第6話 紫草の相聞

 斉明天皇四年十月十五日。

 斉明天皇は未だ造営中の後飛鳥岡本宮を離れて紀湯に向かった。


 鎌子は斉明天皇と間人皇女大王を乗せた輿がそれぞれ王宮から出るのを見送った後、遅れて出発した葛城王を王宮大門の外まで見送った。


 出発前、鎌子は大事を取って葛城王も輿を使うか、あるいは軍装での移動を提案したが葛城王は首を横に振った。

「何か起きると決まったわけではない。下手に周囲を刺激して思ってもいない事態を引き起こすことの方が危ぶまれる」

 それでも、と鎌子は皮の短甲を上衣の下に着けることを葛城王に勧め、肩にかける鹿の毛皮とともに葛城王に差し出した。葛城王は自身の身の上よりも鎌子の心配の方を汲み取り、その両方を身に付けた。


 王族に代々伝わる刀を佩いて壮麗な馬具の馬に乗る葛城王はこの時、三十三歳となっていた。その堂々とした姿は誰が見てもこの国の次の統治者に相応しい姿だった。


――吉野を経由して紀湯に向かう道の先々で多くの者が葛城王の姿を見るだろう。


 葛城王を誇る気持ちを昂らせ、鎌子は葛城王の一行が山の端に遮られて見えなくなるまで大門の外に立ち続けた。


「内臣殿は一緒に行かれなかったのですか」

 王宮の中に戻った鎌子の背から蘇我赤兄が話しかけてきた。鎌子が紀湯に同行するかどうかは明らかにしておらず、王宮の多くの者は鎌子も紀湯に行くと当然のように思っていた。訝しげな顔をしている赤兄もその一人だったのだろう。

「政務が溜まっているのです。大王がお出かけになっている間に少しでも片づけておかなければなりません。毎日、出仕することになりそうです」

 鎌子は自分が王宮に居続けることを明言した。赤兄に何か企みがあればそれだけでも充分な牽制になるはずだ。鎌子がそれとなく観察した赤兄の表情には微かに強張りが見えた。

「内臣殿はご苦労なことですね」

 そつのない赤兄の反応に対し、鎌子は努めて自分の表情が和やかなままになるよう十分に注意を払った。

「私ひとりが残されれば寂しい思いもあったでしょうが、佐伯子麻呂も残っています。良い機会ですので彼にも手伝わせますよ」

 佐伯子麻呂は葛城王が直轄する精鋭軍隊の長である。子麻呂が残っているということは王族の軍が直ぐに出動できることを示す。

 先ほどは隠せた動揺が今度ははっきりと赤兄の表情に現れた。

「子麻呂殿も残ったのですか。それは心強いことでしょう。ではわたしはこれで」

 赤兄は拱手し、鎌子の前から足早に立ち去った。


 

――赤兄を必要以上に追及する必要はない。

 それは葛城王と鎌子が確認し合ったことだった。鎌子は回廊を遠ざかる赤兄の背をしばらく注意深く見送り、そして王宮の奥へと足を向けた。

 鎌子は斉明天皇から、大海人皇子に政務に関する教育を行うようにと命じられていた。

 斉明天皇は六十歳を過ぎる高齢である。いつ倒れてもおかしくない。葛城王が斉明天皇の次の王となった場合、皇太子として政務を担うのは大海人皇子になるはずである。その時が迫りつつあるのは王族の誰もがひしひしと感じている現実だった。


 とはいえ。

「大海人皇子様、こちらの木簡に記されているのが武蔵国から送られてきた物の名称や量です」

 鎌子が目の前の卓の上に置いた木簡を大海人皇子は無言で見た。

「武蔵国は以前から屯倉があって――」

 鎌子の説明を果たして聞いているのかどうか、大海人皇子のほとんど動かない表情からは見て取ることができなかった。


 鎌子が父の中臣御食子から聞いたところによれば、大海人皇子は葛城王とほぼ同日に生まれたという。葛城王が夜明け前、大海人皇子は夜が明けてから生まれたのだというが、同じ日に生まれた兄弟に見られるように二人の顔貌はとても良く似ていた。


