兄弟
彼の知性は人並み外れていた。一度受けた授業の内容は全て記憶でき、空で口に出せるほどの精度も持っていた。だが、彼はその才能を衒学的に披露することはしない。それどころか、隠している節もあり、黒板に書かれた文字をわざわざノートに書き写す苦労を自らに課している。成績を決定付けるテストですら、彼は平均を狙って採点のコントロールを行っていた。徹底して自身を抑制する彼の思考は、きわめて保守的で、出る杭を打たれる心配に全神経を集中させているかのような、屈折した心構えがあった。病的なまでの彼の姿勢を鑑みれば、クラスメイトの蔑視を一身に受けることは耐え難いものだろう。気配の一切を断とうと試みる彼の努力は悪意によって瓦解し、学年を一つ上げることによる、クラス替えのみが彼にとっての望みであった。
「兄さん、今日は随分と帰るのが早いね」
彼には二つ歳の離れた弟がいる。親の寵愛を受ける弟は、髪の色から始まり、素行の荒さまで全て可愛らしい事として頂戴し、まるで不自由を知らない。
「まぁね」
雑然と脱ぎ捨てられている家族の靴を彼は一様に並べ直しながら、片手間に返事を返す。弟はそんな彼の背中をどこか鋭い目付きで凝視した。
「……」
必要以上に踏み入ったことを聞かない兄弟間の暗黙の了解により、喧嘩に発展するような軋は今まで一度も生まれたことがない。古くから付き合いがある両親の友人からは、顔を合わせる度に仲睦まじいと評され、兄弟は苦笑しながら相槌を打つのが常である。
「夕ご飯、何?」
「餃子だよ」
二人は目も合わせないまま、すれ違い様に四方山話をこなし、自室がある二階へ続く階段を上り始める。これは仲の悪さに起因する怠慢さではなく、長く時間を共有しているからこその、卒なくこなす会話であった。弟もそれに関して兄へ嫌悪感を抱くことはないし、付かず離れずの関係を維持してきた。
「はぁ」
扉を開けて閉める。如何なる軽重にも頓着しない彼の中庸な姿勢は、些細な動作にも息を湿っぽく吐くのが癖となっていた。それにより気怠さが付き纏い、猫背も相まって彼の評価は見目に従ったものに成り下り、クラスメイトのみならず教師からも「怠慢」を指摘されるようになっていた。彼の慧眼を持ってすれば、そのようなことは簡単に自覚できたが、覆すような能動的な行動を取ることはしない。第三者による評判など彼にとって、有象無象が虚像を相手にサンドバックにしているようなもので、気受けを求めて下心を覗かせれば、自身を貶めるきっかけになる。彼はそのようなことは望んでおらず、至って平然と現状を捉え、把捉するだけの強さがあった。
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