ある居酒屋

@loveandpeace1234

第1話


 「見て!あれヤドカリじゃない?」

 「え、ほんとじゃん!湘南にもいるんだ。」彼が答える。

 鎌倉で食べ歩きをしてから訪れた鵠沼海岸は、橙に染まり始めていた。

 「なんか、でかくね?」

 近くで見てみるとそのヤドカリは、彼女の足くらいのサイズがあった。彼はそれを手に取り、一通り観察してから彼女の顔に突き付けた。彼女は驚き、彼のことを強くはたいた。ヤドカリは何とか彼の手のひらに足場を見つけようと必死である。

 「ねぇ、水族館行かない?まだ開いてるよね。」

 江の島水族館は午後四時まで入館可能だ。

 「ギリギリだ。急ごう!」

 二人は潮風の吹く道を、手を繋いで走った。




 都内某所。二十三区からはぶられた多摩地区の中において、ほとんど唯一の希望ともいえるこの街。駅前の居酒屋で、一人の女子大学生が酒を嗜んでいる。他の客の目には異様に映る光景であろう。しかし彼女にとっては珍しいことではない。大衆居酒屋こそ初めてであったが、一人で飲みに出かけること自体は彼女にとって自然な習慣の一つだった。人混みが苦手なのでこのような店を今まで避けていたのだが、幸いこの居酒屋はかなり空いている。平日のまだ午後五時とはいえ空きすぎではないだろうか。これで希望とは、多摩地区は自分の思っている以上にオワコンのようだ、と彼女は思った。

 一週間前にシルバーに染めたショートヘアは色落ちが激しく、ほとんど金髪になっていた。色白な顔には大きな二重の目が目立っており、低い身長分成長した胸は、ぴったりとした緑のニットによってさらに強調されている。少し潰れた鼻と比較的多いほくろがコンプレックスではあるが、些細な問題だった。毎朝鏡を見るたびに自殺の選択肢が浮かぶような、全国の女性を敵に回してしまう。左の目元と、口元に二つあるほくろに関しては、むしろ彼女の魅力をさらに際だたせてすらいた。彼女は紛れもなく美人である。その淡麗な容姿と、子役の経験を活かして今は芸能事務所に所属している。

 そんな美貌の持ち主を、先ほどからチラチラ見ている学生バイトがいる。彼はこう思っていた。「あんなにかわいい人がこんなところで一人飲みなんて、もったいないもんだな。なんなら俺がナンパしちゃうか。」同じようなことを考えている男がもう一名。彼の向かいに座る恋人は、彼の視線がこちらを向いていないことに不満げである。

 彼らの心配と欲望は的外れであった。彼女はこの店で人を待っているのだ。あと二時間もすればこの卓は六人の女子大学生でいっぱいになり、広いお座敷へと移動せざるを得なくなるだろう。集合時間は午後六時であったが、彼女、華は一時間ほど早く店に入っていた。引きこもり気質なのに外出の予定がある日はじっとしていられない、という華の性格が起因している。

 他の五人と華は初対面であり、どうやら六人全員が全く互いに互いのことを知らないようだった。しかし、彼女達にはある共通点がある。


 一人で飲み始めてから三十分が過ぎたころ、「駅着きました!誰かいる?」とグループにメッセージがきたので、華は「私もう店で飲み始めちゃってます笑」と返信した。すぐに何人かからの「はや!笑笑」「ひとりで⁉」といったレスポンスが届く。

 三十分前行動の女性は「おぉ!じゃ向かうね!」と返事をし、マップアプリを開いて華の待つ居酒屋へと向かった。他のメンツは時間ちょうどくらいが二名、「ごめんなさい!私ちょっと遅れます」というメッセージに加えて汗マークと土下座した男のマークが一名、事前に一時間ほど遅れるという連絡を入れておいた者一名だ。

 沖田日和は、大学の授業を受け終えてそのまま集合場所の駅に向かったため、三十分ほど早く着くことになった。彼女は現在大学四年生で、春学期中に就活も終わり卒業要件も卒論以外は既に満たしているため、最後の学生生活を優雅に過ごしている。今日も特に取る必要のない授業を、面白そうだからという理由で受講しにキャンパスまで来ていたのだった。

 沖田と白井未央奈を除く四名は全員同じ大学に通っており、「彼」もまた、その大学の二年生である。大学以前の彼のことを知っているのは沖田だけだった。そんなこともあり、彼女は今回の飲み会に一抹の不安を覚えている。

 そもそも今日の集まりに関して全面的に乗り気な人間はほとんどいない。多く見積もってせいぜい六人中二人くらいのものだ。「少し面白そうだから。」ほんの少しの好奇心と日々の退屈さが、ギリギリ彼女たちをこの居酒屋へと向かわせていた。

 沖田は別れてからの彼の情報をほとんど持っていないため、五人からの情報に淡い期待を寄せてもいた。連絡も取らず、インスタグラムのフォローも外されてしまった。サブアカウントの相互フォローを外したのは沖田の方からだったが、なにもメインアカウントまでお互い見れなくする必要はないではないか。沖田の誕生日にも、彼からの連絡はなかった。

 指定された居酒屋に入ると、沖田はすぐに中を見回した。店は空いていたので一人で飲んでいる女の子を見つけるのは難しくなかった。

 沖田はその女性が座っている席へと歩きながら、その美貌に驚いた。「とっても綺麗。」彼女は素直にそう思いながら、心臓を抉られるような痛みを感じた。そこに空いてしまった穴はとっくに埋めたはずだったのに、古傷がまた疼き出している。この場所に来てしまったからには覚悟していたことだったが、これほどの美人がこれからさらに集まるのかと考えると、後悔しないわけにはいかなかった。

 華は二杯目のハイボールを片手に、考えごとに耽っていた。瞼が重くなり、瞳が光を失う。こうしてシャットダウンしてしまうことは日に何度かある。悩みが多く、余裕がない。近くで女性の声がしたので、彼女はその真っ暗な思考から頭を引っこ抜いた。目の前にはいつのまにか綺麗な女性が立っている。

 「華さん?」遠慮がちな笑みでそう尋ねる女性に肯定の返事をすると、笑顔はすぐに親しみのあるものに変わった。「よかった。違ったらどうしようかと思った。初めまして、沖田日和です。」

 この人が。まだ微かに残る黒い思考の残滓を瞬きで振り払いながら、華は沖田の全身を見回した。まず際立つのは一対の目だ。華と同様二重で、右目の方は三重にも四重にも見える。華よりもさらに顔が小さいため、目の大きさがより印象的である。鼻が高くしっかりとした眉毛が前髪から見え隠れしており、西洋風の顔立ちとも言える。茶色がかった髪は後ろに束ねられ、白いブラウスに花柄のスカートを履いている。爪には色がなく、右の薬指にリングを一つ、左の手首に小さな時計をつけている。控えめではあるが清潔にまとまった服装だ。まさに初恋の女といったところか。既に好印象を抱いている華は、心の中でニヤリと笑った。あいつめ、確かに逃した魚は大きいな。

 沖田日和は、軽い会話を交わしている間も華の美しさに驚き続けていた。カラコンまでつけたばっちり化粧に金髪。艶のあるネイルにパンツスタイル。傍にはピカピカの黒いバッグ。耳には三つもイヤーカフが付いている。なにより、ニットからはち切れそうなほど豊満な胸が、彼女のコンプレックスを刺激し続けていた。外見だけを見ると沖田とは真逆のタイプだ。こんな美人を捕まえて…。行き場のない、抱く資格のない感情を抱え、脳内の彼女は下唇を突き出していた。

 お互いにその容姿を讃え合う時間が数分続いた。女子同士、加えて初対面なら建前として恒例の雪解けタイムである。が、今回に限っては二人とも本心だった。

 「華さんは、〇〇大学だよね?」店員への注文を終えた沖田が尋ねる。

 「華、でいいですよ。はい、二年生です。沖田さんはどこ大なんですか?」

 「△△大学。私も下の名前で呼んでほしい、華ちゃん。」沖田が首を傾け華に微笑みかける。

 「でも歳上だし学年も上なんで…。」グラスに口をつけて照れをごまかす。

 「今日はそういうの関係なし。あと敬語もなしにしよ、ね?」沖田の慣れた優しさに、華は気圧されてしまう。

 「じゃあ…。わかった日和、ありがとう。」

 満足そうににっこり笑う沖田のその顔はとても可愛らしかった。まだ数分しか話していないのに、彼がこの子を好きになった理由が大体わかった気がした。



 この居酒屋には監視カメラが死角なく配置されている。当然のことだ。そんなカメラの映像をリアルタイムで監視している者が二人いる。おかしなことに、両名共に男子大学生だ。

 「もう俺、心臓痛いんだけど。」

 そう言って目を閉じ深くため息をつくこの男こそ、今回集まる六名を結ぶ唯一のピースである。

彼女たちはみな、彼と多少なりとも面識があるという点で一致している。

 「まあまあ。こうやってさ、久しぶりに二人で飲めてるわけだしいいじゃない。お前だって結構乗り気だっただろ?」

 無理やり彼と肩を組もうとするこの男は、彼の友人の松本である。大学こそ違うものの、高校時代から仲の良い彼の無二の親友だ。前に二人で飲んでから一週間も経っていない。

 彼らがいるのは六人と全く別の居酒屋であり、二人の座るテーブルに設置されたタブレットには華と沖田のぎこちない会話が映し出されている。どうやら盗聴器まで仕掛けられているようで、声も筒抜けだ(すべてのテーブルに設置されているらしく、聞こうと思えば他の卓の聞くに絶えない中身など皆無の会話も盗聴することができた)。映像の方も監視カメラのほかに、いくつか視点の切り替えが可能になっている。随分と手の込んだ犯罪だ。

 『沖田日和、白井未央奈、暮田華菜子、秋川リサ、新島凛、伊波明璃、以上六名の飲み会の様子をお見せしたくご連絡させていただきました。十日後、××駅前の□□という居酒屋までいらしてください。』という内容の郵便をもらった時、彼は一体誰のいたずらかと初めは怒りを覚えたのだが、同じ内容の手紙を松本も受け取っていたと知り、その感情は恐怖一色となった。

 それでも彼がここまで足を運んで来てしまった理由は、最終的に好奇心が恐怖心を塗りつぶしてしまったからだ。今では連絡のつかない人達も含まれている。彼女たちが今どんな様子なのか、気になってしまったのだ。

 自分と同じ店で六人が飲んでいるのだとしたらすぐに帰ろうと考えていたが、杞憂であった。

 「にしても日和さん相変わらずかわいいなぁ。もう一人の方もめっちゃ美人やん。あれがあれだろ?うつ病の人。そりゃ好きになるわ。」

 フライドポテトをほおばりながらへらへらする松本に、笑い事じゃねえよと一瞥をくれる。六人の中で彼が最も気になっていた二人が早々に現れたのだ。最も気になっていたとは、最も好きだったと同義である。

 全く別の場所で全く別の愛し方をした二人が話している様子を眺めるのは、不思議な気持ちであるのと同時に想像以上の痛みを彼に与えた。一度好きになった女のことは別れてからも好きというタイプの男である。

 特に彼を何とも言えないノスタルジーの世界へと引き込んでいったのは、沖田日和であった。



 華は既に三杯目のハイボールに口をつけ始めており、酔いも程よく回りだしていた。今日はおそらく飲まなければやっていられないだろう、と覚悟を決めてきていた。

 「日和さんがあれだよね?あいつと高校の頃から付き合ってたって人だよね?」

 沖田はレモンサワーを吹き出しかけた。

 「っ…、もうその話する?」

 もう少し場が温まってからようやく話し出せると考えていた彼の名が、突然耳に入ってきたことに沖田は動揺した。華は沖田の質問に苦笑いを浮かべることで回答し、沖田はそこから「だってそれくらいしか話すことないじゃん。」という気まずさを感じ取った。一気にレモンサワーを飲み干す。観念して私も早いとこ酔いを回すしかなさそうだ。



 「ぶっこむねえ華さん。あんな感じなんだ。いいじゃんいいじゃん。」

 松本は二皿目のフライドポテトをつまみに三杯目のビールを煽っている。とりあえずビール、次もその次もビール。だからそんなに太ってしまうのだ。顔はいいのに。

 「あんなんじゃないよほんとは。無理してんだよ、多分ね。」

 彼もまた観念して酔っ払うことに決めたようだった。ハイボールを空け、梅酒のロックへと手を伸ばす。

 華は完璧なペルソナを持っている。彼女とバンドサークルの新歓に行ったとき、確信したことだ。

 彼女の容姿に魅せられた男たちはもちろん、女性陣ともかなり打ち解けているように見えた。飲みゲーや卑猥な会話が飛び交う○○大のサークルという魔境は、間違いなく彼女に合わないだろうと危惧していたのだが、そう感じていたのは彼だけのようだった。

 しかし帰りの電車で「楽しそうだったね」と声をかけると、彼女はキレ気味にそれを否定した。全然楽しくない。しんどい。みんないい人なんだろうけど、うちはきつい。その言葉に面食らってしまった彼の顔を見て彼女は笑った。「うち一応俳優だから。ずっと演技してんのよ。」

 確か「生き辛そうだね。」と返しただろうか。「お前にもわからないのは意外だったな。」と言われて、焦った記憶が彼の脳裏に焼き付いていた。

 「おー、彼氏面やん。付き合ってもないのに。」

 横目で松本を睨みつける。こいつもうキマリ始めてるじゃないか。優しくて気のいいやつなのだが、酒が入ると一気に空気も読めず口も悪くなってしまうところが松本の欠点だ。一方で罵倒や痛みにすら鈍くなり記憶も飛ばしてくれるので、素面の時よりもさらに気を使う必要がなくなる。友達に対しても顔色を窺う癖のある彼にとっては、最も重要視すべき親友の条件だ。流石に顔に出しすぎたようで、自分の口が制御できていないことに松本が気づく。とはいえ謝ることはない。

 「だって付き合ってないんだろ?ほんとのことじゃん。」

 酔った松本は絶対に自分の非を認めない。内に秘めた高すぎるプライドが表に出てきてしまうのだ。これはただの欠点なのだが、目を瞑るしかない。それに、ほんとのことだ。松本はただ事実を言っている。

 華には社会人の彼氏がいて、それは知り合ってすぐにわかったことだった。それが判明した時点で恋愛対象からきっぱりと外してしまうべきだったのだが、彼にはそれができなかった。親しくなればなるほど好きになっていった。彼らはよき友人として出会い、一線を越えて疎遠となった。



 「まず華ちゃんから話してよ。」

 「え~。日和さんの話から聞きたいです。先輩ですし、二つの意味で。」

 華はニヤニヤしている。沖田は華より歳も学年も上で、彼と知りあったのも沖田の方が随分早かった。それもあってか華の敬語はなかなか抜けなかったが、二人は少しずつ打ち解け始めているように見える。実際本人たちもそう感じているのだが、華の方は帰宅してからどっと疲れを感じることになる。完璧に演じ切ることで自分が本来の自分でないという自覚すら今はなくなっているのだ。

 「うーん…、わかった。でも華ちゃん少し知ってるみたいだね。彼から聞いたの?」

 「うん。めちゃくちゃ引きずってましたよ。なにかといえば日和さんの話してた。」

 沖田は少し笑って目の下をぽりぽりかいた。その仕草から照れ以外の感情は読み取れない。



 やめてくれえ…。彼は重たい前髪を持ち上げるように頭を抱えた。まさかこんな形で自分のメンヘラっぷりが日和に露呈することになるとは。

 これから来る四人にも日和の話はしているし、病みまくっている様を包み隠さずお見せしてしまっている。日和と会っているときはそこまでひどくなかったのに。バレる。なんなら六人それぞれになにかしら恥ずかしいムーブをしてしまっているはずだ。それがバレる。

 そうか、今日は俺の処刑の日なんだ。どうにかして止めるべきだった。彼は首の後ろで手を組み、大きく息を吐いた。



 「なんて言ってた?私のこと悪く言ってた?」

 「全く。まじでいい人だった的な話ばっかりですよ。」

 華は、彼と飲むたびに聞かされた沖田との歴史を本人に語り始めた。彼が話す内容はその時々によって様々で断片的だったが、パズルとしてはほとんどすべてのピースが揃っていたので、全体像をつかみ時系列順にすることは容易かった。

 沖田はその話を黙って聞いていた。透けて見えるほど白い歯を見せて笑ったり、照れ隠しでグラスに口をつけたり、どこか遠くを見つめたりしていた。目はしっかりと哀しみを抱え込んでいる。それは沖田の話をする彼の様子にそっくりだった。

 沖田も彼と同じように、二人の記憶をよき思い出として大切に保管しているようだ。彼がその大きさと重みに耐えきれず他の人の手も借りようとしているのに対して、沖田は思い出を綺麗に折りたたみ胸の中で静かに温め続けている。日和さんの方が百倍強いな、と華は思った。


 沖田と彼は高校の同級生で、同じ運動部にも所属していた。二年生の時にクラスが同じになったところから仲良くなり、その学年の終わりごろに彼の方から告白して付き合い始めた。

仲良くなり始めたと言ってもほとんどラインでしか会話していなかったし、勇気を振り絞って直接話しかけてみても一言が限界でラリーにならなかった。

 そんな彼が玉砕覚悟の告白に挑んだのは、「高校のうちに童貞を卒業する割合が一番高い」というなんのエビデンスもない記事に焦りを募らせたからである。一度も彼女ができたことがない彼による、起死回生の一手だった。

 もう少し待とうと思っても気持ちが抑えられず、いざ告白したときもまさかオーケーされるとは思っていなかった。

 後日理由を聞いたところ、「夢の中にあなたが出てきたから」とのことだった。沖田の脳内に住む自分を抱きしめてやりたいという衝動に駆られつつ、彼女のロマンチストっぷりに驚いたものだった。お互い恋愛に夢を見ていたというところが、三年も交際が続いた理由の一つだったのかもしれない。


 華は「こんなことも知っているぞ」というような笑みで言った。「校舎の最上階で告白されたんでしょ?」

 沖田の口角がぐっと下がる。しかし目は笑っている。「そんなことも自分で喋ったの?」「自慢げでしたよ。」

 まあ確かに青春の一ページとしては良い思い出になったかもしれないけど…。「明日の朝一に校舎の最上階まで来てくれ」なんて連絡を前日の夜に受け取った方の気持ちも考えてほしいものだ。

 そんなことを思いながらグラスについた水滴を指でふき取る沖田の様子を、じっと華は眺めていた。二人の間に流れる沈黙の時間は、先ほどまでの気まずさを孕んでおらず、それはアルコールと二人の人柄(ペルソナ)がもたらした成果と言えた。

 華の冷えた部分はそれでも、気まずさのフェーズが第二段階へ移行しただけのことだと変換してしまうのだった。



 日はいよいよ本日の営業を終了しようとしている。地平線に押し付けられ空を真っ赤に染める太陽からは、じゅ~っと焼ける音が聞こえてくるようだ。時刻は午後六時ちょうどになっていた。

 五分ほど前に駅に着いていた新島凛は、改札前で秋川リサを待っていた。新島が五人の中で一番親しみを持っている人物である。もっとも、ラインのグループ内で最低限交わした自己紹介をもとにした直観なのでほとんどあてにならないが。

 まず、同じ学校に通う同い年であった。華もそうなのだが、学年が一つ下の二年生である。それに、自己紹介でもラインのプロフィール画面でも、フルネームでなく「華」という下の名前しか教えてくれなかったところに違和感を覚えた。サークルの幹部とバイトリーダーを経験している身としては、フルネームでないプロフィールは覚えにくくて嫌いなのだ。

 プロフィール画面にはもう一つ新島を刺激する要素があった。画像が設定されていないのだ。これは初対面の相手がメンヘラかどうかを嗅ぎ分ける際の重要なシグナルである。加えて、プロフィールの背景として設定できる方の画像には、モノクロの風景写真が選択されている。ガラガラの公園から見た観覧車。これは確定といっていいだろう。華さんは多かれ少なかれ、間違いなく病んでいる。新島自身病んでいる自覚があるため、そのような人種に抵抗はあまりないのだが、初対面となると少し気が引けてしまう部分はあった。

 その点秋川リサは健康なプロフィールである。成人の際に撮影したのであろう振袖の後ろ姿に、青空に二本のアイスが掲げられた背景写真である。ステータスメッセージには学年と学部、所属するサークル名が記載されている。健やかでありふれた大学生活を連想させる、模範的なプロフィールと言える。初対面の相手を少しも威圧していない。

 そんな秋川は集合時間ぴったりにやってきた。あいさつを交わす。平均的な身長と体型で、高身長でスタイルのいい新島の横に並ぶと少し見劣りする。薄い橙色のワンピースに白く艶のあるヒール。「Brand new day」とプリントされた大きめのトートバッグからはファイルがはみ出ており、大学からの帰りであることが想像できる。肩のあたりまで伸びた髪は明るめのブラウンで、笑うとぷっくりと膨らむ頬がチャーミングだ。新島の想像通り、人のよさそうな雰囲気をまとった女の子である。

 秋川は、今回の飲み会に大きな不安を抱えず参加できる人物の一人だった。秋川にとって彼は単なる友人の一人であり、二人の間に恥ずかしい過去など存在しない。それでいて彼の恋愛遍歴に関してはかなりの情報を得ていたので、今回そんな彼女たちが一堂に会すと聞き、参加しない手はなかった。プリキュアオールスターズを見に行くような、そんなワクワクが秋川にはあった。

 秋川は既に、誰が誰であるかのおおよその見当がついていた。名前こそ一人も知らなかったが、華の顔は一度見せてもらったことがあるし、沖田が彼の元同級生で今は違う大学に通っていることも知っている。今日の回に来る残りの人物として思い当たるのは、バイト先で知り合った年下のメンヘラと、夏の始まりに告白されて夏真っ盛りにフったばかりのメンヘラの二人だ。メンヘラばかり。

 彼は基本的に不幸な人が好きなのだと言っていた。そんな彼の発言がおもしろくて打ち解け始めたのは事実だが、彼が恋愛対象としてはキツすぎることもまた確かである。

 あと一人の参加者がどんな人物であるのかは秋川にもわからなかった。秋川と同じで友人代表の子だろうか。それとも彼が口にしたことのない恋愛がまだあるのだろうか。

 ともかく、目の前にいるこの女性が「夏の女」であることは間違いない。秋川は新島の写真も目にしたことがあった。インスタグラムに載せられた写真はどれも加工が施されており実物を見るまでは判断がつけられなかったが、実際に見る新島は加工の必要がないほど整った顔をしていた。

 大きな目。彼が外見で最も重視するポイントである。アイプチはつけていない。人工的に二重にする必要がないことを本人も承知しているのだろう。投稿にあったプリクラ写真の彼女は、爆大化した目のせいでエイリアンのようになっていた。全体的に薄化粧なのも、はっきりとした顔立ちが理由なのだろう。ゆったりとしたシルエットのジーンズにティーシャツの裾をしまっている。無地の白ティーは生地がしっかりとしており、なんとなく安物ではないように見えた。砂浜がよく似合いそうなサンダルからはピンクのネイルが顔を出しており、手元からはサボンの香水が秋川の鼻腔に向かって勢いよく突撃を繰り返していた。おそらくまだ付けたてなのだろう。

 二人はすぐに打ち解けた。同い年の女子同士であったし、サークルやインターンを通じてこのような場面にはお互い慣れていた。

 「リサもあいつと付き合ってたの?」新島が尋ねる。

 「ううん。私は普通に友達。凛ちゃんは?」

 「付き合ってたよ、たぶん。ちょっとだけどね。」眉の端を親指でかく。

 「この前別れた?」

 「え、あ、知ってるの?」

 「ちょっと知ってると思う。」

 秋川は申し訳なさそうに笑った。「ちょっと早く言ってよ!恥ずかしい。」新島も笑う。少し歯が出ているな、と秋川は思った。新島がそれを気にしていて、歯の後ろには銀色の矯正器具がびっしりと装着されていることまでは思い至らない。

 新島は彼が自分についてどのように話していたのかを知りたがったが、秋川は言葉を濁した。彼は新島のことを何とも思っておらず、ただ寂しさを紛らわせるために彼女と付き合い始めてしまったことを後悔していた。彼の感情ではなく、いつ告白したのか、交際中に何をしていたのかを彼の話をもとに新島から聞き出すことで、秋川は追及をかわした。


 新島は彼と付き合うつい一か月ほど前に別の男と別れたばかりだった。同じバイト内で浮気をされたらしい。随分と大胆な男だ。

 怒りと悲しみに暮れる中彼のインスタを久々に開いたところ、付き合っていたはずの彼女(沖田である。新島が気づく一年以上前に破局を迎えていた)との投稿が根こそぎ削除されていることに気が付く。二年ほど前にサークルで知り合った時からタイプだと思っていたこともあり(テニスサークル。彼は入会費を支払うタイミングで幽霊に変身を遂げたらしい)、ある時酒の勢いでDMを送った。

