第21話 花火大会
あの日から、ほぼ毎晩のように、同じ夢を見る。
そこには彼女がいて、彼女の笑顔があって。
目が覚めれば、手のひらには、最後に頭を撫でたときの感触だけが残る。
筆を置けど、声を忘れようと──その感触だけを、忘れられないままでいる。
◇
辻の件があった翌日、差し当たって輔は深雪に防犯ブザーを買い与えた。
護身用のグッズも一時は真剣に考えたが、深雪が「そういうのはちょっと……」とやんわり断ったので、それ以上は調べるのをやめた。
代わりに、学校帰り、人通りの少ない道までは輔が迎えに行くことになった。過保護すぎるかもしれないが、その方が深雪が安心できると考えたからだ。
脅しが効いたのか、あれ以降、辻が姿を現すことはなかった。
やけになって通報されたりもしていないようで、数日経てば平穏が訪れた。
幸いと言うべきか、深雪が辻のことを引きずっている様子はなかった。
PTSDになったり人間不信になったりしている様子もなく、むしろ輔に対しては、距離感が近くなっているようにすら感じられた。
今までより積極的に話しかけてきたり、輔の読んでいる本に興味を持ったり。
事件直後こそ、不安感から過剰な反応が出ているのだろうと思っていたのだが、二週間が経ち、深雪の学校が夏休みに入った今でもそれは続いていた。
そんな日のことだった。
深雪が用意してくれた夕食を平らげ、輔はビールの最後の一滴を飲み干す。空になった缶を食卓の隅の方に置き、手癖で腰ポケットの煙草をまさぐる。
角の潰れた煙草の箱を一旦手にして考え直し、ポケットの奥に仕舞い直す。
食後の一服の旨さは格別だが、深雪の前で吸うわけにもいかない。寝る前にでも改めて舌を湿らせてから、外に行って吸えばいいだろう。
──ぼんやりとそんなことを考えていると。
深雪から声をかけられて、輔は眉を寄せて聞き返した。
「──花火大会?」
「はい。お休み前に学校で、チラシをもらってて……」
深雪は側に置いていた通学鞄の中からA4クリアファイルを取り出し、そこから赤っぽい再生紙を抜き取って輔に渡してくる。
「神社でお祭りがあって、その後に花火があるみたいです」
受け取って見れば、そこには打ち上げ花火のイラストが描かれていた。見出し部分にはでかでかとした文字で『花火大会のお知らせ』と書かれている。
細々とした説明は読まずに、輔は深雪の方を向く。
「ふーん、近くであんの?」
そうは聞いてみたが、輔の家の周辺に花火大会ができそうな神社はない。参拝者のほとんどいないような小さな神社なら一つあるが。
案の定、深雪は首を横に振った。
「ここからだとちょっと遠いんですけど……徒歩で行けなくはないくらいです。山の方に、神社とおっきい公園があって。そこでやるみたいで」
含みのある言い方で深雪が説明してくる。
場所は思い浮かんだ。バスは出ていないかもしれないが、確かに、多少無理をすれば徒歩で行けなくはないくらいの距離だ。
「それで?」
輔が短く聞き返すと、深雪はやや緊張した様子で自身の髪をくるくると弄る。
「その……これまでお祭りとか、花火大会って、あんまり行ったことがなくて。……夜ですし、輔さんと一緒に行けたらと思って」
身体をもじもじと左右に揺らしながら深雪が言ってくる。
「いつあんの?」
「えっと、来週の土曜日です」
「そう」
素っ気なく言い捨て輔がチラシを返すと、深雪はなにか言いたげな顏をした。髪を弄っていた手を耳に移動させて、じっと輔のことを見てくる。
「わかったって。まだなんかあんの?」
輔は軽い頭痛を感じながら溜め息を吐き、そう促す。
深雪は半信半疑といった様子で首を傾げた。
「……いいんですか?」
深雪の目には輔が気乗りしていないように映ったらしい。
別にそういうわけでもない。ただ、祭りで喜ぶ歳でもないだけだ。
「祭りの屋台は嫌いじゃないし。行きたいんだろ?」
予定が入っているわけではなかったし、断る理由も特になかった。
それに、深雪が正面を切って頼みごとをしてきたのはこれが初めてだった。それを無下にしたくないという気持ちもあった。
「……! はいっ」
珍しく興奮した様子で目を輝かせ、深雪は頷いた。
◆
花火大会当日の夕方、四時半。空が少しずつ赤くなってくる頃合い。
神社の隣にある公園の遊具に腰掛けて、輔は深雪を待っていた。
スマホで適当にニュースを貪っていると、目の前を人が通り過ぎていく。
