嵐の終わりと前触れと

 さて一方、ハーフンの海沿い、悪船乗共の隠れ家では、高坂陣内こうさかじんないが今にも血の雨を降らせようとしていた。木に縛られたハンスに向かってと白刃が伸びていく。

 哀れ真っ二つ、と思われたその刹那、陣内の後ろにいたカーラが、辞めな、と彼の前に躍り出た。陣内は驚いて足を止め、


「あ、危ないなっ。何で邪魔をするっ」

「だって酷いじゃないっ。こんなガキ相手に大の男が自由を利けなくしてバッサリ、なんて情けない」


 咎めるような美しい翠眼に、凜々しい白皙、陣内思わずたじろいだ。妙にカーラが庇い立てするので、ジンナイが訝しんで、どうしてかと尋ねると、


「悪党にだって少しくらいの慈悲心はあっても良いじゃないか。縄を解いてやって、向かってくる所を叩き斬ってやればどう? 同じ斬るのでも、そっちの方があたしの気が晴れるんだよ」


 と、カーラは陣内の返事も待たず、腰に佩いていた粗末な剣を抜いて、ぶっつりとハンスの縄を切ってやり、札博打の礼だよ、とばかりにそれの柄を握らせてやった。

 有難うっ、と剣を握ったハンス、陣内も同時に眉を上げ、腰を深くして蛇眼だがんを据える。カーラが蝶のように飛び跳ねると同時に、他の船乗り共も凶悪な気配りとなる。

 やはり陣内も武芸者ぶげいもの、こちらの方が好きらしい。同田貫どうだぬきの柄をぐっと握り、真っ黒な宗十郎頭巾の間から、不気味な眼光を漲らせる。


 ハンスは全身に冷や汗をかき、じりじりと後退り、刃を交わすまでも無く、陣内の気合いに気圧されているらしい。ああ、せめてあの手紙だけでも、と思うが最早後の祭りである。

 

「もう破れかぶれだっ。あの世に行く前にせめて一太刀っ」


 ハンスは踏みとどまって下段に構え、居合いの太刀を外す所存、ぴたりと相手を睨み付ける。陣内は同時に鯉口切って、ぱっとハンスに向かって速矢はやの如く突っ込んだ――が、バリバリッと塀を突き破る音がし、二つの影が躍り込んで来た。


「あ、先生っ。それに母さんまでっ」

「ハンスしっかりしろっ。私が来たからにはもう大丈夫っ」

「貴方達、息子から離れなさいっ」


 ぎらとリカードが抜いた長剣は風を切り、陣内目掛けて斬り掛かる。陣内も抜き掛けていた刀を振るい、発止と相手を受け止めて、眼にも止まらず斬り返す。さりとてリカードも必死のもの、小手を狙って刃を下ろし、鍔と鍔がぶつかり合う。

 わっと総立ちになったのは船乗り達、角材を取る者、ぶつかる者、戸惑う者、居合い斬りの見物が、意外な血を見ることになり出した。

 ハンスの母親ヒルデもまた、帯びたる懐剣きらりと抜いて、瞬くあいだに一人を刺して、もう一人の首を刺す。敵の角材ひらりと躱し、脾腹を深く突き通す。

 ハンスも混乱に乗じ、右往左往する連中を追い回す。ガタガタと船宿にも入り込み、逃げる相手を斬りつける。忽ち血飛沫は壁に付き、小屋の中も修羅となる。

 そればかりか、塀の向こうからは


「御用、御用であるっ。神妙にせいっ」


 と、盛んな掛け声。いよいよやからは度を失い、陣内一人が悪戦苦闘。だが、御役御免の身であるリカードが、かく早速な捕手を連れて来たのは至極不審。

 外に捕手は影も無し、木陰に隠れたオスカーが、しきりに声を上げている。この男は医者で作家で発明家、しかし快刀乱麻の心得は無いので、声音を時折変えながら、


「御用、御用!」


 と叫んでは、筒から水を飲んでいた。


 真昼の不意を襲った剣戟の旋風つむじは、一瞬の間に去ってしまった。陣内も色を失い、バタバタバタと逃げ出した。リカードは彼を追っていき、囲いの中は元に返って静まりかえった。喚きや叫びは一段落、ジーッと気怠い蝉時雨。

