第10話 鴛鴦の悲嘆(2)

 最初の妃だった遠智娘おちのいらつめを亡くした葛城王の心痛は周囲が思う以上のものだった。そもそもが蘇我石川麻呂の政略による婚姻だったが、遠智娘は葛城王の室に入った翌年には太田皇女おおたおうじょを、間を置かずに鵜野皇女うのおうじょを、そして忘れ形見となった健皇子たけるみこをもうけていた。


 葛城王はその立場からも元からの性質からも、心通わせ親しんでいた妃を失った悲しみを表に出すことができず自らの内側に抱え込んでしまっていた。その苦しみはいつも葛城王の側にいる鎌子にも伝わってきていた。


 鎌子の父である中臣御食子なかとみ みけこは民間信仰の儀式を取り入れて度々宝皇女たからみこ(元・皇極天皇、葛城王の母)の愁訴に応えていたが、民間信仰を排し神祇祭祀を朝廷のそれに同調させることは大化の改新で推進されていることだった。改新の中心にいる鎌子が行えることではない。

 鎌子ができることといえば葛城王の政務の負担が減るように調節し、子代離宮こしろのかりみやへの出向もできるだけ少なく済むよう孝徳天皇の周囲へ働き掛けることだった。


 石川麻呂の事件からひと月ほどたったある日に、鎌子は私邸で休んでいる葛城王に呼ばれた。

「吾が心を慰めようと仏の経典を開いてみたのだが、心を穏やかに保つためには妄執を捨てよと言う言葉にはつらいものがある。吾はまだ妃の面影を忘れることができない。それよりも以前に読んだことのある人の心を詠った唐の詩をもう一度読んでみたい。鎌子、探してみてくれないか」

 人前では憔悴の気配をほとんど隠す葛城王だが、鎌子の前ではいつものように取り繕うことなく素の表情だった。鎌子は悲哀に曇ったままの葛城王の顔を痛々しく見て顔を伏し、拱手して葛城王の要求に応じた。

「分かりました。すぐにでもお持ちします」


 とはいうものの、三韓の使者が献上してきた書物や遣隋使や遣唐使が持ち帰った書籍の中に詩はほとんどない。仏教の経典や政策の研究に使う物ばかりである。葛城王が以前読んだという唐の詩は、南淵請安が個人的に持ち帰って宝皇女に献上した書物である可能性が高かった。


「鎌子殿、そういうことでしたら喜んでお手伝いいたしますよ」

 大学寮にいる高向玄理にも手伝ってもらって書庫の中で唐の詩を探してみたものの、葛城王の希望に沿えるものだとは思えなかった。飛鳥宮から運び込まれてまだ整理されていない書物も探してみようと、事情は明かさないまま大学寮で学んでいる学生にも書物の探索を手伝わせた。

 課せられた勉強ではない作業に若者たちは喜んで協力してくれたが、やはり見つからない。次の手に窮している鎌子の耳に若者たちの雑談が聞こえてきた。

「唐の詩を学べば上手い歌を詠むことができるようになるだろうか」

「あまり浮世離れした言葉では女に分かってもらえないんじゃないのか」

「けれど女官などは物を良く知っている。返歌が貰えるかもしれない」

 彼等の話を聞いている鎌子の様子を見た玄理が、

「若者たちは言葉を連ねて歌を詠み女の気をひいているのです。女もまた気になる男には歌を寄こすとか」

「民の間でそのような歌があるとは聞いていましたが、官人になろうとする者達がそのような民の習俗を取り入れているのですか」

「若者が好ましい女の気を引くためにあれやこれやと試してみるのはいつの時代も変わらないことですよ。半ば遊びですが、憶えた言葉を次々に使いながら組み合わせていくのは彼らの勉強にもなっているようです」

 玄理はにこやかに教え子たちの姿を見た。関心を持った鎌子は若者たちの側に近寄った。

「今、そなたたちの間で好まれているという歌をいくつか教えてもらえないだろうか」

 内臣という朝廷の高位にある鎌子に声を掛けられた若者たちは初めの内こそ躊躇ちゅうちょしていたが、玄理に促され、やがて流行りの歌をいくつか鎌子に教えてくれた。


 ――明日の夕 照らむ月夜は片寄りに 今夜に寄りて夜長からなむ

(明日の夜を照らすはずの月の光を今夜に持ってきて、あなたと過ごす今夜が長くなればいいのに)


 ――彼方おちかたの浅野のきぎしとよもさず 我は寝しかど人そ響す

(私と恋人は誰にも気づかれないようひっそりと野の雉のように寝ていたのに 誰かが騒いだので見つかってしまった)


「若者たちが好む歌ですから大らかなものです」

 戸惑う鎌子とは対照的に、日頃から大学寮で彼らに教えている玄理は和やかに笑った。

 若者たちがよく作るという歌は、常に大陸の書物や文字の並びを規範として国の文書を作っている鎌子にとってはかなり異質のものに思えた。一方で、


――自分たちが使っている言葉で自分の心の内を表現した彼らの歌のなかに葛城王の意に沿うものがあるのではないだろうか。


 そう思った鎌子は、ひとまず学生たちが詠んだ歌を憶えようとした。だがいつも鎌子が使っている言葉と違い過ぎて正確に憶えることができない。木簡に記そうとしたが漢字に置き換えると意味が変わり、文の並びも変わってしまう。せめて自分が後で読み返すことができればと発音が近い文字を連ね、なんとか歌の元のかたちを維持したまま記録することができた。