輔が座っている遊具は、地面に半分埋まったタイヤの遊具だった。昔からある遊具だが、何に使ってどうやって遊ぶのか、未だによく分からない。
鬼ごっこの時に飛び越えて遊ぶくらいだろうか。
ほかの遊具は、ブランコは乗れないように鎖の部分が巻かれており、石でできた滑り台は祭りの開始を待つ小学生たちの遊び場となっていた。
祭りの屋台は公園まで出ていた。
というよりは、神社の境内はそこまで大きくないため、公園の方が祭りの中心となっていた。花火も公園の敷地で上がるらしい。
公園内は親子や、私服の学生らしき子供たちなどで既に賑わっている。
夏休みというのもあって、想像していた以上に人が多い。
まだ人の隙間から地面が見えるくらいだが、祭りが本格的に始まればもっと人でごった返すだろう。準備を終えた屋台には短い列もでき始めている。
「お、お待たせしました」
と。背後からそんな声がかかり、輔は首から振り返った。
そこに立っていたのは、紺色の牡丹柄の浴衣を着た深雪だった。
初めて見るタイプの服装だ。
といっても、輔が今着ているのも灰色の浴衣だった。
調べてみたところ、毎年ある大規模な祭りということで、すぐ近くに浴衣のレンタルをしている店があったのだ。祭り当日、中学生以下は貸出無料だったため、深雪にすすめてみると、予想外に嬉しそうな顔をされた。
着付けの前に、「公園の入口辺りで待ってるから」と深雪に伝えて、浴衣に着替えた輔は先に着物店を出ていた。店には主に中学生以下とその親によって長蛇の列ができており、深雪の着付けにもっと長い時間がかかると思っていたためだ。
しかし、プロの仕事は流石と言うべきか、深雪が着付けを終えてやって来たのは、輔が公園に着いてから十分と経たずしてだった。
「…………」
深雪の全身を眺める。艶のある黒髪に浴衣がよく似合っている。同年代くらいであろう男子が深雪の方を見て、名残惜しそうに友達の元へ去っていった。
元々目を惹く見た目ではあったが、和服は深雪の雰囲気に特に合っていた。普段より年齢も高く大人らしく見え、照れている姿は輔の目にもかわいく映る。
「その、変……でしょうか?」
輔の視線に耐えられなくなったのだろう。
深雪は声をやや上擦らせて、上目がちに頬を染めた。
「……いいんじゃない? 似合ってるし」
腰に括りつけた巾着袋にスマホをしまいながら、適当に返す。意識してしまっては、素直に褒めることなどできなかった。
素っ気ない輔の返しに、それでも深雪は更に顔を真っ赤にした。
自分の髪や顔をぺたぺたと触り、「似合っ……」と小さな声を漏らす。
「た、輔さんも似合って……ますよ?」
「そう」
深雪なりの意趣返しだったのかもしれない。輔が褒められたことにさした関心を示さずに立ち上がると、深雪は僅かに不満げな顔をした。
特に開始の合図もなく、それでも賑やかに祭りは始まった。
辺りが暗くなり切る前に屋台や提灯に明かりが灯っていき、一帯が祭り特有の藹々とした雰囲気に包まれる。
深雪は祭りの全てが物珍しそうに、目を輝かせて視線を彷徨わせていた。
その様子を見て、輔が聞く。
「そういや、祭りも初めてなんだっけ?」
「小学生の頃に一度、少しの間だけ連れてきてもらったことがあります。その時は人混みに酔っちゃって、あんまり覚えてないんですけど……」
「人混み駄目なの?」
周囲を見渡すまでもない。公園内は輔の想像通り、祭り開始前とは比較にならないほど人で溢れており、少し歩いただけで誰かの肩が当たりそうになる。
そんな中にいて大丈夫なのだろうか。
「い、今は大丈夫ですよ」
「それならいいけど。気分悪くなったら言えよ」
それからは雰囲気を楽しみつつ、屋台を見て回った。
深雪が興味を示した屋台には寄ろうと、来る前から決めていた。
八個入りのたこ焼きを買って、公園の隅に立ち止まって食べる。
深雪は屋台の食べ物の値段の高さに驚いていたが、輔が「祭りならどこもこんなもんだろ」と言うと、一番安い五百円のソースたこ焼きを選んだ。輔はそれより百円高い明太マヨソースのたこ焼きを買った。
輔が黙々と四つ目を口に放り込む中、深雪は一つ目の熱さに苦戦していた。
かくいう輔も、とろっとしたたこ焼きの中身に舌を火傷していた。冷たい飲み物でも買っておけば良かったと後悔した。
「美味しい……」
