本編
第1話 逃亡
曇天の下。灰色の校舎が聳えている。足元がおぼつかない。
上体を揺らしながら歩いていると、視界の端にオパールグレーの髪が映った。鬱陶しい。
銀の校門のきらめきだけを頼りに、ゆっくりと歩を進める。歩くたびに金属を打ち付けるような高音が響いていた。耳鳴りである。思わず足を止め、眉間に力を込めた。金属音の中に老父の声が響いている。
『トリチェ。今年も主席を取りなさい』
『ルドビカとして恥じない功績を上げなさい』
『お前の価値を高めたのは誰なのか、生涯忘れてはならない』
『お前は、運が良かっただけなのだ』
「はい、お父様」
肩で息をしながら、校門を見やった。
あと一年堪えきる事ができれば卒業だ。卒業すれば結婚である。結婚すれば父から逃げられる。それだけが支えだった。
【本年度の主席魔術師:トリチェ・ルドビカ】
掲示物から目をそらして、小さくため息をついた。
この学校に首席は無い。
テストの成績だけでなく、家柄や授業態度、求心力を考慮して、学生を纏める最高責任者である「主席」だけが指名される。次席も無い。嫌味な言い方をすると、晒上げだ。
「今年もルドビカ様なのね、さすがだわ」
「男性だったら次期伯爵だったでしょうに」
「相変わらず化け物みたいな人だな」
うるさい。
喧騒につられて、どんどん眩暈がきつくなる。血の気の失せた四肢を必死に動かして、這うようにその場から去った。白い編み上げブーツには、魔術で編まれた金糸が輝いていた。ジャケットの袖とスカートの裾にも、同様の刺繡が施されている。金の刺繍は主席の証である。私の制服から、この刻印が剥がれたことはなかった。
自室に戻ったら予習をしなければ。
私は決して天才ではないし、特別顔がいいわけでもない。運が良かっただけなのだ。両親ともに建国時から魔術師として高名な家系だったから、必然的に魔術の素養があった。高度な教育を受けることができた。私は、運よく「ルドビカ伯爵家」に生まれたからこそ、この立ち位置を手に入れることができたのだ。
私の境遇は理解している。
だから責めないで。怖がらないで。
「トリチェ様!」
硬い声。見れば、黒髪を短く切りそろえた青年が立っていた。
魔術学校に在籍している間は半狂乱になりながら勉強していたせいか、目の前の青年が同じクラスか否かさえ分からなかった。社交活動もほとんど絶っていたため、彼の姓さえ分からない。精悍な顔立ちは、どことなく父に似ている気がした。
「トリチェ様、覚えておいでですか。あなたの従弟のクリストファーです」
「クリストファー、って」
「これで3年間連続ですね、主席。おめでとうございます。これで......」
一息で話した後、ふっと自嘲するように笑ってから私を見た。息が詰まる。曇った碧眼が、鈍く、恨めし気に光っていた。
「これで、継承権はあなたのものだ」
「は?」
「とぼけないでいただきたい。昨年のはじめ、父君から説明があったでしょう。あなたと俺、今年の主席を取った方が次の伯爵だと」
額から冷汗が滲む。
「そんな、待ってください。私は女です。女の伯爵など、法が許すはずない!」
「ええ。ですから、ルドビカ伯爵は法を変えるつもりだ。他ならぬあなたの為に」
「......うそでしょう」
はめられた。直感的にそう感じた。
クリストファーという従弟が存在している事は知っていた。彼が伯爵位を継ぐと聞かされていたから。ただ、会ったのは小さな頃だけのはず。こんな風体をしているなんて知らなかった。ましてや同じ学校に通っているなど。
なによりも、継承権の話が彼から告げられるなんて。父の狂言なのか──いや、確かに年末年始は父と会話する。しかし継承権に関しては一言も言及されなかった。私と父が会話できるのは年末年始"だけ"なのに。
父は意図して言わなかったのだ。
なんのために?
