第175話 魔精

空気弾による天井衝突と落下によるダメージは、今のショウゾウにとってはさほど問題となるものではなかった。


痛みは当然あるが、複数箇所の骨に入った大小のひびも、打撲などの外傷も、身の内に蓄えた生気せいきがたちどころに癒してしまう。

軽く脳震盪を起こしかけていたが、それさえも回復が速い。


「ふう、やれやれ。最後に喰らった一撃は、少し油断しておったな」


不死身に近いこの体の影響で、少し、傷つくことに対して臆病さを失いつつある。

痛みに対してさえ、死に直結しないと脳が覚えてしまえば、鈍感になってゆくであろうし、これは善くない傾向だとショウゾウは思った。


ショウゾウは、闇の炎によって失ったおのれの欠損部分の再生を待ちながら、燃え滓となっていく魔獣を眺めた。


高難度迷宮とC級以下の迷宮でどれほどの差があるのかと憂慮していたのだが、これまでのところ、ショウゾウの想像を超えるものではなかった。

たしかに、出現モンスターはより強く、罠や仕掛けも巧妙さと危険度を増してはいたが、エリックたちの成長のおかげもあって何とか乗り越えることができたし、ボスモンスターもこれまでの他の迷宮にいた個体と比べれば確かに手強かったが、ただそれだけだった。


二百六ある迷宮の内で、B級に格付けされる迷宮はわずか十しかないという話だったので、少し他とは違う発見があるのではないかと期待していたのだが、どうやら空振りに終わったようだ。



『見事であった。人の身にして、闇の王に至りし者よ』


上空から、先ほどまで魔獣から聞こえてきていた、あの女のものと思しき声が響いてきた。


そして一陣の風が舞い降りたかと思うと、その風が一糸纏わぬ裸体の女の姿を形作った。

荒ぶる風の奔放さを顕したような踊る長い髪と激情を秘めたかのような強い眼差し。


やれやれ、ようやく来たかと呑気に構えていたショウゾウではあったが、その姿を見た時に、身がどこか引き締まるような思いがして、同時に強い違和感を持った。


うまく言葉で表現できないが、それは、まるで幽霊のような姿で現れたこれまでの守護者たちと異なり、人間の営みの色を残していない、そんな感じだった。


人とも、魔物とも違う。


もっと純粋で、崇高な原始の存在。


まるでこの地上を絶えず流動し続ける≪風≫そのものが、人の姿をとって目の前に姿を現したかのような、そんな印象をショウゾウは持った。


「何やら、これまでの者たちとはおもむきことにしているようだが、おぬしは何者か。 なぜ、そのような姿をしている?」


『我が名は、風のシルウェストレ。かつて、このイルヴァースの全事象を司りし、十大がうちの一つ。精の霊にして、創世の神たるヨートゥンの忠実なるしもべであったものだ。この姿は、我が在りのままの姿。醜き獣のうちに封じられし我が本性だ』


「精の霊……。おぬしは、≪魔人≫たちとは異なるというのか?」


「如何にも。あれらは、神々の大戦の際に、ヨートゥン神に付き従いし、英傑の魂が神の力の残滓と結びつき人の姿をとったもの。我とは根本的に異なる。太古の昔より、人々が畏れ、敬い、崇めてきた大自然の象徴――それが我らだ。創世の主たるヨートゥン神を失い、敗れ傷ついた我もまたは消滅の危機にあったが、気が付くとこの迷宮の中にいた。守護者として幾度も生と死を繰り返し、この迷宮に足を踏み入れた愚かな人間の血肉を喰らい、啜るうちに、我もまた≪魔精ましょう≫と化してしまっていたのだ」


「……人に在らざるもの。ましてや大自然の精霊であったのであれば、所詮、人の身にすぎぬ儂などに付き従いはすまいな。この迷宮を出たのちは、どうするつもりだ?」


欠損部の再生が終わり、≪宵闇の外衣ローブ≫もすっかり元通りになったショウゾウは腰を上げ、シルウェストレに尋ねた。


「いや、そのようなことは無い。そなたはもうすでに人の身にして、人に非ず。神の力の断片たる≪魔人≫たちと魂のつながりを持ち、何よりその身にヨートゥン神の力の核を宿している」


「待て。 今、何と言った? ヨートゥン神の力の核を宿しているというのはどういう意味だ」


「気が付いておられないのか? その肉体には、我が主、ヨートゥン神そのものと紛うほどの闇と力が備わりつつある。その源にあるのが、すべての生命を自在に操り、おのが力に変えるその力だ」


すべての生命を自在に操り、己が力に変える力。

それは、まさか、スキル≪オールドマン≫のことを言っておるのか?


シルウェストレの言葉にショウゾウは愕然とし、そしてこれまで抱え込んでいた謎のほんの一端が明らかになった気がした。


この異世界に連れてこられたときに、死を待つばかりのおいぼれであった自分が所持していた二つのスキル。

そのうちの一つであったスキル≪オールドマン≫によって、自分はもっとも力にあふれ輝いていた若者の状態にまで若返り、膨大な生命エネルギーと共に、魔法やスキルなどの多くの力を得た。

それはやがて人知を超えた力を持つ≪魔人≫たちを従えるに至ったわけであるが、それがまさかヨートゥンといういにしえに滅びた神に由来する力であったとは……。


そのような力がなぜ自分の体に宿っているのか。


一瞬、自分をこの異世界に連れてきた、あの皮帽子の男の顔がよぎった。


そう、すべてはあの男との出会いから始まっているのだ。


このイルヴァースにやって来た時には、割腹自殺した時の傷は跡形もなく消えていたし、末期の病巣がもたらした体の不調も無くなっていた。


ヨートゥン神の力たるスキル≪オールドマン≫が宿っているのが肉体であるのなら、あの時に何らかの処置を受けたと考えるのが妥当だろう。


「なるほどな。なぜ見ず知らずの儂のような人間に、あの≪魔人≫たちが集い、付き従おうとしてくるのか、ようやく得心がいった。あやつらが魅かれているのは、やはり儂自身というよりは、儂の中にあるヨートゥン神の力の核なのだな」


「そうだ。それは、≪魔精ましょう≫たる我もまた同じ。そなたの肉体に宿ったその力は、そなた自身の魂と深く結びついている。ゆえに、その魂を通じて、おのが造物主たるヨートゥン神の面影に触れたいとこいねがうのだ。……闇の主よ、どうか我も貴方様の眷属として、その端に加えてはもらえまいか」


シルウェストレは、恭しく首を垂れると、ショウゾウの前に跪いてみせた。

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