第4話 飛鳥寺の槻

 皇極天皇三年、大陸では唐が高句麗征討の軍を遼東半島にまで進めていた。


 この二年前、高句麗の将軍だった淵蓋蘇文えんがいそぶんは高句麗王を殺し、自らが国の実権を掌握していた。傀儡の王を立てた蘇文は新羅の北面への攻撃を強め、新羅の窮地を見逃さない百済は南から新羅へ侵攻した。


 半島の南北を閉ざされた新羅は唐に救援を求め、唐の太宗皇帝はこれに応えた。


 唐の介入により半島の混乱はさらに加速した。唐と新羅、高句麗と百済の対立関係が明らかになり、半島内の国境は常に至る所で小競り合いの続く戦闘状態にあった。


 百済から倭国に渡ってきた百済の王族翹岐ぎょうきは、変わらず蘇我氏の庇護を受けていた。この頃、翹岐が三輪山で養蜂を試みていたという記録が残っている。三輪山は飛鳥の都からは北に離れた地である。百済の王位継承権を持つ翹岐の周りには百済からの移民が集まり、小さくはない村落を形成し始めていた。


 山背王が蘇我入鹿に攻められて自害した斑鳩寺は三輪山よりもさらに北にある。

 皇極天皇のいる飛鳥宮では事件の様相は口伝えに知らされた。表向きは静謐を保つ飛鳥宮だが、内部は三韓の国々に呼応するかのように揺れ動いていた。


 山科から飛鳥に出てきた鎌子は、宮城付近にある中臣の本邸に住むことにした。阿倍内麻呂の働きかけによって神祇伯じんぎはくに就いたとはいえ、その任を遂行するだけの実務能力が鎌子にはなかった。


 ――しばらくは父に付いて学び、父の後を継いだ時に正式に神祇伯となればよい


 中臣本邸で父から告げられた方針には鎌子自身も、鎌子からそれを伝え聞いた阿倍内麻呂も賛同した。

「鎌子殿が正式に神祇伯になってその任務で身動きが取れなくなっては困る。父上の考えに従うのがいい。鎌子殿が宮廷の内部を探れる状態にあることが重要だ」

 飛鳥宮の回廊の隅で内麻呂は声を潜めた。

「私が大臣である阿倍様よりも詳しい情報を得ることができるのでしょうか」

「大王の祭祀を司っている中臣の立場を利用すればいい」

 阿倍内麻呂はそう手短に言うとそそくさと鎌子の側から離れた。朝廷の大臣である内麻呂と神祇官見習いである鎌子とでは身分差がありすぎる。宮廷内では互いに近寄らず、何かあれば使いを阿倍の邸宅に寄越せ、ということだった。


 軽皇子が阿倍内麻呂の背後にいるのならば慎重になっても当然だろう。だが鎌子は内麻呂の慎重さに微かな引っ掛かりを覚え始めた。


 鎌子の父は、ようやく跡継ぎになる気を起こした息子に宮廷祭祀の様々なことを伝え始めた。これまで父の言葉の端々でしか知ることはなかったが、王族に伝えられている祭祀は多岐にわたっていた。卜部氏や鈿女氏など、中臣とは異なる神祇に仕える氏族もいる。

 それぞれの氏族が受け持つ祭祀の催行の手順や決まり事は、文字ではなく口述で伝えられるのみである。書物で学ぶことが習わしだった鎌子にとって、祭祀の習得はなかなかに苦労を伴うことだった。


 その父の後に従うようになって初めて知ったことがある。

 思っていたよりも王族に、とりわけ天皇に接する機会が多いのだ。


 ある日など、神祇官が控える部屋に皇極天皇が直接やってきた。

御食子みけこ、昨夜はこんな夢を見た。吉凶を占ってほしい」

 天皇は鎌子の父のことを名で呼んだ。

「わかりました」

 その場で膝を付いて天皇の言葉を聞いていた父は、直ぐに立ち上がり占いの準備を始めた。中臣に伝わる太占ふとまに以外にも各地の豪族が行う占術を集めていて、天皇の要望に応じて術を選び行っているらしい。

