ZUNDERLAND
詩遊 灯郎
第1話 UNDERLAND
ここは大手スーパー・エオンのずんだ餅屋。臨時終点の店だ。私はずんだ餅を売っているバイトだ。私は言っているだけなので、ずんだ餅の作り方を覚える必要はない。だが、
「ずんだ餅本当美味しいから!自分で作ってみて!」
隣の太った男、バイトリーダー太田は執拗にずんだ餅作りを勧めてくる。誰にでも勧める。客にも勧めて店長に怒られていた。他のバイトや店員などにはそのしつこさから少々疎まれていた。誰もずんだ餅を極めたくてこのバイトに入ったわけではないからだ。終いにはずんだ餅の作り方メモを渡してきた。他の数人の女性バイトも
メモをもらい、捨てていた。私はまだ持っている。この男は疎まれるようなことをするが、そこに悪気は無いからだ。
「
名前をいじられるのはちょっと違う。やっぱり捨ててしまおうか。
その時だった。店番をしているその目の前を黒い影が横切ったのは。当然店番をしているなら少しの興味はスルーするべきだが、その黒い影は私の関心だけでなくずんだ餅を1パック持ち去っていった。私は大義名分を得たような気がして、止める太田の声も聞かずにレジ前を脱走した。解放的な気分で。
黒い影は子供ほどの背丈で、黒いマントを羽織っているようだ。私は店舗の中を駆け回り、逃げ回る影を追いかける。エスカレーターの横を通り、CDショップの角を曲がる。食品売り場のレジスターの間をすり抜けて、冷凍コーナーへ。すれ違う買い物客たちの視線が気になるが、走り出したからには捕まえないといけない気がした。手ぶらでは帰れない。前を走り続ける黒い影は、あろうことか精肉売り場の辺りからバックヤードへ繋がる観音開きのドアを押し、中へ入っていった。こんな怪しいやつが関係者のはずがない。大義名分が一つ増えた気がして、心が躍った。積み上げられたお菓子やトイレットペーパーなどの雑貨を載せた台車を越えて、黒い影は進む。影が握るずんだ餅のパックが軋む音がする。「バックヤードへ入ったなら、そこにいる従業員に捕まるだろう」という私の思いに反して、従業員は1人もおらず、影は逃げていく。狭い通路を四苦八苦しながら通り抜けて必死で追い縋る私の目の前で、不意に影は止まった。鍵のかかった扉の前だ。やっと捕まえられると思ったその時、薄暗がりに立つ黒い影が膨張していった。よく見ると、黒い影から闇が滲み出し、それが広がっていっているのだ。その闇に触れて、私の片足は沈み出した。黒い影もその闇に飲み込まれていく。いや、自ら入っていくようにも見える。私も腰まで飲み込まれ、助けを呼び続けるも、みるみるうちに体はどこへとも知れぬ暗闇に沈む。商品を積んだ棚が、薄暗い通路が、目の前から遠ざかっていく。体のほぼ全てが闇に沈み、最後に残った右目で、精肉店の店長を見た。声を聞きつけて登場したらしいが時すでに遅し。店長には誰がどうなったのかもわからぬまま、私は飲み込まれた。役立たずの精肉店長。
目が覚めるとそこは、暗い穴ぐらのようなところだった。薄暗がりで、岩の壁に苔が生えている。バイト中につけていたエプロンは少し土で汚れている。闇に覆われた時の、落ちるような感覚を思い出す。ここは或いは、地獄なのだろうか。悪いことはしていないはずだ。勝手なことはしたが。
同じところにいてもしょうがないので、歩き出した。穴ぐらは迷路のようで、進んでも進んでも景色はあまり変わらない。道を照らすのは穴ぐらの中に等間隔で配置された炭鉱用のライトのようなものだけ。ライトの間隔は長く、光が途切れるところがある。いくつものライトを超えて、薄暗い中を進んでいたら、ロープが張られた行き止まりに着いてしまった。ロープの先には、底が見えない深い穴が広がっている。
疲れてその場に座り込んだ。お腹も減ってきた。ここがどこかもわからない。生きて出られるのだろうかと不安になってきた。とりあえず動くしかないと結論を出し、立ち上がろうとしたら、地面に置いた手に妙な感覚がした。闇だ。バックヤードで私を飲み込んだ闇のようなものが、音もなく深い穴を満たし、私を飲み込もうとしていた。急いで立ち上がろうとするも、粘土のある闇は私を逃さない。音もなく、非情な速度で私は飲み込まれていく。また別の場所で目を覚ますのだろうか。それとも今度こそ死んでしまうのか。踠き叫ぶ。助けを呼ぶ。
来るわけないと思いながら。さっきまで人は見なかったのだ。
炎。私を救ったのは激しい炎だった。渦を巻くように旋回し、闇を祓った。闇は深い穴の底へと戻っていった。
そしてその炎を放っていたのは、子供ほどの背丈で、二足歩行で、傷だらけの、赤毛の兎だった。
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