第18話 失言




 ──それから、陽縁ひよりとの奇妙な生活が始まった。




 陽縁は三回に分けて荷物を運び、着替えや歯ブラシにとどまらず布団まで持ってきた。そして、広いからという理由で当然かの如く居間に居付いた。


「私がいるからって、着替えとか場所気にしなくていいからね」

 そう陽縁は念を押してきた。こっちで勝手に気を付けるから、とのことだった。


 一緒に住む上でのルール的なものも特に決めなかった。

 輔としてもルールに縛られた生活をするのは望むところではなかったし、細かく決めたところで覚えていられる自信もなかったからだ。

 

 住まわせてもらうお礼と言い、陽縁は料理や掃除といった家事を進んでやった。


「掃除できるなら、なんであんなに散らかってたの?」と輔が聞くと、陽縁は「綺麗な部屋の掃除はできるんだけど、汚れた部屋はできないんだよねー。この現象、名前あっていいと思うんだけどな」と、よく分からない理論を提唱した。


 仕事中以外は、陽縁に構ってと言われて、仕方なく居間で本を読んだ。


 本棚を見て知っていたことだが、陽縁の趣味も輔と同じく読書だった。本を読んでいる間は静かになるため、輔は書斎に持っている本を定期的に陽縁に貸した。


 そうしていつしか、輔は陽縁と一緒に過ごすことに違和感を覚えなくなっていた。

 その関係を人に見せれば、或いは付き合っているようにも見えただろう。


 だが、同棲を強行してきた割には、陽縁が輔を異性として見るような行動を取ったことはなかった。むしろそうでないからこそ軽々しく、今日から住まわせて、なんて言葉が出たのかもしれない。