視界が回る。
「トリー!?」
前傾姿勢になった私をクリストファーが受け止めてくれた。ほとんど倒れこむように彼の腕に収まった私は、力なくうなだれる。逃げられない。ずっとこのまま? 父に望まれるまま生きて、従って、心身を犠牲に生きていかなければいけないのか。
「トリー......いえ、トリチェ様。大丈夫ですか、顔色が」
心配しているんだろうか、声が震えている。
久しぶりに人から真心を貰った気がした。そっと仰ぎ見ると、目が合う。暗く淀んでいた碧眼は、少しうるんで、晴れやかな青色を呈していた。
──そういえば、彼の瞳はこんな色だった気がする。晴天に導かれるように、意識がはっきりとしてきた。クリストファーの体温が伝わってくる。温もりを実感した瞬間、頭が痛んだ。今はその温かささえ、体調を損なう要因になってしまうらしい。
クリストファー。
傍系でありながら、伯爵位を継ぐ資格を与えられた人。一体どれほどの研鑽を積んだのだろう。どれだけ呪いの言葉を吐かれて、伯爵となることを望まれてきたのだろう。冷淡な瞳で見下ろす父と、臓腑を焼かれるような痛みが伴う痛烈な言葉が、ありありと思い起こされる。
『お前の価値を高めたのは、私だ』
ああそうだ。貴方だ、お父様。私と彼を競わせて、双方の未来を手折ったのは、貴方だ。
いや、彼の将来を潰したのは、私と言っても過言ではないだろう。恐ろしい。爵位など継ぐ気はなかった。結婚して、父の支配から逃げ出したかった。この苦痛は今だけだから......そう暗示をかけて生きてきたのに。父は娘という傀儡が欲しかったのだろうか。そうまでして、"ルドビカ伯爵家の格"を誇示し続けたかったのか。考えれば考えるほど、指先が震えてしまう。
ごめんなさい。
ごめんなさい、クリストファー。
貴方の努力を無駄にした。
私など、才も無ければ度胸も無い、ただの醜い娘なのに。
だめだ。もう、何も考えたくない。
クリストファーは目を見開いて、私の肩を掴んだ。
「すみません、俺、我を忘れてしまって。
また後日話しましょう、立てますか?」
「ごめんなさい、クリストファー」
「え」
「会いに来てくれてありがとう」
わたしはにげます。
口の中でそう呟いてから、少しだけ微笑んで立ち上がった。
学生寮の自室に帰ってきて、すぐ荷造りを始めた。衣類は制服と夜着くらい。使い古したペンにインクに、紙に。少ない荷物を纏めていると、本棚にたどりつく。どれも背表紙が擦り切れていた。本のタイトルが一切読めないものもある。一冊ずつ丁寧に撫で、背を向けた。
学校を出たら、魔術を極力使わず生きる。
そうでもしないと父を忘れられそうになかった。
鞄を足元において窓を開け放つ。
王立魔術学校は王都の郊外にある。鬱蒼とした森に囲まれているせいで視界が悪く、抜け出すのは難しい。森を出られたとしても、ルドビカ伯爵領が広がっている。しかも学校周辺は父の直轄地だ。
学校から逃げたと分かれば、すぐに父直属の兵が飛んでくるだろう。時間が無い。明日からは授業が始まって、人の目が増える。やるなら今日しかない。
生唾を飲む。できるだろうか、私に。
窓枠に足をかけ自嘲する。我ながら単純すぎる。思いついても決して実行しなかった逃亡計画は、自分のせいで誰かが割を食う事実に耐えかねたために行われるのだ。
自覚しなければいけない。
私は今から、クリストファーを盾に、全てを捨てる。父への恩も、魔術も。私を構成する物を全部捨て、卑しくも生まれ変わろうとしている。彼への想いは『父の支配から逃げ出して、何も背負わず生きてみたい』願いをそれっぽく覆い隠して、私自身を納得させる良い材料になった。ああ、汚い。誤魔化しと偽善が私を導いている。渦巻く感情を飲み下しながら、制服に隠蔽術をかけ、窓から飛び降りた。
──この頃の私は精神的に余裕が無かった。
もっと周囲に目を向けられていれば、ましな選択ができたのだろうか。
今となっては想像する事さえできない。
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