 彼の方はというと、ちょうど華との関係が歪みきっていた頃であり、気を紛らわせるためにその誘いを受けたのだった。

 かなり前に行方をくらませたサークルの飲み会に来ないかという無理のある誘いであったが、「笑い話の一つくらいできそうだ」という軽い気持ちで彼はカラオケに向かった。

 彼から聞く話にカラオケの四文字が出てくると、必ずそこでなにかしら事が起こる。そのせいで秋川は彼とカラオケに行くことができなかった。私も歌うことは好きなのに…。

 一年半ぶりに新島と彼が再会したその日も、秋川がため息をついてしまうようなことが起こった。酔った男女が入り乱れながらマイクを奪い合う中、新島が彼をコンビニへと誘う。

 「タバコ吸う?」

 「うん。まぁ。」

 華が吸うので吸うようになっていた。少しでも長く一緒にいれるように。

 コンビニで淡い青のメビウスと酒を二缶買い、店先の灰皿の前で話をした。彼がポケットからウィンストンのキャスターホワイトを一本取り出すと、新島はそれを欲しがった。最後の一本だったので、新島のメビウスと交換する。そこで二人はお互いの恋愛事情を語り合った。浮気されたことを新島がへらへら笑いながら話し、彼も華との不健全な関係を打ち明けた。

 「それ浮気じゃん。」新島が言う。

間違いない。彼は浮気の加害者であり、それは当時の新島が最も憎むべき存在であった。しかし彼女は彼の失恋の部分に共感し同情した。彼を狙っていたからである。わざわざ非難するような真似はしない。

 近場の公園に移動する頃には二人は手を繋いでいた。それも新島が要求したことであり、さすがに彼も彼女の好意に気づき始めていた。悪い気はしない。彼も十分酔っていた。

 彼がする華の話に耳を傾けながら、「私ならそんなことはしない」と新島はひたすら口にしていた。彼は困った。女性に純粋な好意を向けられるのは男として喜ばしいことではあったが、酒があまりに入りすぎている。このままホテルに連れ込める勢いだが、それは彼の望むところではない。展開の早さに彼自身なにがなんだがよくわかっていなかったし、華の件もありそういうのはもうこりごりだった。

 店に戻ってもサークルの皆が待つ部屋には帰らなかった。喫煙所で新島は決定的な二択を突き付ける。「付き合うか、二度と会わないか。」全く。最近の自分はメンヘラを吸い寄せすぎている。類は友を呼ぶ。ほとんど目の空いていない新島の苦しそうな息遣いを肩で感じながら、彼は思った。

 ぴったりとくっついて離れない新島に、酔いすぎていることを指摘する。それまでにも再三冷静になるよう伝えているのだが、「言うほど酔っていない」の一点張りであった。

 彼はさらに困った。新島への恋愛感情は全く湧いてこない。そもそも彼女のことをほとんど知らないのだ。少なくとも一目惚れはしていない。しかし仲良くはしたかった。寂しさの真っただ中にいるのだ。自分のことを好いてくれる、そこそこ容姿のいい女の子を手放したくはない。

 新島のことをもっと知ってからではだめなのか。友達になろうよとりあえず。新島はそんなこと全く聞き入れなかった。付き合い始めたとして、もし浮気したら殺す。そんなことまで口走っている。酔っていたとはいえ、彼の頭の中が華でいっぱいになっていることに新島は気づいていた。

 彼は新島のメンヘラっぷりに半ば感動していた。華が生粋の精神病患者であるなら、こちらはモノホンのメンヘラヤンデレである。極端な例を実際に目にすることで二つの違いがはっきりと分かったことに、彼は妙な感慨を覚えていた。

 十数回試みた交渉もむなしく、結局彼は新島と交際を始めることにした。

 秋川は「致し方なし、自分は被害者である」といった様子でこの話をする彼にドン引きであった。強要されたとはいえ、好意を抱いていない相手に「好きだ」と伝えたのである。普通にダメでしょ。

 こうして始まった二人の交際は、冷静になった彼の一言によってあっさりと終わった。

 彼はこの件に関して申し訳なさ以外の感情は抱いていないようだったが、新島はしっかりと傷つき、様々な感情を身体の中で巡らせているようだった。

 なんにせよ、酒に頼ることなくここまで自分の恋愛について赤裸々に語ってしまうという点においては、二人は気の合うカップルだったのかもしれないなと秋川は思った。


 早口でまくし立てる新島の話と彼の話とを照らし合わせているうちに、いつの間にか目的の居酒屋の前までたどり着いていた。新島は「まだ話足りない」といった様子だったが、「続きはこの後たっぷりと」といった微笑みで秋川はごまかした。

 まだ彼のことを新鮮に引きずっている新島には、この目でどんな人物なのか見てみたい女性が何人かいた。付き合っている当時は目の上のたん瘤であり、憎しみすら抱いていた女たちである。彼の口から彼女らの話を何度も聞いた。

 結果的にこの日はその内の三人が現れ、新島の激情を揺らすことになるのだが、新島がついた時には既に、最も煩わしく彼女の瞼に張り付いた二つの瘤が楽しく飲み交わしている最中だった。

 ぱっと見の直感は少しの会話で確信に変わる。ブラウスのよく似合うこちらの女性が彼の初恋の相手であり、直接の自己紹介でも華としか名乗らないこの女が、彼を浮気相手に選んだ奴である。

 どちらの子もひっくり返ってしまうくらいにかわいくて、新島は今すぐに煙草が吸いたくなった。そうでもしなければ叫びだしてしまいそうだ。自分の顔をビリビリに破いてしまいたい。ギャーー。心の中で叫び、深く深呼吸した。煙草の煙を想像しながら。

 秋川はというと、今すぐ彼に会いたくなっていた。そして拍手を送ってやりたい。よくもまあここまでの美人たちとお近づきになることができたものだ。写真で見ていた以上である。そして三人の顔を順番に眺めているうちに、ある共通点に気づいた。さらに彼に会いたくなる。からかってやりたい。三人とも見事に大きな目をしているのだ。好みがまるわかりである。表情に出てしまっていたのか、沖田が笑いながら指摘する。「リサちゃん、なんでそんなににやついてるの?」

 「いや、みんなすっごい綺麗だなあって思って。」

 嘘はついていない。それにさっきからものすごくいい匂いがする。三人の香水が喧嘩することなく絶妙に混ざり合っているようだ。

 皆もそれに同調し、お互いの容姿を絶賛しあう。沖田と華はこれが二度目であったが、賛辞の言葉はまだまだストックがあった。

 新島は過剰に自分を卑下していた。他の三人にはそれがマジなのか、否定待ちの面倒くさいアレなのかがわからなかったが、どちらにしても新島が面倒くさいタイプであることは秋川以外も知るところとなった。

 秋川もたくさんの誉め言葉を受け取ったのだが(大半が「お肌もちもち羨ましい」系であった)、それがお世辞であることは自分が一番よくわかっていた。しかし新島の様子を見てあまり否定するのもまずいと感じ、ありがたそうに拝んでおくことにした。それを見て可笑しそうに、両手を口に当てて笑う日和さんがすごくかわいかった。



 日和が口に手を当ててくすくすと笑っている。かわいい。

 彼にとって新島と秋川の姿を目にすること自体は、さしてダメージのあることではなかった。それよりも、二人から自分についてどんな話があの場でされてしまうのか、それを大いに危惧していた。特に秋川には自分の恥ずかしいエピソードをほとんど喋ってしまっている。身震いする彼に、松本が語りかける。

 「全然かわいいじゃん、新島さん。フる必要なかっただろ。」

 それについては散々こいつにも話したはずだ。好きになれなかった。仕方がない。そもそも酒の勢いで告白を受けるべきではなかったのだ。凛にはただただ酷いことをしたと流石に反省している。焼け死んだ自尊心を少しだけ回復させてくれたので、あまり後悔はしていないけれど。



 テーブル席ではこれ以上人が座れそうになかったので、四人はお座敷に移動した。華は最初からお座敷をとっていなかったことを詫びたが、誰もそんなこと気にしていなかった。新島以外は。

 秋川は沖田を除いた三人が同じ大学に通っていることを話題に出した。どんなことを学んでいるのか、どんな授業に頭を悩ませているのかなど、沖田も含めて談話に花が咲き始めた頃に、華が自分は現在休学中なのだと打ち明けた。花は一瞬のうちに黒く萎れた。

 諦めて四人は彼の話題に手を付けることにした。

 「二人は彼とどんな関係なの?」

 沖田が尋ねる。それ自体彼女にとって苦痛であったが、気になることもまた確かだった。秋川が先に口を開く。

 「私は普通に友達。たまに飲みに行くくらいの。」

 「いつ知り合ったの?」華が身を乗り出す。

 「一年くらい前かな。」

 そんなに長いこと彼と飲み友達のままでいられることが華には不思議であった。同時に、彼が本当に自分のことを好いていてくれたのだと感じ、喉が渇く。私もできることなら友人として、彼にはそばにいてほしかった。

 「元カノです…。」

 新島も答える。苦笑して肩をすくめるその仕草は、なぜか申し訳なさそうだ。前髪に隠れた目は、少しも笑うことなく沖田と華を見据えている。

 「私と一緒だね。」沖田が目を細めて笑う。

 いよいよ面白くなってきたな。華は溢れ出そうなにやつきを、ハイボールで流し込んだ。

 秋川はその笑みをしっかりとその目で捉えていた。天気のいい日の満月のように白く丸い顔が、猫目と端正なスタイルによく合っている。

 「華ちゃんは?」

 秋川の問いに、沖田の表情がぐっと強張る。彼女がなかなか切り出せないでいた質問だ。華が彼と親しくしていたのは間違いないのだが、もし友達以上の関係であったときに、自分がどんな感情になってしまうのかが怖かった。華が答える。

 「うち?うちはねえ…。なんだろう。なんかちょっとそういう雰囲気にはなったんだけど、結局付き合わなかったって感じ。」

 沖田は自然と浮いていた身体を静かに落ち着かせた。新島も握りしめていたグラスからそっと手を放す。奇妙な緊張感が漂っていた。店内に流れるBGMの音量が、急に大きくなったように感じる。

 女性アイドルが思春期男子のぎこちない恋愛感情を、ラップ調にして歌っている。あまりにダサい。ラップの下手さはどんなに機械をいじくったところでごまかしが効かないようだ。実力勝負は避けて、おとなしく恋愛禁止という付加価値に縋っておけばいいのだと、華は思った。

 「華ちゃんは私のことを彼から聞いていたみたいなんだけど、二人もそうなのかな。」

 店員が注文を受け取り引き返すのを見送りながら、沖田が切り出した。新島は梅酒のロックを、秋川はカルーアミルクをそれぞれ注文した。どちらもアルコール度数が高い。酒の力に頼りきる飲み会になるということを、二人も理解しているようだった。

 「うん。三人の顔、会う前から知ってた。」

 秋川が素直に答える。秋川と沖田は、互いに相手が自分と似たような人種であると感じており、この場にそのような存在がいることに安心感を覚えていた。二人は目を合わせて、どちらからともなく小さく笑った。

 新島も、沖田と華の話を彼からよく聞いていたことを告白する。

 「彼、その手の話を結構簡単に喋っちゃうタイプだったのね。」

 沖田が呆れたように笑い、三人もそれに応える。別の居酒屋からそれを見た彼が、顔を覆って唸っていることは言うまでもない。

 「あいつと連絡を取らなくなるちょっと前に、彼女ができたって話を聞かされたんだけど、それが凛のことなのかな。」華がそう尋ねて瞬きをすると、長いまつげがばさばさと動いた。その瞬きで起きた風が、どこか遠くの国で台風になる様子を秋川は想像した。

 「そうだと思う。『彼氏がいる子を好きになっちゃって死にそうだ』って言ってたから。華のことでしょ?」

 バレてる。華は「うっす…」といった仕草で答える。先ほどの新島同様、なぜか申し訳なさそうだ。

 もしかしてうちが一番まずい状況にあるのかもしれない。華は思いあたる。彼が自分とのすべてを彼女たちに話してしまっているのだとしたら…。華の背中に冷たい汗が滴り始める。

 「なにそれ?面白そうな話。」

 沖田が身を乗り出す。今度は動揺よりも興味が勝っていた。

 照明の光を受けてキラキラ輝く沖田の視線と、なんとか目を合わせないよう努める華の顔とを交互に眺めながら秋川は、沖田に心の中で忠告する。やめておいた方がいい。彼はあなたと付き合っていた頃よりも随分汚れてしまっているのよ。



 彼はこの飲み会が想像通り望んでいない方向にしっかりと舵を切ったのだと確信する。松本を煙草に誘う。もちろん、といった様子で松本が大きな体を起こした。

 アルコールと同じかそれ以上に松本は煙草を好んでいる。今まで一本も吸っていなかったことが不思議なくらいだ。

 熊のように見事な体格とそこそこ優れた運動神経で、高校までは充実した学生生活を送っていたのだが、松本には決定的に学が足りなかった。私立高校時代も松本は一番学力の低いクラスだった。その中でも赤点を取り続け、進級及び卒業が危ぶまれていたほどだ。

 もっとも、頭のいいクラスに所属すると無駄に意識が高くてそれはそれで気持ちが悪い。勉強は得意だが嫌いだった彼は、ほとんどのクラスメイトと馬が合わなかった。

 そんな松本も大学までは(奇跡的に)進学できたものの、そこから次の学年へと進むことができなかった。酒癖が悪くなったのも、吸っている煙草のタール数が次のステージへと移行したのもその時期だった。

 彼らがいる居酒屋にも喫煙所はあったのだが、外で吸った方が気持ちいいということで一度店を出ることにした。

 日が落ちた空にはいくつかの星が輝いており、オリオン座の姿も見える。彼は昔からこの星座の位置だけはよく記憶していた。昼間に比べるとかなり冷え込んでいるものの、九月末の夜は秋の過ごしやすさをまだ充分に保っている。

 駅前の喫煙所は予想に反してかなり空いていた。彼はウィンストンをポケットから取り出し、松本がマルボロに火をつけるのを待ってからライターを借りた。

 「しんどそうだな。」そう言う松本の口角は、人類の限界を超えて上がりきっている。

 「きつい。」とだけ返す。しかし、この状況を少し楽しんでいることもまた事実であった。

 俺って実はドⅯなのかもな。持久走とかも好きだし。

 彼が意図せずにやけてしまっていることに気づいた松本は、口角をさらに引き上げた。しかしあえて指摘はしない。

 こいつにはⅯっ気がある。部活でも自分を追い込む系の練習が誰より得意だったし。

 「どんな気持ちよ。」

 今日の松本はよく喋る。彼はうんざりした。しかしそれが、彼にとってありがたい行動なのだとわかり始めてもいた。

 彼の中で自分の過去は沖田以前、沖田以後に分けられる。ちょうど紀元前を英語でBC(Before Christ)と表すように。

 沖田以前、無垢そのものの少年であった彼は、沖田と付き合い始めることで女というものを知ることになる。そこで彼は、自分が好きな女性によって性格そのものを変化させてしまう典型的な恋愛体質であることを自覚する。沖田と別れてからも様々な女性と出会い、そのたびに自分を根幹ごと変化させ続けてきた。

 そのように新鮮な『沖田以後』の過去を半ば強制的に、そしていっぺんに振り返させられているのだ。全く整理が追い付いていない。

 そんな彼にとって、逐一(どうでもいいことも含めて)質問を投げかけてくる松本という存在は、強烈すぎる走馬灯と自分自身の感情との良い緩衝材の役割を果たしていた。

 考えを改める。少し真剣に答えてやるか。彼は松本に感じていた鬱陶しさを一度完全に咀嚼してから、口を開いた。

 「本音を言うと結構面白いよ。こんな経験普通出来ないだろ?元カノが一堂に会す様子をモニタリングできるなんてさ。」実際元カノと呼べるのは二人だけなわけだけど。

 「ああ。普通じゃないね。」松本が白い煙を吐く。

 「煙草が美味いよ。」彼はそう言って、松本と目を合わせることなく笑い合った。

 彼は喫煙所が好きだ。ここにいる人間は全員俯いている。

 令和の時代に喫煙をするメリットなどほとんどない。健康に悪すぎることが科学的に証明されているし、なにより魔女狩りにあってしまうからだ。

 非喫煙者は喫煙者を忌み嫌っている。逆は全くそんなことないのに。彼らはあらゆる商業施設から喫煙所を排除し、喫煙者をまるで犯罪者でも見るかのような目つきで軽蔑する。

 そんな十字架を背負ってでもニコチンに頼らざるを得なかった人間たちが集まっているのだ。何かを諦めたかのような顔つきになってしまうのも無理はない。そんな人々に、勝手にシンパシーを感じられるこの場所が彼は好きだった。



 彼が一旦視聴をリタイアした飲み会では、華がいよいよ自分と彼との話から逃れられなくなっていた。目の前に座る新島と秋川に一杯目の酒が配膳されるタイミングで、追加のハイボールを注文する。二人が小さく乾杯し、グイっと喉に流し込むのを眺めているうちに華はあることに気づいた。「え、待って。じゃあ出来立ての彼女に向かって私の話をしてたってこと?」

 新島がおしぼりで口元を軽く拭う。「付き合う前だけどね。…いや、付き合ってからもよく話してたかも。」そう言って梅酒のロックを空にした。すぐに追加の注文をする。ラムネサワーと、三人の了承を得てつまみにポテトを注文した。今までお通しの枝豆だけでやりくりしていたケチ臭さに、四人は笑った。

 華は彼が新島に、自分との話をしていたことに一度は驚いたが、自分も沖田との話を聞かされているのだからそこまで意外なことでもないか、と思い直した。それでもドン引きなことに変わりはないが。

「で、華ちゃんは年上の彼氏さんがいるわけね?」

 沖田の目は依然輝いている。彼女の興味が華と彼とのいざこざではなく、華の現在の彼氏の方に向いていることがわかり、秋川は一人肩の荷が下りたような気分になった。この人があんな話を聞く必要はない。

 「うん。」華が答える。彼女も、沖田の関心のベクトルがまずい方向に向かっていないことに安堵していた。

 「えー、いいなあ。ラブラブ?」

 華の表情が一層強張る。沖田も悪意があって詰め寄っているわけではない。そこが余計に、たちの悪いところであった。

 「ラブラブだったら浮気なんてしないでしょ。」新島が小さく声を上げる。華は俯いていた顔をあげて弁解した。

 「浮気ってわけじゃ…。」そこまで言って口籠ってしまう。華はここで一気に新島のことが嫌いになる。華の本能が、目の前の出目金面を敵だと認識する。腐っても俳優だ。顔には全く出さないけれど、心の中では冷めきった表情を浮かべていた。

 しかし相手は同性の女である。華の美しさにのぼせるような男たちとは違う。彼女の表情に浮かんだ僅かなピキりを、新島は敏感に感じ取っていた。

 まずい。とは思わない。新島にとってそれはむしろ望むところであった。もとより華には良い感情を持っていなかったのだから。

 暖まり始めていた飲みの場は、過剰なヒートアップを避けるため氷河期へ逆戻りしようとしていた。そんな氷を溶かす通知が四人の元に届く。

 それぞれのスマートフォンから通知音が鳴り、真っ暗の液晶が待ち受け画面へと切り替わる。沖田はリーゼントヘアをした謎の豆のオブジェ、華は姉の飼っている猫の写真、新島はサークルのメンツでバーベキューをした時の一コマ、秋川はラインの背景と同じ青空の写真という待ち受け画面であった。全員が通知の内容を確認する。

 「もうすぐ駅着くので、そのまま居酒屋向かいます!!ごめんなさい」

 『miona』からの連絡だ。文末には青いトップスを着た男の土下座が二つ連なっている。遅れたことへの謝罪であろう。

 謝罪なんて必要ないよ!秋川は思った。むしろベストタイミング!

 「あ!未央奈さん来るって!白井未央奈さんだよね、たしか。」スマホに生まれた微熱を頼りに、秋川が場の温暖化を推し進めに図る。結局今日もこんな立ち位置か、と思いつつ。

 飲み会における彼女の役割は、だいたいが「まあまあ…」役である。酔っ払いたちの暴走をなだめ、最終的には介抱する。「お水を人数分ください」と言うのも役目の一つだ。特段アルコールに強い体質というわけでもない。自ら進んで会話の主導権を握ろうとはしない性格が影響しているのだと、彼女は理解している。

 まだ誰かが潰れたというわけでもない序盤ではあるが、秋川はこの時点で了解した。彼女は今日も第三者であると。この飲み会を少しでもにこやかに終わらせるために粉骨砕身、努力してやろうではないか。

 「うん、白井未央奈さん。すごく綺麗な人だよね。」沖田が明るく答える。彼女も秋川と似たようなキャラクターであり、自分から前に出ようとはしない。そのためこのように、秋川の温暖化活動に手を貸すことができる。

 しかし今回沖田は第三者ではなかった。彼と深く関わったメインキャストの一人であり、事実新島から発せられた「浮気」という言葉に面食らってしまっていた。そのため秋川よりも場の雪解け運動への参加が遅れてしまったのだ。

 秋川と沖田のわざとらしく明るい会話に、他の二人もあまり時間を置くことなく混ざっていった。華も新島も、別にすすんで場の空気を悪くしたがるようなサイコパスではない。ただお互いの心に、しっかりとした質量のもやもやは残ってしまっていた。

 話題に上がった白井未央奈の容姿であるが、興味のなかった華以外の三人はラインの背景画像から情報を得ており、遅れて確認した華の目から見ても間違いなく美人であった。「うわ、めっちゃ美人…。」華がそう言うのを聞いて、新島は再びむっとする。どの口が言っとんじゃ。『miona』が夜の街をバックに、ドヤ顔で露出度の高い服を着こなす写真を一瞥して、さらにむむっとする。かわいい人ばっかり…。メンタル削れるわ。

 新島は白井の自己紹介を思い出す。新島たちとも沖田とも違う、中央線沿いの、田舎にも都会にも見える駅にキャンパスを置く大学の二年生で、今年で二十歳の代である。新島と秋川、華たちの一個下で今日来るメンバーの中では最年少だ。ラインのプロフィールからは、華とは少し違うタイプの嫌悪感が漂っている。華が完全に精神を患っている系のプロフィールであるのに対して、白井のそれからはパパ活女子の香りが匂うのである。

 胸元の大きく開いた黒いワンピース。肩から下げたバッグはブランドものである。新島は画像を拡大してしっかりと確認していた。本物なら自分で買えるような値段ではないはずだ。

 華の人柄が思っていたよりも良かったため憎しみのぶつけ先を見失いかけていた新島は、白井の性格が想像以上に酷いものであることを期待していた。

 「ちょっと煙草吸ってこようかな。」

 我慢の限界を迎えた新島が切り出す。沖田と華の顔を拝んでからというもの、ニコチンによるドーパミンの必要性を感じ続けていた。酒も入ってさらに、である。

 白井からの連絡によって会話も区切りがついていたし(そもそも盛り上がっていなかった)、何より今の自分に落ち着きが足りていないことが自分でよくわかっていた。一息つく必要がある。

 「あ、じゃあ私も行こうかな。」華が立ち上がった。

 他の二人は「待ってるよ。」とのことだ。それはそうだろう。沖田と秋川はもちろん煙草など吸わないはずだ。

 大学四年生で就活も経験した沖田と、偏差値と見かけが良いだけで内面はろくでもないような人間たちが跋扈する大学の三年生である秋川の二人は、喫煙のために友人が離席する状況によくも悪くもいい加減慣れていた。

 沖田は煙草に対してかなり強い抵抗があるものの、「喫煙者というだけで縁を切る」という信念が何も良い結果を生まないということはわかっていた。

 明らかに生産性のない行為であるにもかかわらず、同世代にも喫煙者は大勢いる。その全てと関係を持たないように努めるというのは、こちらがただ損をするだけである。煙草の匂いや煙には未だに慣れないけれど、マナーを守った喫煙者にはある程度のリスペクトを送れるようになってきていた。恋愛対象になることは絶対にないけど。

 秋川はその点、喫煙者や煙草そのものに対して特に抵抗というものはない。自分が吸うことは万に一つもない(吸うメリットがない)が、吸う人に対して何か意見があるということでもない。その人の勝手だろうという考えだ。

 どうせなら外で吸わないか。手持ちの煙草がないので買いたいし、という華の提案を新島は快諾しつつも、同時に少し動揺していた。

 華が喫煙者であるのは意外というほどのことでもなかったが、自分と二人きりになることに抵抗はないのだろうか。彼女もヘビースモーカーで(私がヘビースモーカーというわけではない。決して。)、ずっと我慢していたのだろうか。

 華は確かに、酒を飲み始めたときからずっと「吸いたいなあ」とぼんやり思っていたが、自分から言い出すほどでもなかった。煙草は好きだが医者に吸うことを止められている。処方されているピルとの相性が悪いらしい。しかし誰かが吸いに行くのだとしたら話は別だ。

 それに、新島に不信感を持っているとはいえ、日々孤独に苛まれている華にしてみればそう簡単に友達を得る機会は捨てられない。しかも女友達である。華は同性の友達が極端に少なかった。

重度の依存者に付いて行って一本拝借、といういつもの戦法は使わないでおくことにした。変にケチって気まずくなるくらいなら新しく買ってしまおう。外で吸う口実にもなるし。

 屋内の喫煙所というものが、華はどうしても好きになれなかった。煙いし狭いし(彼女は軽度の閉所恐怖症だ)、追いやられている感が惨めすぎる。

 

 