 ハンスがほっと一息ついていると、後ろからやにわに彼を抱き締めた者がいる。えっと彼が驚いて振り向くと、眼に涙をいっぱいに浮かべたヒルデがいた。

 ハンスは慌てて虚勢を張り、


「な、何だよ母さん。暑苦しいな」

「良かった……私、あなたにもしもの事があったらと思うと」

「オオ、片付きましたか……。おっと、お邪魔でしたかな」


 と言いながら、突き倒された塀を乗り越えて、オスカーが入って来た。彼はハンスの父親が存命の頃から、彼の家に医者として出入りしていた顔なじみである。

 庭には点々と血潮の後や腕や指が散らばり、木戸や壁には血の塗装、ジンナイ以外の船乗り共は、皆無惨な姿で斃れている。

 オスカーさん、とハンスは破顔し、オスカーは一歩一歩拾い歩きをしながら、母子に近付いた。


「ハンス。リカードさんはどうしましたか?」

「ああ、先生ならジンナイって云う奴を追っていきました……」


 そこでハンスは、どうと倒れた。慌ててヒルデが駆け寄って抱き起こすと、彼はここ数日の疲労が思わぬ助太刀を受けて、奔流の如く溢れ出たらしく安らかに寝息を立てている。その顔は十二歳の年齢相応に無邪気そのものであった。

 オスカーは懐から自家製の粒薬を出し、井戸水を汲んでハンスの口に含ませている間に、リカードが息を弾ませて帰って来た。残念だ、と汗もしとどに拭きもせず、


「街外れまで追い掛けましたが、ジンナイめ、腕が立つばかりではなく、怖ろしく敏捷な奴で、屋根伝いに跳んだり手裏剣を投げたりしてきたので、忽ち姿が見えなくなってしまいました」

「それは残念な事です……」

「うん? ハンスは眠ってしまったのですか。外で眠らせておくわけにもいきませんから、中に運びましょう」


 はい、とヒルデが息子を背負った。すると、ハラリと紙が一枚、ハンスの懐から落ちてきた。何だ、リカードが開いてみると彼は思わず瞠目したが、ハンスの眼が覚めてから事情を聞こうと、船宿の中に向かっていった。


 ――数時間後、ハンスは呻き声を上げて起き上がった。子煩悩な母親はもう泥中から珠でも拾い上げたように喜んで彼を抱き締めた。

 オスカーは別の用事があって帰ったらしく、姿は見えない。リカードは満足そうに頷き、彼を労って後、


「ハンス、この手紙……何処で手に入れたのだ? それにこのティーレ家というのはまさか」

「はい。それを先生に渡そうと思って、四苦八苦していたんです。帝都からミーナという娘が送った手紙です。ジパングに入り込んだヨーデル・ティーレという男に送ったらしくて」


 ヨーデル・ティーレ、その名を聞いてリカードとヒルデの表情がと変わった。須臾にして二人とも、手紙を開き息を潜めて黙読した。

 

 十三年前に帝権転覆の陰謀があった折、リカードとマルクが、貴族の背後にジパングあり、イリーナや他の面々の背後には源家あり、と叫んでも当時誰あって耳を貸す者はいなかった。だが一人、帝国隠密組頭のティーレ家に、炯眼の士があって、単身ジパングに乗り込んだという噂。またそれがヨーデル・ティーレという事も仄かに聞いていた。