――けれど感情を表に出す葛城王と、表情に乏しい大海人皇子と見間違えるようなことはないだろう。


 鎌子の進講に関心を示さない大海人皇子の横顔に、鎌子は少年時代の葛城王を思い出した。


――勉強しろ、教典を覚えろとは毎日言われているけれど、興味を持てないことをやらされるのは退屈以外のなんでもない


 かつて葛城王はそう言って、鎌子に六韜を教えろとせがんできた。

 懐かしい記憶に思わず口の端に浮かんだ微笑を打ち消して、鎌子は退出してきたばかりの大海人皇子の居室へと通じる扉を眺めた。


――大海人皇子の緊張を解いて自分との間に入ってくれる人物を、誰か探さなければ。


 鎌子が探そうとしていた人物はその日の内に見つかった。

「内臣様、こちらに大王と間人皇女様が近々必要とされる物の目録をお持ちいたしました」

 いつもは女官長がまとめて報告するのだが、女官長は大王に付き従って紀湯に出かけてしまっている。女官長の留守の代わりに鎌子に報告をしに来た若い女官は額田王だった。

 額田王は、その歌人としての才を伝え聞いた鎌子の推挙によって額田部から王宮に出仕した経緯がある。出仕した後にも鎌子とはほとんど言葉を交わすことはなかったが、どちらも王族近くにいるので額田王の存在は鎌子の目の端に入っていた。


 鎌子は額田王が差し出した木簡に目を通した。書かれている文書は大化の改新の後に定めた公文書の体裁が守られている。字の形は見覚えが無かったが、黒々とはっきりとした字で読みやすい。

「この木簡は誰が書いたものか」

 鎌子の質問に額田王は膝を折り、深く頭を下げて答えた。

「わたしが書きました。何か不手際がございましたか」

 鎌子は新鮮な驚きで額田王を見た。女官たちの間で和歌が流行っているとは聞いていたが、文字を記す者までいるのは少々予想外だったのだ。

「いつ文字を覚えた」

「皆様が作る和歌をどうしても書き留めたいと思い、少しずつ読み書きを覚えました。公文書には決まった文言しか使われておりませんので、文字の勉強がしやすいのです」

 額田王は顔を上げてはきはきと鎌子の問いに答えた。

「……そなたは大海人皇子様と面識はあるか」

「大王や間人皇女さまに歌を教えた時に、何度か同席されています。歌の読み方をお教えしたことも一度ございました」

 鎌子は木簡から目を離し改めて額田王を正面から見た。

「額田王、頼みがある」


 翌日から、鎌子は額田王とともに大海人皇子の部屋を訪れることにした。

 最初の内こそ大海人皇子は官人ではなく女官が側に付くことを気にしていたが、次第に額田王の朗らかな物言いや闊達な仕草を受け入れていく様子が見られるようになった。


 文字の読み書きを教えるのは、これまで女官たちにも教えてきた経験がある額田王の手腕の方が鎌子より上だった。その他、鎌子の進講に先立って額田王は細々とした知識を大海人皇子に伝えた。

 額田王の助けは効果的で、大化の改新で先帝が出した詔の内容、現在までの進行状況などを大海人皇子は次々に吸収していった。


 そればかりではなく、やがて大海人皇子と額田王は二人して野駆けに出かけるようになった。

 額田王の出自である額田部は馬を飼う部の民である。幼いころから馬に慣れ親しんできた額田王の乗馬の腕は歌と同じか、それ以上だった。

 鎌子は思いがけずに親しくなっていく二人の様子を、どこか不思議な気持ちで眺めていた。


 次の皇太子としての大海人皇子の教育が順調に進む一方で、平時より人の少ない王宮を守る佐伯子麻呂は、暇を持て余して度々鎌子の執務部屋までやってきた。

「自分は文字の読み書きをできないが、息子たちはだいぶ勉強しているから任せることにした」

 鎌子は筆を置き、その日の子麻呂の雑談に付き合った。

「子麻呂殿の息子はなかなか優秀だと大学寮から報告が来ている。立派な官人になると思う」

「それはありがたい。だが佐伯の武人として戦う術も教え込んでおきたいんだよなあ」

「息子は一人ではないだろう」

「確か五人ほど生ませたはずだ。うん? あの女には二人生ませていたかな」

 自分の子どもの数を指折り数える子麻呂の様子を鎌子は苦笑しながら眺めた。


 飛鳥の王族が紀湯に発って二十日が過ぎた十一月五日、夜中の王宮へ蘇我赤兄が駆け込んできた。

「一大事です。有間皇子が、今まさに大王への謀叛を起こそうとしております!」 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る