桑村さんの匂いも、僕が同じ煙草を吸い始めたことにより復活した。僕は、桑村さんといえばキャメルの煙草の匂いを思い出すが、つまり今では僕も同じ匂いであった。

 自転車を走らせながら、早くもこれから来る冬のことについて考えていた。東京は冬でも自転車に乗れるからいい。自動車の車高を上げる必要もない。僕はスノースポーツもしないから、雪を恋しく思うこともない。

 それからまた、書き途中の物語について考える。しかし、先程のアルバイト中もそうだったが、今日は物語の続きが思うように浮かばない。僕はそういう時は、無理してパソコンに向かうことはしない。後は、帰ってゆったり読書でもして寝よう。今日が金曜日で、明日はなにも予定がないこともあるかもしれないが、なんだかのんびりとした週末である。そういえばここの所書いてばかりで、あまり読書ができていないように思う。

 僕は煙草を切らさないよう、部屋に帰る前にコンビニエンスストアに寄った。そしてついでのように一服をする。コンビニは、案外この時間でも客がいる。大学のスタンド灰皿は、この世の終わりを思わせる程の汚さであるのに対し、コンビニの入り口から随分離れた場所に置かれたスタンド灰皿は、比較的程汚れがなく、綺麗であった。

 何も考えずに、ぼんやりと道の自動車を眺める。猫田の親父が乗るベンツが通り、松井さんと海まで乗ったミニトマトのような赤い軽自動車が通る。タクシーが通り、救急車も通る。その時、ふと思いつく。猿山少年の家出というのはどうだろう。猿谷は少年は、家を出たはいいものの行き先を考えておらず、夜のコンビニから、ひたすらに続く車たちをぼんやりと眺める。スタンド灰皿の陰に隠れるようにしゃがんでいたが、冴えない大学生風の男が煙草を吸いに近づいてきた。俺に気が付くと驚いたような顔をしたが、その後はなにも見なかったように煙草を暫く吸って帰って行った。

 そんなことを考えていると、火はあっという間に煙草を喰っていく。先程は、久しぶりにゆっくり読書をする夜にしようなんて考えていたけれど、一度アイデアが思いつくと頭から離れない。読書はまた今度にしよう。とりあえず今思いついた情景をもっと鮮明にすると共に、それを文章に起こさなければならない。僕は、火傷寸前まで吸った煙草を灰皿に落とし、自転車に跨った。

「桑村」

 急に後ろから呼び止められた。自分のものではないその名前なのに、なぜ自分を呼んでいると思ったのかはわからない。聞き慣れた名前が出てきたからかもしれないが、その声が僕に向けられたものだということは、背中で確信した。僕は、ペダルに足を掛けたままで振り向いた。そこには、スエットに、肉付きの良い足を強調させるような短いジーンズ姿の女が、不安げな表情で立っていた。僕は、その女に見覚えがあった。女は僕の顔を確認すると、驚いたように目を見開いた。

「すみません。人違いでした」

 それだけ言うと、小さく頭を下げて足早にこの場を去ろうとした。女の早口からは、動揺が感じられた。

「まって」と僕は言った。一拍遅れて「ください」も付け足した。自転車を降りて、ジャンパーのポケットから煙草の箱を取り出した。警察が手帳を見せる時のように、あるいは、水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか」で有名な場面のように、僕はその黄色い箱を女に見せた。すると、女の目が再び驚きに揺れた。

「人違いだけど、ある意味では人違いじゃあないかもしれない」

 僕は、この女をどこで見たのかを完全に思い出した。僕らは共鳴したように、暫くの間見つめ合っていた。

 

 深夜の公園は、街路灯の心もとない明るさだけが頼りで、どことなく僕の不安を煽った。その公園にはベンチがなかったので、必然的に僕らはブランコに座った。彼女は石田という名で、桑村さんが血を流して倒れていた所、つまり僕のアパートから程近い場所に住んでいるらしい。桑村さんとの関係までは話さなかったので、僕からはなにも訊かなかった。

