灰色の夜明け 清水結衣
昼下がりの電話。
ニュース番組を流し観しながら洗濯物を畳んでいた私は、ソファの上に投げ出していた携帯電話を引き寄せ、相手を確認することもせず通話ボタンを押した。
伸ちゃんと結婚して専業主婦になって五年あまり。私に電話をかけて来るのは実家の母だけになっていた。
「結衣。」
けれど電話の向こうの声は聞きなれた母の物ではなくて。
聞きなれてはいない、けれど私の耳の奥に張り付き続けたその声は春の夜みたいに暗くて甘い。
例えば眠れない夜に、銀行で順番待ちをしている午後に、スーパーで買い物をしてる夕方に、伸ちゃんの帰りを待ちながらシチューを煮込んでいる晩に、私の耳は何度でもその声を甦らせた。
大学生だった私は、あの人の外見でも語り口でもセックスのテクニックでもなくて、この声にやられたのだと今なら分かる。
『伸ちゃんはあなたとの関係で悩んでいるんです。お願いだから彼と話をしてください。』
そう言って伸ちゃんの叔父にあたるこの男の部屋を訪ねた私を待っていたのは、脱げ、という端的な侮辱と暴力的なセックスだった。
「俺、中国帰るからさ、お前、ついて来いよ。」
大学生だった私を犯した男は、一泊二日の伊豆旅行にでも誘うみたいに私を誘惑した。
携帯電話を握る指が震えた。内臓全部が砂を詰められたように鈍く痛む。恨み言葉はいくらでも思いついた。
私の名前と顔どころか、存在さえも覚えてはいなかったくせに。あんなふうに容易く犯されるような女、砂場の砂くらいありふれてつまらないものでしかないと思っているくせに。それが今になってなんでいきなりこんな電話をかけてくるのか。
「結婚、なさるんでしょう。」
「知ってんの?」
「夫から聞きました。」
「へぇ。」
電話の向こうで夫の叔父は、この世のなによりどうでもよさそうな相槌を打った。
悔しかった。私を犯したあの夕方も、この男はこの世のなによりどうでもよさそうな顔をしていた。せめて性欲や征服欲をむき出しにして襲いかかってきたならば、私だってあんなに狂わなかった。
夫が私を抱けないことを、私は一度も責めたことがない。子供も諦めるか人工授精でいいと思っている。
それはこの男に抱かれたからだ。一生分くらい、身も世もなく縋って抱かれたからだ。
脱げ、舌出せ、上に乗れ。端的に命じられるたびに泣きながら私は脱いだし舌を出したし上に乗った。それでもこの男が私を見ていないことは理解していた。理解していたから、余計に狂った。なにをしたって振り向いてもらえるはずなどなかったのに、ぼろきれみたいに抱かれるだけ抱かれて最終的には捨てられた。
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