番外編 ラウディオ


 彼は、世間一般的に見て普通に幸せ・・・・・だった。


 普通に幸せ、と言うと少し変な言い方かもしれない。


 だが、そう言えるほど彼は自分が不幸だと感じる程の不自由は感じていなかったのだ。



 穴が空いて擦り切れた服を着続けた事はない。

 常に新品という訳では無いが、服の数には余裕もあった。


 食事でも毎日食べるものに困る事もなかった。

 祖母の作ったホワイトシチューと、噛めばすぅっと歯が通る一口サイズのジャガイモが大好物だった。


 夏の暑さ、冬の寒さのせいで眠れない日もなかった。

 一軒家という事もあり、彼は自分の部屋もあった。


「あぁ……、学校行くのめんどくさいなぁ」


 ベッドに寝転がり、そんな事を呟く一般的な子供だ。

 彼の周りの人間からしてみても普通。


 貧しく恵まれていない子供からすれば幸せに見え、裕福な家の子供から見ると不幸に見えたのかもしれない。


 別にこれといった不自由のない生活。

 彼はそれが幸福な事なのだと、そう思い込むように・・・・・・・していた・・・・


 地球――日本――○○○○。

 彼はそこで父、母、弟、妹と共に暮らしていた。


 一家の大黒柱である父親はサラリーマン。

 母親は彼が産まれても働いていたが、弟が産まれてからは子育てに専念するために退職し専業主婦になった。


 彼が産まれた時に仕事を辞めなかったと理由は、まだまだ仕事をしたかったのと、母方の祖母が子育てに積極的に協力してくれたからだと言う。


 しかし、子供が2人になったことで両親も祖母1人に任せることは負担になると考えたのか、仕事を辞めた。


 ちなみに弟は彼が5歳、妹は10歳の時に産まれた。

 5年ごとにハッスルする両親だったわけだ。


 だが、この弟と妹は、彼が自分が不幸だと感じるキッカケにもなった。


 弟と妹が産まれた事が不幸だと感じたわけではない。

 家族が増えた事自体は彼も嬉しかった。

 何度でも言うが、彼は普通に幸せだったのだ。


 欲しいものは全てではないが買い与えてもらえた。


 幼稚園児の時には仮面騎士のグッズを。

 小学生の時には最新のゲーム機に、ゲームソフトを。

 中学生の時には部活動を始めることも許され、部活動で使用する道具だって買い与えてもらえた。


 義務教育ではない高校進学も当たり前のようにした。

 大学進学は……、結論から言うとできなかった。


 親の愛とは・・・・・親から与えられたも・・・・・・・・・


 彼にとってはそうだった。

 何不自由なく生活できることが、親の愛だと。


 欲しいと思ったゲームを買ってもらえなかった事はあるが、それはどの家庭でもある。

 買い与えすぎてもよくないという両親の教育・・だ。


 ここまでならなんてこともない、平凡な家庭の話だ。


 彼が初めて家族に疑問を持ったのは、彼が小学性になり、弟が2歳になった年。

 初めてのテストでとった100点を親に見せた日だ。


 彼は100点満点とその証の花丸の描かれたテスト用紙を先生から受け取り家に帰るまで、クリアファイルにすら入れず、友達に自慢しながら手に持って家に帰った。


 そして、手も洗わずすぐに弟と絵をかいて遊んでいた母親にテストを見せたのだ。


 両手でずっと握っていたせいで端がくしゃくしゃになったテスト用紙。

 幼稚園の時にもテストはあったが、幼稚園の時には点数はなく結果はテスト用紙いっぱいの花丸だけだ。


 “点数”という結果が出たのは今回が初めてだった。

 自慢せずにはいられなかった、なにせ初めて目に見える形で結果が、花丸と100点満点なのだから。


「お母さん! テスト、100点取ったよ!」

「あら、もうテストなんてやったの、早いわね」

「うん! 100点!」


 彼が両手で突き出したテスト用紙を受け取った母親は流れるようにテーブルの上に置き、彼に笑顔を向けた。


「後で見るから待っててね、それよりも早く手洗いとうがいをしなさい、風邪をひくわよ」

「わかった!」


 母親の言う通り、彼はランドセルを置いてから、軽い足取りで洗面所に向かった。


 外から帰ってきたら手洗いうがい。

 これは、物心ついた時から言われ続けた習慣だ。


 彼は意気揚々と歩き出し、100点満点のテストを思い浮かべながらニマニマと笑っていた。


 すると、その声は後ろから聞こえてきた。


「おかあさん! みてみてー!」

「あらぁ! すごいわね、綺麗な絵ねぇ」

「そうでしょ! すごいでしょ!