ようやく一つ目を食べた深雪が、機嫌の良さそうに呟く。
深雪の言う通りたこ焼きは美味しかった。
祭りの空気感で食べるたこ焼きは、普段の二割増しで美味しく感じる。
しばらく時間が経つと、たこ焼きも冷めてきたため、深雪が食べるスピードも徐々に早くなった。
深雪が美味しそうに自分の分を食べ切り、パックを閉めたところで、輔は残してあった最後の一つをつまようじに刺し、深雪の顔の前に持って行った。
「ん」
「え、あ……! 私、全部食べちゃって……」
パックの中を見せてきながら、深雪が慌てる。
もう交換はできないと言いたいらしい。
「いいから」
深雪は一瞬迷いを見せたが、輔がその口にたこ焼きを近付けると、観念したように口を開いて明太マヨたこ焼きを頬張った。
どうやら口に合ったらしく、深雪はどこか幸せそうな表情をした。
口元を手で隠して咀嚼し、ごくりと飲みこんで頭を下げる。
「ありがとうございます。とっても美味しかったです」
「そう。食い終わったならそれ貸して。……んで、待ってて」
輔は深雪の手から空のパックを引き取って、屋台の側にテープで留められた大きなごみ袋に入れに行き、深雪の待つ場所に戻ってくる。
深雪は帰ってきた輔の腰の辺りを見つめて、ぼーっと呆けていた。
「どしたの」
「い。いえ……っ。……その。人、増えてきましたね」
話を逸らすように深雪が言う。
振り返ってみると、確かに人口密度は増していた。気付けば空も暗くなっており、花火大会が始まる時間が着々と近付いているのを感じる。
輔が深雪の方に視線を戻すと、深雪は俯いていた。
「なに、やっぱり人に酔った?」
輔が聞くと、深雪は「そうじゃなくて……」と首を振った。
そこまでやり取りしてやっと、輔は深雪が今までどこを見ていたかに気付いた。さっきのは話を逸らされていたわけではなかったらしい。
「…………」
おもむろに輔は手を伸ばすと、深雪の手を取った。輔としても気恥ずかしさを感じる部分はあったが、一切動揺していないよう振舞った。
「……! あ、え……っと!」
「はぐれたら困るし。それとも、嫌だった?」
首がぶんぶんと大げさに振られる。即答だった。
「嫌じゃ、ないです。……むしろ」
最後の方はほぼ聞こえないくらいの声で、深雪が呟く。
「そう」
柔らかく小さな手を引いて、祭りのどこか心地よい喧騒の中に戻った。
しばらくすると深雪は手を握り返してきた。
そこからはわたあめ、かきごおり、りんごあめと甘いものを中心に屋台を回った。深雪が甘いもの好きなのだと、輔は初めて知った。
家では一度も菓子類を欲しがったことがなかったため、知らなかったのだ。
食べるたびに至福の表情を浮かべる深雪に、輔は複雑な心境だった。
「……遠慮すんなって言ってたのに」と独り言ちる輔の声は、がやがやとした祭りの音に紛れて聞こえなかっただろうが、深雪は何かを察したように身を震わせた。
「あ。あれ、なんですか?」
「どれ?」
「あの……色々並んでて、銃を構えてる……?」
深雪が指さしたのは、あまり人が並んでいない屋台だった。お菓子やぬいぐるみといった景品が間隔を空けて机の上に並べられている。
その前では、中校生くらいの少年がコルク銃をそれらしいポーズで構えていた。
「射的。景品を撃って倒すってやつ。やってみたら」
「え。でも、えっと……っ」
深雪の返事を待たず、手を引いて屋台の前まで歩いて行く。
ちょうど弾がなくなったのか、少年は銃を机上に置き、撃ち倒したキャラメルらしき小さな箱を持って足早にその場を去っていった。
輔は巾着から財布を取り出し、厳格そうな顔をした店番のおじさんに三百円を支払うと、代わりに受け取った五発のコルク弾と銃を深雪に手渡す。
「ん。ここから弾入れて、撃って倒せば貰える」
「…………」
何かを訴えるような目で深雪は輔を見ていた。
しかし、輔が何の反応も返さずにいると、やがてその銃を受け取った。
「なにが取りたいの?」
ぎこちなく銃を構えた深雪に輔が聞くと、深雪は遠慮がちに視線をある景品に向けた。
「……あれは、難しいですか?」
「……。なにあれ」
輔は思わず素で返す。
深雪の視線の先にあったのは、奇妙な見た目のぬいぐるみだった。
ぽつんと黒目のついた饅頭のような頭の下から、十本くらいの短い脚が生えている。色は淡い青と緑の間のような色で、手のひらに乗るくらいの大きさだった。
「くらげ……じゃないでしょうか?」
