第五話

 黒い泥が、タイロの視界を覆いそうになった瞬間だ。

 黒い影が、突然、中心から引きちぎれていった。黒い闇の間から、ライトアップされた桜の怪しげなうす紫が覗く。

 びちゃっと足の先に残骸が散らばるころには、タイロの視線の先に黒い背中がいつのまにか、現れていた。

「わわっ!」

「油断は禁物だな」

 と声をかけてきたのは、ドレイクだった。彼は多分ずっと後ろにいたのだろう。が、いつのまにか、その存在すら感じさせていなかった。それに背後にいたはずの彼が、いつ、タイロの前に割り込んできていたのだろう。まで近寄ってきていたのか。

 その気配は、囚人よりも希薄だ。

(えっ、いつのまに?)

 存在感を消していたドレイクだが、一旦、相手を斬った途端に、或いはユーレッドよりも強い殺気のようなものを醸し出し始めていた。その気配は独特で、静かに悪寒を催させるようなものだ。

 ユーレッドは、その気性を示すようにまっすぐな刃物のような殺気を放っている男だが、ドレイクは足元から静かに不穏な気配をゆらめかせる。幽玄といっていいような雰囲気の彼の、その不穏な殺気は、ユーレッドとは違う意味で対象の心を不安にざわつかせるものだ。

 その気配の異様さから、ドレイクは、多少親しみやすい部分のあるユーレッドよりも近づき難い存在で、そのあたりが彼を危ない噂のある伝説的な獄卒たらしめている。

 当初、タイロにとっても、彼の存在はそうだった。

 とはいえ。

「ドレイクさん、ありがとうございます」

 タイロは、笑顔でドレイクに礼を言って近づく。

 タイロはすっかり慣れているため、今や特に怖がることもない。その気配に負けることなく、親しげに声をかけていく。

「危ないとこでした。ドレイクさんがいてくれて、良かったです!」

「礼にはおよばぬ」

 静かに答えるドレイクだ。

 ほんの少しドレイクの凍てついた張り詰めたような気配が緩くなる。

「ユーレッドさん、でも、そんな余裕ないのかな。俺が襲われたの気づいてない?」

 いつもなら、その辺目配りしているはずなのに。タイロは心配そうにいった。

 何かあれば、ユーレッドはスワロから報告をもらうため反応するのだが、視線の先では彼はこちらを振り返ることもなく戦闘を続けていた。

「追加で、指示オーダーなんかをしたほうが良いですか?」

 タイロは、ドレイクにアドバイスを求めてみる。

「いや。大丈夫だろう。ネザアスは、俺がいるので顧みずに戦っているだけだからな」

「あ、そういうー」

 タイロは目をしばたかせた。

 きゅ、と、スワロが当然、という様子で一声鳴いた。

「あ、そうか。ごめんごめん。スワロさんが早めに警告しなかったの、ドレイクさんがいたからってことだね」

 ぴぴ、とスワロが頷く。

 スワロも簡単なものだが武装はしているし、普段は確かに危険が迫ればもう少し積極的に動いてくれる。

「ドレイクさんに俺のこと、任せてるってことなんですね」

「ラーメン代、仕事をしろと言っていたので、そうであろうな」

「理解が早い!」

 ドレイクの端的な言葉に、タイロが感心したようにうなずいた。

「しかし、あのユーレッドさんが迷いなくそうするなんて、さすが、ドレイクさんは信頼が厚いんですね。お兄さんですもんねっ!」

 とタイロが笑いかけた。

「信頼?」

「ええ。さすがだなあ」

 ドレイクはにこりともしないものの、じっとタイロを見やる。

 彼が対象を無言で見つめてしまうのは、クセのようなもので、無意識にそれだけで相手を威圧してしまう。しかし、タイロは特に気にしていないのだ。

 一見、対人関係を気にしないようで、感情の読めないドレイクだが、彼にもそれなりの思いはあるらしい。

 タイロはあくまで無意識だが、ドレイクにとっては、彼の図太く、さらっとした馴れ馴れしさは、ある意味救いなのかもしれない。

 ふむ、と、他人にわからない程度に、ほんの少し表情を柔らかくし、ドレイクは、あらためて周りを確認する。

 目の良くないドレイクには、ただですら見づらい囚人全ては見えていないのだろうが、気配で状況がわかるのだろう。

 彼も黒騎士。汚泥や黒物質に対する反応は、本能的に強いし、修羅場経験を相当積んでいる。視覚に頼らずとも戦える。

「しかし、数が多い。後から溢れてくるようだ。あらゆる暗がりに潜んでいる。これは逃すと厄介だな」

 ドレイクの言う通り、沸き立つように囚人が林から溢れてきているらしく、雑木林は禍々しい闇の気配が凝っていた。

 それは、たくさんの人が花見をしている公園の中とは、とても思えないほどの数だ。このまま囚人を、逃して通してしまうと、大惨事になりかねない。

「少し抑えたほうが良い」

「ど、どうするんです?」

 とタイロが尋ねた途端、ドレイクの肩から機械仕掛けの蝶がキラキラ音を立てながら飛んだ。

「ビーティーの力を使う」

「ビーティーさんの?」

 ドレイクの連れている蝶型のアシスタントは、独特な特殊能力を持つ。

「うむ。対獄卒用ジャマーと同じようなことができる。特定の周波数を放ち、獄卒や囚人の活動を弱める。それなら、人のいる場所から囚人を跳ね返し、この周囲に確実に封じ込められる。しかも、奴らの力も抑えることができるだろう」