「いつも朝に鳴く鳥が今日は昼になってから鳴いた。意味はあるのか」

「これまでの記録によりますと、世の平らかなる気配に鳴くことを忘れた鳥がいたそうです。吉兆でございましょう」

 父の頭の中にはこれまで中臣が蓄えてきた記録の全てが刻まれていた。

 それは鎌子が唐の書物の内容を全て諳んじていた経験に通じていた。思いがけないところで鎌子は自分の中に流れる中臣の血を感じた。


「気分がすぐれぬ。御食子、何か手立てはないか」

「岩屋で祖霊に祈りを捧げましょう」

 寝着のまま現れた天皇の体を支え、鎌子の父が宮廷の片隅にある岩屋に連れていくこともあった。その時は鎌子であっても付いていくことは許されず、鎌子の父と皇極天皇の二人だけでしばらく祈りの儀式が執り行われた。


 皇極天皇は既に皇子を二人生んだ中年の域にある年齢だが、若い頃の華やいだ美貌は衰えていない。

 神祇官とはいえ男性と一つ所に二人きりで閉じこもることが何回もあったなら周りの目も次第に疑いを持つようになるだろう。けれど神祇官の間で王族の秘密は厳しく守られていた。


 阿倍内麻呂が言っていた中臣の者でしか知り得ない情報とはこのことかと鎌子は思った。同時に、任務の秘密を全て背負ってこれまで家族にも明かすことが無かった父にこれまでとは異なった質の畏敬も覚えた。


 ――中臣が知るすべてのことを他者に打ち明ける必要はない


 鎌子はそう判断し、同時に阿倍内麻呂を全面的に信頼することもやめようと思い始めた。


 一方で、中臣に口伝で伝わる王族の祭祀と山科で学んだ仏教との間に何か共通点があるように思うようになった。


 かつて仏教がこの国に伝来した時、この国に昔から伝わる祭祀信仰と衝突が起きた。中臣の長が蘇我に滅ぼされた、あの時期のことである。


 ――我が国につたわる祭祀と仏教は本当に相容れないものなのだろうか。


 それは仏教の経典を精読し、中臣の神祇を継ごうとしている鎌子でなければ考えることのない疑問だったが、答えは容易には出なかった。


 飛鳥の宮廷に春が訪れた頃、しばらく疎遠だった阿倍内麻呂から使いがやってきた。

「飛鳥寺で蘇我氏が催し物をするらしいので、その様子を探ってほしい」

 内麻呂の使いが鎌子に伝えたのはおおよそそんな内容だった。

 神祇官のする仕事ではないが、話を断って要らぬ猜疑を向けられるのも面倒なことだった。父に断って休みを貰い、鎌子は春の陽の降る飛鳥寺へと向かった。


 ――官人の装いで弓を持て

 前もって内麻呂から指示された通りの恰好で飛鳥寺の門前に立つと、詮議されることなく中に通された。目くばせがあったので内麻呂の息がかかったものなのだろう。しかしそれ以上の命令は無く、鎌子は所在なく飛鳥寺の境内を見渡した。


 飛鳥寺は蘇我氏の権力を誇示するかのように、黒々とした瓦屋根の建物がいくつも林立していた。舒明天皇が建てた百済寺よりも規模が大きい。王家に対抗しようとする蘇我氏の思惑に鼻白むよりも、柔らかな青空の下に花弁を遊ばせる桜の木々の美しさに、鎌子はひととき、目を奪われた。


「おうい、こっちだ」

 いきなり鎌子に向かって声をかけるものがいた。訳がわからないまま呼ばれた方に近づくと、鎌子と同じように官人の服に弓矢を携えた者がいた。

「俺らの割り当てはこの辺りだ。俺はあっちに行くからお前はあの木の下に立て。しっかり周りを見張れよ」

 そう言いながら相手は鎌子に大きなけやきの下を指し示した。弓矢を持たされたのは警備の仕事だからで、言われてみれば納得できる。だがそのぐらいの説明は事前に欲しかった。