「ブランコってこんなに低かったっけ」

 どちらからともなくそんな言葉が出た。しばし僕らは、夜故に誰にも見られないのをいいことに、久しいブランコの感覚を楽しんだ。それから石田さんが煙草に火を着けたので、僕も煙草を取り出した。それが最後の一本だったので、箱は握りつぶしてビニール袋に入れた。

 いつかの日のように全力でブランコを漕ぐことはしないが、僕らは癖になるその感覚を、話しながらも止めようとはしなかった。少し離れた所からだと鬼火が二つ揺れているように見えるかもしれないと思ったが、こんな小さな火ではそもそも見えないかと、どうでもいいことを考えてしまった。

「その服、桑村のですよね。背格好も似ているから、思わず名前を呼んでしまいました」

 多分年上であるけれど、石田さんは敬語を崩すことはなく、礼儀の正しい人であった。それは少し痛んだ茶色の髪や、無防備な感じのする服装から受ける印象とは真逆であった。石田さんがブランコに座ると、餅みたいに白くて柔らかそうな太ももが重さで押しつぶされて広がるので、僕はできるだけそれを見ないようにした。

「この服は桑村さんから貰った物です。えっと……半年前くらいだったと思います」

 自分で言ってみて、なにか警察に証言でもしているようだなと思った。桑村さんと連絡が付かなくなって、まだそれしか経っていないのかと改めて驚いた。もう随分会っていないような気がしていた。

「半年前……。桑村は、元気ですか?」

 ブランコを漕ぐのを止めて、石田さんが訊いてきた。その発言から、彼女も桑村さんと連絡が取れていないのかもしれないと思った。

「元気だといいんですけど。僕が最後に会ったのはそれが最後です。以降連絡が途絶えました。――桑村さんについて、なにか知っていますか」

 今度僕は、証言を聞き出そうとする警察側に回った。

「残念ながらわたしも連絡が取れていないので、なにも……。ただ、桑村も速水君のようになってしまわないかって……すみません。こんなことを考えるのは、良くないってわかっているんですけど、でも、そればかりが心配で」

 石田さんは俯きがちにそう言った。石田さんがなにを言っているのか、僕にはわからなかった。それで僕はほんの少しだけ苛つきのような感情を抱いたが、それを出さぬように冷静を保ったまま訊いた。

「速水さんとは誰ですか」

 その瞬間、正しく流れていた空気が動きを止めて、世界が固まってしまったような感じがした。多分世界を止めたのは石田さんでもあり、僕の発言でもあった。石田さんは、肩を使って大きく息を吸い込んで吐いた。それが合図のように空気は元の気流になって、何事もなかったかのように再び流れ始めた。石田さんはハート形の携帯灰皿で煙草を消し、話し始めた。

「桑村がバンドをやっていたことは知っていますか」

「はい。一度だけですがライブにも行きました。僕が行ったそのライブが、桑村さんのバンドにとって最後のライブでした」

 石田さんは、首だけでお辞儀をするように、大きく頷いた。

「桑村がバンドを解散することになったのには、色々と訳があります。勿論わたしが知らないことも沢山あります」

 それから少し間を開けて、石田さんは続けた。

「速水君は、桑村のバンドでドラムを担当していました。わたしから速水君のプライベートなことについて話すのは本当は良くないのでしょうが、桑村の失踪と深く関わっているので、避けて通れません」

「失踪」という言葉が、僕に緊張感を与えた。

「人間誰でも落ち込むことはあると思うのですが、速水君はそれが少し重かったというか、はっきり言って心を病んでいたんです。それで、速水君は何度もバンドを脱退しようとしていました。高校時代からのバンドですから、速水君がいなければ成り立たないと言って、その度に桑村たちは止めました。というより、許さなかった、脱退を。その結果速水君は……吊ったんです」

「つった?」

「首を」

 僕は息を呑んだ。石田さんは続けた。

「その時は、幸いご家族に発見されて無事でした。当時の速水君はかなり危険な状態だったので、丁度実家に帰っていたんです。それが二年前くらいの出来事です。未遂の原因は、ぼんやりとした将来の不安だったそうです」