 不思議なものだ、とリカードとヒルデの表情は、読み行く内に驚異となり、怪訝となり、歓喜となり、感激に潤む色となった。


「きっとこのミーナという娘に会えば、詳しいことが解るだろう。ヨーデルの消息、目的、帝国のご意向も自然と解るだろう」

「リカード先生、私がハンスを連れてすぐ帝都に向かいます」

「オオ、ヒルデさんとハンスが行ってくれれば何よりです。それなら私は、その間にこの船宿の伝手を使って、ジパングへ渡る秘密船を仕立てておきましょう」


 策謀にお誂え向きの船宿は、船乗り共に代わって、リカードを中心に、密かな示し合わせに暮れていった。


 ――田舎訛りの屑買いやものうい音楽稽古のが絶えて、其処彼処に玉の肌をはだけさせる女が、歩きながら薫風を漂わせ、柳隠れの飲み屋街、川岸の水に妖美な光、一斉に臙脂色の灯火を映し出す。

 小舟は忙しなく行き交い、所々の店からは笛や音締のばちが冴えている。船小屋造りの居酒屋が、軒並み客寄せの声を競わせている間に、とある一軒だけは奥行きのある魚料理の門構え。

 川を臨む縁側に、涼み台を持ち出して、板長の一人娘クララは誰かを待っている。恋だとすれば、良すぎる縹緻きりょうが心憎い。


 はぁ、軽く溜息などついていると、個室を予約している客が振り返った。髷を結わず、月代剃らず、亜麻色の短い髪を戴いて、真紅の小袖に野袴を佩いて、石鹸の良い香りを漂わせる、齢十六の少女――ジパングの侍武田茜たけだあかねである。

 夜風に髪をたなびかせ、クララの側に腰掛ける。クララも見知った相手なので、彼女の方から話し掛け、


「お風呂の帰り? 随分みがき立てだね」

「拙者達は風呂が好きな国民性で、一日でも入らないと気持ち悪くて仕方がなくなるのです。他の御国の方は、一日や二日入らなくても平気でしょうが、拙者たちには無理です。縁組するなら清潔な方が良いですよ」

「大丈夫、あたしには一生涯そんな人は出来ないから……」


 冗談混じりの雑談が、不意に寂しい口調に早変わり、クララは顔を悄然とさせる。何処かを彷徨う楽士の笛、聞くともなしに聞く風で……。

 その透き通るような珠の顔、細い腕に気が付いて、茜は(言わなければ良かった)と心の中で後悔した。板長の愛娘で、縹緻きりょうの良さも街一番。そんな彼女にある一つの不幸、結核という病の呪いがあった。

 何処の家も、望んで結核を招こうとは思わない。そのため二十四という歳ながら、恋に飢え、燃える炎に包まれて、美が冴えるほどに肺が痩せ、気の尖るほどに凄艶さが目立ってきた。


 茜も薄々知っていた。主君に付き従い、ハーフン滞在を始めて一年になるこの侍、ふとした縁で、クララの料理屋を懇意にしている。浮いた話はクララに罪である。けれど話の途中に幕も引けず、


「誰をそんなに待っておられるのですか?」

「私の弟。四日前、大切な遣いに走らせたのに、まだ帰って来ないの」

「ああ、あの子ですね。何処まで行かせたのですか?」

「実はね。この間の朝、出入りの魚屋が大怪我した旅の人を連れて来たから離れの方で寝かせてあるの。背中をバッサリ斬られた上、水浸しになっていたから随分容態も重いのに、譫言みたいに兄さんを呼んでくれ、兄さんを、と言っているんだ」

「何だか可哀想ですね。その方の兄上は」


 語らいながら、ふと川上の方に待ち侘びた眼をやると、ギーッと漕ぎ着けてきた一艘の小舟、帰って来たか、とクララが席を立つと、残念それは二つの影、今度は茜が諸手を振る。

 漕ぎ手は舟を漕ぎ寄せて、トンと近くの桟橋に停泊させた。大義であった、と武家言葉、同時に降りてくる二人の男。桟橋を渡って近付いて来る彼らは、身装差刀みなりさしもの、いずれも毅然とした佇まい。

 これも同じくジパングの侍、御船手組頭おふなてくみがしら塚原一角つかはらいっかくと副頭の天堂佐助てんどうさすけである。彼らに先んじて、個室を予約していた茜と合流し、二本差しの三人は店に入っていく。どれも馴染みではあるが、クララは当てが外れた顔で、遅れて明るい店の中に入っていった。

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