 白井の連絡には秋川が返信していた。「了解!待ってます!!」

 他の三人もスタンプを送っている。キャラクターはそれぞれ違うが、どれも親指を立てて笑っていた。

 焦っているような雰囲気のメッセージを送った白井であったが、実際は別にそんなこともなかった。そもそもなぜ誘いを受けてしまったのか、自分でもよくわからずにいた。

 彼の名前を聞いてもはじめはピンとこなかった。それくらいの関係なのだ。今となっては関係ないと言ってしまっていいレベルである。それではなぜここまで来てしまったのか。

 日々慢性的に感じている退屈を少しでも紛らわせるためだし、新しい同性の友達を作る機会に最近恵まれていなかったからである。たぶん。すっきりとしないまま改札を抜けて、マップアプリを開き店の場所を検索する。

 道順が表示されるのとほぼ同時に、一件の通知が画面上部に映し出される。『伊波明璃「うちも今着いたんだけど、もう駅いない?」』グループではなく、個人チャットだ。

 伊波明璃。第六の女。今日集まる六人を彼と出会う時期の早い順に並び替えたとき、最後に名前が挙がるのがこの女性である。

 偶然にも駅への到着も最後になっているのだが、他の五人もそういう順番で集まってきたのかと問われればそういうわけではない。あくまでも偶然である。

 沖田、新島、白井、秋川、華、伊波という順で彼に出会っている。とはいえ、新島の存在が彼の生活に大きく関与し始めたのは華と出会った後であり、彼にとって新島はナンバー5、白井こそが第二の女ということになる。あくまで彼の視点での話であり、白井からすれば彼はノーナンバー、印象なしという認識になっているが。

 「私も今着いたとこです!一緒に行きましょ、どこいます?」白井が返信する。伊波明璃は彼と同じ大学に通う三年生で白井の三つ上、今年で二十三になる代らしい。今日のメンツの中では最年長だ。

 自分と沖田以外の四人が同じ大学に通っているということと、同い年が一人もおらず全員が年上という二つの事実が白井を不安にさせていたが、そんな懸念を少し和らげてくれていたのがこの伊波明璃の人柄であった。

 ラインのグループ内で少し会話をしただけで、底抜けの明るさが感じられた。「実際に会ってみたらチャットと真逆の陰キャじゃねえか!」という出会い系にありがちなパターンも考えられたが、二十三という年齢と、女性でそのケースは珍しいという経験則からその可能性は排除した。

 おそらく彼女は生粋の根明であり、その推測は白井を「彼女がいればまあなんとかなるだろう」という気持ちにさせてくれていた。

伊波の容姿を事前に知ることはできなかったが、彼女が改札から出てきたとき、白井は「なんとなくこの人なのではないか」という見当をつけることができた。

 服装もそれなりに個性的だったが、それ以上になにか目に留まる雰囲気を彼女は纏っていた。オーラと言えば仰々しすぎるし、親しみやすさが滲み出ているのかと問われればそういうわけでもない。あとになって本人の口からきいた自己紹介によると、沖縄出身の彼女は高校時代をニューヨークで過ごしたらしい。彼女がなぜ目立つのか、それはいい意味でこの場所に馴染んでいないからなのだと白井は理解した。

 実際に会ってみても、伊波はチャットの印象通り話しやすい人柄をしていた。袖が肘まで捲られたグレーのスウェットの背中側には、髭をたっぷりと蓄えたご陽気なコックがプリントされている。紺色のナイロン生地に赤と白のラインが入ったウインドブレーカーを履いており、それとブランドを揃えたスニーカーはハイカット且つ厚底で、あまり知識のない白井の目から見てもかなり値が張る代物に見えた。少し厚着すぎる気もしたが、服装の正解がないのがこの時期である。実際日の落ちた今は少し肌寒い。衣替えするにはまだ早いけど。伊波が持つ荷物といえば肩からさげたスマートフォンくらいのもので、首にかけたヘッドホンが収納できるような場所はどこにも見当たらなかった。

 「おまたせ~、ごめんね!」そう言って伊波は白井に向かってぱっちりと目を見開いた。目そのものは大きくないが、長い睫毛とそれに合わせて引かれたアイラインが独特の美しさを演出している。小さな唇には真っ赤なリップが塗られていて、口元が緩むと顔を出す白い前歯がかわいい。健康的に焼けた肌と、ところどころでくるくると自由にカールした黒のウルフカットが沖縄の血を感じさせる。量産型のものではなく、彼女の容姿にはなにかサブカルチャー的な魅力があった。新進気鋭、若者を中心に支持を得ている歌手のMVに出てきそうな人だな、と白井は思った。

 

 名前まで彼から聞いたことはなかったし、どんな見た目をしているのかも自分から尋ねたことはなかったので、白井未央奈が彼の恋愛史におけるどの登場人物なのかが伊波にはわかっていなかった。

 黒のロンTに黒の革パン、こげ茶色のレザージャケットを上から羽織っている。パンツに付いたウォレットチェーンも黒いブーツも(ジャケットとアクセサリー以外すべてが黒かった)、ブランドロゴがでかでかと入った黒いショルダーバッグも右の人差し指にはめたシルバーの指輪もどれもこれもが高そうで、彼女が例の「パパ活女」であることは実際に会ってみると明らかだった。

 なるほど、確かにかわいい。そして彼が好みそうな女である。男を沼らせそうな女。

 真っ白な肌によく通った鼻筋。目の大きくないところが彼の好みに反するが、決して小さいわけではなかった。他のパーツと合わせて見事に美しく完成されているため、全く問題にならなかったのだろう。自然ではあるが濃い化粧が、黒の姫カットとよく似合っている。

 髪型を本心のままに褒めてから、「前撮り終わったから切ったんでしょ。」と伊波は言った。

 「なんでわかったんですか?」白井が驚く。

 「成人を迎える女子あるあるだから。」 

 声がやけに高いし敬語だったので、「ため口でいいよ、緊張してる?」と聞くと、白井は少し表情を崩して頷いた。なるほど。かわいい。

 「緊張しないでよ~!仲良くなろ!」


 そう言って下からにっこり笑いかけてくる伊波はとてもかわいらしかった。白井は彼の恋愛遍歴をほとんど知らないため(高校の頃から付き合っていた子と別れたという話はかろうじて覚えている)、伊波が彼の「何」なのかが全く想像できていなかった。もし彼女なら、ちょっと羨ましいな。

「私初めてこの駅降りたんだよね~。なんかいいとこっぽいね。」全くそんなこと思っていなさそうなトーンで伊波が言う。

 六人の住まいの中間地点がだいたいこの駅だったのだが、都心にある伊波の家からは少し遠かった。そもそも六人のほとんどが大学から直接向かってきていたので、この駅を集合場所とするのは結果的に誰にとってもマイナスになっていた。

 「いいところですよ。都心まで行かなくても大体ここでなんとかなっちゃいます。」

 ここよりもさらに西側の、もはや東京とも呼べないような場所に住まいを置く白井はよくこの街で遊んでいた。都心寄りのキャンパスに通う今では頻度がだいぶ減ったものの、高校時代は映画を観るにも買い物をするにも、放課後のほとんどの時間をこの街で過ごしていた。

 白井がまだ幼い頃はこの街よりももう少し西側にある市が多摩地区の中で栄華を誇っていたのだが(白井や彼が通っていた高校はそこにある)、駅ビルやら映画館やらが悉くこの街に吸収されていき、新たな巨大商業施設建設の権利すらもついに譲ってしまった。そしていつの間にか、「多摩地区の盟主」の座を明け渡してしまったのである。

 そんな話をほとんど一息に話し終えると、「へえ~。」という相槌だけが返ってきた。

 過去の栄光に縋る我が地元の話に、熱が入りすぎてしまったようだ。こんな話が面白いはずもない。すぐに謝罪する。


 またやってしまった。人に気を遣えないのがたまに傷、である。正直この欠点はあまり気にしていないのだが、初対面の相手にくらいは、いい加減ある程度の礼儀を持って接していかなければならないと思う。もう二十三なんだから。慌ててフォローする。

 「未央奈ちゃんの地元が田舎になっちゃったって話だよね、聞いてたよ!確かにあんまりおもしろくはなかったけど。」あああまた口走っている。

 もういいや。正直なのがセールスポイント、である。長所と短所は表裏一体。就活を通して嫌というほど学んだことだ。

 伊波が自分の言動に一人で焦っている様子を見て、白井は笑った。

 多感な時期を海外で過ごした影響で、伊波にはたしかに気を遣えなかったり常識が欠落していたりする節があった。しかし、それを補って余りあるユニークな親しみやすさを持ち合わせており、彼女自身それを自覚していた。自分の容姿に自覚的な点が白井の行動に目立つように。二人は自らの長所をよく理解し、それを愛していた。

 白井の敬語は抜けなかったが、伊波はもうそれについて指摘しなかった。年上と話すことには慣れているようだし、無理に敬語を抜かないタイプなのだろう。

 丁寧な敬語からいつの間にか「っす」くらいのものになり、気づけば完全な友達になっている。典型的な後輩タイプだ。相手を自然に気持ちよくさせる方法を身に着けている。

 声の高さもあまり直らなかった。おそらくこちらも元からそういう話し方なのだろう。少し鼻にかかっているけれど、それでいて透き通った声。白井の喉からではなく空から、脳に直接語りかけられているような感覚になる。聞いていてなんだか気持ちがいい。

 「パパ活」。その三文字が頭をよぎり、彼もまたこの子に気持ちよくさせられた男の一人なのだろう、と笑みをこぼした。

 伊波が何かほくそ笑んでいる。「どうしたんですか?」と聞くと、「あ、いや…、未央奈ちゃん兄妹いる?」と質問返しされた。

 「いないです。一人っ子ですよ。」と答えると、「あぁ~。」と、またにやりと笑った。

 絶対にお姉ちゃんかお兄ちゃんがいると思ったのだがなるほど、一人っ子か。たしかに言われてみればそんな気もするなあ…。

 いとこの年齢まで聞かれたので、「なんで急に家族構成のことばかり聞くんですか。」と笑うと、年上と話すことに慣れているのはなぜなのかが気になったから、とのことだった。

 伊波の中ではきっと突拍子のない質問などではないのだろう。脳内で彼女は休まずひとり言を吐き続けていて、必要な時にだけ相手に質問をするのだ。

 もしくは、この質問が相手の意表を突くものなのかどうかなど、はなから考えていないのかもしれない。なんとなく伊波のことがわかってきた白井は、その事実が嬉しかった。

 こんなに綺麗で面白い人と仲良くなれたことに、純粋に興奮する。彼がどんな形であれ伊波に魅力を感じたことに、共感せざるを得なかった。

 ほら、さっきからまたじーっと私の顔を覗き込んでいる。

 「なんですか。変ですよ、明璃さん。」また笑われた。何かしてしまっただろうか。顔がかわいいので、いやな気はしない。とりあえず、今思っていたことを伝える。

 「かわいいね、ほんと。」目を見つめて本心として伝えたのだが、軽いお礼であしらわれてしまった。やはりこの子、褒められ慣れている。

 目を見てはっきりと容姿を褒められ、さすがに照れる。すかさずこちらも言葉にした。

 「私明璃さんみたいな顔めっちゃ好きです。おしゃれだし。かわいいです。」お世辞ではなく本心だ。私には珍しく。伊波が申し訳なさそうに頭を下げる。

 向こうに住んでいた頃の友達はみんな胸を張って正面から誉め言葉を受け取っていたものだが、私はいつも困ってしまう。根っこは日本人なようだ。

 動揺をごまかすためにまた質問をする。ずっと気になっていたことだ。「で、未央奈ちゃんはあいつの彼女だったわけ?」

 白井はふふっと笑って答えた。「違いますよ。一瞬仲が良かっただけです。しかもほとんどインスタのDMでしかやり取りしてませんし。なんで今日呼ばれたのか、自分でもわかりませんもん。」

 そう言って白井は自分と彼との関係の紹介、今日に限っては最も重要な自己紹介を終えた。

 ふんふん。あいつの言っていた通り、この子はあいつに対して既に何の感情も残していないようだ。伊波は腕を組んだ。

 駅からすぐのはずだったのだが、真逆の出口から出てしまったためかなり歩く羽目になった。道案内役は伊波から白井に代わっている。

 「高校の後輩で同じバイトをしていた。」不意に伊波が言う。顔も白井の方を向いていないし、歩みも止めていない。白井は反応が遅れて無視しかけたが、すぐに自分と彼との話をしていることに気づいた。

 「へ?」咄嗟に口をついた言葉の情けなさに、頬を赤らめる。「っつ、ななんで知ってるんですか?」自分が動揺しすぎていることに、さらに動揺する。

 「うちのおばあちゃん、占い師なんだよね~。あたしもちょっとだけならわかるのよ。」そう言いながら、伊波は両の掌を白井に向けてぐるぐると回した。顔もだいぶ作っている。眉を顰めて目を細め、唇はキッと一文字に結んでいる。

 「えぇ!すごい。他にもわかりますか?」ほわほわ~っとした声で白井が驚く。目と一緒に口も少し開いてしまっている。多分信じてるなこれ。

 「ちょ~っと待ってねぇ…。」そう言って伊波は目を閉じながら白井の全身を掌から出る念力で撫でまわした。勿論実際には出ていない。しばらくそれを繰り返してから目を開くと、真剣な面持ちでこちらを見る白井と目が合った。思わず吹き出してしまう。

 「あはは。うそうそ、そんな超能力ないよ。おばあちゃんが占い師だったってのはほんとだけどね。あいつから未央奈ちゃんの話を聞いたことがあっただけ。」そう言っていたずらっぽく笑う伊波を見て、白井はさらに顔を赤らめた。

 よく考えたら嘘に決まっているのに、不思議な雰囲気の人だからつい信じ込んでしまった。実際占い師のおばあちゃんを持っているわけだし。それだけでも十分謎めいている。

 最近は年上の人と付き合うことも増えたし、ファッションもメイクも、お酒も煙草もいろんなことを経験して随分大人っぽく、理想の自分に近づけたように白井は思っていた。しかし、伊波といるとどうも調子が狂う。

 年上の男を相手にしているときにはどんなに笑っていてもメス顔をしていても、裸でいるときでもどこかで客観視している自分がいる。それが伊波相手だと、自分がどっぷりと会話に浸かってしまっているのがわかる。純粋に楽しんでいた。だから声をあげて笑ってしまうし、簡単な嘘でも馬鹿みたいに信じてしまう。

 それが不快なはずなのに、不快じゃなかった。そういう自分が嫌で変わったはずなのに。簡単には落とされない、ミステリアスな高嶺の花的存在に憧れている白井は、嘘をついた伊波に対して子供みたいに拗ねていた。

 「明璃さんは?彼の彼女なんですか?」頬を膨らませ、唸り声をあげていた白井が悔し紛れに尋ねる。

 「いや、友達。結構仲良し。」

 「元カノとかでもないんですか?」白井が詰め寄る。

 「そうだね。」

 「どっちかが片思い、とかは?」

 「ないってー。」伊波が「急にぐいぐい来るね。」と笑う。

 「とっても素敵な人なのに、なんで彼が好きにならないのかが不思議だから。」と白井が伝えると、「身に余る評価をいただけて光栄ですけども…。友達としてうまくやってるんだから不思議ではないでしょ。」と伊波はごにょごにょと返した。褒めるとしっかり照れてくるのがかわいい。

 それにしてもそうか。白井の記憶によると彼は親しくなるとだれかれ構わずすぐに好きになってしまう、友人と恋愛対象の区別が曖昧なタイプだったのだが、どうもそういうわけではなかったらしい。

 白井が彼への評価を改めかけたその時、「あたし彼氏いるし。」と伊波が小さく口にした。全く。この人は大事なことほどなんでもなさそうに話す癖があるようだ。

 彼氏がいるから彼は友達に甘んじているのではないだろうか。それを言ってしまうと伊波と彼との関係が崩れてしまうかもしれない。彼も何とか我慢しているのだろう。その努力を勝手に無に帰すような真似はできない。元DM相手のよしみで、白井はその発言をそっと胸のうちにしまった。



 駅前の喫煙所は予想に反してかなり空いていた。華はポケットから買ったばかりのウィンストンを取り出し、新島が自分の煙草に火をつけるのを待ってからライターを借りた。

 「同じの買うくらいなら全然私のあげたのに。」吐ききれなかった煙をわずかに口から漏らしながら新島が言う。

 華がコンビニで買った煙草は、新島が持っていたものと銘柄もタール数も全く同じであった。ウィンストンキャスターホワイトの五ミリ。彼がいつも燻らせていた煙草だ。新島は偶然かとも思ったが、華も彼のことを少しは引きずっているんだなと思い、少しの仲間意識を感じた。

 そして時を置かず、さらに気づく。華が彼のことを引きずっているのではなく、彼の方がこの子のことを忘れられずにいたのではないか、と。こちらの仮説の方がずっと信憑性がある。実際、彼は引きずりまくっていたのだから。

 華のことを思い浮かべながら火をつける彼の横顔を、ウィンストンを吸うたびに私は思い浮かべていたのか。この煙草によって私は華と以前から繋がっていた。しかし矢印は一方的なものであり、その事実は新島を酷く惨めな気持ちにさせた。

 「あいつもウィンストンばっか吸ってたよ。」新島が目を細めながら煙を吸い込む。

 「うちが煙草教えちゃったからね。」座り込んだ華が言う。やっぱりか。

 「華のこと忘れられなかったんだよ。今でも吸ってると思う、たぶん。」私もね、そう言って苦笑しながらウィンストンの箱を華の顔の前で揺らす。

 彼女も笑っていた。どちらの笑顔もなにか諦めたような、疲れた表情だ。

 煙草を一緒に吸うと距離が縮まる。それがなぜなのか、筋の通った説明は一つもできないけれど、同じ罪を一緒に背負っているような、互いの闇を少しずつ見せ合っているような、奇妙な連帯感が華は好きだった。

 「むかつくなあ。」

 新島が先ほどまで我慢していた言葉を口にする。想像力と判断力が低下していた。煙草が酔いの回りを早めているようだ。それは華も同じで、シンプルな悪口を言われているのにご機嫌だ。にやぁ~と笑っている。「なんでー?」

 「私の好きだった人が好きだった人だからだよ。」

 ぐらぐらと揺れる華の頭は、新島の言葉をすぐには理解できない。脳と一緒にシェイクして、何とか咀嚼する。私か。私にむかついてんのか、こいつ。

 「あんたにむかついたってしょうがないんだけださー。いいでしょ?許して。むかつきます!」

 新島の握りこぶしから突き出るウィンストンは、華の鼻先を指している。むちゃくちゃだ。

 「むちゃくちゃだ。」そのまま口に出す。

 「うるさい。華にもわかるでしょ?彼氏が元カノの話、しまくってんのよ。彼氏は勿論だけど、女の方にも少しはヘイト向いちゃうもんでしょ。」新島の眉間と口はへの字に曲がっている。こんなにも清々しく敵意を向けられると逆に気持ちがいい。さっきまでの陰湿なやり取りよりはずっとマシだ。

 「わかる!」華は大きな声で答えた。

 「好きなだけ恨んでくれ。ただうちはあいつの元カノではない!」ウィンストンを指し返す。

 新島は笑った。それから煙草を咥えて、思い切り息を吸い込み始めた。ジジジっと音を立てて煙草が短くなっていく。そんな新島の好戦的な目を見た華も、慌てて同じ行動に出る。わざわざ新しく煙草に火を点けてまで。

 咳き込みそうになるのを我慢しながら、互いに限界まで吸い終えたところで、同時に煙を吹きかけ合った。余裕があった分、新島の吐く煙が華のそれを押し返す。有害な煙を受けて、華は大きな目から涙を流した。

 しかし、多めに吸った分華の方が肺に多くのストックを蓄えていた。舞台経験に裏付けされた肺活量も後押しする。一気に形勢は逆転し、空っぽになった酸素を取り込もうとする新島の肺に煙が逆流してくる。先に新島が噎せ始め、華もすぐに後を追った。

 他に誰もいない、真っ白に染まった喫煙所の中で二人はしばらく泣きながら笑いあった。可笑しくてたまらなかったけれど、そのせいで涙が出てきたわけではない。言わずもがな煙のせいだ。涙を拭おうと目を擦ると、それで生まれた傷からまた新しく煙が染みてくる。笑い疲れて息を吸い込むと、煙が多量に入ってきてまた咳き込んでしまう。地獄の一種として、この状況が何かの絵本で紹介されていても驚きはしない。誰も喜ばないのに、学校の図書館に必ず所蔵されている類の絵本だ。朗読ボランティアの大人がなぜか好んで読む類の絵本。

 そんな中で、二人は吐き出した煙がほとんど姿を消してしまうまで心から、声が出なくなるほど笑っていた。途中、何人かがドン引きした表情で通り過ぎていく様子を目に捉えていたが、そんなことはまるで気にならなかった。

 「はあ。んん~…ふう。ね、ふざけんな。めっちゃ噎せたわ。」

 「こっちの台詞ね、普通に。…ねぇ、新島って呼んでもいい?」

 「なんでよ。凛って、下の名前で呼んでたじゃんか。」

 「うん。でもさあー、新島って感じがする。新島っ!」

 華が新島に飛びついて肩に腕を回す。「なにっ?ほんとになに!」そう言って身体を引く新島だが、顔は笑ってしまっている。

 「わかった。別に新島でいいけどさー。」

 華から延びる腕を甘んじて受け入れ、新島も華の肩を抱く。身長差のせいで新島は少し屈んでいるし、華は背伸びをしすぎて震えてしまっている。ほとんど新島が華を持ち上げているような格好になっていたが、二人の表情は満足げだった。

 「華のことも名字で呼ばせてよ。お前だけなんかフルネーム教えてくれんやん。なんかあんの?」

 名字を教えてくれないのには何か理由がある。この子は理由もなしにそんなことをするようなやつではない。家族とあまりうまくいっていないという話も、彼から聞いたことがあった。薄々タブーだと思っていた話題に、馬鹿なふりをして突っ込んでみる。

 組んでいた肩がふっと解かれる。まずったかな…。

 「言いたくなかったらいいよ。」あからさまに「やばっ…」という表情をした新島を見て、華は笑った。

 「いや、全然平気よ。そんな大した理由があって言ってなかったわけじゃないから。暮田。暮田華菜子。」

 「あら、かわいい名前じゃない。華菜子っ。」上目遣いで反応を伺う華のおでこを、新島は柔らかく握った拳で小突いた。

 骨と骨が当たり、思いのほか痛かったようだ。華は少しうずくまって、赤くなったおでこをさすりながら言った。「でもやっぱり本名では呼ばれたくないかも。あんまり好きじゃないから。」

 「じゃあ、あだ名考えるわ。私だけの呼び名が欲しい。」腰に手を当てて仁王立ちの格好になった新島が、目を閉じて考え始めた。

 ほとんど付いていない腰の肉を握ったり離したりしているうちに、自分たちの指が長いこと煙草を挟んでいなかったことに思い至る。口を曲げて、片眉を下げた新島は華にジャスチャー付きで提案した。「もう一本、吸う?」

 「もち。」二つ返事で答えた華の左手には、既に煙草が挟まっている。新島は鼻で笑って、ライターに火を灯した。

 首を伸ばしてくる華の表情がかわいくて、少しいたずらしたくなってしまう。新島がそーっと腕を引いていき、華の首は限界まで伸びていく。華はプルプルと震えだし、結局火に届く前に吹き出してしまった。「ちょ、ちょっと!」落ちた煙草に付いた土を指で拭い、なんとなく軽く二、三度振ってから笑顔の新島に火を点けてもらった。

 肺に煙が入っていくのを十分に感じてから、ゆっくりと外に吐き出す。

 「母親とね、あんまり仲良くないの。」

 華の話に、新島は沈黙で応える。こういう込み入った話は相手からの告白を待つしかないし、こちらからの意見も安易な共感も必要ないことを新島は経験から理解していた。

 「お姉ちゃんと一緒に家を出て、それっきり。お父さんはずっと前に死んじゃった。…らしい。ほとんど何にも覚えてない。まあだから、名字で呼ばれるのはあんまり好きじゃないんだよね。いちいち思い出したくないから。華菜子呼びも、お母さんにされてたから嫌。そもそもダサいし。今日日『はなこ』って。センスない。」灰を落とす。

 新島は華の方を見ずに煙草を吸い続けていた。出入口の方で黒い毛虫がもぞもぞしているのが見える。今はコンタクトをしているから目がいい。

 どうしてそんなに母親と仲が悪くなってしまったのかが気になったけれど、その問いは煙と一緒に吐き出してしまうことにした。

 「うちが二十歳であることに耐えられないのよ。」新島の吐き出した煙が空に消えていくのを眺めながら、華は言った。

 「うちの手足はもう、お母さんの指先から伸びる糸とは繋がっていない。その事実が理解できないし、それは間違ったことだと確信しちゃっているの。だから何度でも糸を巻き付けようとしてくる。」

 「うちはもとからそういうのが嫌いだったし、時間が経つにつれて度が超えていった。今新島が想像しているよりもずっと酷いと思う。普通じゃなかった。」

 「共依存の関係でうまくやれていたはずのお姉ちゃんが先に壊れちゃって、うちが無理やり家から引きずり出した。お姉ちゃんの世話をしているうちに私もちょっと病気になっちゃったけど。まぁ、そんな感じ。」

 言い終えて華はすぐに、喋りすぎてしまったことに気づく。病名までは口にしていなかったけれど、ほとんど話してしまっているようなものだ。こういう話は本当に数人にしかしたことがないのに。会ったその日に話してしまったのは新島が初めてだった。

 確かに喫煙所に入ってからの会話はすごく楽しかったし、距離もかなり近づいた気がする。しかし、そうだとしても気を許すには早い。アルコールもニコチンも入れたけれど、どちらも気を張ってある程度のところまででセーブしていたはずだ。…いや、それが出来ていなかったのかもしれない。

 新島たちのことを、彼と親しかった(もしくは親しい)という理由だけで最初から信頼しすぎてしまっていたのかもしれない。華はその事実を認めざるを得なかった。

 新島は肺に黒く溜まったタールが一気に重たくなったように感じた。どんなに息を吐いても軽くならない。「重すぎるよ…。」結局口に出してしまう。煙草ではなく、華の話の方が、だ。

 新島の苦虫を潰したような表情は、華の懸念を吹き飛ばして笑顔にさせた。

 「そうだよね、まじでごめん。」吹き出して、けたけた笑いながら華は謝罪をした。こういう時はもう無理にでも明るくなるしかない。華はそう思っていたし、自らのコンプレックスや暗い過去を話すと変にハイになるというのは新島にも理解できることだった。

 新島も協力体制に入り、口の中で苦虫をさらに潰していく。「なんも言えないよぉ、重たすぎるって…。なんか気持ち悪くなってきたもん。」

 「あはは、煙草吸いすぎたかもね。戻ろうよ、うちまだ飲み足りない!」新島のお腹になぜか頭突きをした華は、そのまま手を背中に回してキスをした。

 突然唇を奪われて目を見開いた新島の視界には、目を閉じた華の、綺麗に伸びたまつげが映っていた。ゆっくりと瞬きを繰り返して何度も目の前の光景を確認する新島だったが、その光景を現実として受け止めるよりも前にあることを思い出して、華の腕を振り払った。

 「ちょっと!やめてよ思い出したわ。酔ったらキス魔になるってあいつ言ってた。」

 背伸びをしていた華は新島の一撃を受けて軽くよろめき転びかけたが、そんなことよりも何かが可笑しくてたまらないといった様子だった。多分その何かは何でもないのだろう。

 新島は呆れてため息をつき、華の手をぎゅっと握った。「あんた、もう飲まないほうがいいかもよ。」

 新島の手を握り返した華は、手の温もり以上に胸が熱くなっているのを感じた。下唇をぐっと噛む。流石にこれ以上は引かれたくない。泣くな。

 「…。いや、飲むよ。もう決めた。うち今日は飲む!」

 繋いでいた方の手を華が高く挙げたので、新島も同じポーズをとる羽目になった。

 夜はまだまだ更けていない。行き交う通行人たちの暖かくも蔑みを含んだ視線を感じながら、新島は華のことを引きずっていった。毛虫はいつの間にかいなくなっていた。



 「あれ、なんか減ってるじゃん!」

 松本がタブレットをがっしりと掴んで騒ぐのも当然で、彼と松本が喫煙所から戻ってみると、画面に映ったお座敷には秋川と沖田の二人しか座っていなかった。帰ってしまったわけではないだろう。グラスやおしぼりは四人分置いてあるし、そもそも全員集合もまだなのだから。

 「煙草かな。」それが彼の導き出した結論だった。華と新島は酒が入るといつも煙草を吸いたがった。残る二人は非喫煙者だ。

 秋川に直接尋ねたことはないし、沖田は一年半ほど前までの情報しかないけれど、あの二人は絶対に吸っていないだろう。これからも吸うことはない。沖田に関しては喫煙者を憎んですらいたように思う。いついかなる時でも、正しい側に立っているような人なのだ。付き合っていた頃は勿論彼も吸っていなかったし(当時は彼も、興味はあれど間違いなく沖田側の意見を持っていた)、彼女の前では煙草を話題に出すことすら躊躇われた。確実に空気が悪くなるから。

 「なるほどね。それで、白井さんは吸うの?」どうして今白井のことを聞くのだろう。松本の質問の意図が彼にはわからない。

 「さあね、どうだろう。話した感じでは吸わなそうだったけど、だいぶイメチェンしてたからな。」インスタを見る限り。

 彼が知っている白井はいつも白かカーキの服しか着ていなかった。インスタにはカフェの投稿ばかり。今では夜の街と、黒ずくめのファッション。濃い化粧に、物憂げな表情。煙草くらい吸っていてもおかしくはない。

 「ふんふん。もし白井さんが吸っているのなら、沖田さんと別れてからのお前は喫煙者ばかりを好きになっていたということになるな。」

 「意味のわからない共通点を見出すな。」それに、新島に関しては一度も好きになったことはない。それは口にしないでおく。

 「意味なくはないだろう。お前はその子たちのことじゃなくて、煙草のことを好きになっていたのかもしれないぜ。」

 ほう。彼は松本の話に耳を傾ける。

 「病んでいる子が好きって言ってただろ。そうじゃなくて、実際は煙草のことが好きだったのかも。」

めちゃくちゃだが、松本のものにしては珍しく一考の余地がある意見だ。

 なぜ病んでいる子が好きなのか。正確には少し違う。

病んでいたり精神を患っているような子に必ずしも心惹かれるというわけではない。何か影を持っている人、目の奥が真っ黒なのだけれどそのさらに奥で蒼い炎が滾り続けている人、まだ諦めていない人が好きなのだ。魅力にあふれているのにその使い方を間違えている人。大きな挫折をもたらす小さな空回りに気づけないでいる人。努力の仕方を間違えている人を見るとどうしても放っておけない。

 それに加えて、正しすぎる人が苦手になってしまった。きっかけは沖田との関係の挫折だ。正論で身を固めていて、いつ何時も正しい側にいる人。そんな人といるとどうも落ち着かない。お互いに相いれない部分が、互いに互いのことを諦めさせてしまう。彼はまっすぐな正論が嫌いになっていた。

 その二つの要素、好きなタイプと苦手なタイプを組み合わせてから考えると、彼の好きになる人がみんな煙草を吸っているような女性になることは必然であるようにも思えた。

 「うーん。あり得る。」右の拳であご髭のわずかな剃り残しをなぞりながら、彼は言った。

 「だろ?」食い気味に松本が喜ぶ。

 こいつは大した学も持ち合わせていないくせに、自論をやたらと展開したがる。それは大抵どこかから仕入れてきたものの丸ぱくりであり(だいたいが漫画か歌詞からの引用だ)、いつも付け入る隙に溢れていた。こちらからの意見がどんなに見事なカウンターだったとしても、一度口に出してしまった自論を松本は絶対に曲げようとはしない。それを理解している彼は、松本の付け焼き刃な意見をいつも飲み込んで褒めてやるのだった。

 しかし、今回に限っては彼も素直に納得しており、松本の鼻の穴はいつにも増して膨らんでいた。



 時間は少し遡る。

 「二人、大丈夫かな。」沖田が言う。二人とは先ほど喫煙所に向かった、華と新島のことである。

 新島はおそらく華のことを会う前からよく思っておらず(彼が新島の前で華の話をしすぎたせいだろう)、それが華の方にも伝わってかなりギクシャクとした雰囲気になっていた。

 「大丈夫じゃないかな。意外に気が合うかも。」秋川がグラスを傾けながら言った一言は、あながち根拠のない気休めというわけでもなかった。

 秋川は新島と話した印象として、自分の考えを包み隠さず口から漏らしてしまうタイプなのだと感じており、それは秋川が彼に対していつも感じている印象に似ていた。どちらの話も聞いているうちに、呆れ笑いを浮かべてしまう。

 華もそんな彼の人柄に一時的にではあるが惹かれたはずであり、その論拠をもってすれば華と新島は相性がいいはずだった。事実、秋川の希望的観測通り華と新島は意気投合し、華はほとんど誰にも話したことのない自らの過去までをも新島に話すことになっていた。


 沖田も秋川も、互いに対して親しみを抱きあっていた。これまでの飲み会における立ち回りもそうだし、服装やメイクの系統もなんとなく似ている。服装でいえば今日の新島のコーディネートも、二人のクローゼットの中で再現可能であるように思えたが、少し違った。

 秋川はしっかりとした生地を見て新島の服が安物ではないはずだと推測していたし、沖田に関してはそのティーシャツの袖にさりげなく入った高級ブランドのロゴをばっちりとその目に捉えていた。

 沖田も秋川も、無地の白ティーに大金をはたくようなタイプではない。二人はよく言えば徹底した倹約家であり、悪く言えばドケチであった。もちろん新島のティーシャツが貰い物である可能性もあるのだが、二人がコーディネートにおいて最も重要視している点(コスパ)が新島とずれていることは、現時点では否定できない。



 かくいう彼も沖田と秋川には似た部分があると感じており、秋川に別れた沖田の影を見ているということもまた事実であった。そんな二人が顔を合わせて酒を飲んでいる光景というのは何度見ても新鮮に奇妙であり、不思議となんだか嬉しい気持ちにさせられていた。

 「なんか似てるな、この二人。」松本が言う。

 「そうなんだよ、似てるよね。」こいつにもわかるのか、そう思いながら彼は返事をする。

 「だから秋川さんと友達になった?」

 「別にそういうわけじゃないよ。」松本の指摘に食い気味に反論しながらも、彼は痛いところを突かれて少し動揺した。今日の松本は少し鋭いな。

 「でもあれだな。秋川さんの方は顔がー…、あんまりかわいくないな。」枝豆を次々口に放り込みながらの松本の発言に、彼は曖昧に相槌をした。対して心の中の彼は「そうなんだよ!」と松本の肩を抱いて思い切り身体を揺さぶっている。

 そうなんだよ!だからちょうどいいんだ。沖田の好きだった部分を感じられるのに、顔はそんなにだから友達のままでもいられるのだ。脳内の、歯を剥き出しにした最低男がそんな相槌を終えたところで、彼は追加の枝豆を注文する。松本のやつ、全部平らげやがった。



 秋川も沖田同様、目の前で頬を赤らめながらにこにこする女の子に対して初対面とは思えぬ親しみを感じていた。しかし、一方で目の前の美少女と自分との間に明確な違いを感じてもいた。

 秋川も沖田も、場の空気を読み、全員にとって気持ちの良い空間を作ることに努力を惜しまない性格である。誰かがピリピリしていたり雰囲気が少しでも悪かったりすると、なにより自分が一番楽しめなくなってしまうのだ。自分のために、他人に気を遣っている。

 「私、リサちゃんとは特に気が合いそうな気がする。」沖田の顔がとろん、とする。恥ずかしさを隠すため、酔いに身を任せようとしているのだろう。「特に」という部分に他の四人への配慮が感じられる。

 沖田にそんなことを言ってもらえるのは純粋に嬉しかった。それでもやはり根本が、自分と沖田とでは違う。秋川はほんの少しだけ笑顔を引き攣らせた。たった今意図的にアルコールを回した沖田は、それに気付けない。

 秋川は自分の外見を極端に卑下しているわけではないが、自分が人目を引くような美人であると思ったこともなかった。お母さんには毎日「世界で一番かわいい」と撫でまわされているし、友達からも「笑った顔がかわいい」とか「肌がきれいで羨ましい」とかで褒められることはある。しかし、親や女の子からの褒め言葉など実際にはノーカウントだ。前者は親バカで、後者は社交辞令である。男の子からの賞賛こそが、秋川(を含む全ての女性)の求めるものであった。そして彼女の記憶が正しければ、彼女が男性から容姿に関して何か嬉しい言葉をかけられた経験はほとんどゼロに近かった。もし褒められたとしても服装や、変えたばかりの髪形に対して「いいね」と声をかけられる程度であり、それは我が校のモテ男があらゆる女性に対して無意識に実行しているエチケットであった。

 それに比べて沖田はかわいすぎる。沖田自身は否定するだろうし、実際本当に自信がないのかもしれないけれど、紛れもない事実であった。百人に聞いたら百人が「美人」と回答することだろう。凛とした美しさに加えて、愛嬌まである。手で口を覆いくすくすと笑ったり、一口が信じられないくらいに小さかったりする。これらの仕草は後天的には身に着けられない才能だ。

 そんな沖田では、完璧な第三者にはなれない。天性のメインキャストであるという言い方の方が正しいかもしれない。

 秋川も沖田も、一歩引いた位置に立つことが癖づいている人種だ。しかし、秋川がみんなの背に回ったところで誰も気に留めないのに対して、沖田は持ち前の華やかさのせいでみんなに見つかってしまう。そんなつもりはなくても、光が当たる方に連れていかれてしまう。

 私はよくも(ほとんどの場面で)悪くも素朴なんだよ。いつまで経っても美しい曲線を描いたままでいる沖田の前髪を見つめながら、秋川は思った。きっと私の前髪は今頃、ヘアオイルと額の汗とが混ざり合い、不細工でのっぺりとした状態に落ち着いているのだろう。

 自分が珍しく卑屈になっていることに秋川は気づく。悪酔いの感覚は今のところない。卑屈に器を与えたような言動を続ける新島の存在と、彼女を含む自分以外の三人が一様に美人であることが起因しているのだろう。

 持ち前の笑顔まで前髪のように崩れてしまうその前に、少し落ち着く必要がある。秋川はぷるぷると口の端を震わせながら、「お手洗い行ってくるね」と沖田に告げた。沖田が付いて来ないことはわかっていた。

 二人でトイレに行ってしまうと、少しの間テーブルに誰もいない状態を作ってしまうことになる。心配の必要はほとんどないとはいえ、なにかを盗まれてしまうようなリスクを自分からは決して起こさない。秋川が逆の立場ならそうするはずなので、沖田も同じ思考を働かせているだろうと確信していたのだ。

 二人の間で生まれた信頼関係は、より限定された範囲には狭まってしまったものの、その分より強固にもなり始めていた。


 鏡の前で確認してみると、前髪の状況は思っていたほど悲惨ではなかった。やはり他の三人に当たったスポットライトの眩しさに、頭がやられてしまっているようだ。

 ささっと手櫛を入れて、前髪をほぐす。四十五点くらいの出来までには持ち直した。もともと今日は前髪があまりうまく決まっていなかったのだし、これで十分だろう。高校なら赤点は回避だ。大学だったら単位はもらえないけど。

 どうして前髪というのは気合を入れた日にはくしゃくしゃになり、どうでもいい日に限ってうまく決まるのだろう。今日集まるメンツがかわいい子だらけだということはわかっていたのだし、最大限マシな自分で初対面を迎えたかったというのに。

 『miona』さんもそうだし、伊波明璃さんだってきっと美人なのだろうな。鏡に映った自分が、深いため息をつく。顔全体が重力に負けてしまっていた。秋川は両手で頬を持ち上げ、目を瞑りそのままぐりぐりと顔を揉みこんだ。目を開けた秋川の視界に飛び込んできた自分の顔は、ちょうどこの時期の夕景のように赤く染まりあがっている。強く力を入れすぎたようだ。焼きたてのパンそっくりな自分の顔を見て、秋川は思わず吹き出してしまった。

 よし、私は大丈夫だ。ビューティーどもなんかに負けてたまるか。リップを塗ったらすぐに戻ろう。あんまり長居をして、化粧直しも大して済んでいないとなると、変な勘違いをされてしまいそうで嫌だから。



 さて、この居酒屋でまだ華が一人で飲んでいた頃、付き合っている女性が目の前にいながら華の方に目を奪われてしまっていた男のことを覚えているだろうか。もし覚えていないとしても、記憶力の衰えを感じたりする必要はない。その男性はほんの一瞬、冒頭に登場しただけなのだから。

 「餅優」と書いて「もちすぐる」と読む名前のこの男性は、先月三十路を迎えたばかりのありふれたサラリーマンである。そして餅は、自身がありふれたサラリーマンであることを誇りに思っていた。

 「同級生が全員進学を選んだから」という惰性的な動機をもって受験に挑んだ十八歳の餅は、正月の集まりで親族に大学名を言っても誰一人としてピンとこないようなレベルの大学にしか合格できなかった。浪人するような勇気も気概もなく、入学してからもろくに勉強してこなかった彼は、就職口を一つも見つけることができないまま卒業を迎えることになる。

 一年間の就活浪人を経て、高校時代のつてを頼りにある会社の営業職を務めることが決定した時の安堵と喜びは、今でも鮮明に思い出すことができる。色素が日増しに薄まっていた暗い世界に、再び鮮やかな光が差すような、暖かい高揚。その感覚を呼び起こすたびに、「自分はなんて幸運なんだ。この仕事を、生活を、しっかりと守っていかなければならない」という使命感に餅は燃え上がるのだった。

 そんな目の覚めるような感覚を味わった経験が、他にも一度だけある。今お酒を酌み交わしている女性――橘美琴と初めて顔を合わせた瞬間だ。

 今の仕事先を紹介してくれた高校の同期が(彼には本当に足を向けて寝られない)五年前に開いたお見合いで出会った二人は、ほんの少し喋っただけですぐに意気投合した。どちらも中日ドラゴンズファンで、読売巨人軍を忌み嫌っていた。

 二次会へは行かずに二人で飲みなおし、そして朝まで真剣に抱き合った。

 気づけば長い付き合いになっていた二人は、そろそろ本格的に結婚を考えてもいい時期に入っていた。今年で二十八になる橘はもう何年も、餅からのプロポーズを待ち続けていた。「女は旬が短い」というのが、彼女の母親の口癖だった。「男の方は缶詰並みの賞味期限なのにねえ…。」そう言いながらいつも、柿の種をまとめて口に放り込んでいた。テーブルの端によけられたピーナッツを食べるのが、橘の役目だった。

 大人になった今では、橘は母の教えに一つ自らの気づきを補足することができる。「男はある程度、自分の旬の時期を調節することができる。」

 彼らが恋愛に本腰を入れ始めるのは二十代でも、別に四十でも五十になってからでも一向にかまわないのだ。化粧やレーザー光線だけでは解決できない、構造としての問題が女性には立ちはだかっている。

 胸の内に秘めた橘の焦りに最近になってようやく気づいた餅は、ひざまずいて渡すための結婚指輪を毎週都心に出向いて吟味していた。

 お互いに確信を持ちあった固い絆に、餅はいつの間にか慣れてしまっていたのかもしれない。

 同棲するマンションまでの帰り道にあるので、この居酒屋は二人のちょっとした行きつけになっていた。そんな店に一人で入ってきた華から、ほろ酔いの餅が目を離せなくなってしまったことは事実である。が、それはあくまで男の本能のようなものであって、ただの生物としての反射だった。整った顔立ちで胸も大きな、二十代になりたての女性が視界に飛び込んできたときに人間のオスが示す正しい反応。

 それに関しては橘もある程度理解していたので(彼女は若さを失いつつある分成熟していた)、眼光は無意識に鋭くなっていたものの黙認で済ましていた。問題は、この時の橘の状態があくまで「黙認」であることに餅が全く気付けていなかったということであり、餅にとって三度目の「目が覚めるような高揚」がこの後現れる女子大学生によってもたらされるということであった。お分かりの通り、餅は少し(ある点においてはかなり)抜けていた。

 思考の深いところまで下りてしまっている華に向かって、何度も声をかける沖田の困り顔を目にした瞬間に、餅のピントはその一点から外れなくなってしまった。彼の心臓のど真ん中には矢が突き刺さり、周りの音が聞こえなくなる程の鼓動を彼の耳に響かせていた。

 小顔がさらに際立つポニーテールと、シャープな線を描いた顎が美しい。少し曲がった背中も、あらゆる外敵に怯える小動物のようでかわいらしかった。餅は決して面食いというわけではなかったが、沖田は彼の理想以上に理想の容姿の持ち主であった。

 彼はもはや完全に上の空だったが、橘はそれでも笑顔を保ち続けた。今日という日に、「楽しくなかった」という判をなるべくは押したくない。今自分が怒ってしまうと、この後ずっと笑い声が一つも聞こえないという事態になってしまう(餅は橘に叱られると、どんな些細なことでも必要以上に落ち込んでしまうのだった)。今日は安いお酒を楽しく飲んで、明日の朝にでもさりげなく伝えてやればいいのだ。

 新島と秋川が合流し、四人は席を移動したものの、(橘にとっては)残念ながら餅の視線の延長線上に彼女らがいるという事態には変わりがなかった。

 単純に人数が増えて華やかさも増したお座敷からは、四種の香水が混ざり合った甘すぎる匂いが橘の鼻をツンと刺していた。もっとも、餅は甘美な香りとして脳を震わせ喜んでいたが。

 初めに来た胸の大きな女性と、さっき来たガリガリでひょろながの女性が席を立ち、店に残ったのが秋川と沖田だけになったとき、橘は折れた心をぐっと持ち直した。これで餅の浮ついた心も一段落つくかもしれない。

 意識をこちらに向けさせようと、頭の中の引き出しを片っ端から開けていく。引き出しには今まで使用する機会に恵まれなかったカードたちが大量に散らばっており、橘はその中からまだ埃をそこまで被っていないものを数枚選び取った。 

 しかし、職場の近くで見つけたおいしそうなパン屋さんや、もうすぐ四歳になるお隣さんの長男の話題などでは、餅の視線は勿論耳をこちらに傾けることすら叶わなかった。「ああ、」とか「うん」とか相槌は返ってくるものの、彼女の話に対する新鮮な驚きや彼発進の意見とかは一つもない。橘は流石にだんだんとむかついてきた。それで、こちらから話しかけることをやめた。

 餅に向ける視線をさらに鋭利にして頬杖をつき、溶けた氷で薄まったウーロンハイをちびちびと飲み続けた。自分ばかりあくせくしているのがバカらしかったし、作戦を変えることにしたのだ。餅には悟らせず何事もなかったかのように楽しく飲み続けるのではなく、自分が嫌がっていることを彼に気づいてもらうことにした。一言謝罪をもらって、それから飲み直せばいい。もし彼が反省しすぎてしまったとしても、それはそれでもう仕方がない。それほど彼女は腹を立て始めていた。餅の落ち込み方があまりに酷いようなら、このあと家で優しくしてあげればいいのだ。子供が出来れば話も早いし。

 そんな橘の方向転換は、最悪の結果を見せる。橘が一言も喋らなくなってしまったことで生まれた沈黙を埋めようと、餅がなにげなく口にした言葉によって、橘の血管という血管は悉く弾け飛ぶことになる。

 「橘さん、あの席の女の人見える?あの右側に座っている人、すごく綺麗じゃない?」

 橘はテーブルに両の掌を叩きつけ、その勢いのまま立ち上がった。グラスやお皿が倒れてテーブルの上はたちまちカオスと化してしまったし、素早く立ち上がった衝撃で血の塊がどろっとナプキンに降りていった感覚があったけれど、そんなことはもう気にならなかった。

 店員もお客さんも、餅が鼻の下を伸ばし続けていた美人さんも、全員がこちらを見ている。腰を可動域の限界まで捻らせ振り返り、白目を剝き出しにして目を見開いている。見世物ではない。だが見たいのなら見ればいい。私は今からこの男にブチギレますよ。

 感情の起伏を示すメーター針は「MAX」と書かれた点を勢いよく通過し、時計回りに加速し続けている。橘はハイになっていた。指先の震えが止まらない。さっきまで身体中を巡っていた怒りが、凄まじいスピードで頭に上っていくのがわかる。

 口をぽっかりと開けて橘を見上げる餅の様子を見て、彼女は歯をガチガチ言わせながら鼻で大きく息を吐いた。

 無言のまま軽快に出口へと歩を進める橘のことを、餅はしばらくの間ぼーっと眺めていた。しかし、彼女に集まっていた視線が自分のもとに非難の目として移っていることを肌で感じ取ると(彼らの目は橘を見ていた時に比べてかなり細まっていた)、固まっていた足をようやく動かした。

 レジを過ぎたあたりで彼女の手を取る。「橘さん、どうしたの?僕まずいこと言っちゃったかな。ごめんなさい、」そこまで言ったところで、橘が餅の手を乱暴に振りほどいた。「ちょ、ちょっと待って。話そうよ。ほんとに待って。」

 手首を掴まれたまま、橘は諭すように話し始めた。「うん。餅さん、もういいから。もうほんとにいいから、とりあえず、離してくれない?」橘の目は本気だった。大マジだ。瞳孔が完全に開いているし、顔はさっき頼んだスライストマトよりも赤く染まっている。橘の腕が急に熱を帯びたかのように、餅は素早く手を離した。

 ちょうどシフトを入れ替わったばかりの若い女性店員が、事態を飲み込めないままレジに駆け寄ってきた。橘は彼女に「会計はこの人が済ますので。」とだけ短く伝える。勤務開始早々なにか面倒が起こりそうで憂鬱な女性店員だったが、橘の様子を一瞥するだけでその杞憂は振り払うことができた。そこには女性同士にしか感じ取ることの出来ない、微かな電流のようなものが通っていた。店員は「かしこまりました。」と言って静かに頷き、それを受けた橘は会釈を返して悠然と退店した。

 店のドアが完全に締まるのを確認してから、店員は餅に尋ねた。「お会計になさいますか。」

 餅はまだ橘の背中を見送っていた。高校時代まで水泳に打ち込んでいたことで逞しく成長しすぎた肩幅が、彼女のコンプレックスであった。とはいえその身体は十分女性らしさを残していたし、鋭角な逆三角形の体型と、脇の付け根から膨らむ乳房の見事に調和した姿が餅は好きだった。

 「お客様。」店員がもう一度声をかける。

 「もう少し飲みます…。」餅は答えた。彼の目は米粒ほどの大きさになった橘の背を未だに追い続けている。それがいいと思います。と店員は思わず口にしそうになったが、思いとどまった。同棲しているにせよしていないにせよ、話し合うのは女性の頭が冷えてからの方がいい。酔いすぎには注意してくださいよ。それだけは伝えておいた方がいい気もしたが、やめておいた。



 橘と餅という、なんとも縁起の良い二人の一部始終の原因が自分にあることなど、沖田は知る由もない。「大変そうだね…」と、いかにも傍観者らしい感想をこぼすのみであった。

 沖田が台風の目であるのに対して、またしても秋川は第三者である。というよりも、今回はエンドロールにも名前がのらないレベルのモブキャラであった。そんな秋川は「本当に大変なのはきっとこの後だよ」と、一連の事件に関して傍観者歴の違いを見せつける発言を残した。

 橘はこの後餅と同棲するマンションの一室へと帰り、その郵便受けに彼の注文した結婚情報誌と高級ジュエリー店からのハガキが届いているのを発見する。数十分後に涙目で帰宅する餅は、それらの紙切れのおかげでなんとか難を乗り越えることになる。

 お分かりの通り餅は少し(ある点においてはかなり)抜けているのだが、それ以上に彼は(自覚している通り)いつも大事なところでツいているのだった。



 白井と伊波も、橘と餅のやりとりを店の外からガラス越しに目撃していた。野次馬根性で眺めていたというわけではない。単純に中に入れなかったのだ。そんな空気ではないことが、音の全く聞こえない外からでも十分に把握できた。

 「ここに来るまでにも変な人たちがいたし、この街は、変だな。」と伊波は思った。治安が悪いのともまた違う。ただ変だ。

 喫煙所で見たその二人組は、火事でも起こったのかと見間違えるほどの煙の中で爆笑していた。文字通り二人のうちどちらかが笑いすぎて爆発してしまったのではないかというほどの煙で、人間の影が二つあるということしか確認できず、どんな姿をしているのかまではわからなかった。喫煙所には屋根がなかったので、それはまるで大きな煙突のようにモクモクと上空に煙を吐き出していた。

 橘が颯爽と退店し、憔悴した餅が店員と何がしかのやりとりを終えるのを確認してから、伊波と白井はどことなく申し訳なさそうに入店した。

 店内には記録的ヒットを叩き出した映画の主題歌が鳴り響いていた。余命宣告をされた男が乗る車椅子を、恋人の女性が桜の木の下で押しているコマーシャルが脳内に映し出される。最終盤、まもなく永遠の眠りにつこうという主人公の男が、彼女がいないうちに彼の男友達とキスをしたシーンは白井も思わず息を呑んだ。

 伊波は、インディーズの頃から追っていたバンドが大ヒット映画の主題歌を歌うまでに成長したという事実に、心地よい寂しさを感じていた。映画は勿論観ていない。

 女の子四人と待ち合わせをしていることを伝えると、女店員が席へと案内してくれた。


 シフトを変わる時に、帰り支度をする後輩バイト君から「かわいい人だらけの卓」は興奮気味に紹介されていたので、伊波と白井がどのテーブルに行きたいのか女店員はすぐに判断できた。

 後輩バイト君は餅と同様、華が一人飲みを始めた頃から彼女たちのことを注視していた。注文を取ってグラスを置くたび、個人的に声をかけようかという考えをよぎらせていたし、そのような発言を周りの店員にもし続けていたが、結局それを行動に移すことはなかった。白井と伊波の姿を見られなかったことを、後日酷く悔しがっていた。

 今は二人しか座っていないけれど、キッチン側に座っている方の子は確かにかなりの美人さんだった(向かいに座るお客さんには失礼だけど)。そして今彼女らと合流しに来店してきたこの二人も、その子に負けず劣らず綺麗だった(断っておくが、お手洗い側に座っているお客様だって決して不細工というわけではない。肌がとても綺麗だ)。

 伊波と白井が並んで歩く姿を見ていると、女性店員は何か新しい性癖をくすぐられているような気分になった。

 黒に呪われたかのような服装の肩にバッグをかけ、ポケットに手を突っ込んだ白井が歩くと、何でもない居酒屋の通路がまるでランウェイかのように華やいだ。「安っぽい大衆居酒屋の通路など、金輪際歩くことはありませんよ。」少し顎を上げた彼女の顔は暗にそう伝えているように見えた。

 対して、スウェットの袖を手がすっぽりと隠れるまで余らせた伊波の歩みは、子供みたいに軽快だ。ほとんどスキップしているようにも見える。

 伊波が履く厚底のスニーカーよりもさらにヒールの高いブーツを身につけた白井が前を歩き、伊波が後ろから大きな歩幅で跳ねるように付いてくる。伊波が話しかけ、白井が振り返って答えるその様子を見る限り、二人はとても親しいようだった。身長差によって白井はさらに大人びて、伊波は幼く見えた。しかし話している様子をよく注視すると(この頃にはもう席に案内し終えている。女店員はその後も熱心に六人が集まるお座敷席を観察していた)、伊波の方が年上だということがわかる。時折白井が敬語を使っているし、経験による落ち着きが伊波からは感じられる。結局大人はまだ子供扱いしてほしいものだし、子供は「大人っぽいね」と褒められたいものなのだ。二人の格好から女店員はそんなことを思った。

 二人の奇妙なコントラストに、女店員はむず痒い興奮を覚えていた。二人とも漫画に出てくるキャラみたいだな。


 沖田たちのもとに近づくにつれて、先を歩く白井の歩みは遅くなっていった。それに気づいた伊波は片足で軽くジャンプして、一歩で白井の前まで出てきた。店員が案内を済ませ去っていくと、伊波は元気よく待っていた二人に挨拶をした。

 「初めまして〜!」

 伊波の営業スマイルは実際には営業スマイルではない。彼女は嘘がつけない性格なので、愛想笑いはできない。会えて嬉しいと本気で思っているからこそ、ここまで親しみやすさ満開の笑顔が生まれてくるのだ。

 白井も控えめに挨拶を済まし(彼女の場合笑顔は作り物であったが、こちらはこちらで完璧な仮面だった)、靴を脱いで白井と伊波はそれぞれ秋川と沖田の横に腰を下ろした。伊波はここがまるで久々の実家であるような勢いでどかっと座り、白井は中腰の姿勢からゆっくりと座布団のところまで降りていった。沖田と秋川の顔にも、目が細まり口角が少しだけ上がった『初対面用笑顔』が張り付いていた。この二人も、その道の権威と言ってもいいほどに愛想が良いのであった。



 新島と華は、居酒屋に戻る前に煙草を買っておくことにした。新島の煙草が切れたのだ。華は自分のをあげるからいいよと言ったのだが、「もうウィンストンは吸わない!そしてなーこからの施しは受けない!」とのことだった。華の呼び名は「なーこ」に決定していた。華菜子だから、なーこ。

 二人はさきほど煙草を買ったコンビニに再び入り、「別のレジをご利用ください」というプレートの置かれたレジ越しに、ずらりと並んだカラフルな箱とモノクロの番号を物色した。肉まんと惣菜を挟んだ隣のレジからは、男の店員が感情のない目でこちらをじっと見つめている。高校生だろうか。一切の甘えを許さない傷んだ黒い直毛が、下敷きで擦った後みたいに重力に逆らっている。

 「四十四番ください。」そう伝えると、店員は返事もせずにのそのそと新島の求める煙草の列へと歩いて行った。「こわ~い。」華がそう言ってへら~っとする。諫めるような新島と目が合うと、華は「四って数字は縁起が悪いんだぜ、知らねーのかまぬけっ。」と指を突き付けた。まぬけとまで言われる筋合いはなかったが、態度の悪い店員のことを言っているわけではないのだと安心する。連れが回りすぎていると、自分の酔いはどんどん冷めていくという典型的な現象が新島の身には起こっていた。彼女自身飲み会では介抱される側にいることがほとんどなので、新島は慣れない状況を楽しみつつも戸惑っていた。

 「こちらでよろしいですか?」店員の手に収まった四角い箱には、青い文字で「1」と書かれていた。箱の色も白い。欲しいのは薄い青だ。桜が咲いたかどうか確かめるときの蕾越しに映る、春の訪れというよりは冬の終わりを感じさせるような淡い空色。彼に出会う前までは相棒であった、メビウス・エクストラライト三ミリ。

 「あぁ、違いますすみません間違えました、えーーっと…、」顔を除いた身体中の体温がさーっと冷たくなっていく。汗が背中を伝うのがわかる。慌てすぎているし、口が回らないのに口数は増えている。唾を飲み込むと、喉から乾いた「ゴキュ」という音が大きく鳴った。私だって酔っぱらっているのだ。醜態をさらしたくない、恥ずかしい、という意識はまだ残っているのだから余計に面倒だ。新島は数秒目を瞑って落ち着きを取り戻す。

 四十四ではなく、四十五番だった。店員が今にも舌打ちしそうな様子で再度煙草の壁の一角を崩す。  「煙草ばっか買ってすみませんね~。」寄りかかっていた新島の肩から、華が身を乗り出して謝罪した。今度こそこの思春期店員に舌打ちされる。怯えた新島が片目だけ薄く開けて店員の顔を確認すると、彼は鼻を膨らませて歯を見せずに笑っていた。結局美人の笑顔かい。新島は図らずもいつもの調子を取り戻した。美人も笑顔も関係なしに、ただ女の子に話しかけられただけで嬉しいんだろうなこいつは。多分陰キャだもん。

 新島が会計を済ますと、店員が「あの、よかったら」と言って小さな紙の切れ端を煙草と一緒に渡してきた。おそらく彼の番号であろう数字が書かれてある。新島の手からそれを奪い取り、まるで難しい暗号を読み解くかのような顔つきで紙を近づけ眺めていた華だったが、「非喫煙者はお断りだよ!」と言って紙くず入れに突っ込んでしまった。

 新島に対する態度から、この店員が喫煙者でないことは明らかだった。喫煙者というのは、「我々はみんなで肩身を寄せ合い助け合わなければ生き残れない」という認識を共有し合っているものなのだ。喫煙者に冷たいやつが喫煙者のはずがない。

 とにかく、新島はその光景がとにかく痛快だった。ハハ、と声を出して笑い、自動ドアが閉まりきる前に華とハイタッチをしてしまうくらいだった。「ざまあないね、あいつ!」新島がそう言うと、「あんな奴に可能性があるわけないでしょ!」と言って華も悪い顔で笑った。今日日あんなナンパの方法を取る若者がまだ存在するとは。せめてインスタのアカウントとかにしたらどうだろうか。

 後日また別の飲み会で、行動を起こした勇気に関しては一考の価値があると再評価を受ける彼だったが、酔っていたとはいえ女子二人から腹を抱えて嘲笑われたことを咀嚼しきるのに数年を要したことは言うまでもない。



  「とりあえずビール」がまだ物珍しい沖田秋川の二人は、伊波がビールを注文すると「おぉ~」と小さく歓声を漏らした。白井がジントニックを頼み、伊波が「っぽいわあ」と笑う。沖田と秋川はまだ白井のことを一目見ただけだったが、伊波の言いたいことはなんとなく理解できた。

 会話はしばらく伊波を中心にして回った。話したいことがたくさんあるようだ。まずは秋川に、「同じ大学なんだよね!」と目を輝かせる。「うん!今いない二人も○○大だよ、彼がそうだからね。」秋川が笑顔で答える。伊波のテンションに引っ張られるように全員の声のトーンが一段上がる。照明も少し明るくなったような気がする。

 「そうだ、他の二人はどうしたの?トイレ?」

 「一回外に出たの。」沖田が答えると、伊波は眉を八の字に曲げて口をすぼめた。「なんで?」

 自分の口から「煙草」という言葉を発するのが躊躇われる沖田の様子を見計らい、「煙草、吸いに行ったみたい。」と秋川が補足した。

 「なるほどね!」

 「え、わたしも行きたかった。」白井が最初の挨拶ぶりに口を開く。

 「未央奈ちゃん、タバコ吸うんだ!」伊波の声はよく通る。甲高いとかばかでかいというわけではなく、ただ耳にすっと入ってくる。柑橘系の微炭酸飲料の喉ごしに似ていた。

 「うん、ちょっとね。」白井が答える。

 「え~、じゃああとでお姉さんと一緒に吸い行きましょうねえ。」両手の親指と人差し指を立てて、伊波が白井にウインクした。

 「明璃さん、もう酔ってます?」呆れた顔を見せる白井だったが、伊波が自分にだけギアを上げてちょけてきているのが嬉しくて耳が赤くなる。

 「二人とも吸うんだ!うちら少数派だ、なんか寂しいね。」秋川が笑いかけると、沖田は下唇を突き出して低い声で唸った。

 「ごめんね~。あたしも普段は吸わないんだけど、未央奈ちゃんが吸うなら吸わないわけにはいかないのよ~。」あたしのお気に入りだから。そう言われた白井の耳は、湯気が出ているのではないかと思うくらいに赤くなる。無言でティーシャツの袖を伸ばし、そっと耳を覆う。

 「なに、照れてるの?かわいい!ね、かわいいでしょこの子!」白井を指さし沖田と秋川の方を向く伊波にむかって、二人は素直に頷いた。「かわいい。」「ほんとにかわいい。」

 第一印象は「クールガール」な白井だったが、今日の最年少だというだけあって、幼さが垣間見える。望まずに出てきてしまうぼろがかわいらしい。そんな白井の魅力が、伊波の手によって見事に引き出されていることは一見して明らかだった。伊波の底抜けの明るさと、白井の美麗な容姿に隠れた未熟な内面が相乗効果で磨かれ合っている。

 「やめてください!みんなして。」白井が腕を床にまっすぐ伸ばして声を上げる。勿論本気で怒ってはいない。照れを紛らわすためだ。三人はそんな白井の様子を見ながら、何も言葉を返すことなくニヤついていた。

 「なっ…。」耳だけでなく、頬まで赤みを帯びてくる。もはや「クールガール」の面影はない。白井は瞼を下ろして、鼻からゆっくりと息を吐いた。整った形の鼻から流れる空気の音が少し震えているのを聞き取って、三人は微笑んで顔を見合わせる。実際の年齢差以上の愛おしさを感じ始めていた。「親戚のおばさんがいつまでたっても自分を子ども扱いする理由がわかったなあ」と、沖田は感慨に耽っていた。

 反撃の一手を思いついた白井が目を開いて見ると、三人の目は逆にほとんど閉じられていた。口角はうっすらと上がっている。沖田も秋川も、白井をからかい可愛がるという目的において伊波と息が合い始めていた。三人の表情は白井に、祖母が住む町の観光名所である大仏様を思い起こさせた。町のどこからでも目にすることができる、規格外に大きな大仏。

 「で!誰が彼の元カノなんですか?」

 場が一気に静まり返る。店内BGMの切れ目ともぶつかり、その静寂は翻って白井の耳にうるさく響いた。

 やば。

 まじでやばい。こんな空気になるとは思わんやん。ええ~。だって、今日そういう集まりなんじゃないの?脳内で何人もの白井が慌てふためいている。どの白井も、理想の白井像とはかけ離れた口数で何かをまくしたてていた。

 「あたしも知りたい!けど未央奈ちゃん、なんとなくわからん?絶対日和ちゃんは元カノでしょ!なんならあいつの初恋の相手なんじゃないのー?」

 伊波が沖田の脇を両手でくすぐる。沖田は「やめてよっ」と笑いながら、伊波の予想が正解であることを白状した。

 見事な助け舟の出し方に秋川は感動する。白井はテーブルをひっくり返して伊波に抱きついてしまいたかった。

 「やったー!当たった!冴えてるわぁ、あたし。」拳を突き上げてから、伊波はその手を口元にもっていって熟考する。

 「…待ってね。リサちゃんは難しいなぁ。でもね、もしあいつの元カレなんだとしたら日和ちゃんとタイプが被るから、リサちゃんはあいつの友達だね!あたしと一緒!」

 正解だ。「すごい!なんでわかるの?」

 あたしのおばあちゃん占い師なんだよね。とは伊波は言わなかった。

 「聞いてたんよ、あいつの恋愛遍歴。日和ちゃんもリサちゃんも、あり得るなら最初の相手かなーって。」

 沖田と秋川から、「あー…」という失笑が漏れる。どうしたのかと伊波が尋ねると、「彼、ほんとにだれかれ構わず自分の恋を語っちゃうんだなーと思って。私もそうだし、今いない二人もよく聞かされてたらしいよ。」と秋川が肩をすくめた。



 「あーー!もう!最悪じゃん恥ずかしすぎるだろ!」

 彼がせっかくセットした髪をぐしゃぐしゃにかき乱す。それをつまみに松本はシャンディガフを煽った。シャンディガフの方も、ああやって喉にぶつけるような勢いでがぶ飲みされるとは思っていなかったであろう。せっかく洒落た名前を付けてもらえたというのに。あれでは五杯目まで頼んでいたビールと何も変わらないじゃないか。もっとも、シャンディガフもビールベースではあるのだが。とことんビール腹への適性がある男だ。

 デブというわけではないが、松本は脱ぐとまあまあみっともない身体をしている。高校の頃はここまで酷くはなかった。バッグの中にいつも練乳を忍ばせ、首筋にたくさん苺のようなニキビを蓄えていたが。どちらがマシなのか、難しいところだ。

 「これで役者は全員出揃ったわけだな。」松本が満足げに腕を組む。下に入れた右腕から、親指だけ伸ばして鼻の脇をかいている。ほどけばいいのに。

 「伊波さんは今も仲がいい友達で、白井さんはバイトで知り合って一瞬いい感じだった子だよな、この子もメンヘラ気味。」

 「あぁ。」とだけ返事をする。松本のもとに七杯目のピーチウーロンが届く。ようやく麦の使われていない酒を注文したようだ。いつの間にか開けたグラスの数で倍以上の差をつけられてしまったのが少し悔しい。彼はさっきから渋い顔でちびちび飲んでいた梅酒のロックグラスをぐっと傾け、店員にレモンサワーを注文した。

 松本が「いいね~。」と拳を突き出してくる。鼻で笑いながら拳をコツンと合わせてやると、松本が尋ねた。「バイトってあれでしょ?チューターだよね?」「うん。」

 チューターとは、生徒の相談役のような立ち回りをする仕事のことだ。そこそこいい大学に入ったOBということで、母校の高校でやらせてもらっている。塾講師や家庭教師のように、勉強を教えるというわけではない。勿論質問されれば答えるが(受験から三年以上経った今ではろくな回答を与えられないけど)、それよりも自習室の監督や過去問の整理など、雑務をこなすことの方が多い。というか、めちゃめちゃ暇な仕事だ。座っているだけでお金が入ってくる。

 だからこそ、昨年度同じ曜日担当であった白井ともたわいのない会話が出来たし(勉強している高校生たちからすれば歯ぎしりするほど迷惑な話であっただろう。実際年度の終わりに苦情が届いた。)、それをきっかけにかなり親しくなることができた。白井と、その当時付き合っていた彼氏とを別れさせるほどに。



 華と新島が帰ってきた。餅と橘の決着を見届けた女店員が対応する。例のお座敷席にまた美人が増えるのかと、半ば呆れて笑ってしまう。ミスコンかなにかの集まりなのだろうか。時折聞こえてくる(決して盗み聞きしているわけではない。聞こえてきてしまうのだ)会話からは、そんな感じは見受けられないが。

 「あれ、全員集合したんだ!」白井だけが合流していると思っていた新島が、伊波の姿を見つけてそう言った。

 「はい!伊波明璃も、到着しました!」新島と華に向かって伊波が敬礼する。帰り道の夜風で多少酔いを落ち着かせていた華は、その圧倒的な陽のオーラにたじろいでしまう。伊波の手元にあるビールはまだほとんど減っていない。来たばかりだろうから、アルコールなしの朗らかさなのだろう。

 華が離脱するまで場に漂っていたしっとりとした(じめっとした)雰囲気も、いくらか明るくなった気がする。伊波がもたらした空気の変化は、華に地中海沿岸の夏を思い起こさせた。日差しが強く、カラッと乾燥している。じめじめした日本の夏が嫌いな汗っかきの華は、中学の地理でそれを習って以来ずっと羨ましく思っていた。沖田は新島たちの煙草臭に小さく顔をしかめている。

 メンツが揃ったということで、六人は再度自己紹介をしあった。同じ大学に通う伊波、華、新島、秋川は「わぁ~」と両の掌をひらひらさせて共鳴し合った。

 沖田、白井、華、新島がそれぞれヒロインになる彼との恋愛劇を、秋川と伊波は初めから終わりまで丸々彼からの独白という形で聞かされていた。

 また白井は沖田のことを、華は沖田と白井のことを、新島は沖田、白井、華のことを出会う前から(なんとなく)知っていた。白井が沖田のことしか認識していなかったのは彼の当時の元カノが沖田だけだからであり、華が新島のことを認識していないのも同じ理由からであった。

 彼がとにかくあらゆる元カノに対して未練たらたらである(少なくとも良い思い出として認識している)ということを、六人は改めて確認し合った。新島に関しては少し事情が違うように伊波、秋川は思ったが、あえて口に出すような真似はしなかった。

 「うちらの話はしないんだね~。」眉間にしわを寄せた伊波が、向かいの秋川に同意を求める。秋川は眉を下げて笑った。伊波が百パーセント本気で拗ねているとは思わなかったが、たしかに少し寂しかった。一番の禁句である「元カノ」の話ができるのなら、仲のいい女友達の話題だって少しくらい出してもよいではないか。

 「二人の話、聞いてたよ。」唯一華は彼から伊波たちの話を聞いていたようだった。「お前以外にも仲の良い女の子が俺にだっているんだぞ」という意味のないマウントのために話していたのだが、時を経て二人の女子の機嫌を取るのに役立つとは、彼も考えていなかった。

 すぐに聞き出したくなる気持ちを秋川はぐっと抑えた。思惑通り、伊波が身を乗り出してその質問を口に出す。「なんて言ってた?」伊波に任せておけば、自分がそこまで気になっていない風を装うことができる。

 「沖縄出身で高校は○○大附属のニューヨーク高校に通っていた、おもしろいやつだって言ってたよ。」華が答える。

 「おもしろいだって!あたしそれ言われるのが一番うれしいんだよね。」満足げに胸を張る伊波だったが、沖田や新島はそれどころではない。

 「ニューヨーク校出身なの!?かっこいい。」「沖縄生まれなんだ!たしかに言われてみればそんな感じする。沖縄出身の友達初めてできたかも!」そんな驚きと称賛たちに、伊波は微妙な反応を示した。

 駅から居酒屋に向かう道のりですでにそれらのことを知っていた白井は、無言でにやりと笑った。そうなのだ。彼女は異色の経歴の持ち主(アルバイトはテレビ局のADをしていて、ニューヨーク以外にも海外にたくさん友達がいるらしい。他にもきっとまだまだ色々隠しているはずだ)でありながら、全くそれを鼻にかけていないのだ。帰国子女や留学経験者に特有の、カタカナ英語をこれ見よがしに流暢に発音したり、やたら英単語を使いたがるといったかぶれ方をしていないところがいい。かっこいい。

 「私は?」我慢できずに秋川が尋ねてしまう。ニューヨーク兼沖縄トークが盛り上がる中、我慢できなかったのだろうなと沖田が一人微笑む。

 「バイトで知り合った子で、すげぇいいやつだって。話聞いてくれるんだよなぁ、みたいなこと言ってたよ。明璃さんもそうだけど、いつかうちに紹介したいって言ってた。うちが女友達いないって話してたから。」

 華が照れくさそうに言い終えると、秋川と伊波は口を揃えて「友達、なろうよ!」と身を乗り出した。それを聞いた華はまた泣きだしてしまいそうになったが、何とか堪えた。その拍子に出た「へへっ」という笑い声に、他の五人は総じて胸を締め付けられた。勿論モニター越しに、彼も。

 「結果的に二人と華ちゃんを引き合わせることには成功したみたいだね。」彼は知る由もないけど。沖田がそう言い、みんなは思い思いの笑顔で応えた。ぱっと明るく過熱していた場の空気は、いつしか春の陽気のように暖かいものに変わっていた。

 「何のバイトで知り合ったの?」白井が秋川に尋ねる。まさかチューターを相席屋のように利用しているのだろうか。

 そんな白井の疑念は「飲食!」という秋川の返答によってかき消された。昼は韓国料理屋、夜はバーになるお店だ。いちいち説明をするのが面倒なので、いつも飲食とだけ答えている。「どんなお店なの?」からの「へー、素敵だね。」という受け答えまでがテンプレートだったので、その質問が飛んでこないことを秋川はありがたく思った。

 「彼はもうやめちゃったけどね。彼の最後の出勤日にシフトがたまたま一緒になって、それまではほとんど喋ったこともなかったんだけど、話が面白くて仲良くなった。多分、もういなくなるから何でも話しちゃえってなってたんだと思う。めっちゃ好きな人がいて、彼氏持ちなんだけど諦められないって話を五時間くらいずっとしてたよ。」

 華の方を見てそう告げると、華は俯いて右眉の端を指で触りながら「はずい…。」とだけ口にした。伊波が大きな声で笑う。沖田は複雑な表情だ。新島は口を横に大きく開き、歯を剥き出しにして華を威嚇している。

 その様子を見た沖田と秋川は、二人が和解したのだと分かり安心する。それもかなり仲を深めて帰ってきているようだ。

 やはり煙草には何か不思議なものがあるな。端から見るとただ身体を痛めつけているだけなのだが、タバコミュニケーションというものは実際に私たちの目に見えないところで形成されているようだ。侮れん、そう秋川は思った。

 盛り上がる会話の中で、伊波はずっと華に目を奪われていた。みんなと話したい気持ちが勝っていたのでちらちらと見る程度で済んでおり、華が視線を感じることはなかった。

 餅と同じく、その美貌に見惚れてしまったという面もある。初めて彼女を目にした人間なら誰しもが陥る症状だ。しかし、それよりも伊波は華のその剥き出しの表情に衝撃を受けていた。年下とはいえ、たったの二個下である。ハタチを超えた人間がこんなに無防備な顔をしていていいはずがない。

 フラペチーノの泡のように白くふんわりとした肌は、冷たく乾燥した向かい風によって多くの傷をつけられ血を流している。伊波の地元の海のように澄んだ瞳は、風に乗ってきたくだらないものたちとの遭遇で、ふと目を離した隙にくすんでしまう。銀座の空気のようだ、と伊波は思った。灰色で、揺らいでいる。

 伊波は華の顔を直視できなくなっていた。それは彼女にとってとても珍しいことだった。どんな表情をしているのかは事細かに説明できるけれど、見ているうちに涙が出そうになってきてしまうのはなぜなのか、その説明はつかなかった。


 「みんなが彼のことどう思っていたのか、知りたいな。」

 酒も少し入り、興が乗ってきた白井が切り出す。彼女は彼のことを話す過程で、何か胸につかえるようなことを思い出す心配がなかった。かつては中をいっぱいにしていたのに、今ではなにもないただの空間になってしまっているスペースがあることを確認する心配がない。その点では秋川や伊波と共通している。白井はなにも失っていなかった。

 自分次第でなかなか楽しい会になるのではないかということに気が付き、彼女の姿勢は物理的にも心理的にも少し前のめりになっていた。

 「たしかにね。あいつ側からの話しか聞いてないから、うちら。」伊波が白井と秋川に語りかける。華の目はどこかに飛んで行ってしまっている。

 「えぇ…。」

 新島が露骨に嫌そうな表情を見せる。しかし実際はまんざらでもない様子だ。秋川は勿論、他のみんなにもそれが何となく伝わってくる。本当に嫌がっているのは沖田の方だ。暗い表情。もう既に思い出し始めているのだろう。彼女にしか掘り起こせないあの日々と、その感情を。



 「煙草行くか。」彼が松本を誘う。

 「え?今めっちゃいいところじゃん。気にならないのかよ。いや、お前が一番気になっているはずだね。」

 当たり前だろうが。だがそれと同じくらい、聞くのが怖い。

 彼女たちと縁が切れてしまったのは彼にとって当然非常につらい出来事であったが、そのおかげで彼はずっと「あの頃」の彼女らを胸に抱き続けることができた。時間が経つにつれて、彼の幻想が多分に介入するようにはなっていたが。

 彼が記憶していた(あるいは思い描いていた)姿と、現在隠しカメラから盗み見ている彼女らの姿に、面喰らってしまうほどの大差は今のところなかった。しかし一番の懸念は未解決である。それが今から明かされようとしている、彼に対する感情だ。

 これだけはほとんど彼の願望だけで形成されている。自分への気持ちなど彼女たちには微塵も残っていないと諦めたつもりでいるのだが、心の底では少しくらい後悔しているはずだという思いが渦巻いていた。

 当たり前のことだが、彼女らの気持ちが彼には全く想像できなかった。ゆえに事実でも想像でもなく願望に基づいて四人の感情を創り出していたし、だからこそ真実を知るのが怖かった。心の底の更に底では、真実は常にちらついていた。



 気が付くと誰も話さなくなってしまっていた。意識を井戸の底に沈めていた華は、そんな五人の様子に戸惑った。

 誰だ?私か?何かまずいことしちゃったか?私。一人一人の顔を見渡すが、そこに華への非難の色は見て取れなかった。皿に残った枝豆をつついていたり、自分の膝をじっと見つめていたり、小さな前歯を見せて苦笑していたりした。

 「やめとこうか、この話。」苦笑いの伊波が言う。

 何の話だ?なにがここまで場の空気を悪くしているんだ?なんにせよ、彼に関することであるのは間違いない。

 華たちはその話をするために(少なくともその共通項だけを持ち寄って)集まったわけなのだが、彼女らが作り上げた和やかなムードを話題に出るたび彼がぶち壊していることもまた事実であった。また同じことが起こっているのだろう。

 「ごめんなさい、変なこと言っちゃって。」

 白井が慌てた様子を見せるが、脳内のコックピットでは両手を広げて眉を顰めている。フットボールの監督が納得のいかない判定に異議を唱えるときのように。なんでだよ。またこの空気だよ。だから、こういう話をしに来たんじゃないの、今日?空気悪すぎるだろ。

 「いや変なことは言ってないよ、私たちの共通点それだけだもんね。」

 秋川がすかさず笑顔でフォローを入れる。白井は小さく頷き、上目遣いで皆の顔色を窺っている。内心では片手をしっしっと振りながら、もういいといった様子でピッチに背中を向けていた。

 「ごめん私、話す用意できてなくて。ここまで来たのにね。」そう言って沖田は眉を下げて笑った。寂しげな表情が沖田にはよく似合うな、と秋川と華は思った。

 沖田に彼との話をさせようとしたのだろうか。華は少ない情報からトークテーマを掴まなければならなかった。「ごめん、なんの話?」なんて聞けるようなキャラではない。

 他の五人はそんなことないのかもしれないな、と華は思った。毛色は違えど、みんなおとぼけキャラだ。秋川だけは、そもそも聞き逃すような真似をまずしないだろうけど。

 華もすぐにぼーっとしてしまう癖があったが、それをネタにできるような力量は持ち合わせていなかった。もっと酔っていればそんなことを気にすることもないのだが、伊波と(特に)白井というまだ打ち解けていない二人がテーブルに増えたことで、彼女は悪い意味で冷静に自分を客観視するようになってしまっていた。

 新島はせっかくの自分語りの機会を失いかけていることに焦った。なにか糸口はないかと見まわしてみると、同じようにキョロキョロしている華と目が合った。新島は元から大きな目の左側だけをさらに見開いて反応を窺うが、華は口を結んでなんだか申し訳なさそうな表情をしてくるだけだった。

 これはダメだ。流れがもう自分の手の内にないことを悟った新島は、興味本位で頼んだ抹茶サワーを煽った。まずい。舌触りもざらざらしていて最悪だ。

 「あっ、ねえ、抹茶サワー美味しい?」半分天然、半分意識的に伊波が話を逸らす。

 「まずい。」新島は顔をくしゃくしゃにして答えた。「苦い。」

 「まじかぁちょっと気になってたんだけどなー。一口飲んでもいい?」

 なんなら全部どうぞ、と新島は片手でグラスを差し出した。少し拗ねていた。

 伊波はグラスを受け取り、下に溜まった抹茶をマドラーでぐるぐるとかき混ぜた。あーあ、と新島は横目で眺める。そこがまずいのに。

 伊波が口をつける。黒目が点になり、次の瞬間目が限界まで閉じられた。目に虫が入り、なんとかして涙を振り絞ろうとしている様子に似ていた。みんなが笑う。

 気になった四人はやめておけばいいものを、それぞれ一口ずつ飲んでみることにした。「飲めたものではない」ということで全員の意見は一致したが、リアクションの良さはやはり伊波が群を抜いていた。



 「なあ。」キッチンにいた店員が、カウンターから身を乗り出して女店員に話しかける。ピークタイムを迎えてもお客の数がそこまで増えなかったので、店員たちはみんな暇をしていた。仕込みもあらかた済んでいる。勤務初日の新人君ですら、洗い物の済んだシンクに寄りかかって鼻をぽりぽりとかいている。店長だけがただ一人、床に張り付いてしまいそうなほど肩を落としていた。

 「誰が一番好き?もちろん、あのお座敷席だよ。」魅力的な話題をキッチンから投げかけてくるこの店員は、歳もバイト歴も女店員の三年先輩だ。

 女性店員は今年で二十一歳の大学三年生、先輩店員はフリーターである。彼と仲の良い後輩バイト君からの話によると、何か夢を追っているのだがその内容までは教えてくれないらしい。俳優かもしれないし、歌手かもしれないし、芸人や小説家かもしれない。ユーチューバーかも。

 「お前も来いよ」と新人君を迎え入れ、本格的な会議に入る。ちなみにこの新人君は数週間後催される季節外れのバーベキュー大会において、通りすがりの女性に見惚れて赤信号を無視し、大怪我を負うことになる。そんな男らしく女好きである彼も、この評議に参加する資格は十分に持ち合わせていた。救急者を見送った後にバーベキューはつつがなく行われた。肉は赤く、硬かった。

 「手前の列の、壁側に座ってる子っすね。」新人が言う。秋川のことだ。

 「まじ!?」先輩の大声で何人かの客の顔がこちらを向く。

 「まじ?は失礼でしょ。」失礼しました~と頭を下げながら女店員が小声でつぶやく。

 「いや、一番ないと思ったからさあ。」止まらない先輩のモラル破綻に、「ねえ。」と非難の目をぶつける。

 女店員の目は理由さえあればいくらでも冷たくなることができた。そしてそれがとりわけ男性に対して強い効力を発揮することも、彼女は理解していた。例によって先輩も、「わ、悪かったよ…。」と一歩後ずさりをしている。

 「肌が綺麗な子が好きなんす。」話たりないといった様子で新人が語りだす。

 「え、ここからじゃ肌が綺麗かどうかなんて見えなくない?」女店員が当然の疑問をぶつける。

 「僕、眼鏡かけると視力2.0あるんす。」「裸眼は?」「1.0です。」

 じゃあなんでかけてんの…。きもい。怖い。

 「じゃあなんでかけてんだよ!」女店員が口にしなかった質問を、先輩が笑いながら投げかけた。あくまで質問だけだ。「きもい」という感想は抜き。 

 「先輩方はだれなんですか?」質問への返答はなかった。フルシカト。怖い。

 「俺はねー、こっち側の、真ん中に座ってる子!さっき近くで見たらめっちゃかわいかった!えぐい。」白井だ。

 新人君の露わになった異常性を、先輩はあまり深く気に留めていないようだった。女店員は今すぐこの二人以外の誰かと連絡を取りたくなった。この二人と、キッチンの隅でため息ばかりついている店長以外の誰か。

 「あの子もめちゃ肌綺麗だったよ?」先輩が自分の推しをプレゼンする。

 「いや、化粧が上手なだけの可能性が高いです。」新人が手を前に出して先輩の言葉を遮る。

 「その点彼女はほぼすっぴんで、あのクオリティー。」

 いつの間にそこまで確認していたの?と女店員は寒気を覚える。ずっと洗い物していたじゃないあなた。食洗器があるのに全部丁寧に手洗いしていたじゃない。

 「お前、凄いな…。流石にきもいぞ。」先輩は顔の左半分を引き攣らせてそう言った。やっと言ってくれた。てか、化粧上手なのはいいことだろ。

 新人君は再び、眼鏡をずり上げた。



 さきほど白井が投げかけ、キャッチボールではなくただの壁当てになってしまっていた質問に、じゃんけんで負けた人から順番に答えていこうということになった。会話が途絶えることが多くなってきたからだ。

 六人で話す話題がないというわけではない。伊波や秋川がいる限りそういうことは起こりえない。伊波はこの会が決まってからずっと五人に聞いてみたかったことを尋ねていた。

 「恋と愛の違いって何だと思う?」飲みの場にふさわしい質問と言えるだろう。

 沖田は熟考の末「わからない」と答え、新島は「楽しいか、苦しいか」と即答した。白井は「ときめくのが恋で、相手のために自分を捧げられるのが愛」と語り、華は意地の悪そうな笑みを浮かべて「『こ』か『あ』か」と言い放った。秋川は目を細めかわいらしく笑い、「経験が浅すぎてわからないよ」と肩をすくめた。心の中の沖田は、「衝動的なものか、冷静に未来を見据えたものか」という答えを実際には導き出していた。

 秋川が「明璃ちゃんは?」と尋ねる。皆の注目が集まるのを待ってから、伊波は「どっちも一緒」と弾むように答えた。

 伊波が神輿を作り上げ、秋川がそれを担ぐ。そんな形で場はいくらでも繋ぐことができた。但し、彼女らは自分ばかりが話していた飲み会のことを『渋い会』だったと判定してしまう癖があり、実際それはいつも正しかった。今日の飲み会は彼女ら自身十分に楽しんでいたので、ジャッジの対象外だ。少なくとも今のところは。

 二人の神輿がうまく機能しなくなったわけは、白井の質問が水に溶けた絵の具のようにしつこく場に残ってしまい、皆がそれに気を取られてしまっていたからだった。結局みんな気になっていたのだ。六人それぞれの彼への感情。


 じゃんけんはあいこが続きなかなか決着がつかなかったが、いきなり沖田が負けた。

 彼女は一貫して喋る気がないようだった。拒否の言葉は言い淀んでいるが、そこは譲らない。実のところ彼女は六人の中でも一、二を争う意志の強さを誇っており、小さな体に一本通った太い芯に彼は惹かれ、うんざりしたものだった。

 微妙な空気が流れはしたものの、誰も無理に喋らせるようなことはしなかった。気持ちはよくわかる。よく考えたらこの反応が当然なのだ。今の状況が異常なだけで。むしろ頑なに話そうとしない沖田の様子から、彼女と彼との関係は十分に推し量れた。


 次に負けたのは新島だった。彼女はチョキを出して負けるや否や、腕をぶらんと下げて肩と首を回し、意気揚々と喋り出した。一度聞かされていた秋川以外の四人は、それなりに興味を持って新島の話に耳を傾けていたが、それも長くは続かなかった。

 恍惚とした表情から一転急にブチギレたりと、熟練の落語家も顔負けの語り口で進む新島の恋愛談は、注意して聞くとほとんど自慢話であった。情けなくフラれるというのがオチのため全く自慢話として成立していないのだが、全体のトーンとして新島はずっと自慢げだった。秋川は何とかあくびをかみ殺した。



 持て余した手すきの時間を潰す店員たちの「あのお座敷内かわいいランキング」のランク付けは未だ続いていた。

 「お前は?」先輩が女店員に尋ねる。お前と言われたことに胸のむかつきを覚えながらも、女店員は答えた。

 「あの子ですね。あのー、手前の列の、通路側の子。」華だ。

 先輩と新人が口を揃えて「あぁ~」と共感の声を漏らす。「その子いっちゃうよね~。」先輩のリアクションになぜか否定のニュアンスが紛れていることに女店員は不満げである。

 「一番かわいいですもんね。」新人の言葉に先輩が肩を組んで応える。一番かわいい子を決めるという話ではなかっただろうか。なんなんだこいつらは。

 「でもさ、お前たち。あの子もかわいいよな?一番奥に座ってるさ。」新人に全体重を預けて沖田を指さす先輩の言葉に、腰の悪い老人のような恰好になった新人は唾をのんで頷いた。

 「かわいいというよりも綺麗って感じですよね。あの人が二番目だと思います。」

 今までお前らが話していたことは何だったのか。どちらの推しメンも、トップツ―入りを果たしていないではないか。



 「さっき話しちゃったからなぁ。」と言う秋川は、新島の後ということもあり、あまり長々と自分の話をしなかった。

 居酒屋までの道のりを共にした時から、秋川は新島との間になにか不思議な縁を感じていた。今では彼女の頭の中は「新島のようにはなりたくない」ということでいっぱいになっていた。

 「居酒屋で知り合って、面白い人だから友達になった。今でもその印象は変わらないかな。いろんな話を聞いたからドン引きしてる部分ももちろんあるけど、素直に好感を持ってる。」微笑みながら、噛みしめるように語る秋川の様子に、五人は意外な印象を受けた。

 口を少しだけ開けてこちらを見つめる皆の姿に気づき(伊波だけはニヤついている)、「え、友達だよ?ほんとに。」と慌てて念を押す。旬を迎えた林檎のように艶のある頬が、アルコールと焦りでさらにその赤みを増す。

 「まじでまじで。」秋川の口から「まじで」という言葉が飛び出たことに五人はさらに驚き、声を出して笑ってしまう。大爆笑というよりは、幼稚園児の拙い作り話を聞いているような種類の微笑みだ。そんな表情で自分のターンを締めくくられたことが不満で、秋川は珍しく不貞腐れた。それによって雰囲気が悪くなることはないと踏んでの行動だったが、案の定それを見た五人は先ほどと同じような微笑みを浮かべるのだった。


 グーとパーを交互に出し続けていた伊波が、残る三人の中で一人負けをした。

 「あたしもリサちゃんと同じかなぁ。おもろいやつだなーって感じ。」

 「あいつの恋愛話にはいつも楽しませてもらっています。」首を突き出すような恰好でお辞儀をする伊波に、華たちは微妙な反応を返した。

 「そういうこと以外も話すしね。あいつとはぜんぜん気が合わないの。でもそこが話してておもしろくて…、楽しい。うん。」

 「すき」という言葉は飲み込み別の適切な言葉を代用した。もちろん完全に友達としての「すき」であったが、直前に見せてくれた秋川の失敗を生かし、避けることにした。



 確かに話は合わない。そう改めて思い彼は笑みをこぼした。

 「ほんとに真逆だわ。」というのが二人でいるときのお決まりの口癖になっていた。しかし、そんな伊波と話すことで得られる気づきは彼にとって、他では得難い貴重なものになっている。今の彼の思考にはない、核心のようなものに彼女は迫ってくる。そこに躊躇はない。

 留年を経験して自信を失い気づけば適応障害に、気づけば双極性障害になっていた(そしてもう一留した)彼のいちいち自分を卑下するような物言いに、伊波は本気で理解できないといった目をして「なんで?」と異議を唱えてくる。

 「なんでそんな風に思うの?」「そんなことないじゃん。いいじゃん、かっこいい。」などと言ってくるときの伊波の目は、いつも真っ直ぐにこちらの目を見据えている。彼の目の奥に映る何かを探し出してやろうと、真剣に不思議そうな表情をする。口をすぼめて、眉を顰める。

 マイナスとプラスの掛け算のようなそのやり取りが彼は心地いいし、伊波も多少のずれはあれど同じように考えていることを知り嬉しくなった。

 「都会は全然星が見えないなぁ。うちの地元は家の窓からでも天体観測できるのに。」空を見上げてそうぼやいた時、「そんなに星がきれいなところに住んでいるのにそんなに病んでるんだね。」と言われた。苦笑しており、小さいけれど目立つ前歯が見え隠れしていた。伊波は彼の祖母が昔飼っていたハムスターに似ている。家の中に侵入した蛇に丸呑みされてしまった、黒毛で鼻の周りと手足が白いハムスター。変形したケージだけがあとに残された、おばあちゃん家の一室。

 居酒屋で彼が頼んだからあげの量が予想以上に多くて「ごめん…、食えないかも…。」と言うと、「いいよ、あたし気にしないから。『残しちゃだめだよ』って言ってくる人さ、じゃああなたが食べればいいのにって思わない?」と返された。真顔だったが、優しさなのだろうか。

 「俺車酔い激しいんだよね。親とかだと言えるけどさ、友達だと運転してもらってる手前気持ち悪いとか言いにくくない?」間違いなく共感を得られるだろうと、手を頭の後ろに回しながら語ったのだが、「それ言えないのって…、友達なの?」とその時もまた気まずそうに歯を見せて笑われてしまった。

 伊波に似ているシンガーソングライターを見つけた話から流れで「俺有名人とかじゃなくて『友達のなんとか君に似てる~』ってよく言われるんだよね。」とうんざりな風で言うと、「たしかに、似てる人がいっぱいいそうな顔だね。」と言われた。会って二回目、初めて二人で軽く食事をとったときの話だ。それを聞いた彼はがくっときてしまい、「そうなんだよ、まじありふれた顔なんだよ。何のとっかかりもない。」と卑下を始めた。「なんでよ、全然いいじゃん素敵じゃん。」というそれ以来お決まりとなる伊波のフレーズから彼女に悪気は全くないことがわかったが、それでも未だにあの言葉は彼の心に突き刺さっている。


 「どんな話してんの?」と松本に聞かれて頭に浮かんだのは、こんな他愛もない話ばかりだった。しかし松本は満足したようで、なにか含みのある笑みを浮かべている。こいつがこういう顔をする時はろくなことが起こらない。「例えばどんなことが起こってきたの?」と聞かれればいくらでも目を覆いたくなるような出来事を列挙できるが、そんな質問が空から降ってくることはなかった。

 経歴からもわかるように、隠しきれない能力の高さが見え隠れするところも伊波が友達としておもしろいポイントだ。ファニーではなく、インタレスティングの方のおもしろさだ。英語が堪能な伊波に対してこんな安っぽい英語の表現は伝えられないけれど。

 休みの日に遊びに誘ってみると、「ごめん!今カンボジアの友達のとこにいるから遊べない~」という連絡が返ってきたりする。ただ遊びに行っているわけではなく、現地でボランティアをしていたりする。帰ってくると彼女は興奮気味に、その地で受けたカルチャーショックについて話をしてくれる。そしてそれを吸収して、自分自身をさらにユニークな形に変化させていく。着飾るのではなく、変形し続けているのだ。だから捉えられないし、だからこそ彼女の全体像を捉えてみたくなる。

 そんな話をコークハイ片手に松本に聞かせると、「ほえ~。」と上を向いて見下ろすような形で笑いかけてきた。松本のほうが背が高い。

 なんだこの反応は?俺が伊波のことを好きだと勘違いしているのだろうか。正確には勘違いというわけでもないが。

 彼はだれかれ構わずすぐに好きになってしまう。

 伊波は綺麗だし、一緒にいても気を遣いすぎることなく楽しめる。異性として意識してしまう理由は十分に揃っていた。しかし、伊波にも彼氏がいた。三十歳の社会人ではなかったけど。

 華や白井との経験から、彼氏持ちを好きになってしまう危険性は痛いほど理解していた。それに、沖田と新島を含む四つの恋の終わりを経て、もう恋愛自体うんざりだという気持ちになっていた。結果的にそれらの理由のおかげで、伊波のような魅力ある女性と良い関係を築けている。松本の薄ら笑いもあながち筋違いではなかった。

 秋川は、そういう理由がなかったとしても友達だ。恋愛対象にはなりえない。と思う。殊恋愛に関して自分のことを信用できていないので、断言はできない。

 性格はとてもいいのだが自分のタイプではないし、容姿も決して悪くはないのだが気が狂うほど美人というわけでもない。

 何度掴んだと思っても手のひらからすり抜けてしまうような、掴みどころのない女性が好きな彼にとって、秋川のようなタイプは恋愛対象になりにくかった。幸せになれないとはわかりつつも、そんな女の子がタイプなのだ。自ら不幸になりにいっているという節もある。

 秋川自身も自分のことを友達だと念入りに言っていた。気兼ねなく何でも話せる唯一の女子なので、相手も自分のことを良い友人として見てくれているようで彼は安心した。



 華と白井の一騎打ちは、共にパーを出し続けたことで新島が大きなあくびを終えるまで決着がつかなかった。十一手目にして華がようやくこぶしを握り締めた。

 やっと決着がついたか、と新島が白井の方を向くと、彼女の手入れが行き届いた指は二本しかたっていなかった。結局負けたのは白井だったが、何はともあれ決着はついた。新島は涙の浮かんだ目尻を強く擦った。

 白井の語り口は六人の中で最も冷めきっていた。温度が見当たらなかったと言った方が適切かもしれない。

 彼女の語った内容をあとから手で触れるとして、その丸い球体は鉄のような灰色をしていることだろう。不自然に引き延ばされた自分の姿が反射して映るほどの光沢を持ち、何か暗い閉ざされた空間にいるような感覚を人に与える。見るからに冷たいその鉄球はいくら撫でまわしても、擦っても叩いたとしても「そこにそれがある」という感触しか伝えてこない。

 彼女の語った内容は確かにそこにあるのだが、それは二度寝の後の陽光のように暖かくもなければ激情にまみれた熱も持ち合わせていない。恨みを感じさせるようなねっとりとしたぬるさもなければ、触れるものすべてを刺すような寒さも感じさせない。無関心を思わせる冷ややかさすら、そこにはなかった。

