幻想前夜祭

夜坂 視丘

幻想前夜祭

プロローグ

 午後四時を告げる鐘が静かな室内に響いた。

 カクン、と支えがなくなり、リィルは目を開けた。

 視界いっぱいに迫りくる開かれたままの分厚い本に、高速で両手をつき顔面の激突を免れる。チラチラと周りに視線を走らせて目撃者がいないことを確認し、息を吐いた。

(ふう……、セーフ……)

 夕方の地方聖堂の図書室は貸切状態で、調べ物や考えをまとめるには最適だ。

 ただし、洗濯物当番と薪割り当番を終えて一息ついた体に、ひんやりとした静かな室内は覿面てきめんだった。

 安堵する耳に、すぐ近くの本棚の陰から忍び笑いが聞こえた。

(ふぅぐ!? 誰かいた!?)

 この時間帯に図書室にいる可能性の高い面々が頭を巡る。

(シムルさんは今日は湖岸までお使いに出てるし、イルクさんは……、見られてもいいか……。あの人、リタさん以外は記憶に残らないし……、ルーシェはまあ、見なかったことにしてくれるかな……)

 しかし、本棚の間から現れたのはリィルが予想した誰でもなかった。

「凄い反射神経だね。絶対に顔面から激突すると思ったのになあ」

 夜空を思わせる深い藍色の髪に、蒼い瞳。派手ではないが仕立てのいい旅装束に外套を羽織った少年だった。年はリィルと同じか少し下くらいだろうか。左肩にちょこんと乗っている黒い火蜥蜴サラマンダーは、寝ているのか目を閉じている。

(……どこかで会ったかしら……? 知ってるような気がするんだけど……)

 こういう感覚を既視感というのだろうか。

 彼を知っている気がするのに、会った記憶はない。

 あんな髪の色、この赤龍皇帝領にはまずいないから、一度でも会っていれば覚えていそうなのだが。

 少年はというと、居心地が悪そうに自分の髪に触れた。

「僕の髪の色、珍しい?」

「う、うん、かなり珍しいんだけど……、そうじゃなくて!」

 彼の髪をまじまじと見ていたことに気づき、慌てて両手を振った。

「あなたは……?」

「教えるのは構わないけどさ……。こういう時って、自分から名乗るものだと思うんだけど?」

「そ、そうよね! ごめんなさい……!」

 初対面の相手に失礼すぎる態度だったことに今さらながらに気づき、慌てて立ち上がった。

「あたしは、リィル=ワイトフォール。このフルス聖殿の神官補佐……、なに?」

 蒼い目を見開き、彼は珍しい生物を見るような目でこちらを見ている。先ほどのリィルと逆だ。

「意外だなあって思って……。紅龍皇帝領の人だし、挨拶は拳のタイプじゃないかと思ったのに……」

「はあ? どーいう意味よ?」

「ふ、深い意味はないから! そ、そうだ! 僕の名前だったよね!?」

 失言を悟ったらしく、少年は慌てて咳払いした。

「僕はイグ=トラウム。蒼月王領ソティスト王国の研究者シーカーなんだ。さっき最終便で着いて、図書室があったから入ってみたところ」

「研究者!? ということは、聖殿関係者じゃなくて普通の旅人!?」

 イグが胸につけているフルスの入場証を思わず二度見し、カウンターのカレンダーを確認する。今日を示す紅いタリスマンは「舞翼の奏主の月二十七日」で灯っている。まだ月は変わっていない。

「そうだけど……、どうして感極まってるの……?」

「そりゃ感動するわよお。祭典月の前なのに……、フルスうちにお客さんが来るなんて……っ」

「え、本気で涙ぐんでる!? フルスここって、そんなに過疎ってるの!?」

「それはもう、泣けてくるほど……って、ヤダ、言わせないでよ! とにかく、フルス聖殿にようこそ! 歓迎するわ!」

 手を差し出すと、少年はやや戸惑いながら握り返した。肩の火蜥蜴がうっすらと青い眼を開けた。

「反応した……?」

 驚いた顔で彼は蜥蜴を振り返った。

「ん? なに? そういえば、その子、名前は?」

「へ? な、名前?」

「だって、旅の相棒でしょ? まさか、ずっと『おい』とか『トカゲ』とか呼んでるわけじゃないでしょうし」

「ち、ちょっと待ってね!」

 明らかに取り乱した顔で、彼は蜥蜴を撫でた。

(ヤダ……、本当に「おい」とか「トカゲ」って呼んでたのかしら……?)

 イグは蜥蜴と見つめ合っている。何らかのコミュニケーションを取っているらしい。

「えっと……、レ、レア! レアっていうんだ。『今回は収穫のある旅になりそう』って言ってる」

「え、その子、そんなに語れるの??」

 この少年と火蜥蜴の友情の危機を垣間見た気がしたが、あえて触れないでおくことにした。

「よろしくね、レアちゃん。ゆっくりしていってね?」

 蜥蜴は一瞬だけ眼を細め、また眼を閉じてしまった。

(寝ちゃった。疲れてるのかしら……?)

 ここは水の魔力を帯びた地域だから、火の幻獣には辛いのかもしれない。

「『ありがとう、よろしくね』、って言ってる。明日までだけど、お世話になるよ」

 それが、黒い火蜥蜴を連れた研究者イグとの出会いだった。

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