自縄自縛霊
帷子
自縄自縛霊
僕は、人を愛したことがない。
正確には、愛されたことがない。もしかしたら愛されたことがあったのかもしれないけど、それを実感したことは無いし、僕自身が自覚していないのだから、それは歪んだものだろう。だから僕は人を愛したことがない。愛を知らないのだから。
そんなつまらない現実から目を背けるために、僕はこのマンションの屋上に逃げた。■。それからは人の立ち入らないここで、何もせずに過ごしていた。
だけどある日突然塔屋の扉が開いて、同い年ぐらいの一人の女の子が出てきた。しかも彼女はそのまま僕の横をまっすぐ通り過ぎていって、落下防止のフェンスを乗り越えて靴を脱ぎ始めたものだから、思わず声をかけてしまったのだ。
それが、彼女との出会いだった。
「ねぇ、いつになったら私と一緒に飛び降りてくれるの?」
彼女は屋上の縁ぎりぎりに立って、僕を見つめる。肩にかかるぐらいの髪が、風にさらさらと揺れた。
「君のことを嫌いになったら、かな」
「嘘つき。出会った時に私のことを愛せたらって言ったじゃん」
そう、彼女と初めて出会った時に、僕はそう約束したのだ。
制止する僕に構わず、彼女は依然屋上から飛び降りようとしていた。だけど振り返った彼女の瞳には、大粒の涙が溜まっていた。
『やめて!やっと、やっと一人で死ぬ覚悟ができたのに!また怖くなっちゃうから…!』
彼女はそう言って、その場にぺたんと座り込んだ。彼女の覚悟を鈍らせてしまったことに少しだけ罪悪感を感じて、申し訳なくなる。
だけど口から出てきた言葉は、随分身勝手なものだった。
『僕は、人を愛したことがないんだ』
なぜ唐突に、こんなことを言ってしまったのか今でも分からない。目の前で涙を零す彼女に同情したからだろうか。彼女に過去の自分を重ねてしまったからだろうか。それとも、彼女なら。
『君は一人で死ぬのは怖いんでしょ?だったら、君のことを愛することが出来たら、一緒に飛び降りてあげる』
死にたがっている彼女なら、僕は君を愛することができると思ってしまったからだろうか。
まぁなんにせよ、あの時は彼女を引き止めることに必死になっていて、そんな阿呆みたいなことを口走ってしまったのだ。もしくは僕の心にもまだ、愛されたいという思いがあったからなのかもしれないけど。
「…ははっ」
今はまでのことを思い返して、思わず乾いた笑いが零れる。
だって、それ自体端から無理な話なんだから。愛してしまったのなら尚更、愛する人を殺すような真似なんて出来る訳がないのだから。
「君も、僕のことを愛してくれてたの?」
彼女から目を逸らして、灰色の雲で埋め尽くされている空を見上げる。
「もちろん。思ってたよりもいい人だったし」
まぁ、こんなところで空を眺めながら過しているやつなんて碌な物ではないから、初見の印象はだいぶ悪かっただろうが。
僕は塔屋の壁に背中を預けて、彼女と向き合ってこう尋ねた。
「それでも、僕なんかじゃ生きる意味にはならなかった?」
彼女はくるっと向きを変えて、眼下に広がる街を見下ろす。白いワンピースが、ふわりと丸く形作る。
「そうだねぇ…もっともっといい世界なら、もしかしたら■生きているまま、ずっと一緒にいられたかもしれないのに、とは思ったかな」
「そっか」
ならばもう、彼女の覚悟は決まっているのか。
僕は目を閉じて、独り言のようにこう呟く。
「じゃあ僕は、世界で唯一愛した人を、殺さなきゃいけないんだね」
そう約束したのは、僕の方だったのに。君との約束よりも、君との思い出の方が大切になってしまって。君が生きていることの方が、大切になってしまって。
「君が愛してくれたから、僕は君を愛すことが出来たのに」
なぜ君はまだ、死を選ぼうとする?