 当然と言えば当然のことだ。白井自身、彼について何を語るべきなのか、自分が何を話せるのかがわかっていなかったのだから。

 「うーんとですね…。」注目が集まるのを感じて白井は思わず「やれやれ」と口に出してしまいそうになったが、ジンソーダと一緒にごくんと飲み込んだ。

 「私も彼とはバイト先で知り合って、彼がたくさん話しかけてきてくれたおかげで仲良くなれたんです。」あくまで彼からのアプローチであることを暗に強調する。

 「なんのバイト?」という伊波からの質問に丁寧に答える。母校でのチューターだ。彼とは担当する曜日が一緒だった。自分は契約を更新せず一年で辞めてしまったので、彼がまだ勤めているのかはわからない。

 「それで、インスタを交換してDMでやり取りするようになって、話が結構弾んだんです。明璃さんとは逆で、私は彼と気がった。」

 白井のその発言に、伊波が「えー。あたし未央奈ちゃんとは心通ってるけどねー。その頃と性格が変わったのかな?」と異議を唱える。

 「ふふっ。ほんとにそうかもしれません。あの時変だったんです、私。」

 リアルでふふっという声を出して笑う人間を初めて見たので、新島は口に運んでいたグラスを置いてしばらく白井の顔をまじまじと眺めてしまった。

 綺麗な歯並びだ。噛み合わせもよいことだろう。誤って前歯で下唇を噛み、赤黒い血を流してしまうようなこともないのだろう。一度噛んでしまうと膨らんで、何度も同じ場所を噛んでしまうという苦労も知らないことだろう。

 「付き合っていた彼氏とうまくいってなかったんです。」華の喉にハイボールの炭酸がつっかえる。

 「それでいろんな人と連絡を取ったりして、気を紛らわせてた。」

 そんな情けない男のうちの一人に彼がなっていたことを、特に沖田は悲しく思った。沖田は巨峰サワーを飲み干し、それ以上白井の話が耳に入らないように努めた。右耳から入って左耳から抜けていく際に、どうしても脳を経由しなければならないのが煩わしかった。唇から滴る紫の雫が、純白のブラウスに濃い染みを作る。帰ってすぐに手洗いをしたが、落ちてはくれなかった。

 「ちょうど向こうも失恋をして落ち込んでいて、お互いに相談し合っていました。ダウナーなところで通じ合っているような感じです。」

 わかる、と華は思った。通じ合わないけど端から見てると面白いんだよね、と秋川と伊波は思った。そんな人だったっけ、と沖田は思った。新島は氷をボリボリと嚙み砕いていた。

 「それで結局、彼ともっと親しくなってみようと思って、当時の彼氏と別れたんです。いつも夜遅くに連絡を取り合っていたので、深夜テンションの勢いもありました。」

 「え、じゃあ付き合ったの?」新島の顔が皺だらけになる。

 「いや、付き合いませんでした。彼氏と別れられたことで想像以上にすっきりしちゃって、また恋愛をするような気になれなかったんです。遊びならよかったんですけど、向こうは真剣だったので。会う約束も曖昧に断ったし、同じ時期にバイトも別々の曜日担当になりました。この前好きな作家の新作についてDMで少し話をしたけど、それだけです。あれ以来交流はなし。DMが来たときも初めは誰だかわかりませんでした。」

 言い終えると、白井は無表情で喉を潤した。

 寂しさを紛らわすために利用されただけじゃないか。全員が当時の彼のように小さく息を吐いた。しかし一度は彼のことをいいなと思う瞬間があったのだろうと、華は推測する。自分がそうだったから。

 きょとんとした表情で「終わりです。」と白井が言うと、注目は華に移った。華は姿勢がいい。母親と芸能事務所に矯正され続けた結果だ。


 「うちか。」追加のハイボールを頼む。この時のためにまた酔いを回してきたのだ。

 震える足に気づかれないよう、ぐっと力を入れる。吐く息すら震えている。薬を飲んでおけばよかった。どうしてこんなに緊張しなければならないのだ。

 しかし、ひとたびスイッチを切り替えてしまえば彼女は何度でも別人になれる。

 華が話した内容はほとんどが嘘だった。正確には半分真実半分虚偽といったところだが、それだけ作り話を混ぜてしまえば物語を完全なフィクションに変えてしまうことは容易だった。

 他の五人もバカではない。新島は彼の話になると感情が先立ち冷静さを失ってしまいがちだったが、華の人となりを多少なりとも知っているという点でアドバンテージがあった。彼女らは、華の話に嘘が多分に含まれていると勘づいていた。

 現在の彼と記憶の中の彼とが乖離している沖田でなくても、華の話に登場する彼には違和感があった。そもそも彼が話していたこととのズレがある。

 それを感じると今度は、一人一人と目を合わせ、その瞬間を口に含んで思い出すような表情をする華の方に違和感を覚えることになるのだが、彼女は嘘が格段に上手いのだろうということで五人は片づけた。俳優の卵であることは誰にも話していない。

 女には通用しないのだ。華の容姿に惑わされ、はなから「騙されてみたい」という感情を無意識に抱く男どもとは違う。華は女友達が少ない。



 四角い画面に映し出された小さな華が、壮大で多角形な三か月間を語り始めた。

 嘘に紛れた真実の断片を拾い集めて、彼も記憶を呼び起こす。

 「彼とは大学で英語のクラスが一緒だったの。今年の話。座った席も前後で近かったから軽く話して、帰り道も途中まで一緒だったから二人で帰った。それでだんだん仲良くなって、授業終わりに飲みに行ったりするようになった。」


 彼が「好きな食べ物は餃子です」と英語で自己紹介してからしばらくした後、後ろに座っていた女子に背中をつつかれた。

 「餃子好きなんでしょ?ほら、見て。」彼女のペンケースにはたくさんの餃子が描かれていた。

 「おぉ、いいね。」互いににやりと顔を見合わせる。餃子が好きだという共通点は、彼と華に予想以上の連帯感を与えた。中にたっぷりと入った大蒜のおかげだろうか。罪悪感の共有。

 「待ってね…。じゃん。」彼はラインのトーク画面を華に見せた。松本との他愛ないやりとりの背景には、湯気を立てた大きな餃子が聳えている。再び顔を見合わせる。互いのことを全く知らなかったが、奇妙なところで通じ合っているという謎の確信が二人に生まれた。友達になるにはそれだけで十分だった。

華の大きなリュックサックに詰められた手帳の一ページ目には、今年の目標がいくつか書かれている。  『③大学で友達を作る』達成。

 話す時間が長くなればなるほど、二人は親しくなっていった。女性であれば処女膜が復活しているレベルの半童貞になっていた彼は華と話すとき、不思議と緊張をしなかった。「本当に綺麗な顔をしているなぁ。」という感心の方に気持ちが向いていたのだ。

 電車の照明に照らされた華の瞳を、美術品を眺めるように食い入って見つめた。喫煙や飲酒など意に介さず自然な色を保つ歯や肌に、気を取られて話を聞いていないことすらあった。

華は逆に、ここまで無垢な目つきで真剣に見つめられることが初めてだったので、意識しないよう努めていても不意に緊張してしまっていた。

 華も彼も精神を患っており、その部分で二人は大いに心を通わせた。「うち去年休学してたんだよね。」と初めて聞いた時、彼は驚かなかった。互いに一目見た時点で、互いの目の奥にざらざらと光を失った何かが隠れていることがわかっていた。二人は相手の抱える絶望に、希望を見出していた。この人ならわかってもらえるかもしれない。

 彼の目から見ても華は一線を画した病状であり、うつ病とはここまで酷いものなのかと、勉強の連続であった。その勉強のおかげで、よくも悪くも晴れて彼も双極性障害という病名を預かり病院通いになるわけだが。

 飲みとカラオケが二人の定番だった。飲んでは恋愛の愚痴を言い合い、煙草を吸っては世界への愚痴を吐き捨てた。彼女の煙草休憩に付いて行くうちに、彼もいつの間にかポケットに自前の箱を忍ばせるようになっていた。

 華は歌がずば抜けて上手かった。今の事務所に入るまではミュージカル女優として活動していたらしい。決まった形のあるミュージカルのやり方が肌に合わず、舞台や映像の仕事ができる今の事務所のオーディションを受けたようだった。結局その事務所での仕事も、間もなく休業することになるのだが。パニック障害が多発するようになったのだ。

 華は他大のアカペラサークルにも所属しており、彼のことも勧誘してきた。その頃には華の虜になっていたので(三十路IT彼氏がいることも既に判明していた)、彼は話の種欲しさに勿論門戸を叩いた。

楽譜すら読むことの出来ない彼は、すぐに挫折した。「一オクターブ下だね。」と優しくアドバイスされても、見当がつかない。歌唱スキル自体にも限界を感じまくっていたため、華と気まずくなったタイミングで全てのライングループから姿を消した。

 そのサークルにはエンジョイ勢がまるでいなかった。飲み会にだけ顔を出すような人間の存在を許さない雰囲気がある。みんな名のある大会を目指していた。励まし合い、高め合っていた。

 彼にはコーラスでハモれるような能力もなければ、ベースを務められるほどの重低音も持ち合わせていない。パーカスなど論外だ。ならば真ん中に立ってリードとして歌い上げるほかないのだが、どのバンドを見回してもリードは、海外のオーディション番組でスタンディングオベーションが起きるレベルのパフォーマンスをぶちかましている。そしてそんな面々の一人である華と絶妙な距離感になってしまったのだ。居場所があるはずもない。


 気まずくなった理由を華は深く話さなかった。

 「仲良くなりすぎちゃったの。うちは友達としてずっと仲良くしていたかったんだけど、向こうはそう思ってくれなかったみたい。信頼できる仲になれていたから、こんな風になっちゃって残念。」

 「こんな風って?」

 「連絡も取り合わないような仲になっちゃったこと。」


 二人は似た者同士だからと近づき、同じじゃないからと別れた。

 ある日のこと。二人は授業終わりに飲みに行く約束をしていたのだが、華から「今日やっぱきついわ。」と連絡をもらった。体調が悪いとのことだ。

 その日の授業中、華はよく水を飲んだ。息も荒いように感じる。がさがさと小さな音を立て落ち着きがない。彼は好きな相手の異変を、前の席から背中越しに察知していた。席を立ちお手洗いに行ったので、これは相当参っているんだなと感じた彼は「きついね」と一言ラインを入れた。

 「なんでわかるの、トイレ行っただけじゃん(笑)」と返信が来たので、「なんとなく」と返す。

 「当たり。まじでしんどい。今日絶対飲み行こう。」という通知を受け取った彼は、立ち上がって拳を突き上げたい気分を堪えて「付き合うよ」とクールに返信した。

 キャンパス周辺ではなく、地元の方まで戻ってから飲むことにした。帰りが面倒なのだ。都会だと無条件にエネルギーが吸収されてしまう。下心は、ほんの少ししかなかった。

 乗り換えた先の中央線で座ることができた華は、すぐにうとうとし始めた。今思えばその時から、事態はいつもと違う様相を見せていた。

 華が自分の肩に頭を預けてきたとき、彼はそれでも平静を保とうと手にしていた本を眺め続けたが、一ページも進むことはなかった。一行一行が全く別の話を語っているように感じる。文字の羅列がうねうねと動き始めたところで、彼はそっと文庫本を閉じた。それからはビクビク痙攣するこめかみの血管と、うまく呑み込めない生唾と格闘していた。

 華が一人で暮らす街と、彼の実家があるど田舎とのちょうど間に位置する駅で二人は下車した。今日飲んでいるこの駅だ。

 華はカラオケ飲みを希望した。歌うことも飲むことも、彼女のストレス発散法の序列上位組であった。彼はもちろん快く承諾した。カラオケは彼も好きだった。

 華は彼の歌うディズニーソングを好んだ。プリンセスと仲良しのご機嫌な雪だるまが、憧れの夏を歌う曲が華のお気に入りだった。「これが一番合ってるよ!」と言われるたびに彼は複雑な心境を舌で味わっていた。

 彼女が9%ハイボールのロング缶を二本手に取ったので、負けるわけにはいかないと彼も全く同じものをカゴに入れた。休憩がてらちょっとした空き地で何度も吸った煙草もあいまり、二人ともかなり上機嫌だった。


 煙草を吸いに外に出るたび、華の行動はエスカレートしていった。

 「エロい火のつけ方知ってる?」華の煙草に火を点けてやると、彼女は彼の手からライターを奪って顔を突き出した。二人の煙草の先が触れ合う。彼が息をそっと吸い込むと、ウィンストンの甘い香りが目の奥にじんわりとしみ込んできた。彼女が煙草を咥えている必要は必ずしもなかったのだが、そんなこと当時は考える余裕もなかった。ただこの煙草を、長く口の中で燻らせていようと必死だった。

 華が「んあぁ~。」としきりに言うようになっていた。「どうしたの」と笑うと、「酔った。」と毎回返ってきていたのだが、「ずっと我慢してんだよー」と突然キレられた。「うち酔うとキス魔になるんだよね。」

 なるほど。「酔うとほんとにだめなんだよ~」と何度も言っていたのはこのせいか。べろべろで話もままならず、さっきから十分ほんとにだめだったのだが。

 「いいよ、して。」なんでもなさそうに言ってみる。心臓は急速に血液を回しだしていた。その前にまずリップクリームを塗って、スナック菓子の詰まった歯も特に奥歯を重点的に磨きたかったのだけれど、それ以外にこちらから断る理由は一つもなかった。

 「いいの?ほんとにするよ?」

 うん。ほんとにしてほしい。

 華のことが好きだというのは、こんなことが起こってしまう数日前には伝えていた。いつどんなタイミングで話したのかは思い出せないけれど。彼女といるときは酒や煙草がなくても、常にロマンスに酔っぱらっていたような気がする。初めて経験する憧れの、不幸を呼ぶ女。華とキスをした。

 駅から少し外れた、川沿いの小さな草むら。目の前にある小さなバーでは、白髪をべったりと後ろに流した店主が閉店準備を終えようとしている。その先に見える橋のさらに奥からは、銀の箱に走る橙のラインが見える。最後の中央線だ。視線を戻す。華はまだ瞳を閉じていた。ほんの一瞬だけ、乾いた二人の唇は重なり合っていた。

 なんてことはないな、と彼は思った。それでも二人はしばらく何も喋れなかった。

 「戻ろうか。」彼が口を開く。「うん。」華の声は艶やかだった。彼女はキスのその先を望んでいた。彼はそれがただの性欲だったのか、未だにわからない。言わずもがな希望的観測がもたらす『わからない』であった。今も二日酔いの真っただ中なのだ。

 それでも彼が舌すらいれなかったのは、「なんてことはないな」と思いつつも勇気が出なかったからであり、既に満足していたからであった。

 今までただの友達として辛酸を舐め続けていたというのに(サークルやクラスの集まりの中では、華は彼だけのものではなかった。彼女が本当に困ったときにまず頼るのは、勿論半同棲している彼氏の方だった)、今日はキスができたのだ。それを「なんともない」と思えた時点で、大きな進歩であった。

 彼はその後、始発がやってくるまでひたすらに歌い続けた。華はもうほとんど歌わなかった。たまにバラードをふやけた声で歌うだけだった。

 二人が終電を逃したことはこれまでにも何度かあったけれど、ただ夜が明けるまで遊ぶというだけだった。日の出と共に彼女はいつもいなくなってしまう。

 今日もそうなるのだろう。寂しいな、と思っていた彼だったが、華の腰がやけに重たいことに気がつく。いつまで経っても動き出さない。彼は怖くなってきた。今日の彼はそんな覚悟を持ち合わせて来ていない。

 朝を迎え、もう店を出なければならない時刻になっても、華はむにゃむにゃ言うだけでこちらに判断を任せてきた。「うーん?」としかレスポンスが返ってこない。それでも上機嫌だった。

 彼は生唾と一緒に勃起薬を飲み込んだ。ハイボールで流し込む。沖田と別れて以来、彼は自然に勃つことが少なくなっていた。据え膳食わぬは男の恥。どこで覚えたかもわからないそんな言葉を、彼は反芻させていた。

 二人は二度目のキスをした。二つの舌は樹齢何千年の大木に纏わりつく蔦たちのように、深く絡み合った。


 事が済んでから二人は長いこと抱きしめ合っていた。華は彼の胸の中で心地よさそうに眠った。彼は目を開けてそんな彼女の姿と、カーテンの隙間から見える外の景色とを交互に眺め続けていた。

 初めに向かったホテルは営業していなかった。軽いパニックを起こしていたので理由はよく覚えていないが、改装中だかなんだかだったと思う。

 「これ以上俺を困らせないでくれよぉ。」彼は口に出してそう言った気がする。「うーん?」と華は喉から音を出していた。シャワーを浴びるまではその音と「わかんない」という台詞しか吐いていなかった気がする。

 この街に星の数ほど隠れている、あるいは堂々と鎮座している、我々のような人間のためのホテルの中で、頭の回らない彼が思いだせる場所はここだけだった。ここしか知らなかっただけかもしれない。

 歩き回った末、彼はラーメン屋の奥に小さなビジネスホテルを見つけた。エレベーターに乗り込みフロントに出てみると、中は思いのほか綺麗に整っていた。聞き覚えがあるのに曲名は思い出せないクラシック音楽が、静かに鳴り響いていた。

 ホテリエの姿がちょうどなかったので「金ないよ…。」と華を横目で捉えながら呟いてみたが、「うーん?わかんない…」のコンボで茶を濁されてしまった。血肉を削って支払いを終えたばかりのクレジットカードを、三年前の誕生日に沖田から貰った長財布から抜き取る。先払いだった。

 露わになった彼女の肢体はところどころにほくろがあり、生まれたばかりのように白く柔らかかった。胸は彼が中学時代下半身を熱くさせていた漫画のキャラのように丸く整っており、沖田のそれしか知らなかった彼はその胸を大いに持て余した。恥部はキスだけで滴るほどに濡れていた。

 三度目のキスを終えた頃から、彼女はぽつりぽつりと饒舌になっていった。薬をもってしても不安の残る彼の性器は、彼女が口に頬張り転がし始めるとすぐに太く、硬くなった。彼女の方が格段に慣れていた。彼の乳首や局部の周りを、まるで何か貴重な調味料が塗ってあるかのように丁寧に舐めとり、陰嚢を小籠包でも頬張るみたいに口に含んだ。へその辺りにある少し膨らんだ彼のほくろを指でつつき、ねっとりとした声で「おへそにほくろある。知ってた?」と尋ねてきた。自分の身体だ。知らないはずもない。そこからは定期的に短い毛が生えてくるよ、華。

 財布からコンドームを出そうとすると、華に手首を掴まれた。「ピル、飲んでるよ。」

 何度目かもわからないキスをして、彼は華の中へと入っていった。彼女の性器が彼のものを暖かく包み込む。彼は亀頭にいつもはない快感を覚えた。彼の知らないおうとつが彼を苦しめる。華の中の構造が、レントゲンを撮ったかのように想像できた。これが生か。地元のヤンキーが中学時代に大声で口にしていたであろう感想を頭に浮かべて高揚しつつも、彼は危機感を覚えていた。彼は早くも爆発寸前にまで膨張していた。

 額に汗を垂らした華が吐息交じりに「いいよ」と語りかける。同時に華の膣が高校時代の部室よりも狭くなった。彼はそこで敗北を認め、力なく華の柔らかな身体に倒れこんだ。首筋からはいつも彼女が巧妙に隠していた本来の体臭が香った。

 二人はその後も二度交わった。場所を変え体位を変え、ベッドの横の籠にひっそりと置かれた機械も試した。現金のみしか受け付けない自動販売機から、眉唾物の媚薬も購入した。効果はただ顔が熱くなるだけだった。

 部屋に入ったところですぐに気がついたが、そこはビジネスホテルではなく完全にラブホテルだった。ガラス張りのバスルームでは、虹色の光に下から照らされた華の姿をよく観察することができた。

 身体の相性は良いように思えた。彼女も満足げに、悩ましげに、そして苦しそうに何度も声を漏らしていた。ピクッピクっという痙攣がわざとらしくて引っかかったが、彼女の癖なのだろうと理解した。なにせ経験が乏しい。こういう女性もいるのだろうと思うしかなかった。

 華の恥部からは白い液体がすぐに零れてきた。二人でシャワーを浴び、泡の出るジャグジーで最後に短く交わった。陰毛は綺麗な三角形に整えられており、それ以外の場所に毛はどこにも存在しなかった。

 シャワーを浴び終えても、時間はたっぷりと残っていた。このホテルの「ステイ」はやけに時間が長い。その分値は張った。

 バスローブに着替えてダブルベッドに入ると、二人は自然に腕を背中に回し抱き合った。互いに人の温もりに飢えていた。四度交わった後だとしても、その乾きが癒えることはない。華は丸まって彼の胸におでこをつけ、「ありがとう」と一言言うとすぐに眠ってしまった。

 彼女のピンクに染まった乳首が、バスローブの隙間から見えた。局部が再び熱を持つのを感じて、彼は一人ため息をつく。薬の効力は二十四時間続く。彼は華のしっとりとした髪を撫でた。

 華の寝顔は、いつもよりもさらに幼さを増していた。外はもうとっくに白むことをやめて、彼ら以外の人々はみな煌々と活動を始めていた。窓の外の柵に烏がとまる。嘴に背の低いビル群が反射している。

 華はアラームをかけていない。信頼されているようでそれすら嬉しかった。俺はどうせ眠れない。いつからか眠りたいときに眠れないようになっていた。それに、今でも新鮮に心臓が大きな音を立てている。

 彼は華の青黒いショートカットをひたすらなぞり続けた。家の飼い犬を撫でるのと同じように毛並みに沿って、一定のリズムで。

 華の右目から涙が流れる。彼はそれを優しく親指で拭き取り、烏が飛び去るのを眺めた。それからアラームをかけて、うとうとし始めた。

 機械的な音が小さく部屋に響き渡り、二人はゆっくりと目を覚ます。華の態度はどこかよそよそしくなっていた。「服着なきゃ。」そう言って椅子に雑にかかった下着を身に着けていく。彼もそれに倣った。高価そうだが、使い古された匂いのする椅子だった。

 「あと何分くらい?」

 「二十分。」彼が答える。二人は軽く歯を磨いた。口の中からは感じたことのない最低の匂いがした。知らないうちに自分の口が誰かの便器として使われてしまったみたいだった。

 カードキーを返し駅へと向かう。彼の目元には特大の隈が生まれ、華の髪は大自然に囲まれた田舎の元気っ子みたいにところどころではねていた。二人の表情には共通して絶望の色が浮かんでいる。二日酔いだ。

 たどり着いた時には気が付かなかったが、二人はこのホテルまでかなり歩いてきたようだった。駅が遠い。

 コンビニに寄り、二日酔い防止の茶色い飲料を購入する。

 「こんな状態になってからでも効果あるの?」彼の疑問に「気休めよ。」と華は答えた。見ているうちに、それが魔法の小瓶であるように彼には思えてきた。魔法学校の怪しげな先生が手に取る、副作用などお構いなしの万能薬。

 ずっと触れ合っていた手を、信号待ちの際に彼が握った。そして華の手を顔の前に持っていき、「かわいい手だなぁ。赤ちゃんみたいだったよ。身体も。」と口にする。華がそれに抗議の声を上げたので、彼は慌てて訂正した。「褒めてんのよ!赤ちゃんみたいに綺麗な肌だったってこと。まっしろだし。エロかったよ、めっちゃ。」

 華は変わらず口を曲げていたが、鼻はむずむずと動いていた。

 彼も疲れていたが華に元気がなかったので、最寄りの駅まで送ることにした。華は遠慮したが彼は譲らなかった。「時間はいくらでもかける」というのが好きな人への彼の姿勢であった。お金はないけど、時間はかけられる。

 別れ際、彼女は「ごめんね。」と謝ってきた。彼にはその意味が分からなかった。一人で電車に乗っているときに届いた「お前のおかげでまた生き延びられたわ。ありがとう。」というメッセージの意味はよく理解できたし、何度噛んでも味がする文章であった。


 そこまで回想してから彼はレモンサワーを一口飲んだ。どんなに酔いを回したとしても、あの日のことはある程度正確に思い出すことができる。何度思い返したことか。枕に顔をうずめながら。

 「華さんの話、お前から聞いてた話とだいぶ違うな。」松本はポテチの皿を空にした。元から放課後の教室くらいスカスカだった。これで四九〇円だ。

 「起こったことだけで言えば、俺の話がほとんど真実だよ。向こうの気持ちについての話はわからないけどね。」彼はそう言うと、ポテチで汚れた手をおしぼりで拭った。

 「全部が本心のようには、俺にも思えなかったな。」松本のその発言が本心なのかどうかも、彼にはわからなかった。松本はもともと優しいやつだ。彼への慰めとして言った可能性が高い。しかし、気づけていないときにはとことん気が使えない奴であるのも確かだし、今は酒に酔っている。『松本も、華が嘘ばかりついていると感じている。』都合の良い風に解釈することを彼は選択した。

 「よし、煙草行くか!」六人それぞれの話を聞いて満足した松本は、膝を手でパンっと打って立ち上がった。

 秋川と伊波が自分のことを良い友人として認識してくれていることは嬉しかったが、肝心の沖田と華からはポジティブな反応を何も貰えていなかった。白井なんか、アンドロイドみたいに無感情だった。だから聞く前に逃げ出しておきたかったのだ。新島は…、想像通り。


