第6話 名前
「……答える義理はないと思うが。そもそもなんで、そんなことを聞く? 俺とは面識ないよな。それとも、こいつの知り合いなの?」
輔はちらりと深雪の方を一瞥したが、深雪は首を横に振った。
「こいつ呼ばわりですか……場合によっては通報するからです。答えてください」
輔がはぐらかしたことで男は明らかに警戒を強めたようだった。
語尾は強く、その表所は至極真剣なものだった。
何の根拠があってそれだけの自信があるのかは知らないが、輔と深雪の関係性に嫌疑をかけているのは疑いようもない。
とはいえ、非番の警察による誰何というわけではなさそうだが。
三人の間に流れる修羅場染みた不穏な空気を感じ取ったのだろう。
いつの間にか、周囲には遠巻きにぽつぽつと立ち止まる人も出てきていた。
このまま男を無視して立ち去っても良かったのだが、昼食が食べかけだったことと、これ以上、むざむざ周囲からの視線を集めることもないと判断した輔は、観念して口を開いた。
「……しばらく家で預かることになった親戚だ。今日ここへはこいつの布団を買いに来て、その帰りに飯でも食いに来た。これで疑いは晴れたか?」
「それが本当だと証明できるものはありますか?」
「逆にあると思うか? それに、二人分の証言があればそれで十分だと思うが」
「…………。あなたと、その子の名前は?」
「あ、み──」
「君は答えないで。隣のおじさんに聞いてるんです」
ぴしゃりと男が言い放ち、深雪は肩を揺らして口ごもる。
その表情からは焦りや不安が見て取れる。
男が深雪の方を注視したらまずいかもしれない。
不審な目と鬼気迫った様子で、これ以上誤魔化すこともできそうになかった。
「──紀川輔。そいつは深雪だ」
おじさんと呼ばれたことにも抗議したかったが、今はやめておく。
「……それは、本当?」
男が今度は腰を少し落として深雪に向かって問いかけ、深雪がこくこくと頷く。
「……無理に言わされてるとかじゃない? 本当に、親戚のおじさんなの?」
「は、はい」
動揺し吃りながらも、輔の嘘に便乗する深雪。
その声は微かに上擦っていた。
前々から思っていたことだが、深雪は嘘を吐くのが致命的に下手だった。このまま男が深雪に質問を投げ続ければ、どこかで必ずボロが出てくるだろう。
それは避けなければならない。
「もういいだろ。これ以上、根掘り葉掘り聞いてこようってんなら──」
と、輔がはったりを掛けようとしたところで、男が輔の方を向いてばっと頭を下げた。予想外に男が動いたことで輔は一瞬身構えたが、すぐに拍子抜けして目を丸くする。
「すみません! 俺の勘違いでした……っ!」
「は……?」
緊張感のない声が輔の喉から漏れる。
「ほんとにすみません……! 俺、実を言うとあのアパートの近くに住んでて。それで、お二人のことを別々に見かけたことはあったんですけど、一緒に出かけているところは見たことがなかったもので……。まさか誘拐かと、早とちりしてしまって……っ!」
早口で捲し立てるように弁解してくる男に、輔は毒気を抜かれて頭を掻く。
ついでに男の言い分にも納得がいき、深く溜め息を吐いた。
確かにアパートの近隣住民だとすれば、輔と深雪の関係に疑問を持ったのにも合点がいく。むしろ、疑念を抱いた時点で通報されずに良かったと言うべきだろう。
その疑惑は間違いではないのだから。
「つまり、あんたの勘違いってこと?」
「そうなりますね。本当に申し訳ないです……」
「ならもういいか? 見てわかる通りこっちは昼飯の途中だ。ラーメンが伸びる」
再三、頭を下げてくる男を放置し、輔は割り箸を手に取る。
野次馬が離れていき、周りに座っていた人からの視線もじきに感じなくなった。
それが、この話が無事に終わったことを知らせていた。
「はい。俺は辻と言います。このお詫びはまた別の機会に……」
「そういうのもいいから。……深雪も、火傷した舌冷やすんじゃなかった?」
「あ……はい」
輔に促され、深雪が思い出したかのように椅子に戻り、紙コップの水を口に含む。
男は腰を低くしたまま立ち去り、やがてフードコートの外に姿を消した。
緊張が残って味があまり分からず、スープを吸った麺の食感だけがやけに気になる。
深雪はほっと息を吐き、男が引き下がったことに安堵している様子だった。
「……なに?」
正面の席からじっと視線を向けられ、輔は顔を上げる。
「あ、いえ……。お名前、紀川さんって言うんですね」
小声で深雪が告げてくる。
その言葉に輔は意外な顔を深雪に向けた。
「さっき通報されそうになってたのに、そんなこと気にしてたの?」
「ご……ごめんなさい」
「いいけど、別に。……というか、名前言ってなかった?」
チャーハンの最後の一口を食べ切り、れんげを皿において輔が聞く。
深雪は真意を探るような表情で頷いた。
「はい。初めて聞きました」
そんな顔をされても、名前を教えていなかったことに深い理由なんてものはない。深雪の方から輔を呼ぶ機会自体がほとんどなかったため、これまで困らなかっただけだ。
「いいよ、輔で。紀川さんって呼び方だと親戚っぽくないし」
「それなら、間を取って、輔さんってお呼びしてもいいですか?」
「それが呼びやすいならそれでいいんじゃない」
それはそれで親戚っぽくないが、と思ったが口にはしない。
器を傾けラーメンのスープを半分ほど飲んで、輔は椅子から立ち上がる。深雪は輔の意図を察したようで、足元に置いてあった買い物袋を手に取り席を立った。
「あと行ってないとこは──服屋と食品コーナーだったか。服屋の場所、覚えてる?」
「確か二階に何か所かあったと思います」
「ならそっちからだな。荷物、半分持てる?」
深雪が持った三つの買い物袋のうち、薬局で買ったもの以外を輔は受け取る。
「はい。あの……」
深雪が、歩き出そうとした輔のジャケットの裾を掴んでくる。
「なに、改まって」
「今日は、ありがとうございます」
ジャケットから手を離して一礼した後、深雪はどこか嬉しそうにはにかんだ。
初めて見る表情に、輔は一瞬罪悪感にも似た感情を覚え、思わず深雪から目を逸らす。
「今日はまだあるけど」
誤魔化すように輔が揚げ足を取ると、深雪はこくりと頷いた。
「はい。……でも、今言っておこうと思ったんです」
「……そうか」
短く返し、居心地の悪さを振り払えないまま輔は歩き出す。
今後もしばらく、この感覚と付き合っていくことになるのだろう。
少なくとも、今の関係が崩れるまでは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます