第7話 不時の王

 年が明けると、ひどく冷え込む日が続いた。降った雪は解けずに残り、野も山も白く凍てついた。

 百済大井宮くだらおおいのみやの宮殿の茅葺かやぶき屋根からも氷柱つららが下がり、夜ごとその長さを増していった。


 宮廷と南淵みなみぶち邸との往復を律儀に続けていた鎌子だったが、ある日の帰り道、乗っていた馬が足を滑らせて川に落ちた。驚き慌てる馬を宥めるために鞍から下りた鎌子は、自らも薄氷が張る川の水に足を濡らした。

 そこから寒の病が入ったか、一晩たった次の日から熱が出て、起き上がるのも億劫なほどにひどい風邪を引いてしまった。


 南淵から寄越された見舞いの者からは、鎌子の代わりに南淵自らが宮廷に出向くことが伝えられた。役目を果たせない申し訳なさは当然の感情で、心情の半ばは自分を待っているであろう雉子のことが気にかかった。


――次に私が来た時は宮殿の外に出かけてみませんか。上毛野ほどの雪原ではないですが百済川の雪野原を見に行きましょう。


 雉子との別れ際、何気なく口にした鎌子の提案に雉子は目を輝かせていた。あの期待を裏切るのはひどい罪悪感を伴った。

 今回のような不測の事態の時もせめて一言伝言を託せるように、次に会った時には雉子がどこに住んでいるのか、せめてそれだけでも聞き出しておこうと、鎌子は熱で途切れがちな意識の中でそう思った。


 だが風邪から快復した鎌子は、宮廷には行かなくていい、南淵から告げられた。

「わしの仕事であったのに、鎌子には無理をさせてしまった」

 心底から詫びる南淵に鎌子が返す言葉は無かった。

「あれから数日宮廷に詰めて、官人たちの助けを借りながら報告書の残りを仕上げてきた。もう鎌子がわざわざ出向く必要はない」

「……それは南淵先生こそ大変な思いをされたのではありませんか。仰せつかった役目を果たし切れなかった私の方こそ謝らなければなりません」

 よいのだ、よいのだ、と南淵が叩頭する鎌子の頭上から云う。

「それはそうと、宝皇女たからのおうじょ様が鎌子に礼を申されておったぞ。皇子の面倒をよくみてくれたと」

「……皇子の、ですか?」

 思いがけない言葉に鎌子は下げていた頭を上げた。

「そうそう、宝皇女様のお子である中大兄皇子なかのおおえのおうじだ。若いころの皇女様に似てだいぶお元気なご様子だった」

 目を細める南淵は宝皇女の話になると饒舌になる。

「わしが遣唐使に出る前、宝皇女様はまだ娘々しておられた。まさか子を持ち母になった姿で再びお会いできるとは。宝皇女様によると中大兄皇子は数年後に成人を迎える予定らしい。その後にはまつりごとにも加わってもらうと言っておられた」


 大井宮で鎌子が会っていたのは、雉子という名の少年だ。

 初めて出会ったとき、雉子は自分の名を名乗るのを躊躇っていた。ここから外に出たことがないと窓の外を遠く眺めていたあの眼差し。


 雉子が大王の子である中大兄皇子ならば、納得できる振る舞いはいくつもあった。


 南淵の話に相槌するため、鎌子はまとまらない思考をどうにか手繰り寄せた。

「今の大王は確か王族のどなたのことも皇太子としていない、と聞いております。中大兄皇子を政に関わらせるのなら、皇子が皇太子となる可能性が高いのでしょうか」

「皇女様はそれを望んでおられるようだった。だが今、王族には山背大兄王やましろのおおえのおう古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ、そして軽皇子かるのみこがおられる。あまり彼らを刺激しないよう皇女様には申し上げたのだが」

 高貴な母子おやこの姿を思い描いて頬を緩ませ語っていた南淵の表情がふと曇った。


 先王である推古天皇の孫にあたる山背大兄王は、今の王族の中で最も強い権力を持っており、父親である厩戸王うまやどのおうが就かなかった天皇の座に最も近いと目されている。

 一方で今の王の子である古人大兄皇子は、蘇我氏が後ろ盾となり中央豪族の間に一定の権威を示していた。そして王の甥であり宝皇女の弟である軽皇子には、蘇我氏に反発する有力豪族の支持が集まっていた。


 それらの有力な後継者候補を差し置いて年若い中大兄皇子を皇太子に立てれば、朝廷の混乱は必須だ。蘇我氏どころか他の豪族たちの求心力を欠いて王権が崩壊しかねない。南淵の憂いは当然のことだった。


「皇女様一人の考えではなく、王もまた中大兄皇子の立太子を前向きに考えておられる。豪族が王権に及ぼす力を削ぎたいと考えておられるらしい」

 今の朝廷は豪族の声が大きく、また山背大兄王も王族でありながら王に協力的であるとは言い難い。王が都を飛鳥から大井宮に移したのも豪族たちの勢力から逃れるためであったらしい。

