第6話 遺命の狐疑

 飛鳥の王宮で倭王族の神祇を担っていたのは、中臣だけではない。

 神に舞を奉じる猿女君さるめのきみや亀甲による占いをする卜部うらべ氏は、各々の子女や部民を朝廷に差し出していた。口伝で伝わる神祇の記録や作法を踏まえ、どの祭祀にどの部民を用い、配置するのか、指示するのは中臣の仕事だった。


 鎌子は父の仕事を憶え、文字に記録されていない古からのまじないや祈りの言葉を憶え、神祇部の部屋に出入りする人々を把握し、そして皇極天皇の要請があれば随時見合った神祇の準備をするという思っていた以上に忙しい日々を送っていた。


 さらに宮廷祭祀を司る中臣に割り振られた数多くの仕事に加えて、鎌子には葛城王の祭祀を補佐するという個別の任務が与えられている。儀礼祭祀の作法だけでなく、その意味や由来を伝えながらの補佐は、倭の王族の歴史を伝えることそのものである。

 つまりは葛城王が王位を継承するための教育でもあった。

 責任は大きいのだが、鎌子も葛城王も互いに会話できるこの時間を楽しんでいだ。


「鎌子、吾は六韜りくとうを全部読んだぞ」

 葛城王は鎌子と会っていなかった二年の間に原典を手に入れて読み終えたのだという。

「私は厩戸王が残された三経義疏さんぎょうぎしょと、その原典である維摩経ゆいまぎょう勝鬘経しょうまんぎょう法華義疏ほっけぎしょを勉強しました」

 それは葛城王が幼少のころから読み習ってきた仏教の経典だった。鎌子は山科の近隣の寺院を訪れて僧侶に質問しながら読み進めたのだが、神祇官を任とする中臣の者としては異端の勉強だったことは自覚している。

 けれど仏教の教えが倭の王族に受け入れられつつあるのなら、拒絶せずに学ばなければいずれ中臣自体が立ち行かなくなるのは目に見えている。

 

 葛城王より十二歳年上の鎌子だが、葛城王に何かを教えるというよりも二人でともに勉強をしたという方が近い。

 同じ書物を読んでも鎌子の立場と葛城王の立場では解釈や意見が違うことがある。交わす言葉は書かれた文字の内容の理解だけでなく、互いを深く知っていく手順と同じことだった。かつて百済大井宮で過ごしたあの数か月の地続きに今があった。そして会わなかった二年の間に、葛城王と鎌子には共通する知識が増えていた。


 時折、鎌子は葛城王の許しを得て高向玄理を王宮に呼んだ。

 南淵請安が亡くなった後、実際に唐を見聞きした経験を持つ数少ない貴重な人物である。最初は葛城王の要請とは伝えず鎌子からの依頼という形で打診すると、玄理は二つ返事で了承した。


「先に亡くなられた葛城王の御父上は、南淵先生と私が唐で見聞きしたことに危機感を持たれておられました」

 葛城王の父とは百済大井宮で政を行った先代の舒明天皇のことである。

「唐は皇帝が頂点に君臨し、臣下は皇帝の治世を安定させるために朝廷が決めた官職に就いています」

 葛城王が玄理に言葉を返して、

「この倭国は、大王の継承ですら臣下の言動に左右される有様。王族の即位は臣下同士の力関係に依存してしまっている」

 葛城王は今の王族が直面している問題を理解していた。

「御父上が志半ばで亡くなったのは本当に残念な事でした」

 玄理は舒明天皇へのしのびごとを口にした。


 舒明天皇の即位は大きな混乱の末に決定したものだった。

 前の推古天皇は皇太子を立てないまま病死した。当時の大臣であった蘇我蝦夷はそれまでの経緯から田村皇子すなわち舒明天皇の即位が妥当であると考えており、多くの豪族もそれに賛同していた。

 だが山背大兄王がそれに異を唱え、自分が王位に就くべきだと主張した。

 さらに蝦夷の叔父である蘇我境部摩理勢そがさかいべのまりせが山背大兄王に同調した。王位を巡る争いは蘇我氏内部の争いに発展し、互いが軍を動かすまでになった。挙句に摩理勢を庇った山背大兄王の弟である泊瀬王はつせのおおきみが死亡、摩理勢は家族ともども蝦夷によって攻め滅ぼされた。


 蘇我宗家の決裂は誰の目にも明らかで、蘇我氏の権力が目に見えて衰退し始めたのはその時からだった。


 傾き始めた自らの一族の権勢を維持するため、蘇我蝦夷は王位継承を豪族の同意のもとで決定する現行の制度を頑なに守ろうとした。

 一方で舒明天皇は豪族の意向に左右されない王位継承を確立しなければいずれ王位自体を乗っ取られるという危機感を覚えた。舒明天皇は即位後ただちに遣唐使を派遣して唐の律令制度を調査し、それを取り入れることにより王権を強固なものにしようとした。