 僕は芥川を思い浮かべた。石田さんは尚も続ける。

「速水君がバンドを抜けるのなら、それはもう解散だということになりました。そして解散ライブをもって、バッド・ナイス・デイは、七年に渡る活動に幕を閉じました。あの夜はわたしが観てきた中でも、一番最高のライブでした。みんな本当に輝いていた。人気も少しずつだけど上がってきていたから、今でも続いていたらなと、時たま思ってしまいます。

 桑村と連絡が取れなくなったのは、それから二三か月経ってからになります。原因ははっきりしています。速水君が今度は本当に、天国に旅立ってしまったんです。列車との事故だと聞きましたが、それが偶然の事故なのかは……正直、なんとも」

 

 僕は、アパートに帰ってから暫く放心していた。桑村さんの周りでそんなことが起こっていたなんて、微塵も知らなかった。気持ちを紛らわそうとノートパソコンの電源を入れ、書き途中の文章に取り掛かろうとするが、上手くいくわけもなかった。どうしても意識は、先程の石田さんの話に向いてしまう。そんな大事なことをなぜ話してくれなかったのかと、桑村さんに怒りすら覚えた。画面に映る文章も意味のない幼稚な散文に思え、僕は思わず画面を殴った。そんなことをしてどうなるわけでもないのだけれど、殴った。殴ると画面にひびが入り、キーボードも歪んだ。本来画面を閉じる方向とは逆に、画面を折り曲げた。そしてそれを壁に向かって投げつけた。僕は随分道理から外れた行動を取っているのに、変なところは冷静で、隣に部屋のない方の壁に向かって投げていた。機能を失ったパソコンを見下ろして、案外脆いんだなと、人ごとに思った。

 涙が頬を伝った。それが女々しく思えて鬱陶しく、乱暴に拭った。桑村さんに裏切られたように感じ、心底最低な気分であった。

 

 盆も帰らず、正月も忙しいと言う息子に、両親は不満そうな様子だった。僕は反抗期をまだ引きずっているのかもしれない。実家に帰りたいという気持ちは少しも起こらなかった。親不孝といわれても、別に言い返す言葉はない。血のつながった親子とはいえ、性格的に会わない部分はあるだろうし、それなら諦めるしかない。

 そんな訳で、大晦日の今日もアルバイトに精を出していた。衝動で壊したノートパソコンを悔やんでも仕方がない。黙ってレジの時計が進むのを待つだけだ。さすが大晦日で、いつもよりバイトの人数が多く、バックヤードでもひたすらに寿司が作られていた。

 あれから気が付いたが、石田さんはよくこのスーパーを利用しているようだった。会釈くらいはするが、特になにか会話をすることはなかった。なんとなくエプロン姿の時に話し掛けられるのは恥ずかしいので、それはありがたかった。

 松井さんとは以前のような気まずさはなくなって、大学の喫煙所で会ったら、雑談くらいはするようになった。思い返せば、雫が零れる程に潤んだ目で見つめ合ったこともあった。瞼が眼球に張り付いてしまう程に、渇いた目で睨み合ったこともあった。今の僕らは、互いの瞳に映るものを共有することもなく、平気で泣き、瞳が渇けば瞼を閉じた。そして目を合わす努力は何処へ、別々のものを見るようになってしまった。後悔がないといえば嘘になる。それが二人で茅ケ崎に行った日なのか、彼女の声を聞こえないふりをしてしまったあの夜なのか、初めて身体を重ねた時なのか、それとも出会った頃まで遡るのか。ただ、もうそれらは置いて行こうと思った。松井さんも同じ気持ちであると思う。僕らはいつも同じことを考えていながら、お互いにそれを口にはしないのだ。もう、全く知らないけど。

 桑村さんのことは、どうしようもない。なんでもない風に笑っていた桑村さんを思い出す度に、その裏の隠された表情に気が付けなかった自分に嫌悪感を抱いてしまう。このままでは、僕が桑村さんのスタジアムジャンパーを奪ったという誤解が解けないままではないか。僕もまだトレンチコートを返してもらっていない。本当に、もう、なんなんだ。

 随分化粧の濃い女が、炭酸水とのど飴を持って、僕のレジにやって来た。僕は感情もなくそれらのバーコードを読み取る。今日の客は皆そうだが、僕の右手の傷を無遠慮に見てくる。

