第20話 戻らないもの
家で寝ていた輔は、五回にも渡る着信の連続で起こされた。
口を開けて眠ってしまっていたのか、喉ががらがらで若干痛かった。
『まだ寝てたの? もう夕方だよ?』
ノイズ入りの聞き慣れた呆れ声が、電話口から聞こえてくる。
「……なんかあった?」
耳にスマホを当て、寝ぼけ眼を擦りながら、掠れ声で返事をする。
『ええ。言ったじゃん、退院したら付き合ってって!』
陽縁は呆れたようにそう言ってくる。
昨晩飲んだアルコールが残って絶望的に回っていない頭で考えると、確かに、そんな話をした記憶が掘り返された。
記憶は見つかったが、今の眠気には到底勝てない。
「…………そう。おやすみ」
『今から輔くんの家行くから、準備しといてね! それじゃ』
早口にそう言って、陽縁は電話を切った。準備というのが何の準備か分からず、輔は微睡みに任せて再び目を閉じ意識を手放した。
その後、本当に訪ねてきた陽縁に揺り起こされ、
「なんで寝ちゃうの! というか、鍵開いてたし!」と叱咤を受けた。ついでに、ごみ箱からはみ出た即席麵の容器や惣菜のパックについても小言を言われた。
「ちゃんと栄養考えて食べないとダメだよ?」
焦点の定まらない目で陽縁を見れば、いつもと雰囲気の違う格好だった。
ゆったりとしたロング丈の黒いサロペットに、白いリブニット。道中暑かったのかそういうコーデなのか、袖は半袖丈に捲られていた。
腕には若草色のトートバッグと白いビニール袋が掛けられている。
ちゃんとした格好をしていると、最初に会った時のことを思い出す。家の中ではラフな格好が多かったため、すっかりそちらのイメージで定着していた。
どちらかといえば、今の格好の方がよく似合っている。
なんてことを考えながら、陽縁の渡してきた外行き用の服を受け取り、急かされるままに脱衣所まで追いやられて、服を着替えて。陽縁の目を盗んで、煙草とライターだけを普段着ている上着のポケットから抜き取って。
「ほら、急いで。バスの時間調べてきたんだから」
渋々、陽縁の後を着いて外に出かけた輔は、今まで一度も行ったことのない方面へと向かうバスに乗り込まされていた。
バスが着いたのは人気も、何もない場所だった。
微かに潮の香りがする堤防沿いの道を歩き、しばらくして歩道のない側へと渡った。「ここだよ」と陽縁が告げ、足を止めた。そこから、堤防の隙間に見えた景色──暗い色の海に沈みゆく夕日の眩しさに、輔は目を細めた。
「綺麗でしょ?」
振り返った陽縁が柔らかく微笑んだ。
「昔、この辺りに住んでてね。お母さんが教えてくれたんだ。輔くんも、他の人に教えてもいいよ? ……あ、でも海を汚さなそうな人だけね」
既に日はほとんど沈み、砂浜は暮色蒼然としていた。残照が海と空を同じ色に染め、その境目を曖昧に見せた。
ほんのり明るい空を見上げれば、淡く消えかかっている鰯雲の影に、煌々と輝く一番星が顔を出していた。
「じゃじゃーん」
わざとらしさ満載にそう言いながら、陽縁は意味深に手にしていたビニール袋から中身を取り出し、見せびらかすように披露してくる。
暗い中でもその派手な色の袋と、大きな『花火』の文字はよく目立った。
「家にあったの持ってきたんだ。一昨年、大学の友達とやろうと思ってたくさん買ったんだけど、結局余っちゃって」
「海、汚さないんじゃなかったの」
「手持ち花火くらい大丈夫だよ。それに、ごみは持ち帰るから!」
陽縁はぐっと親指を立てて、花火の包装をびりびりと開封した。
風で飛ばないようビニール袋の上に花火を置いて、トートバッグから柄の長いライターを取り出す。それから両手でトリガー部分を握り、カチッと音を立てる。
四、五回やって火がつかないのを見て、輔はポケットに手を突っ込む。
「ライターならあるけど」
「ほんと? 良かった……って、なんで持ち歩いてるの?」
「煙草吸うから」
平然と輔が返すと、陽縁はお手本のように目を丸くした。
「え。初耳なんだけど……」
「──言ってなかった?」
分かった上で輔は聞いた。
唇を尖らせて、陽縁は「言う前に、吸ってなかったじゃん」と不満げに言った。
しかしすぐにころりと表情を一転させると、口元を緩めて聞いてくる。
「じゃあ、私といるときは我慢してくれてたんだ?」
「……別に。元々執筆が上手くいかない時とか、たまに吸うくらいだし」
「そっか」
短く返しつつも、嬉しそうに陽縁は目を細めた。
手持ち花火中、陽縁はずっとご機嫌だった。蝋燭が風で倒れて砂にダイブし、次の花火が着火できなくなったと思った時も、「今の花火が消える前に次のに着ければ大丈夫!」とむしろ楽しそうに次の花火を取り出した。
元々気分屋な方だとは思っていたが、今は心配になるくらいだ。
まるで、数日前の病室での会話の反動のように思えた。
途中で色が変わるもの、比較的威力があるもの、線香花火までをやり切って。
出たごみはビニール袋に入れて。
時間が過ぎて。
互いを照らすものが月明かりだけになった頃。
はしゃぎ疲れたのか、陽縁はおもむろに砂浜に足を放り出して座り込んだ。
手招きされ、輔もそれに倣って少し離れた場所に腰を下ろした。
陽縁は腕を伸ばせば触れられるほど近くに寄ってくると、手のひらを砂につき、