 鎌子に声をかけた相手は筋骨たくましい体格の良さと粗雑な身振りが目立つ若い男だったが、気は良さそうだった。


 鎌子はこの相手に様子を聞いてみることにした。

「今日はここで何が行われるのか」

 相手は特に疑う様子もなく鎌子に応えてくれた。

「蘇我大臣が王族を招いての宴だそうだ。昼間っからよくやるよな」

 そう言ってから訳知り顔ににやりと笑った。

「そのぼんやりした様だとそっちも急いで掻き集められたくちか」

 男は話し好きのようだ。何か聞き出すことができそうだと思い、鎌子は男の話に乗ることにした。

「今朝がた急に頼まれて来てみたのだが、なにも聞かされていないから困っていた。仕事の内容を教えてもらえてありがたい」

 鎌子が頭を下げると相手は気を良くしたようで、雑談を始めた。

「しかしこうして有象無象の人間を集めなければならないほど、蘇我の力が落ちているということなのかな」

 雑談の口調の割には思い切ったことを言う。鎌子は苦笑した。

「面白くなさそうだな」

「そりゃあそうだ。落ち目の奴に顎で使われているのが今の俺だ。落ち目じゃあないのに自分が生まれた氏族で一生が決まってしまう。俺なんぞ政治に関わることなく人生が終わるんだ、やってられるか」

 もっとも関わる気なんて全然ないけどな、などと本心の知れないことを言って男は笑った。

「そういえば名乗ってなかったな。俺は佐伯さえき子麻呂こまろだ」

「私は中臣鎌子だ」

「太占の中臣か。鹿の骨を焼くだけで人生終わるのはつまらないよな」

 宮廷の深部で行われる神祇を知らなければ、中臣の任務などだいたいこのような理解なのだろう。純粋な同情でこちらを見る佐伯子麻呂に悪気はなそうだった。

 情報を集めるために鎌子はもう一つ、子麻呂という名のその男に聞いてみた。

「今日、こちらに来られる王族とは誰なんだ」

「葛城王だ。蘇我は古人王だけでなく、成人したばかりの葛城王も取り込もうとしているらしい」


 銅鑼の音が飛鳥寺の境内に響いた。

 さわさわと人が集まる気配があって、それは鎌子と子麻呂の背後にそびえる金堂に吸い込まれていった。宴の前の僧の講話が始まるのだ。


「じゃあ俺はあっちだから、何かあったら呼んでくれ」

 佐伯子麻呂は鎌子を槻の木の下に残して自分の持ち場へと移動していった。

 鎌子の頭上では槻が新緑の葉を春の空に伸ばしている。時折、桜の花弁が風に混じって飛ぶのが見えた。遠く、何か楽曲を奏でる音が聞こえたと思ったが、春の風の中では定かではなかった。


 辺りは静かだった。

 人が集まっている筈の金堂は締め切られ、外には何も聞こえてこない。

 この槻の木から離れて金堂に近づけば、中の物音や誰かの話す声が聞こえるだろう。


 阿倍内麻呂からは様子を探れと指示されている。ならば蘇我入鹿の声を拾えば良いのだ。鎌子以外の警備の者達は皆、春のうららかな日差しに心ここにあらずの風体だ。少しぐらい持ち場を離れたところで文句は言われないだろう。


 振りむいて何気なく数歩、金堂に向けて歩けばいい。なのにその振り向くという動作ができなかった。何のために、何を求めて金堂の内部の様子を。


――誰の声を。


 鎌子は不自然に体をこわばらせたまま、槻の葉が風に鳴る音を聞いているだけで時間が過ぎていった。


 やがて金堂の扉が放たれ、人々が金堂から移動する物音が聞こえてきた。強いてそちらに目を向けず、鎌子は弓を握りしめた。


 と、突然鎌子の背中になにかが勢いよくぶつかってきた。

 不意を突かれて軽くよろけた足元に、トン、と音を立てて落ちてきたのは黒く硬い革沓かわぐつの片方だった。このくつを自分に向けて投げつけた者がいる。とっさに背後を振り向いた鎌子の目線の先に人影があった。


「鎌子、それを拾ってこっちに持ってこい」


 それは二年ぶりに見る雉子の、成人した葛城王の姿だった。

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