電話の向こうの男は、私の決死の言葉にもまるで動揺を見せなかった。

 「まぁ、甥っ子だからな。」

 そうじゃない。そうじゃないのに。

 違うでしょ、と辛うじて言葉を紡ぐが、電波に乗り切らないほど微かな音にしかならなかったらしい。男はなにも答えなかった。男は最低のクソ男だったが、人が絞り出した言葉にはきちんと答えた。いつも。この男が私に嘘をついたのはたった一度、伸ちゃんと寝てるんでしょう、と問い詰めた時だけだ。

 寝てない、とこの男は言った。あまりにも下手な嘘すぎて、私はそれ以上なにも言えなかった。そしてその晩、私はこの男に捨てられた。

 だからこの男は本当に、伸ちゃんを甥っ子としか考えていないのかもしれない。いや、そうではなく、甥っ子としか考えていないと思い込んでいるのかもしれない。嘘の下手な、この男は。

 「パスポート持って待ってろ。今から行く。」

 端的な命令。私が彼の言葉に従わない可能性なんて過ぎりもしないのだろう。

 「行かないわ。」

 私は泣きながら言い、電話を切った。

 行かない。携帯をソファの上に投げ出し、口の中で繰り返す。行かない。

 けれど身体は勝手にパスポートを探し出す。リビングの整理ダンスの上から二番目。私のパスポートと伸ちゃんのパスポート。

 二冊とも取り出して顔写真のページをめくってみる。

 今よりずっと若い二人の写真。伸ちゃんは年齢の出にくいタイプだからあまり変わっていないけれど、私は随分と歳を取った。

 このパスポートは結婚する前、伸ちゃんと二人で取りに行った。新婚旅行の行き先がハワイで、2人ともパスポートを持っていなかったから。

 なにをもってして私は伸ちゃんと結婚したのだったろうか。あんなに伸ちゃんの叔父さんとのセックスに溺れたくせに、どうして私を抱けないあのひとと。

 思い出せない。

 なにか、理由があったはずなのに。

 パスポートを握りしめ、服を着替える。逃避行にふさわしいような地味なブラウスとスカート。荷物はパスポートだけを羽織ったカーディガンのポケットにおさめた。

 着替え終わりを見越したように、玄関のチャイムが鳴る。私は唇を噛み締めて悔しさを押し殺しながらドアを開けた。

 「久し振り。きれいになったなぁ。」

 私の顔など覚えてもいなかっただろうに、男は暗くて甘い声で下らない世辞を言う。

 馬鹿にしないで。

 その一言が口に出せない。今も、昔も。

これが恋だというのなら、そんな感情はくたばってしまえ。

 「行こう。」

 男が私の肩に手を触れる。私はその手を掴んで引き寄せる。

 「抱いて。」

 その一言を口にするだけで身体がぐずぐずに溶ける。呼吸は乱れるし、視界が妙に熱い涙で潤んでしまう。今ここで抱いてくれないと、私の身体はもう一歩も動けない。

男は驚いた様子もなく喉だけで笑って、器用に片手で私のブラウスのボタンを外した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る