 パソコンを破壊した時のその傷は、翌朝になってから気が付いた。狭い棺桶の中では、いつだって酷い有様のパソコンが視界に入ってくる。僕は、果たしてこれは本当に僕がやったのだろうかと、二重人格のようにそのパソコンを眺める。しかし、たとえ僕が二重人格だったとしても、右手の痛々しい傷が確固たる証拠である。絆創膏すら持っていない僕は、その傷を隠すこともしていなかった。

「お疲れさまでした」

「はい、お疲れ」

 店長に挨拶をして、着替え始めた。いつも思うのだが、店長は一体いつ休んでいるのだろうか。僕が朝からのシフトでも店長は先に来て、閉店までのシフトでも僕より後に帰る。今もパソコンに向かい、困ったように頭を掻いている。

「坂上君さ――」

 薄くなった後頭部を僕に向けたまま、店長が話し掛けてきた。

「はい」

「急なんだけど明日も入れたりする?」

「明日ですか」

 店長が振り向いて僕を見る。僕は丁度ズボンを下ろしたところだったので、急いでジーンズを履いた。一応、カーテンで区切られた着替えるための小さな空間はあるのだが、今はパートの女性が使っていたので、僕は待っているのも面倒くさくて、そこを使わずに着替えていた。

「……はい。いけます」

「本当! ありがとう、助かる。いや、急に行けなくなったって斎藤さんがね、あれ、斎藤さんってわかる?」

 店長は、安心したように顔を緩めた。僕は、自分の笑顔が引きつっていないことを願った。僕は、店長を憐れんでいる。だからこの人を困らせたくはなかった。

「店長」

「ん?」

「休めてますか」

「あはは。優しいね、坂上君は。まあ、でも仕事だからね」

 仕事――。無責任に仕事を放棄した人間の、代わりを探すのも仕事なのだろうか。この人は怒れないのだ。僕も同じだからわかる。同じだから、見ていて苛つくし、かわいそうに思う。

「お疲れさまでした」

 僕はなんだか切なくなって、一刻も早くこの空間から逃れたく思い、ぶっきらぼうにそれだけ言うと、足早にそこを去った。僕は小走りで外に逃れ、まだ電気の点いているスーパーを外から眺め、将来どんな職業に就くことになっても、スーパーの店長だけは止めておこうと心の中で呟いた。白い息だけを残して、自転車を走らせた。

 

 別に元旦からシフトに入ることは、どうでもよかった。どうせ暇であるし、働いた分だけ金は貰えるのだから。

 天気予報通り、外に出ると雪が舞っていた。桑村さんのスタジアムジャンパーは、完全に今時期に着るには薄かった。降る雪を拾いながら、自転車で帰路を行く。去年の冬は、地元にいた頃に倣って自転車を一切使わなかったが、雪が積もることのない東京では、年がら年中自転車に乗れることに今更ながら気が付いたのだった。

 途中コンビニで、煙草と焼きそばパンを買った。クリスマスもそうであったが、貧相な飯を一人で食らうのは、いささか寂しいものがある。やはり明日にでも実家に帰ろうかと思って、先程、明日もシフトを入れたのだったと思い出した。

 僕は鼻先を赤くしながら、アパートの自分の部屋の前まで帰って来た。動揺なのか寒さによるものなのか、自転車をドアの横に立てかけるのも、手が震えておぼつかなかった。

「な、な、なんでいるんですか」

 僕の見間違いでなければ、いや、こんなに近くにはっきり見えるものが見間違いであるはずはない。もしそうだとしたら、それは幻覚と言った方が正しいだろう。

「よう」

 桑村さんがドアの前に座り、僕を見上げて言った。

「寒いから中入れて」

 それもそのはず、桑村さんは季節外れのトレンチコートを着ていた。桑村さんは吸っていた煙草を地面に押し付け、寒そうに両腕をさすって、はにかんだ。僕は驚きのあまり、声が出せずにいる。桑村さんが「よっこらしょ」と立ち上がり、「あ!」と僕を指差した。

「それ、俺のじゃん。気に入ってたのに。まあ、いいけど」

「いや、桑村さんこそ、それ、僕のですよね」

「返そうと思ったから。まあ……とりあえず中入ろうぜ」

「自分の家みたいに言わないでくださいよ。そんなことより、僕が帰省してたりして、ここに帰って来なかったらどうするつもりだったんですか」

 僕は呆れ半分に鍵を開けたが、懐かしいこの感じに胸が暖かくなるのがわかった。桑村さんと荷物を中に入れてから、桑村さんの吸殻を拾いにもう一度外に出た。街路灯にひらひらと舞う雪が照らされている。僕はそれを見上げながら思わず顔が緩んでいることに気が付き、固く口を結び、回れ右をして部屋に入った。

 桑村さんが勝手に点けたテレビでは、年越しまでのカウントダウンが早くも始まろうとしていた。鮮やかな着物で着飾ったアナウンサーが、疲れを出さぬように、わざとらしい程の笑顔で台本を読んでいる。

「二千二十年も残す所あと僅かとなりました!さて、――」

 

「お見送りって、相変わらず恥ずかしい奴だな。お前」

 桑村さんは青に黄色のラインが入ったスタジアムジャンパーを、暑いのか袖をまくって着ている。確かに、ここ、東京駅は少し暖房が効きすぎているかもしれない。しかしジャンパーは体に合わず大きいので、段々と袖が落ちてくる。その度に、桑村さんは何度も袖をまくるのであるが、僕はなにも言わずにそれを眺めた。その代わりに、煙草で口を塞いだ。やはり、僕に着られるよりも、桑村さんに着られた方が、スタジャンが喜んでいるような気がした。そういえば、桑村さんは僕が煙草を吸うようになったことに関して、なにも反応をしなかった。

 桑村さんが急に僕の家を訪ねてきた日から、丁度今日で一週間が経った。その間久しぶりに酒を飲み、お互いの空白の時間を埋め合った。桑村さんが告白をするように話してくれた中には、石田さんから既に聞いた話もあったが、僕はそれらを桑村さんの口から聞くのに意味があると思って、とても丁寧に相槌を打った。

「そういえば、実家ってどこですか」

「ん、愛媛」

「愛媛……」

 桑村さんが今から帰る場所。それは僕にとって、よくイメージもできない程未知の場所であった。僕は旅行なんて殆ど行ったことがないのだから、関東も超えて四国だなんて想像も付かなかった。ただ、雪が降らぬのは、嬉しいような寂しいような気がする。僕にとって故郷は、いつまでも変わりなく、雪のある場所であるから。

「正直、蜜柑くらいしかイメージが思いつかないです……。あと、坊ちゃんとか?」

「坊ちゃん?」

 桑村さんは少し首を傾げてそう言った。

「夏目漱石の」と僕は続けた。

「ほう」

 桑村さんは、わかったようなわからないような表情で、煙草を灰皿に落とした。新幹線の時間はそろそろだった。

 僕は金魚の糞の如く、改札まで桑村さんの後をついて行った。大した物はないと、部屋にあった殆どの物を処分したそうで、今桑村さんが持っている物は、背中のギターと手に持ったもう一つのギターだけであった。僕はそんな桑村さんの存在を、改めて不思議に思った。

「愛媛、旅行がてら会いに行っていいですか」

「会いにくるって、まるで愛人じゃあないか」

 桑村さんはそう言って笑った。僕の質問には答えずに「じゃあ」とだけ言って、改札の向こうに行ってしまった。僕は、青いジャンパーの背中と、それが担いでいるギターが見えなくなるまで、目で追いかけた。

 桑村さんが行ってしまってから東京駅を出ると、水っぽい雪が降っていた。僕はその中を、季節外れのトレンチコートで歩いた。ポケットに手を入れる癖は、最初桑村さんを真似ていたのだが、煙草もそれも、今ではそうしていないと落ち着かなかった。

 

 寒さに目を覚ました。どうやら布団がめくれてしまっているらしかった。足で布団を直して、もう一度目を閉じた。

 しかし目は冴えてしまって、布団から出る気も起きず、僕は暫くぼんやりと天井を見つめた。

 夢を見ていた。随分と懐かしい記憶を見た気がする。目を閉じて思い出そうとするが、既にそれは彼方に消えて、行方知らずである。僕はエアコンを点け、机の上の灰皿を手繰り寄せ、朝一番の煙草を味わった。