言いながら深雪が店主の方をちらりと見るが、店主は何も言わずに、「早く撃て」と言わんばかりに顎を振った。
客の回転を早めたところで、行列も何もできていないが。
なんでもいい。撃って倒して、取れればいいのだ。
輔は深雪の背中側からその手を握り、銃口をぬいぐるみに向けさせる。ぴしっと身体を硬直させる深雪の手からコルク弾を取り、銃のレバーを引いて装填する。
深雪の目は既に景品の方を向いておらず、泳ぎまくっていた。
「……手元震えてると狙えないけど?」
「は、はい……っ!」
返事は良いが、緊張からか深雪の震えは止まらなかった。
輔は銃口を固定させるために深雪の手をより強く握ると、なおも細かく振動している深雪の指に指を添え、引き金を引いた。
屋台も一通り回り終え、夏空がゆっくりと時間をかけて真っ暗になって。
歩き疲れた二人は、運よく空いているベンチを見つけて座った。皆、花火が打ちあがる近くの方まで移動しているのだろう。人の往来はそこまでない。
少し離れた場所からばちばちと音が聞こえて、二人してそちらを見やると、青紫色の光の誘蛾灯が羽虫を集めていた。
輔が隣に視線をやると、浴衣の袖を整える深雪と目が合った。その手には射的で取ったくらげのぬいぐるみが大事そうに抱えられていた。
互いに一瞬、目を逸らしそうになったが、輔はなんとか口を開いた。
「楽しい?」
「はい。とっても、楽しいです」
満面のというよりは少し照れが入った笑みで、深雪が答える。
「お祭りって、こんなに楽しかったんですね」
「規模のデカいとこはまあ。小さいとこはそうでもないんじゃない?」
「……輔さんと一緒だったから、です」
深雪は浴衣の袖を握って、いじらしく告げる。
「そうか」
気の利いた返事などできるはずもなく、輔が目を細めながら返すと、
「輔さんは、お祭りどうでしたか?」
「たこ焼きは美味かったな」
輔が味を思い出しながら言うと、深雪はお腹に手を当て、こくこくと頷いた。
「すっごく美味しかったです。今まで食べたので、一番……」
話す声が徐々に小さくなっていき、
「──……私。今日のこと、ずっと忘れません」
深雪は芯のある声でそう宣言して、どこか儚げに微笑んだ。
それはまるで、次が来ないことを予期しているような表情であった。
「別に、来年も来ればいいんじゃないの」
「い……」
深雪が微かに、期待の込められた声で何かを言おうとした。
──その時。光と共に大きな音が空から響き、わっと歓声が湧き上がった。
空を見上げれば、次の花火が打ち上がる。
「────」
囁くような声が、ドン、という花火の音で掻き消される。
最初は数発ずつ、普通の菊花火からだった。こういうのは祭りを盛り上げるために、緩急をつけて打ち上げるのだと聞いたことがあった。
徐々に花火は打ち上げの感覚を狭めていき、椰子や八方咲き、千輪菊など、様々な種類・色彩の花火が間断なく上がり続ける。
「…………」
空を仰いで、間近で花火が咲くのを眺める。毎年、遠目に打ちあがっているのを見ることはあったが、これほど近くで見たのはいつ以来だろうか。
風情のある音を聞いているだけで、胸を打たれるような気分になる。
「わ。今の、綺麗ですね……」
深雪は千輪──花火玉が割れた後、小玉が時間差で一斉に開く花火が気に入ったらしく、千輪が上がるたびに小さな歓声を空気に溶かしていた。
その目は、花火の光を反射してきらきらと輝いている。
昂揚が直に伝わってくるようだった。深雪が子供らしくはしゃいでいる姿を見られただけで、ここに来た甲斐があったと思えた。
小さな手が花火に翳され、光を掴もうと握り込まれる。
深雪は時折、輔の方を見て、感想を共有しながら花火を楽しんでいた。
こういう時は何か言うべきなのだろう。と考えなくもない。輔が歯の浮いた台詞の一つでも言えば、きっと深雪は喜ぶのだろう。
ただ、それを輔がやることなのかと自問すると、それも違った。
さっき、彼女が何を言おうとしたのかを聞き返すこともしなかった。
一際大きな花火の逆光が、深雪の顔に影を差す。すぐそばにいるのに遠くにいるような気がして、輔は思わず手を伸ばそうとして──やめた。
代わりに、その楽しそうな横顔をじっと眺めていた。
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