「お父さんが帰ってきたら見せてあげようね」

「うん!」


 彼は、足を止めて振り返った。

 今の母親と弟のやり取りに、疑問を感じずいられなかったのだ。


 弟のクレヨンを殴り書きしたような絵を見ながら、母親は弟の頭を撫でている。

 笑顔で絵を見せつける弟を、母親は満面の笑みで撫でているのだ。


 弟の頭を撫でる母親は足を止めた彼に気付くと、少し声音を強くした。


「あら、○○。早く手を洗いなさい」

「う、うん」


 母親にも強く言われ、彼は手を洗った。

 手を洗った時も、うがいをした時も、歯の間に何かが挟まったような違和感は残っていた。


 しかし手を洗い学校からの提出物を出した後、友達と遊びに行くと、その違和感は消え去った。


 ――その夜。

 定時で帰宅した父親と、晩御飯を食卓に並べた母親。

 そして、テスト用紙を持った彼と、ぐちゃぐちゃの絵を持った弟。


 父親が缶ビールを持ちながら食卓に着いた途端、彼はテスト用紙を突き出した。


「お父さん! 100点! テストで100点取ったよ!」

「おお、そうかそうか」

「すごいでしょ! 100点に花丸だよ!」

「あっ、おとうさん! ぼくもえをかいたんだよ!」

「おおっ、△△は絵が上手だなぁ」


 父親は、弟の頭をなでる。

 彼の100点のテストと、弟の絵を受け取って。

 弟の頭だけを撫でる・・・・・・・・・弟だけを褒める・・・・・・・


 お昼に学校から帰ってきたときと同じ違和感。

 母親の時と全く同じ違和感を抱いた彼は、父親が弟を褒めるその姿を見て確信した。

 自分の違和感の正体が、なんなのかを。


 彼は親に褒められたことがなかった。


 そして、親に褒められる事が当たり前だと気づくのは、それからさらに1年後の事だ。

 彼がその事に気づくキッカケは色々とあった。


 日々の出来事や、弟と両親の関りに、そして何より実感させられたのは学校の授業参観。


 友達やクラスメイトが授業の様子を親に褒められている中、彼は一度たりとも褒められることがなかった。

 言われる事は「これからも真面目に取り組みなさい」と、それだけだ。


 もちろん、なぜ褒めてもらえないのかとも思った。

 弟より上手に絵をかいても、妹が産まれて家事を精一杯手伝っても、彼は褒められない。


 当時の彼は、まだ足りていないから、結果が足りないから褒めてもらえないのだと結論付け、とにかく頑張った。


 国語、算数、理科、社会……。

 小学生6年間でのテストは全部とまではいかないものの、100点満点をとった。


 頑張った姿を見てもらいたいから運動会でリレーの選手にだって選ばれた。

 一生懸命に走り、1位もとった。


 だが、なぜか褒めてくれない。


 弟が小学校に通うようになり、初めてのテストで100点をとれなかった時に、親は弟の頭を撫でた。

 妹が描いた何が書いてあるかわからない絵を、親は頭をなでて褒めていた。


 そして中学生になった時も、それは変わらなかった。

 多感な時期に入った彼は、親に褒められる弟と妹を見て「なぜ俺は」と憤慨した。


 だが、それでも親に褒められたい、褒められてみたいという想いが強かったのだ。


 褒められるチャンスを増やすために部活に入った。

 結果を出せば褒められると思ったため、可能性の高い運動部を。


 部活を始め、家族以外の人間と過ごす時間が増え、電車に乗って別の町に行ったり、友達の家に泊まってゲームをしたりもした。

 その分時間はとられたが、努力は怠らなかった。