 舒明天皇と蘇我蝦夷は強く対立した。その対立は飛鳥宮の炎上消失という事態を引き起こし、舒明天皇は蘇我氏の本拠地に隣接する飛鳥宮を捨てて百済大井宮へ遷都したという経緯があった。


 実のところ鎌子は舒明天皇の即位の時の混乱をあまり知らなかった。

 当時鎌子は十五歳で、まだ宮廷に出る年ではなかったということもあるだろう。だが南淵の私塾には通い始めていたので、まったく話題を耳にしなかったというのもおかしなことだった。

「そのような話、南淵先生からは聞いたことがなかった」

 思わず鎌子が零した言葉に玄理は狼狽した。

「鎌子殿、それは……」

 言い淀んで口をつぐんだ玄理に変わって、葛城王が、

「鎌子の父である中臣御食子みけこが、吾が父の即位に深く関わっていたからだろう。山背大兄王は豊御食炊屋姫とよみけかしきやひめ(推古天皇)の臨終間際に病床を見舞い、王位継承の言葉を受けたと主張した。だがその場で見舞にきた人々を取り次いでいた御食子は山背大兄王が来たことを否定している」

「私の父の証言が王位継承の行く先を決定づけたのですか」

「そこまで直接的ではなくても間接的には。もっとも、臣は王位の継承について軽々しく口を出すな、とは王族から言い渡していたから表立って言われることはなかっただろう」

「――あの時、鎌子殿は中臣の本家とは離れて生活していましたが、やはり親子という近い血縁を慮って南淵先生はその話題を避けておられたのだと思います」


 父が山背大兄王と対立していた、という事実と、皇極天皇にかいがいしく仕える父の姿が鎌子の脳裡で重なった。何かを見逃している気がした。

 舒明天皇の思い出話を交わす葛城王と玄理の声に耳を傾けながら、鎌子は自分が感じた違和感を慎重に手繰り寄せた。


 舒明天皇の即位は鎌子が十六歳の時のことだった。

 新たな朝廷のための人事が行われ、鎌子に神祇官への任命があったのもその時である。

 自分の意志で神祇官の任官を断ったのだと思っていたが、たかが十五、六歳の子どもにそのような権限があるはずもない。ならば父が鎌子を意図的に宮廷から遠ざけたとしか考えられない。


 政変の余波が残る宮廷で、年若く経験の浅い鎌子が政争に巻き込まれて最悪命を落とす可能性も考えに入れていたのに違いない。


――父自らが深くその政変に関わっていたから。


 会話から外れている鎌子に玄理が気づき、とりなすように声を掛けてきた。

「それはそうと鎌子殿、私と一緒に唐に渡った僧のみんにも声をかけてみてはいかがでしょう。彼の国の仏教は政治と共にあります。私のような学者だけでなく、僧侶の意見も参考になるでしょう」

 鎌子は自分の思考の中から立ち返って玄理を見た。

「そうですね。私は彼と一度も会ったことが無い。近いうちに旻殿のいる寺院に行ってみます。よろしいでしょうか、葛城王」

「お前が会いに行くのだから吾の許可はいらないだろう。鎌子がその旻という僧侶をどう見たか、それを聞いてからここに呼ぶかどうかを考える」


 その日、玄理は暗くなる前に帰っていった。葛城王は玄理が持ってきた儒教の書籍を開いていた。

 舒明天皇が即位したとき、葛城王はまだ幼子だったはずだ。しばらくその養育にあたっていたという蘇我の一族の者が身内の失態をそこまで詳細に教えることはないだろう。ならば葛城王が長じてから誰かが教えたことになる。

「葛城王、お聞きしてもよいでしょうか」

「うん?」

「今の大王は蘇我大臣をどのようにお考えなのでしょうか」

 葛城王が答えるまで、少しだけ間があった。

「母上は蘇我入鹿のことを良くは思っていない」

「なぜでしょう」

「入鹿が勝手に雨乞いの儀式を執り行ったから、だろうな」


 それは昨年の初夏のことだった。

 飛鳥宮を含む大和や近江、難波の地域はしばらく雨が降らずに日照りが続いた。入鹿は自ら仏教による雨乞いの儀式を執り行い雨を降らそうとした。

 これを耳にした皇極天皇は怒りをあらわにした。民の窮状を祈祷で救うのは王族の義務であり特権である。皇極天皇を貶して王位の簒奪を目論んでいることを明らかにしたようなものだ。

 だが入鹿の雨乞いは雨を降らせることはなかった。入鹿の雨乞いの祈祷が功を奏しなかったのを見届けて、皇極天皇は自ら雨乞いの儀式を行った。その効果は覿面で、すぐに振り出した雨が乾いた飛鳥の地を潤した。皇極天皇の神祇を助けたのは神祇官である中臣御食子である。


「ただ、吾にも母上の考えが分からないときがある」

 葛城王は言葉を濁してそれ以上を語らなかった。

 その様子は、かつて父から何も聞かされていなかった十六歳の自分と重なるように鎌子には見えた。

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