「王は引いて守る処世をご存じだが、皇女様はお気の強いところがあるから側に居る者の方がはらはらする」

 南淵はほう、と一つ、溜息をついた。

「蘇我氏は中大兄皇子を手中の珠とすべく、皇子の教育を一族の者が行っているそうだ。そうなると皇子は、成人後に彼らの所縁の地名をとって葛城王とでも名乗られることになるのかのう」


 ――仏教は退屈だ、大人の云うことはつまらない。


 鎌子は雉子が口にしていた言葉を思い出した。あれは彼が王族として蘇我氏から受けていた教育のことだったのか。


「丁度いい機会だったから鎌子の今後のことも皇女様に頼んできた。仕官の命が下されたら今度こそ断らずに受けるんだぞ」

 自分の身を案じる南淵の言葉を、鎌子はただ遠くに聞いていた。


 中臣よりやや位の高い臣や連であったならともかく、雉子は大臣や大連ですらない、大王直系の王族だった。

 古くから王族に仕えている一族とはいえ、鹿の骨で吉兆を占い、祭祀を執り行う神祇官に過ぎない中臣とは身分が違い過ぎる。たとえ鎌子が神祇官ではない宮廷の官人になったとしても、その姿を遠目に見るのが精一杯だろう。


 ――いつか一緒に、真白に広がる雪原を行きましょう。


 あの時、鎌子から視線を逸らせた雉子の横顔を思い出す。中臣のような身分の低い者との約束などできる相手ではなかったのだ。


 百済大井宮での記憶は、体の内にまだ微か残る風邪の熱と共に体の内から去らせなければ。けれど。


 それから鎌子は書物を抱えて自分の仮屋に引きこもった。

 これまであまり目を通したことのない法華経、維摩経、勝鬘経の仏教経典を読み、厩戸王の記した三経義疏の写しを南淵の塾から借りて読み、国記を読み、そうして時折思いついたように外に出れば百済や新羅の渡来人が住む集落に足を向けてそこの寺院にいる僧に話を聞いた。

 南淵の塾で学んだような体系だった学問ではなく、ただ無目的に、貪るように知識をかき集めた。

 

 そうして、浸れば沈んでしまうあの雪の百済宮の記憶を知識の向こうに塗り籠めた。


 季節は春から夏に移り、稲の穂が重たく垂れるようになった十月に、舒明天皇が病に倒れた。舒明天皇に回復の見込みがないことが分かると、皇后である宝皇女はただちに自分の子である中大兄皇子を成人させた。

 舒明天皇は死の間際、葛城王と名乗るようになった中大兄皇子を自分の後継者として指名した。


 厩戸王を祖とする上宮王家の山背大兄王ではなく、蘇我氏が推す古人大兄皇子でなく、有力豪族の中で力を伸ばしつつあった阿倍氏が推す軽皇子でもない。


 どの有力豪族とも協力関係にない葛城王が皇太子となったことは、この後の政治の混乱を予感させるのに十分な出来事だった。十六歳になったばかりの葛城王は政の混乱を抑え込む力をまだ備えていなかった。


 なので、葛城王が充分な政治経験を積むまでの間にかぎり舒明天皇の皇后であり葛城王の母である宝皇女が天皇の座に就き、皇極天皇となった。


 百済大井宮を揺るがす代替わりの影で、長年倭国の外交の柱となってきた南淵請安がその生涯を閉じた。舒明天皇の殯の最中であった南淵の死は身内以外に知らされることなく、一族の眠る墓所にひっそりと葬られた。


「鎌子殿はこれからどうされますか」

 共に南淵の私邸の片づけをしていた高向から尋ねられ、鎌子は書物に落としていた視線を上げた。

「先生の塾は一族の者が引き継ぐそうですが、そこに私の居場所はなさそうです。山科に戻るつもりです」

 南淵の死と新たな王の即位によって、鎌子の仕官の話は立ち消えになっていた。

「鎌子殿のような方が都から離れるのはもったいない。是非また戻ってきてください」

 高向の言葉には惜別というよりも切実な願いが籠っていた。鎌子はただその厚意に謝意を示すしかなく、無言の拱手で答えた。


 中臣の本邸への挨拶を終えた日、鎌子は大井宮の大きな茅葺屋根を遠くに眺めた。


 これから自分にどんなことが起きるのか、大したことも起きぬまま山科の野辺でただ年老いて死を迎えるのか、まだ何も分からなかった。ただ雉子と名乗っていた葛城王と過ごしたあの日々を、この後何度も思い出すことになるのだろうという予感はあった。


 この年に二十八歳になった中臣鎌子は馬に乗り、飛鳥の都を離れて故郷の山科へと向かった。

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