 しかし、彼は容量がいい人間ではなかった。


 勉強を頑張れば部活動が疎かになり、部活動を頑張れば疲労で勉強が疎かになりテストの点数も下がった。

 中学校になるとテストの結果と他に順位付けが行われるため、その結果は一目で理解できる。


 同じく部活動を行うクラスメイトが高順位をとる中でも、彼は常に150人中70位程度と平均だった。


 時に部活動の影響で90位と平均以下に学年順位が落ち親に苦言を言われた時、彼は自分の部屋で泣いた。


 努力を怠ったわけではない。

 だが、結果が伴わない。


「駄目だ、駄目だ、こんなんじゃ褒めてもらえない」


 睡眠時間を削り、とにかく努力しなければ不安になりそうだった時は寝ずに復習もした。


 効率が悪い自覚はあったが、量はこなした。

 その成果が実ったのか、中学生最後の学年末試験では30位にまで順位を上げた。


 だが、それでも中学生の間に褒められる事はなかった。


 そして、彼は高校に進学する。

 自分に文武両道は無理だと思った彼は、部活動に入らず勉強に時間を回した。


 しかし、高校生になってからは半分社会に踏み込むからか、彼の社会的な視野は爆発的に広がる。


 半分大人になり、行動範囲と共にできる事が増えた。

 バイトでお金を稼ぎ、友達と他県に出かけ、様々な物を見たのだ。


 だからこそ、小学生からため続けた彼の感情は爆発することになる。


 高校に入学して初めての試験。

 中学校とは違い同じような学力の人間が集まったからだろう、彼は学年300人中10位という結果を残す。


 中学生の時とは違い、明らかな高順位

 今度こそ、今度こそ親に褒めてもらえると思った。


 だが、気恥ずかしさもあったからか、初めての時とは違いテスト結果の記載された用紙を親の目につく食卓に置くだけにとどめ、何かを言われるのを待った。


 しかし、その日彼が親に言われた言葉は「やっぱり同じような学力の人間が集まるからだな」と、それだけだ。


 期待していた分、彼のショックも大きかった。


 だが、そのショックも次の日になれば消えていた。

 親からの言葉を求めて約10年……。


 この頃になると彼の中にも諦めにも似た感情が芽生えていたのだ。


 そして、高校3年生。

 彼は親と人生初めてともいえる大喧嘩が起こった。

 弟が中学生、妹も小学校の低学年の時期だ。


 高校3年生での初めての学力試験、彼は大学進学の勉強をするため高校1年生で学んだことの復習を行っていた。

 古典、数学、物理、日本史、等々全教科分だ。


 結果から言うと、高校3年生になって初めての試験で彼の学年順位は53位にまでおちた。


 しかし、彼は別にこの結果を気にしなかった。


 これからの大学入試のことを考えると、要領の悪い彼も自分の事を「仕方がない」と、そう思える数字だった。


 だが、最早流れ作業のように試験結果を親に見せたその日、彼の運命は大きく変わる。


「ずいぶんと下がったな」

「えっ?」

「前の学年順位はなんだった?」

「8位だけど……、今回は大学の勉強もしていたから」

「8位? じゃあ今回はかなり下がったのね」

「なんで今回は53位なんだ? 今までできていたものができなくなったのか? いつも高順位だから油断したのか?」

「それは――」

「○○、しっかり・・・・勉強したのか・・・・・・?」

「……………………は?」


 その時の彼の脳内に噴き出したのは疑問の嵐だ。


 勉強、したのか? しっかり?