それを軽々しく口にするのが許されないことぐらい、とうに分かりきっていた。彼女の覚悟を、僕は知っているから。
「…その先を言わないところとか、あなたは本当に優しいね」
「違う。そんな優しさだけじゃない。もし君と一緒に飛び降りたのなら、君とずっと一緒にいられるかもなんて、考えてしまうようなやつなんだよ僕は」
だって今彼女を止めなかったら、君と僕は同じ■になる。文字通り永遠に。それはなんて素敵な話なんだろう。愛した人と、ずっと一緒にいられるなんて。
「だけど君はもう、自分で決めたんだろう?」
すると彼女は、困ったように笑ってこう言った。
「そうだね。もう、決めちゃった」
その笑顔に、あの時泣いていた彼女はもういない。そしてその瞳には、儚く黒く、強い光が宿っている。その光に、昔の自分を見た気がした。
目を伏せて、軽く息を吸う。雨が降る前の重たい空気が、肺に潜り込んでいった。
…こんなもの、最初から結末は決まっていた。
分かっていたことだ。本来僕の方が、もう少し早く覚悟をしておくべきだったのだ。それが例え、望まない結末に繋がっていたとしても。
僕は屋上の縁までゆっくりと歩いて行く。そして彼女の右隣に並んだ。
「やっとだね」
僕の隣で、彼女が静かにそう零す。風の音が、少しだけ強くなった。
「前はただ、生きる理由がないから死のうとしてたのに。今はね、あなたとずっと一緒にいられるのが嬉しいの。これからそんな未来が待ってるなんて、とっても幸せなの」
「…そっか」
そんな思いを彼女に宿してしまった僕は、やっぱり碌な物ではない。次に紡ぐ言葉が、彼女を引き止めるものにならないことなんて、とうに分かりきっているのに。言葉が溢れて止まらなかった。
「…君のことが、好きだよ」
それが掠れて声になって、灰色の空へと消えていく。彼女の顔を見ることが出来ないから、ただ俯いて独り言のように呟く。
「綺麗な髪の毛も、小さな手のひらも、優しいところも、笑顔も全部」
この先を言ってしまえば彼女との約束を果たしてしまうのに、止められなかった。
「愛しているよ」
涙なんて流したこともなかったのに。こんなかっこ悪いところ、彼女に見られたくなかったのに。
「ふふっ、最高の殺し文句だね」
そう笑って彼女は、僕の手を引いた。■それに合わせて僕も一歩を踏み出す。ふわりと浮遊感を感じたあと、彼女は僕の耳元でこう囁いた。
「私も、愛してる」
幽霊って本当に浮くんだな、と思っていた。
彼女はマンションの縁からふらりと落下していったが、僕は宙に浮いていた。下を見ると、もう彼女はマンションの半分くらいの高さにいる。彼女が落下する瞬間を見ることが出来そうになくて、つい先程まで彼女が立っていたところに座って、それから目を背けるために空を見上げた。
全く、幽霊なんてろくなものではない。ましてや地縛霊なんて更にタチが悪い。彼女と一緒に、落ちてあげることさえ出来ないなんて。
「………はぁ」
いつか彼女が、幽霊になって自由の身になったら、海に行ってみたいと言っていたのを思い出す。でも、そんな夢みたいなことは出来ないのだろう。この場所に悪夢のように囚われ続けて、永遠にこの屋上から出られない。僕が、そうであるように。
…さっきは、君とずっと一緒にいられたら、なんて言ったけれど。
「君は、こんなところに、僕なんかに囚われるなよ」
そのすぐ後足元で、どん、と鈍い音がした。
■そしてそこから飛び降りた僕は、地縛霊になってしまった■あなたが■存在に、幽霊に■それは空を切っていったけれど、
自縄自縛霊 帷子 @tobari_0715
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