第17話 夢の続き
──私に死んでほしくないなら、来れる日はできるだけ会いに来てよ。
生きる理由になって、というなんとも曖昧な言葉の意味を聞き返した輔に、陽縁はそう言った。
その要求を拒否することで彼女が思いつめるかもしれない、などと考えるほど、驕っていたわけではなかった。無駄に余っている時間を消費するにはいいかもしれないと、独善的な考えに浸っているわけでも無論なかった。
いずれにせよ、輔はその要求を受け入れた。
なし崩し的ではあったが、不思議と面倒だという気持ちは湧いてこなかった。
仏教に根差した考え方に『何かの縁』という言葉があるが、これも、ともすれば因果じみたものが働いていたのかもしれない。
柄にもなく、そんなことを思いもした。
翌日以降。輔は連日電車に乗って、陽縁の家に通った。
床を片付けて自分が座るスペースを作り、輔はそこに胡坐をかいていた。
手の中の文庫本に視線を落として文章をなぞっていると、背後のベッドの端に腰掛けた陽縁が頬を膨らませ、不満そうに呟いてくる。
「輔くんさあ。……来てくれるのは嬉しいんだけど、ずっと何か読んでるよね?」
背中に気配を感じ、直後、視界に手のひらがぶんぶんと振られる。
無論、読書の邪魔だったが、読めないこともない。対応してしまうこと自体が負けになる気がして無視をしていると、陽縁はつまらなそうに零した。
「たまには私に構ってくれてもいいのに」
「…………」
「会ってその場で男の人連れ込むような女だよ? 手出そうとか思わないの?」
躊躇がちに腕が伸ばされ、輔の首筋に手のひらが触れられる。軽率な言葉とは裏腹に、その手つきは明らかに人慣れしていなかった。
人懐っこいというよりは、距離感を測りかねているように思えた。
冷たい両手の感触に、輔は忌々しげに首だけを振り返らせる。
「……やめてくんない?」
一体何を考えているのかは知らないが、鬱陶しい。
「やだ、って言ったら?」
陽縁は構われたこと自体が嬉しそうに、言われた通り両手を引っ込めながらも、からかうような口調でそんなことを言ってくる。
「…………」
「輔くん、あんまり人慣れしてないよね」
どっちが、と言い返しそうになって、輔は直前で喉元の言葉をすり替える。
「……。もっと自分のこと、大事にしたら?」
「お母さんみたいなこと言うじゃん」
輔の説教染みた批難を聞いて、不満というよりは面白そうに陽縁は言った。それからまたすぐに興味の矛先を変えたようで、輔の肩越しに本を覗き込んでくる。
さらさらとした髪が耳に触れて、くすぐったさに輔は顔をしかめる。
なんとなくいい香りがするのも癪だった。
「ね、なに読んでるの?」
「小説」
「それは分かってるってば。誰の、なんて小説?」
さらにずいっと顔を近付けてくる陽縁に辟易しながらも、輔は文章を辿る。
そうしていると陽縁は、「改まった雰囲気に居住まいを正して、彼は……」と小説本文を朗読し始めたので、その視界を右手で遮ると諦めて彼女の問いに答えた。
「……
「あ、その作者さん知ってるよ! でもタイトルは知らないなあ。新作?」
「こないだ出たばっかのやつ」
「へえ。最近本屋行ってなかったから知らなかった。面白い?」
「……まだそうでもない。半分くらいしか読んでないし」
「そっかー。斎宮先生が好きなの? 文章とか言葉選びとか綺麗だよね」
質問に質問を重ねて、陽縁からの会話はいつまで経っても途切れない。文章を読む集中力がだけが途切れてくる。
「……文章もそうだけど、構成とか。参考になるし」
「参考?」
「…………」
陽縁が首を傾げたことで、空返事の中の失言に気付き、輔は口を噤む。
「あれ。……輔くん?」
おーい、と耳元で囁かれる。
いちいち答えるのも面倒になった輔は、今度こそ無視を決め込む。
今度来るときは耳栓かイヤホンでも持ってこようと誓った。
「ねえってば……もう。無視するなら、死んでやるから」
輔がしばらく呼びかけに応えないでいると、陽縁は不服そうに呟いた。
笑えない冗談だった。輔が仕方なく振り返って「……なに?」と聞くと、
「あ。こっち向いた。ふふ」
輔の顔を見た陽縁は、何が面白いのかふっと口元を緩めた。
そうして二週間が、烏兎怱怱が如き慌ただしさで過ぎていった。
輔は陽縁の家にいる間、ほとんどを本を読んで過ごしていたが、元々どちらかといえば遅読なうえに陽縁が話しかけてくるのもあって、読書は捗らなかった。
「明日、何か食べたいものある?」
相変わらず本の虫になっている輔に、陽縁がベッドの上から聞いてくる。ここに来るようになってから、昼ご飯は陽縁が用意してくれるようになっていた。
陽縁は一人暮らししているだけあって料理が上手かった。手の込んだ料理もそつなくこなすほか、定番料理も店で買う出来合いのものより数段美味しく作った。
一度、食費くらいは払うと申し出たことがあったが、それは断られた。
ご飯代はここに来るための移動費の代わり、とのことらしい。
輔は少し思考した後、「明日は無理」と答えた。
「そろそろ仕事するから」
疑問とも不満とも取れる間延びした声で、陽縁は「えー」と言った。
いくら職が個人事業主の自由業とはいえ、この二週間、陽縁の家に通うために仕事にほとんど手を着けていない。
「俺だって生活あるし、あんただって──」
「輔くん、仕事してたの?」
思っていたのとは違う反応に指の力が抜け、栞が手の中からずり落ちそうになる。輔は本から視線を外して、眉を寄せながら陽縁の顔を見た。
「……そこ、そんなに意外?」
輔が聞き返すと、陽縁は頬を指先で掻きながら答える。
「えー……意外だよ。だって毎日来てくれるし、仕事してたら普通無理じゃん。大学生だと思ってた。じゃあさ、一人暮らしとかしてるの?」
ひとつ何かに答えると、間髪入れずに次の質問が飛んでくる。
会話がキャッチボールに例えられることはあるが、陽縁との会話は一歩間違えればテニスや卓球のラリーのようになってしまう。即座に何か反応が返ってくるため、キャッチして投げるまでの間がないのだ。
しかも輔がコースを外して返そうが、そもそも返すまいが、何度でもサーブからやり直してくるのだからたちが悪い。
「だったらなに」
「じゃあさ、これからは私が行ってもいい? 電車代も浮くし」
さも名案を思い付いたように陽縁が提案してくる。
「あ、もしかして彼女さんとかいる? だったらまずいかな」
「……。いないけど」
「だよねえ。いたら、最初から声かけてこないよね」
大仰に腕を組みつつ一人で勝手に納得して、陽縁はベッド上の充電コードに刺さっていたスマホを手に取ると、地図アプリを起動して輔に見せてきた。
「なにこれ」
「ね。家の場所、教えてよ」
陽縁は他愛ない会話をよくするため、それなりの頻度で冗談を言う。
だから今回も、冗談の範疇だろうと輔は考えていた。
翌日の朝、家の前に、大量の荷物を持った陽縁が立っているのを見るまでは。
「……一応聞くけど、本気?」
「うん。今日からこっち、住まわせて?」
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