 見てないのか? 知らないのか? わからないのか?

 えっ、彼が、頑張って、勉強……しっかり。


 頭の中で父親の言葉がハエのように動き回る中、次の母親の言葉で彼の中の何かが切れた。


「お父さんの言う通り、○○はもう大人なんだからもうちょっと自覚を持って――」

「ッッッッふざけんな!」

「なっ!」

「勉強したのかだって? しっかりやったのかだって!? やったよ! やったに決まってんだろ! 一体どれだけ俺が時間を割いたと思!?」


 今までも、悪い点数をとれば怒られた事はあった。

 しかしそれは「今回は悪かったな」「ちょっと点数が落ちたな」と、試験の結果に対しての言葉だった。


 だが、今回、こともあろうにこの両親は彼の過程・・さえも否定した。


 今までやってきただけの努力を、頑張りを。

 ただ親に褒めて欲しかっただけでやっていた頑張りをも否定したのだ。


「○○……?」

「ど、どうした?」


 両親は、大声で叫ぶ彼に驚いていた。

 そりゃそうだろう、彼が声を上げて怒鳴るのなんて初めてだ。


「俺のことは褒めてくれないくせに、□□と△△ことは褒める! 試験で俺より悪い点数を取った時も、おつかいに行った時も! あいつらだけは褒める! なのに、それなのに! なんで! なんで……俺だけを褒めてくれないのさ……」


 最後はもう泣き言のようになっていた。

 溢れる涙と裏返った喉のせいで上手く言葉が喋れない。

 両親はこんな彼に驚いているのか今まで見たことも無い様子で慌てている。


「○○、お前はお兄ちゃんだから……」

「そんなこと思ってるなんて知らなくて……」


 兄だからなんだと言うのか。

 知らなかったからなんだと言うのか。

 俺は褒めてもらった事がない。


「もういい」


 一言、そう言うと彼は玄関に向かい、外に出た。

 とにかく家から離れたかった、両親から離れたかった。


 心配をして欲しいわけでも、追いかけてきて欲しい訳でもない、ただ両親から逃げたかったのだ。


 とにかく脇目もふらずに走り、走り、走り、走って……。

 いつの間にか、赤点灯の道路に飛び出していた。


 横を見ると、ハンドルに突っ伏している運転手。

 寝ているのだろうか、居眠り運転だろうか。

 イヤホンをしている、完全に交通法違反。

 そんなことが頭の中に浮かび、彼は――


 ガッァダァァァァン!


 ある程度の質量を持った物体同士が衝突した時の轟音。

 彼の体は蹴り飛ばされたボールのように宙を舞う。


 この時、あるいは受け身をとろうとすれば何とかなったのかもしれない。

 コンクリートと体の間に手を挟めば両腕を骨折するだけですんだのかもしれない。


 だが、この時の彼は諦めてしまっていた。

 今まで頑張ってきたものがなんの意味もなかったと突きつけられそんな気力も無くなってしまっていたのだ。


 だから、なにもしなかった。

 宙を舞った体は頭からコンクリートに衝突する。


 その瞬間、首の中にあった大事な何かがブチッと切れるような音が頭の中で響いた。


「あぁ、クソッ、なんで、こんな……」


 1秒ごとに視界が薄く、暗く染まっていき、脳は電源を落としたパソコンのように機能を停止させていく。


 ……今度は、褒めてもらおう。

 頑張ったら褒めてもらって、悪いことをしたら怒られて。

 試験でいい順位をとったら頭を撫でてもらおう。

 抱きしめられて「よくやった、偉いね」っていってもらう。


 次の人生は、そう……。


 沈みゆく意識の中、最後に流れた涙。

 そして、死にゆく彼に駆け寄る2人の聞き慣れた足音を最後に、彼の脳は暗転した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る