 関係を形象化すれば、互いの距離は一気になくなるだろうという感覚はあった。そのうえで輔も陽縁も、そうであることを望まなかった。


 それが同じ屋根の下に住んでいて、一定の距離を保つための保険になっていた。

 そんな不明確な関係が、三か月以上続いた。




     ◆




 カタカタと、机上でキーボードが叩かれる音だけが書斎内に響いていた。

 そこにドアがノックされて、しばらくの後、「入るね」の声と共に開けられる。


 集中がぷつりと途切れ、モニタの中心を見つめていた視界が広がっていく感覚を覚える。それと同時に輔は過失を悟った。

 はっと気付いた時には遅かった。

 振り返りドアの方を一瞥すると、白いマグカップを手にした陽縁が入ってきた。


 陽縁が書斎の中まで入ってきたのは初めてのことだった。元々禁止まではしていなかったが、暗黙の了解としてそうあったためだ。


 輔は眉をひそめ、それからしょうがないか、と目を瞑った。


 ……できれば陽縁を入れたくはなかったのだが。

 集中していたのもあったが、せめてノックに返事をするべきだった。


 隣まで歩いてきた陽縁は、ノートパソコンから少し離して湯気の立ち昇るカップを卓上に置く。ブラックコーヒーのよい香りが漂う。


「はい、これ。朝起きてからずっと籠ってるけど、そろそろ休憩しない?」


 言われて窓の外を見る。既に空は夕焼けに染まっている。

 椅子を引くことはせず、キーボードを打つ手だけを止めて輔は返事をした。


「……淹れてくれんのはありがたいけど、ノック。返事してないんだけど」


 輔の呈した苦言に、陽縁は唇を尖らせた。

「だって、輔くん返事してくれなかったじゃん。……お仕事中?」


 陽縁は手を止めた輔の両肩に手を乗せて、ぐっと体重をかけてくる。


「仕事中。……重い」

「へえ。仕事ってライターかなにかやってたの? どおりで──」


 輔の返事を意に介さず、その背中越しに陽縁はパソコンの画面を覗き込む。

「…………」


 見られて困るものでもないが、やはり少し気まずさはあった。それは、彼女の部屋にある本棚を見た時から感じていたことだった。


「それ、記事じゃないよね。小説?」


 書かれてある文章を読んだのだろう。陽縁が興味津々に聞いてくる。

 だから、書斎には極力入れたくなかったのだ。


「だったらなに」


「────」


「……。用がないなら手、どけてくんない?」


 振り払おうとした輔の手を身を捻ってあしらい、陽縁はモニタを注視し続ける。


「……というか、その文体と、登場人物の名前って」


 陽縁は小さく唸って考え込んだ後、ピンときたように視線を上げて、それから信じられないといった表情を作った。

「──もしかして、凌輔先生?」


 一目で言い当てられ、悪事を見抜かれた時のようにぎくりとする。

 凌輔、というのは輔が使っている筆名だった。


 半分振り返った輔が沈黙していることから、問いの答えを察したのだろう。

 陽縁はごくりと喉を鳴らし、輔の肩から手を離して後退った。


「……喫驚」


 半身を振り返らせ、輔は目を見張る陽縁を胡散臭そうな目で見る。


「なにその驚き方」

「びっくり、って言うより文系っぽいかなって」


 よく分からない驚き方をした陽縁は、興奮気味に続ける。


「そっか……そうなんだ。じゃあ私、輔くんの書いた本持ってるよ? っていうか、ほとんどファンみたいなものなんだけど」


「持ってるのは知ってる。部屋の本棚にあったし」


 陽縁の部屋の本棚には輔がこれまで書いた小説が四冊、すべて並んでいた。

 作者名順に並んでいたこともあって、どうしても目についたのだ。


「はー……」


 輔の横顔をじっと眺め、陽縁は声と共に長い息を吐く。


「それ、どういう反応?」


「だって。そんな有名人が身近にいるなんて思わないじゃん。サイン貰おっかな」


「……有名人って。別にそんなことないでしょ」


「デビュー作から映画化されてて? 本も読んだけど、……一昨年、じゃなくて三年前だっけ。映画館まで見に行ったよ、私」


 私は映画より小説の方が好みだったよ、と陽縁は続ける。


「なにが」


 褒められて悪い気はしないが、どこか居心地の悪さのようなものも感じる。本格的に輔のデビュー作が売れたのは、映画化の後だったからだ。

 二作目が運よく売れた結果、一作目も映画化されて、それで売れ行きが一気に伸びたという成り行きから、映画のお陰で売れた小説だと揶揄されることもあった。


「なにが……って。言葉のままだけど」


「忖度しなくていいから」


 短く溜め息を吐いた輔に、陽縁はむっとした顔を作る。


「そんなんじゃないって。そりゃあ確かに映画も良かったけど、輔くんの書く文章、私好きだし。ファンだって言ったじゃん」


「…………」


「褒められたら、すぐそうやって黙って誤魔化すんだから」


「…………」


「そこはせめて何か言い返してよー」

 面倒な注文を垂れながら、陽縁は輔の背中を押してくる。


 それから、ふいに書斎の中をくるりと見渡し、「……にしても」と口にした。


「なに?」


「輔くん、なんでこんなところに住んでるの? あ。ここが悪いってわけじゃないけど。住み心地いいし。でも、印税だけでももっといいとこ住めるんじゃない?」


 なんとなく、といった風に陽縁が聞いてくる。


「……なら出て行けばいいだろ」


 真面目に答えるのが億劫になり、つっけんどんに輔は返す。

 陽縁は輔の方に寄せていた体を引き、上体を反らして、ん-……と伸びをした。


「それもそっか」


 そこで一旦、会話が途切れる。

 数秒後。


 そういえば言い忘れるところだった、と言って陽縁は顔の前で両手を合わせた。


「今日、夜ご飯用意できないや。私の分はいらないから、どこかで買ってきて?」


「言われなくても、食うもんなかったら買いに行くけど。……何か用事?」


 何が、とは言い切れなくとも、どこか不審に思った輔は聞き返す。


 陽縁が夜ご飯を用意できないのはいいが、彼女の分がいらないというのはどういうことだろうか。食べに行くなんて話は聞いていないが。

 何かあったときは逐一報告してくる陽縁にしては珍しい行動だった。


「うん、ちょっと。出かけてくるね」

 ──踵を返して微笑んだ陽縁の表情に、輔は薄ら寒いものを覚えた。


「…………」


 ドアを開けて退出する陽縁の背中に声をかけようとして、やめる。


 あまりよくない違和感を覚えたのは確かだ。


 かといって、深く聞くほど彼女の行動を知りたいわけでもない。輔が小説家であることを隠していたように、陽縁にも隠し事の一つくらいあって然るべきだろう。

 言う必要がないことは言わなくてもいい。元々そんな関係だ。


 考えの末、そう結論付けた。




     ◇




 次の日になっても、陽縁は帰ってこなかった。

 以前までであれば気にも留めなかったであろう輔だったが、昨日、去り際に彼女が見せた笑顔がやけに気にかかってしまっていたのだ。

 気付けば電車に乗り込んで、陽縁の家の前まで来ていた。


 インターホンを鳴らすが、返事はない。こちらにも帰っていないのだろうか。


「……帰るか」


 余計な足を運んだ、と溜め息を吐き、鬱憤晴らしにドアノブを捻る。

 ──予想に反し、がちゃりと音を立ててドアノブは回った。鍵が開いていた。


 異変を感じ取り、疑懼に心臓の鼓動が一際大きくなる。


 昔から、嫌な予感に限っては的中した。

 ガチャリとドアを引き開けると、焦げ臭い、バーベキューをするときのような異臭が暗い廊下の奥から漂ってきていた。


「……っ」


 思わず靴を脱ぎ棄て、短い廊下を駆け抜けドアを開け、彼女の部屋へ入った。

 灰色に靄がかった視界に、焦げ臭さがより一層強くなる。

 そこに広がっていた光景と呼吸のしづらさに、輔は鼻筋に皴を寄せる。


 相変わらず散らかった部屋だ。だが、そんなことはどうでもいい。

 部屋の数か所に耐熱皿が設置されており、その上に煙の燻る練炭が置かれていたのだ。陽縁が何をしていたのかを瞬時に察し、輔は舌を打った。


 ──なんで、いきなり。こんな。


 ベッドの上に横向きに倒れていた、顔色の悪い陽縁を抱え玄関の外へ連れ出す。陽縁は意識を失っているようだったが、弱々しい息はしていた。


 輔は上着のポケットからスマホを取り出すと、迷わず救急へと電話をかけた。

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