 適当なパンとコーヒーで朝食を済ませ、パソコンを開いた。パソコンの時刻は、十二時を示している。煙草を止めてから寝起きが良くなったと、誰かが言っていた。しかし僕が煙草を止めることは生涯ないので、何時に起きようが誰にも怒られない点は、この仕事の良い所かもしれない。

 十四時にリモートインタビューを受ける。インタビュアーの女性が若くて綺麗な人だったので、髭を剃っておかなかったことを後悔した。家から出ない日は全く気にしないので、これは失敗だった。お決まりの質問が何問か続いた後「お仕事中に常に机の上に置いていて、これと共に執筆をしている、みたいな物ってありますか」という質問をされた。僕は軽く、今の机上を確認した。ボールペンが二本、殴り書かれたメモ用紙数枚、眼鏡、煙草と灰皿、そして、いつかに撮ったチェキ。

「煙草くらいですかね」

 僕が下手くそに言って笑うと「なるほど」と大袈裟にインタビュアーは肯いた。

 

 孤高のハードボイルド作家、僕はそう呼ばれていた。実際は女性経験が少なく、交友関係も狭いだけの、孤独な作家に過ぎないのだが。

 僕は今、なんとなく思い立って、大学生が主人公の青春小説的なものを書いていた。僕みたいなのが書く青春小説に需要はないだろうし、今までとあまりにも作風が違うため、どうだろうと思って、編集者に半分くらいまで出来上がったものを送ってみたら、案外いい反応をされたので、本になるかはわからないがとりあえず最後まで書いてみようと思っている。

 それを書き始めたきっかけは、一枚のチェキだった。大学生の時にお気に入りだった遠藤周作を改めて読み返していて――いつに読んでも、やはり僕の中では魅惑に輝いている――ある一冊に、それは挟まっていた。大学生の時に少しだけ関係を持った女の子と、茅ケ崎の海で撮ったチェキだ。僕が自分のことを僕と呼ぶのを、子供みたいと、その子に馬鹿にされたのを覚えている。その子の名前は忘れてしまった。僕の記憶力が悪いのもあるだろうが、なんせ二十年も前のことなのだ。だのに、彼女の腹のほくろを今でも鮮明に思い出せてしまうのは、実に不思議である。

 しかし僕は悩んでいる。今まで作り上げてきた物語の中で、散々なにかを殺し殺されてきた僕なので、今更、純な恋愛ものを書いても、正直物足りない。ちらと本棚を見ると、文豪たちが「お前はそれでいいのか」と僕の心に囁いてくるような気がする。

 パソコンの前で腕を組んで考えていると、寒さに体が大きく震え、鳥肌が立った。僕は、クローゼットから襟付きのスタジアムジャンパーを引っ張り出して羽織った。そういえばこのジャンパーは、大学生の時に気に入ってよく着ていた。確か、吉祥寺かどこかの古着屋で買ったような気がする。青に黄色のラインが入った、いかにも若者風のこれは、もうずっと着ていなかったし、この歳になって着るのには勇気が要る。

 本日二本目の煙草を缶から取り出し、火を着ける。懐かしいジャンパーを着て、当時の記憶が少し蘇る。大学生の時に吸っていた煙草は、キャメルであった。大学を辞めた直後に煙草が値上がりして、金がなかったので自分で巻いたりもしていたな、と思い出して苦笑する。当時は、二百円から二百二十円に値上がりするとかで拗ねていたのが懐かしい。

 目を閉じて、もう少し深く過去に思いを馳せる。なぜ僕は大学を辞めたのか。交友関係はどうだっただろうか。当時聴いていた音楽はなんだったか。憧れていたものはなんだったか。少しずつ見えてくる。あの日の僕と、隣に一人の青年が浮かんでくる。目尻の少し下がったその青年は、どうやらギターを弾いている。

 さあ、どうしてやろうか。僕はキーボードに手を置いた――。

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2020年のラクダたち @adgjmptwa1234

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