「あ、そうでした! それは有効そうですね!」

 すいっとドレイクが、タイロの前に進む。と、タイロがあることに気づいた。

「でもそれ、ユーレッドさんにも効いちゃうのでは?」

「そこはおれから警告する」

 そういうと、ドレイクのそばをキラキラ音を立ててはためいていた蝶のビーティアが、不意に動きを変えた。

 ユーレッドが斬り込んでいる林の方に、まっすぐに飛んでいく。

 ドレイクは動かないが、獄卒用アシスタントであるビーティアと繋がっている彼は、ビーティア側のスピーカーを使って声を届けることができるらしい。

 タイロも詳しいことはわからないが、この姿になる前の彼女は人間、かつて『魔女』と呼ばれた強化兵士だったそうだ。その能力は音を操ることに関するもので、囚人を弱める周波数を発生させるのは、その能力の名残である。

 音を操る能力を持つ魔女のウィステリアが、黒物質のアシスタントを通じて音を操り、遠隔でも音声を届けることができるように、音に関する魔女であったビーティアも、接続されているドレイクの音声を届けられるのだろう。

 そういうことなら、とタイロが見守るうちに、蝶のビーティアが、散る花びら汚泥の合間を掻い潜り、ユーレッドの元へ飛んでいく。

 ユーレッドは、絶賛戦闘中だ。

 しつこく食い下がる囚人を切り裂いているところで、集中しているようだったが、キラリとした羽音で、ビーティアの姿に気づいたらしい。

 ユーレッドは、ビーティアの発する周波数が苦手だ。反射的に後退して音の根源を探したところで。

「ネザアス、下がれ」

 振り返ったユーレッドに、一言だけのドレイクの言葉。ビーティアを使った通話だが、ドレイクは無駄なことも言わないが、必要なことも言わない

 だが、流石に付き合いの長いユーレッドは、それだけで気づいたらしい。

 ビーティアを見やったユーレッドは、ざっと青ざめた。

「ばば、馬鹿じゃねえか! ちょ、ちょっと待てよ!」

 ユーレッドは焦った様子で攻撃を取りやめて、刀を持ったまま、慌てて内ポケットを探る。素早く通信用のインカムを取り出した彼は、それを過敏な右耳につけた。そして、左耳は刀を持ったままの手でふさぎながら後退する。

 と、その瞬間、タイロにもわかる低周波の重い音が流れた。

 音というより、ずうん、とのしかかるような衝撃があるのだ。

 タイロには、ちょっと体が重たいな、という程度の音と衝撃だが、それは黒物質で体のほとんどを構成されている囚人や獄卒達には、非常によく効く音であるらしい。

 音に反応して、囚人たちが不定形な形を波打たせると、一斉に地にべたっと這いつくばる。

「わぁ、すごいな」

 タイロが思わず感嘆した。

 ビーティアの音の力は、その後、音による獄卒の制圧兵器である対獄卒用ジャマーの開発に応用されたらしい。

 その理由も納得の効き目だ。もっとも、パートナーのドレイクだけは、特殊体質であるらしく、ビーティアの音の力の影響はほとんど受けないらしく、そのため、彼だけは対獄卒用ジャマーなどの制圧兵器の効果が薄いらしかった。

 その辺も、彼を都市伝説化した獄卒たらしめているところなのかもしれない。

 心なしかドレイクは、満足げな顔をしていた。

 ユーレッドがたたっと走って戻ってくる。

過敏な右耳を防護機能のあるインカムで保護した為、なんとか直撃を避けたユーレッドだが、全く影響がないわけではないらしく、嫌な顔をしている。

「ユーレッドさん、大丈夫ですか?」

「ッつ! くそ、間一髪じゃねえか! この唐変木が! モロにくらったらどうしてくれんだよ!」

 タイロに聞かれたことに直接返答せず、ユーレッドはドレイクを睨んだ。

「い、いつもなあ、それやる前に予告しろっていってるだろ! 俺はその音が昔から嫌いなんだって知ってんだろうが! 予告してから使えよ!」

「予告? したが?」

 はて、と小首を傾げるドレイク。やや天然ボケ気味のドレイクに、ユーレッドがキレかかる。

「三秒前じゃなく、もっと余裕もってやれって話だぞ! 鬼嫁もしれっと俺ごと巻き込もうとしやがって! ったく、てめえら夫婦は……」

「ま、まあまあまあ。あとで話し合いましょうね」

 思わず間に入るタイロである。

 こんな戦闘真っ只中で、兄弟喧嘩されたら困るのだ。

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