「ありがとね。今日付き合ってくれて」
目を瞑って夜の涼風を心地よさそうに受けながら、そう告げた。夜に海のそばということもあってうっすら肌寒く、陽縁はリブニットの袖を伸ばしていた。
「……付き合ったってか、付き合わされたんだけど」
輔の照れ隠しはあっさり見抜かれていて、陽縁は両手の手のひらを砂について空を仰ぐと、くすくすと愉快そうに笑った。
「ずっと思ってたけど。輔くんって、私より素直じゃないよねえ」
穏やかな波の音に混じって、我慢するような空気を含んだ笑い声が響く。
「そんな面白い?」
何が壺に入ったのか、笑い続ける陽縁に輔は苦言を漏らす。それがなぜかまた笑いを助長させたらしく、陽縁は笑いを堪えるのに必死になっていた。
数秒間、陽縁はくすくすと笑い続けた。
「あーあ、笑ったあ……」
「…………」
「ごめん。そんな怒らないでってば」
冗談めかした口調で陽縁が謝ってくる。
「別に、怒ってはないけど」
輔がそう告げると、陽縁は「そっか、なら良かった」と言って、より近くまで身体を寄せてきた。ふとすれば肘が触れてしまうような距離だった。
「……ほんと、ありがとう」
会話の足掛かりにするように、急に陽縁が礼を告げてくる。
「なにが?」
「ちょっと吹っ切れたから」
言って、陽縁はんん、と伸びをした。
「ずっと。誰にも言えなかったんだ。……辛かったこと」
それが数日前に交わした会話のことであることはすぐに分かった。
陽縁はあまり良くない記憶を思い返すように首を振って、
「大学の友達も、私が変わったせいか離れて行って。……誰にも相談なんてできなくて。でも、そんな時に現れたのが、君ってわけ」
「……それで。話して、多少はマシになったの?」
「ちょっとなんてものじゃないよ。……あれから、喉の奥に閊えてたものが取れたみたいだった。今日まで、君にもう一回会いたくて仕方なかったくらい」
よく分からない尺度を使って説明してくる陽縁に、輔は困惑する。
「……なにそれ」
「輔くんには、とっても感謝してるってこと」
照れ笑い混じりにそう言って、それから陽縁はすっと息を吸った。
「あのさ──私。明日から、一旦家に帰ろうと思う」
「……。なんでいきなり?」
急に切り出された陽縁の言葉に、輔は訝しげに聞き返す。
今日は気分が良さそうに見えたが、内面がどうかまでは分からない。また急に気分が落ち込んでいるというのなら、今度こそ止める必要がある。
そんなことを考えていると、陽縁は何もかも分かっていると言わんばかりに輔の方を見もせずに、「そんな顔しなくても大丈夫だよ」と言った。
「あの部屋、練炭とかそのままでしょ? ……部屋の片付け済ませて、引き払って。お母さんが入院中、使ってたものとかもそのまま物置に置いてあるから、それもどうにかして。心機一転したいなーって」
練炭、という言葉が陽縁の口から出たことに虚をつかれ、輔は冷汗をかく。
陽縁の方は、さして思いつめている様子もなく、空を見上げている。
「……いつかは、心の整理をつけなきゃなんだよね」
陽縁は鷹揚に頷くと、踏ん切りをつけるように、そう口にした。
「…………」
輔が何も言わずにいると、陽縁はバッグの中で淡いライトを点けた。
スマホを操作しているのだろう。
「そういえば、バスの帰りの時間。忘れてたね。帰れるかな?」
陽縁の言葉に輔もスマホの電源をつけ、時刻を確認する。田舎のバスは最終便が十八時や十九時台となるバス停も多いためだ。
「まだ二本くらいあったし。最悪、最後のには乗れるだろ」
時刻表を思い出しながら、輔はスマホを上着のポケットに仕舞い直す。
「そっか。なら、大丈夫だね」
「陽縁」
「なに?」
態度を改めて名前を呼んだ輔の声に、陽縁はいつもと変わらない口調で返す。
「──まだ、死にたいって思ってる?」
その横顔に輔が聞くと、陽縁はこてんと輔の方に身体を倒してきた。
互いの肩が触れ、輔の肩に体重が預けられる。
「ね。頭撫でてよ」
輔はその要求に従った。ぎこちない手つきで、頭頂部を頭皮に触れない程度に撫でると、「髪に沿って、もうちょっと強めにお願い」とオーダーが入った。
「輔くん、緊張してる?」
陽縁が僅かに顔を上げて聞いてくる。
「……だったら?」
「ふふ、私と一緒だねー」
心底嬉しそうに、そう告げて。陽縁は、続けて。
「──君がいるなら、生きてもいいかな」
こちらを向いた陽縁が輔の頬に手を添えてくる。
遅れて、反対の手が逆の頬に添えられて。陽縁は目を閉じて、顔を近付けてきて。
予定調和のように、唇が重ねられる。
陽縁の顔を見たいと思ったが、月明かりでは暗くてよく見えなかった。
◇
翌日、陽縁は宣言通り輔の家を出て行った。
荷物は置いたままに、「またすぐ帰ってくるから」とだけ言って。
次の日になっても、陽縁は帰ってこなかった。
電話もメールも通じず、家まで出向いても留守なのか鍵が掛かっていた。
──陽縁が交通事故に遭ったことを知ったのは、彼女が輔の家を出て行ってから三日後。強い雨の降る夕方のことだった。
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