 鎌子が手にする木簡には、公文書の文法とは異なるこの国で使われている言葉がそのままの順番、そのままの音で記されていた。


 歌を文字で記録できたのはともかく、この木簡に記されている文字から元の歌を再現できるのは適当な文字を暫定的に選んで記録した鎌子だけだった。また葛城王に若者たちの歌をそのまま伝えるのは躊躇われた。

「玄理殿、お願いがあります。歌が上手いと評判の者を私に紹介して頂けないでしょうか」

 若者たちを勉強に戻らせた後、鎌子がそう頼むと玄理は一人の人物の名を挙げた。

「彼ならば直ぐにでもご紹介できます。人物も確かですよ」


 鎌子は玄理から紹介された人物をさっそく葛城王の下に呼び出した。

「葛城王、こちらに歌人の野中川原史満のなかのかわらふひとを連れてまいりました」

「歌人か。吾ははじめて見る」

 物珍し気に見る葛城王の前で、史満はあらかじめ用意していた歌を二首献じた。


 ――山川やまがわ鴛鴦おし二つ居てたぐいよくたぐへる妹を誰かにけむ

(山川に仲良く並んでいる鴛鴦の夫婦、その片割れだった私の妻をいったい誰が連れ去ったのだろうか)


 ――本毎もとごとに花は咲けどもなにとかも 愛し妹がまた咲き出来でこ

(木々には花が咲いているのに、どうして愛しい妻はふたたび咲き現れてくれないのだろうか)


 歌を聞き終わった葛城王はしばらく沈黙し、やがてその頬に一筋の涙が伝った。

「ああ、よく吾の心の内を歌ってくれた。とても美しく哀れな歌だ。良い歌だ。鎌子、野中川原史満に十分な褒美を取らせろ。そして官人にこの歌を憶えさせるように」

 葛城王は自分でもこの二つの歌を口ずさみ、琴の音で伴奏をつけるまでこの歌を愛した。妃を亡くした悲しみの重さに心の内に沈み込んだとき、この歌が葛城王の孤独を慰めた。

 やがて目に見えて沈鬱から立ち直る葛城王の様子に鎌子は胸を撫で下ろした。


 野中川原史満が献上した歌が契機となって葛城王は歌に目を向け始めた。

「鎌子、吾も歌を詠んでみたい」

 葛城王がそう言い出すのは遠くないことと予測して、鎌子は既に調べを済ませていた。

「この近くに住む額田部の姉妹が若者たちに歌を教えていてそれが評判だそうです」


 額田部は葛城王の邸に近い生駒山に牧を持ち、そこで馬を養っている一族である。

 この一族には宗家に生まれた女子の名には王を付ける慣習があった。歌が上手いと評判の姉妹は、姉が鏡女王かがみのじょおうといい妹は額田王ぬかたのおおきみと呼ばれていた。


 鎌子が額田部の長を子代離宮に呼ぶと、額田部の長は鎌子が話を切り出す前に自分から話し始めた。

「鎌子様、この度はたいへん有難うございます。こう言っては何ですが葛城王はせっかく額田の部の民の近くに邸をお造りになりましたのに一向に我らにお声が掛らない。献上するのは馬だけでよいのかと気を揉んでおりました」

「葛城王は寵姫を亡くされたばかりです。その慰めとなる相手として姉妹のどちらかを王族に差し出してほしい」

「それはもう。姉と妹の両方を出しますので葛城王のお気に召す方をお側に上げて下さい」

 額田部の長はその言葉通り、鏡女王と額田王の姉妹をどちらも王宮に入れた。

 采女としてより女官として後宮に入った二人の姉妹は、のちに宝皇女を筆頭とした周囲の人々に歌の作り方を教え、やがて王宮には歌を詠むという文化が広がっていった。


 鎌子はこの出来事をきっかけに歌が文字の普及に役に立つのではないかと考えて始めた。


 今、倭国は大陸から伝来した文字を用いて大陸の文法で文書を作成している。この翻訳の作業を行える官人は多くない。だが倭の言葉をそのまま表現できる文字や方法があれば、文字を使うことができる者は格段に増えるだろう。音、意味、文字が持つそれらの性質と大和の言葉が対応できるようになれば、口語記録の手段としては悪くないのではないか。

 

――大学寮で学ぶ若者たちの中から必ず語学の天才が現われる。それを決して見逃してはならない。


 鎌子は大学寮でこの研究を行わせることを決め、大学寮の教師たちにその趣旨を明確に伝えた。


 一方で、遠智娘の忘れ形見として生まれた健皇子には早産の障害が残った。健皇子は年月が経っても自ら動くことも言葉を話すこともできなかった。食事は女官が匙で口へと流し込み、ただ座っているのが精一杯な有様だった。だが、

「これほどまでに美しい顔かたちに生まれ付いたのに、なんとまあ哀れなこと」

 健皇子の祖母にあたる宝皇女は、ことのほかこの健皇子を哀れんだ。

 健皇子の緩んだ口の端から垂れた唾液を己の袖で拭い清め、健皇子の発育しないまま縮こまる軽い体を抱いて庭に下りた。

 宝皇女は水晶のように澄んだ目を虚空に向けたままのこの孫を溺愛するようになっていった。 

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