恐れ知らず
彼は既視感を覚えていた。このような光景を見たことがある。そう、とあるテレビ番組で、出演者の一人が刃物を自分の首に突き立てて、陰惨な自死を迎えた姿と瓜二つであった。彼はそぞろに立ち上がる。
この学校に赴任してから何十年も経つ古参の教師は、時間を重要視していなかった。生徒に親近感を抱いてもらうのに、少しだけ脇の甘さを見せることが関係を築く上で手っ取り早いと考えていたのだ。これは教師生活が板についたベテランの知恵であり、生徒のウケも良かった。ただし、それはあくまでも表面上の話しでしかなく、問題解決にあたっての頼れる大人として認識されていなかった。だからこそ、刃物による凶行を目論む男子生徒の予兆を見落とし、「どうして、何故」などと困惑の言葉を吐くハメになる。とはいえ、教師ばかり責めるのも違うだろう。男子生徒の様子に異変を感じず、担任教師が教室に入ってくるまでの間に談笑に傾倒するクラスメイトもまた、同様に節穴であったのだから。
「え?」
初めは、隣に座っていた女子生徒であった。頭頂部に脈略なく刃物が突き刺されるという、あまりに突飛な被害に遭った女子生徒は、間の抜けたような顔で目玉をギョロリと上に動かす。今置かれている自分の状況をつぶさに把握しようとする意識の変化によって、友人と四方山話に興じていた口を中途半端に凍らせた。頭から角が生えたきわめて不可解な影法師が、女子生徒と仲睦まじく会話をこなしていた友人の身体に重なる。惨事と呼んで差し支えない出来事が目前にて広がり、著しく鈍化した頭は咀嚼はおろか、声を上げることすらままならず、「静観」と呼称するには無理がある思考停止の状態に追い込まれた。それぞれがそれぞれの趣味趣向に花を咲かせ、雑多な話し声が跋扈していた教室は、水を打ったような静けさが訪れる。
男子生徒は次なる獲物を探す為に、女子生徒の頭に突き刺した刃物を勢いよく引き抜く。その瞬間、間欠泉さながらに血飛沫が飛び散って、荒唐無稽な光景に呆気に取られていた弛緩した雰囲気が瞬く間に霧散した。
「ー!」
狂った甲高い声が上がると、堰を切ったように教室が喧騒に包まれる。男子生徒の獣によく似た鋭い眼光が、腰を抜かして動けなくなった女子生徒の友人を捉えた。次なる被害者を出汁にして、次から次へ教室から逃げ出すクラスメイトの群れの中で、唯一動かない影があった。彼である。
血液が多く付着した刃物は、極めて近寄り難い妖気を纏っており、それに対処できる手立てがなければ不用意に接近するべきではない。優れた格闘技術を持った人間ですら、背中を見せて逃げろと忠告するほどの危険な状況ながら、彼は全くもって恐れを知らない。一歩、一歩、踏みしめるようにしてやおら歩を進める。
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