 二か月近く付き合った新島とは、結局セックスをしなかった。互いに異性に対する恐怖心があったので、「それはしばらくやめておこう」と初めから契約を結んでおいたのだ。

 しかし、今となっては新島が最後までそう思っていたのかはわからない(事実新島本人は交際一か月を過ぎたあたりから彼に抱かれたがっていた。)。というのも、新島のアプローチが日ごとに少しずつヒートアップしていったからだ。

 「首絞めてもいいよ?」さも彼がそれを望んでいるかのように、突然DVを了承してきたこともあった。

 彼はメッセージや電話で最後の別れを告げるわけにはいかなかった。合鍵を渡されていたから。

 一人暮らしをするアパートに初めて案内され、共に一夜を過ごしたとき、二人は本当に一夜を共にしただけだった。

 新島があの日の華と同じような状態になり、キャンパスの最寄りから彼女の部屋まで送り届けて終電を逃したときも、彼は小さなシングルベッドで片足を新島の足に絡め取られながら呆然と消えた照明を眺め続けるのみだった。

 「大丈夫か」と何度尋ねてもお決まりの「うーん。」が返ってくるのみで、終電を逃したことが確定した時、彼は「なんで自分がこんな目に。」と酷く惨めな思いになった。

 新島の吐息が首筋にかかる夜中の間中ずっと、彼の性器は桶狭間における奇襲前の織田軍のように息を潜め続けていた。消灯後の淡いパステルカラーになった明りを見つめながら、華や沖田たちのことを考えていた。新島のかき傷だらけの細い足が、嫌いだった。


 彼は煙草を吸いながら久しぶりにそんなことを思い返していた。喫煙所は先ほどよりも少し混んでいた。スーツ姿の人々が、思い思いの憂いを吐き出している。二人は植木のある奥の方で火を灯した。

 松本が吸っていた赤マルは、十分な長さを残したまま灰皿の中に消えていった。もったいない。心地よいじゅうっという音が鳴る。

 彼のウィンストンはフィルターのきわまで吸われ、灰皿に入るよりも前に火が消えていた。松本は膨らんだ鼻の近くでぎゅっと口を結び、何も言わなかった。



 「すみません、一回煙草吸ってきます。」白井が申し訳なさそうに立ち上がると、他に三人の腰が上がった。

 「あたしも行くって言ったでしょ~?」伊波がくしゃっとした笑顔で白井を小突く。

 「うちらも行くでしょ?」と華。彼との話を即興で作り上げたことで、彼女はいくらかげっそりとしていた。「もち。」と新島が答える。買ったばかりのメビウスが早く吸いたかった。

 「ええ~寂しい。もう付いて行こうかな。」沖田が伊波の足を両手で抱く。ウインドブレーカーがしゃかしゃかと音を立てた。煙を毛嫌いするいつもの沖田からは考えられない発言だった。大きな目は半分ほどしか開いていない。

 いい時間になっていた。デートや食事を終えた人々と、まだ今日のハイライトを作り切れていない人々がすれ違う時間帯。指を絡ませ合う男女と、肩を組む男たち。終電にはまだ時間があった。

 「え、それは私が寂しいよ日和ちゃん。」ちょっと待って、と手を前に突き出し、秋川が半笑いで突っ込みを入れる。

 伊波が「まあ待っててよ、すぐ戻るからさ!」と、足に纏わりつく沖田の頭をポンポンと優しく叩いてやる。沖田は下唇を突き出し睨みつけながら両手を離した。長女で大学四年、彼氏も長いこといない沖田にとって、学年は下だが年上の、伊波に甘えられるという事実は今飲んでいるカルーアミルクよりも甘美な発見であった。



 「さっきこのコンビニでさ、なーこがナンパされたんだよ。ね?」なぜか新島が得意げに胸を張る。猫背だった彼女の背が思っていたよりも高いことに、伊波と白井は驚いた。ヒールの高い靴を履いた白井よりも背が高い女の子は、そう多くない。

 「あはは、されたされた。うちだったの?新島の方かと思ってた。」

 どちらでも構わないだろう、という風に新島が眉を上げる。

 「なーこ」というのは華のことなのか。突如披露されたニックネームに虚を突かれながらも、なかなか面白そうな話題に伊波と白井は食いついた。

 「そうなんだ!どうする、お返事言いにもっかい入ってみるー?」伊波が二人の脇をくすぐる。華が  「きゃっ」という声を漏らす。こういうじゃれ合いに彼女は慣れていない。

 「いいの、返事はもうしたから。なーこがなんて返したと思う?」新島が伊波の脇をくすぐり返す。

 「え~普通に断ったんじゃないの?」伊波の返答にほとんど被せるように、「かっこよかったんですか?」と白井が質問を入れた。

 「いや全然。多分高校生とかだよね、あれ。」

 「あー。じゃあ断りますね。」白井の興味があからさまに薄れる。視界の端に捉えた喫煙所の方に、その関心は移っていた。

 「『非喫煙者はお断りだよ!』って、そう言ったの!」新島の発言に、白井の関心は再びこちらに戻ってくる。吹き出した伊波の様子を見て、自分が聞き間違えたわけではないのだと確認をする。

 「そんなこと言ったの!?なんで吸わないってわかったのよ。」

 「なんとなくわかるよ、そのくらい。」伊波の質問に華が答えると、「あー。まぁでもそうかも。なんかわかるよね。目死んでたとか?タバコ頼んだ時に。」伊波が納得しながら口角を上げる。

 「そう!まさにそれ。」新島は指で何度か伊波の身体をつついた。

 ビッグシルエットのスウェットに隠された身体は想像以上に引き締まっていた。胸もそれなりのものを持っていそうだ。少し不機嫌になる。胸をじっと睨みながら強くつつくと、それまで何も気にせず前を向いていた伊波も流石に「ちょっと!」と声を上げた。やはりいいスタイルをしている。

 「ごめん。」という新島の顔には嫉妬の念しか浮かんでいなかった。伊波はあえて体のラインが出づらい服を好んで着ている。

 「いいですね、めっちゃいいです。ナイスです華さん。非喫煙者なんかお断りですよ、ほんと。あんまなめんなって話ですよね。」二人のじゃれ合いなどお構いなしの白井が、噛みしめるように言った。

 華と新島が心からの共感を手のひらから白井の肩に伝える。白井が心なしか涙目になっていることに、伊波は少しの恐怖を覚えた。最後尾から口を曲げて、声を出さずに笑った。


 喫煙所は先ほどよりも少し混んでいた。サラリーマンやら就活生やらがため息を煙にして宙に吐き出している。四人は入り口近くの灰皿を囲んで煙草に火を点けた。

 「一本頂戴っ。」語尾にハートマークを付けた伊波の発言に、白井は「そんなことだろうと思いましたよ。」とキャメルを一本手渡した。クラフトメンソールの五ミリ。「これ美味しいよね!」と新島が思わず声を上げる。

 「ですよね!吸い口軽くて好きなんです。一軍です。」白井がキャメルの箱を印籠のように掲げる。二軍はマルボロのダブルバーストらしい。あれは箱がかわいいけど、高い。貴族の嗜好品だ。新島は思った。

 「キャメル、一本いりますか?」

 「いや、平気、ありがとう。私はこれ。」新島がメビウスを顔の前に持ってくる。「久々に吸うんだ~。楽しみ。」

 「メンソじゃないんですね。」白井の言葉に新島は「どっちも好き。」と煙草を咥えながらぎこちなく答えた。三ミリのメビウスは、全く味がしなかった。

 そんな女四人のやり取りを、気がつくと喫煙所のほとんどの人が眺めていた。新島の大声もあるし、そもそも女子四人が灰皿を囲んでいる状況自体が珍しい。特に男たちの目は輝いていた。希少種だ。

 煙草を吸っているというだけで喫煙者からすればポイントが高い。可能性をなぜか感じてしまう。『ワンチャンあるんじゃないか』、そんな好奇の目を睨み返していると、新島は喫煙所の奥にスーツ姿ではない同世代の男子二人組を見つけた。

 かなり端の方まで身を寄せている。細身の男が、もう一人の大きな男の陰に何とか隠れようとしていた。変な人だ。コンタクトを付けた目が乾いて、よく見えない。

 目を細める。一度ぎゅっと目を瞑り、そのまま暗闇の中で思い切り白目をむいてから、もう一度薄目を開けて見つめてみる。…。

 「あっ。」

 新島が変なことをしている。目をしばしばさせたり、一点を凝視したりしている。

「あーーーっ!」凝視していた一点を、今度は奇声を上げながら指さした。華が「ちょっと!」とその手を下ろさせる。まばらになり始めていた視線が、再びこちらに集中する。

 「あっ。」と白井。「あっはは、奇跡~。」と伊波。レーシック手術済みの伊波の目には、彼の諦めたような苦笑までもが映っていた。

 「え、なに、どうしたの。」裸眼で中途半端に視力の悪い華だけが状況を理解できずにいる。

 「彼です。」「あいつだよ!」「あー。ははは。あいつがいんのよ、ほら、あそこ。」

 伊波が指をさす方向に、「ほら!」と焦れた新島が華の頭を掴んで振り向かせる。

 大きな男の肩に手をつき、ぐったりとうなだれる見慣れたキノコ頭の姿が、そこにはあった。



 彼は新島の大声のおかげで、少し早めに四人に気が付いていた。

 はめられた。同じ店ではなくとも、同じ駅前に位置する店だったのだ。すぐに松本の巨躯に身を隠す。松本も既に気が付いていた。

 松本がはしゃぎだすよりも前に、新島の奇声が響き渡った。

 「あっはは、おい、新島さんだぞ。他にもいっぱいいるぞおい!」松本に前へと押し出され、彼はよろよろと俯きながら四人にその姿をお披露目した。

 深いため息をついて前を向くと、新島がずかずかとこちらに向かって歩いてきていた。伊波は腹を抱えて笑っている。華と白井は無表情のように見える。彼も目があまり良くない。聴衆はこの一部始終をまだ見ていようと、新しい煙草に火を点け始めている。

 「へ?」彼が情けない声を出す。野次馬を横切りながら突き進む新島のことをよく見てみると、緑色の瓶を手にしているのがわかった。彼の目の前までやってくると、瓶を手元でくるりと回して大きく振りかぶった。マスカット味のチャミスルだ。

 「まてまて!」そんな声と共に華が新島の右腕を全身で引き留めた。「どこでそんなもの手に入れたの!?」華は新島よりも一回り小さい。

 「おい!なんでここにいるんだ!なぜあの日から連絡を寄こさない!」

 時系列がぐちゃぐちゃの新島の質問に彼が答えられないでいると、「偶然だよ。」と松本が前者の質問に答えた。

 「お前は誰だ。」新島が華ごと瓶で松本の顔をさす。

 「友達だ。」松本が腕を組んで答えた。

 「ヒロじゃーん!」

 そう言って今度は伊波が走ってきた。ヒロとは松本の下の名前のことだ。

 「え?おぉ!明璃!」松本が手を挙げて応える。

 「え、お前ら知り合いなの?」彼は付き合っていた当時と同じように新島を無意識に無視し続けた。暴れ出そうとする新島を華が羽交い絞めにしている。二人とも同じくらいに筋力がない。ずっと後ろでは白井がゆっくりとこちらに近づいてきていた。

 「そっちこそ!ヒロと仲いいんだ!てか、なにしてんの。めっちゃ偶然じゃんか!」

 「この近くで飲んでるんだよ。」松本が答え、質問を返す。「いや、明璃たちの方こそなんのメンツだよこれ。こいつに見せてもらったたことのある顔が揃ってるけど…。」

 彼は状況を全く整理できないでいたが、松本は興奮しつつも冷静だった。彼の喉からうまく出てこないでいる質問を、彼女らに投げかけてくれる。とはいえ、聞きたいことが多すぎた。

 「見ての通り、あんたが好きな女オールスターズよ。」彼のことを指さしてから、伊波は癖のあるウルフカットを手でばさっと風にそよがせた。

 「あっはは、おもろいな、おい。」松本が彼のことを肘で小突く。作り笑いを浮かべる余裕すら彼にはなかった。

 「二人はどこで知り合ったんだ?」おそらく優先順位の低いことを、彼は伊波に尋ねた。

 やっと口を開いたかと思えばそんなことか。私を無視するな。新島の力はもう抜けていた。なぜか華と手を繋いでしまっている。

 「中学が一緒だったんだよね。でかくなったね~。」伊波は両手を腰に回して松本を見上げた。

 「まあな。いっぱい食べたから。」松本と伊波が笑い合う。

 どうして伊波との仲を隠していたのだろうか。そんなことは聞きたくても聞けなかった。どこかでぼろが出て、盗聴していたことがバレてしまってはおしまいだ。

 松本は私立の中学に通っていた。それは知っている。同じ学校に通っていたというならば、伊波もプチ金持ちなのだろう。違和感はない。

 「おい、無視するな。」新島が低い声でもう一度彼に言い放つ。

 「どうして連絡をしてこないんだ。友達になろうと約束をしたではないか。」謎の口調だ。目はとろんと半開き。白い肌はところどころが赤くなっている。彼は嫌な記憶を思い出した。

 「あぁ…。」それくらいしか音を出すことができなかった。彼の脳は両手を広げて降伏してしまっている。

 「うーん…。」と、伊波が顎に手を置き考え込んでいる。

 「まあさ、話したいこともたくさんあるだろうし、あたしらは退散しようよ。松本とあたしはいつでも話せるしさ。未央奈ちゃんもこっち来ない?好きな方でいいけど。」

 「どっちでもいいです。」相変わらず無感情な白井の態度に彼は軽く傷つきながらも、今度は優先度の高い質問を口にすることができた。

 「なんでこの四人が集まったんだ?」伊波が答える。

 「ラインのグループにいきなり入れられたのよ。それで招待主があなたの名前を出して、『この六人は全員彼と関係のある人物です。一発飲んでみたらどうですかー』的なことを言うだけ言って退室しちゃったの。で、あたし乗り気になっちゃって。だっておもしろそうじゃない!…あ、日和ちゃんとリサちゃんもいるよ。六人で飲んでるの!」

 彼は枝豆やらポテチやらを口からもどしてしまいそうになった。改めてわけのわからない話だ。そして、やはり彼女たちを集めたのも「謎の人物」だった。なんなんだこれは。頭はもううまく回らない。

 新島は、彼が沖田の名前を出されてどんな反応をするのかをつぶさに観察していた。動揺している様子はあまり見られない。華もそんな彼の様子をこっそりと確認していた。

 「さ、行こ、二人とも!未央奈ちゃんにヒロのこと紹介したい!それに見てヒロ。この子超かわいくない?」そんなことを話しながら彼に背を向けようとする三人に、「待って!」と声をかけることは叶わなかった。新島が立ちはだかっていた。

 松本と伊波がいなくなってしまっては、新島と彼の間を受け持つ窓口がいなくなってしまう。それを彼女はわかっているのだろうか。

 窓口など必要ない。新島が必要としているのは、彼とのサシでの対話だった。それに加えて、今ではもう一つ仕事がある。新島の細く長い腕にくるまっている華と、彼とを話し合わせることだ。新島の心中には、今では憎しみ以上の何かがあった。



 四人と松本たちが邂逅した喫煙所は駅前の歩道橋の真下にあり、その上にももう一つ喫煙所があった。伊波、白井、松本はそこで会話を再開した。

 「あはは、いやーでもほんとに偶然だね。」

 「ああ。流石に煙草行くタイミングまでは合わせてなかったもんな。」

 伊波と松本の言っていることが白井にはうまく理解できない。煙草に行くタイミング、『まで』?きょとんとした顔の白井を見て、伊波は笑った。

 「えー…。ねぇ。未央奈には言っちゃてもいいよね?」

 松本が口をひん曲げる。「いいんじゃないか?キレたりしないなら。」伊波もいたずらっぽく笑っている。嫌な予感がしてきた。ほとんど確信に近い。

 「あのねー、未央奈。うちらが計画したのよ。」伊波は大事なことほどなんでもなさそうに言う癖がある。

 白井はその場にしゃがみこんだ。煙草をひと吸いし、手で顔を覆う。自分でも驚くほど、どでかいため息が出た。

 「どういうことですか。ちゃんと説明してください。」白井の目は松本に向いている。

 「え、俺?」

 「そりゃそうでしょ。なんでヒロさんが出てくるんですか。伊波さんだけなら『面白そうだから』って 理由だけでこんなことをしでかしそうですけど。それにあなたが協力して何のメリットがあるんですか。」そこまで言って白井ははっと息をのんだ。

 「まさか盗み見てたとかじゃ…」

 「その通り。」伊波が指を鳴らす。松本は無言で白井に向かって手を合わせている。片目は瞑られていた。

 白井はその場でついに崩れ落ちそうになったが、なんとか堪えた。この地面は絶対に汚い。

 松本と伊波は、白井に事の経緯を簡単に説明することにした。


 伊波と松本は中学の同級生であり、先日同窓会で久々に再会した。

 二次会の際に、共通の友人が新たに生まれていることが判明し、酒に酔っていた二人は面白いことを思いついた。

 「あいつの元カノみんな呼んでさ、酒でも飲ませたらおもしろそうじゃない?」そこからの二人の行動は早かった。

 松本は彼と飲む約束を取り付け、泥酔させてからスマホを取り上げ五人の連絡先を手に入れた。そして全員をグループに招待し、例の連絡を入れて退室した。

 伊波はその人物からの連絡に乗り気で応える。五人のうち一人も退室しなかったことは僥倖であった。

 飲み会の日にちが決まってから松本は、ワードで打ち込み印刷しただけの郵便を彼の家まで送った。  『沖田日和、白井未央奈、暮田華菜子、秋川リサ、新島凛、伊波明璃、以上六名の飲み会の様子をお見せしたくご連絡させていただきました。十日後、××駅前の□□という居酒屋までいらしてください。』

 六人が飲んでいる居酒屋は、松本のバイト先である。バイト歴が長く店長不在時の締め作業まで任されている松本は、他の店員を全員帰してから丁寧に小型カメラを死角なく設置し(よく観察すれば監視カメラの上などに小さな黒い物体が見えるはずだ)、盗聴器をすべてのテーブルに取り付けた。

 彼との集合場所である居酒屋に松本は少し早く到着し、彼が座る席の荷物カゴにタブレットとイヤホンを入れておいた。そのタブレットにはカメラからの映像と盗聴器からの音声がリアルタイムで送られている。


 そこまで聞いた白井は、呆れて笑ってしまった。「うまくいきましたね。」

 「そう!見事にうまくいったのよ。」伊波はにんまりと笑った。



 新島、華と彼の三人は全員無言で一旦煙草を吸った。彼がウィンストンの箱から一本取り出すその仕草を、華と新島は横目で眺めていた。

 彼が相変わらずコンビニで売っている最安値のライターを使っているのを見て、華は少し笑った。

 新島と交換した紫のターボライターを、彼はもう使ってなかった。使い切ったわけではないだろう。

 華は新島に火を点けてもらった。


 「で、なんで連絡を寄こさなかったわけ。」

 しつこい。彼は煙を吐き出した。今なら冷静に答えられる気がする。

 「もう、会いたくなかったから。」

 「じゃあなんで友達になろうなんて言ったのよ。」

 確かに言った。『ごめん。凛のことは友達としてしか好きになれない。』的なことは言った。

 「嫌われたくなかったから。」

 「じゃあ、」新島の言葉を遮るように、「縁を切りたくなかったのはほんとだよ。」と彼は絞り出した。煙草を灰皿にぐりぐりと押し付ける。新島の顔色を横目で窺う。彼の視線は無意識にその先の華の方に向かってしまっていた。無表情。

 「なんだお前。」屈んだ彼を見下ろしながら新島は言った。「ねぇ?なーこ。」華を自分のもとにぐっと引き寄せる。

 「うん。」華は苦笑した。

 「はい。もう私いいや。次はなーこの番。」新島が華をぐいっと前に押しやる。よろける華がぶつかってきそうだったので、彼は思わず身を引いた。差し伸べようとした手は、思い直してひっこめた。目が合う。

 「久しぶりだな。」彼が言う。

 「うん。」

 「なにしてたん。」

 「うーん。サークルと、仕事。」

 「そっか。」

 沈黙が下り、彼は笑った。「凛、気まずいわ俺ら。」

 「うっさい、私とあんたも十分気まずいはずだろうが。」

 それはそうなのだが、新島は話しかけてきてくれるだけ楽だった。それに、新島がいては話しづらい。それがわからない新島ではないはずなのだが、自分抜きで話すことは許さないようだった。

 「うち、秋からは休学することにした。」華が口を開く。

 「え、俺も。」

 「あら、そうなんだ。」華の手いじりが止まらない。

 休学することを今まで知らないでいたことが、彼は少し寂しかった。

 「しんどかったか。学校。」

 「うん。それもそうだし、仕事がきつくて。休職もする。」華が新島の方をちらりと見る。ゆっくりと深呼吸をしてから、再び口を開いた。

 「新島、二人で話しちゃダメかな。あとで新島もこいつと二人で話しなよ。」

 新島のことを『新島』と呼んでいるんだな、と彼は思った。特に気になったりはしない。

 「うーん…。」新島は少し考えてから、舌打ちをした。「…ちっ。やっぱり私いたら話しづらいよな。そりゃそうだ。わかった。先戻ってるわ。」

 「ごめんね。」そう言う華を手であしらってから、新島は二人に背を向けた。

 彼はその背中を黙って見送った。新島はその後サークルの友達と電話で長々話してから、居酒屋へと戻っていった。新島と彼が二人きりで話をする機会は結局設けられなかった。

 「パニック障害がでてくるようになっちゃって。」華が再び口を開く。

 「そっか。きついな、それは。」それくらいしか言ってやることができない。

 「芸能、しんどすぎる。」

 「やっぱそういうもんなのか。」どこまで深堀りしていいのかわからない彼はかつての会話を思い起こし、思い切って踏み込んでみようと脚に力を入れた。

 しかし掘り返した瞬間にマグマが吹き出すことを恐れた彼は、結局シャベルをその話題に差し込むことすらしなかった。地雷を踏みぬいた過去がフラッシュバックしていた。華の冷たい憤りが、彼にどうしようもない絶望を与えたあの日。煙草に火を点ける。

 彼のウィンストンから漂う煙を眺めながら、華は言った。「自分のやりたいようにやらせてもらえないのよ。そういうもんなんだろうけどさ。売り方の問題。」結局彼女が仕事について口を開いたのはそれっきりだった。その話題はほとんど火山の麓にあったのだ。彼の判断は間違っていなかった。

 「そっちは?なんで休学するの?」

 煙を吐き出し、息を吸い込む。そうして華の質問に彼が答えようとすると、華が手を伸ばして遮った。

 「待って。てか、なんか暗すぎない?うちら集まるといっつもこんな感じになるけどさ、今日は特にひどい。」そう言って華は笑った。先ほどよりも少しリラックスした様子だ。彼も笑う。

 確かに、さっきから二人は立ったまま静かに向かい合って独白をし合っていた。そこには変な緊張感もあったし、よく考えたら何からなにまでおかしな状況だった。

 「酒、一本くらい飲むか?」彼の提案に、華は口をにやりと曲げて答えた。「それな。」


 新島と煙草を二度買ったもはやお馴染みのコンビニには、やはりお馴染みの店員がまだ勤務中だった。はねた髪がトレードマークの不愛想店員。

 もちろん二人はハイボールを手に取った。サントリーの角ハイボール。華はこれしか飲まない。おいしい酒などないと思っている彼も、いつも同じものを手に取った。彼には基本的に意見というものがなかった。

 購入の際に華がいきなり肩を組んできて、店員に向かい「彼氏です。」と言った。彼は何がなんだかわからないまま店員の方を向いて状況の説明を求めたが、店員の方も似たような表情をこちらにぶつけてくるだけだった。彼は女性の身体の柔らかさを久しぶりに感じた。鼻腔には華の乾いた体臭がそよいでいた。

 華と沖田の体臭は似ている。生理が近づいたり、汗ばむと香ってくるあの匂い。カフェなどで隣の女性からその匂いが香ってくると、彼はいつも深く呼吸をした。それはなぜか、若い女性からしか放たれない。彼は好きになった女の匂いを無条件で好きになり、それを忘れることはなかった。

 店を出てからしばらくしても華は離れなかった。彼は目を細め、努めて平静を装い「どういうことだよ。」と尋ねた。声はぎりぎり裏返らなかった。

 「さっきあいつにナンパされたんだよ。」と華は答えて、組んでいた肩をほどいた。ほどかれるくらいなら聞かなきゃよかった、と彼は思った。

 「で、なんで休学しちゃうの?頑張ってたじゃん。」

 「彼氏です」発言の説明はこれだけで終わりか。そう思いながら彼は「その前に、」とビニール袋から缶ハイボールを取り出した。華に一本手渡す。プシッ、といい音が鳴った。

 「乾杯。」小さく缶をぶつけ合う。喉を鳴らして何口か飲み、華は「くーっ」、彼は「あー!まずいっ」と言ってから会話を再開させた。

 「まあ、俺も病状ひどくなっちゃったみたいでさ。また病院通い。」

 「無理してたんか。」

 「それはそうよ。」彼は笑う。華はずっとニヤついている。

 「なんか、明るい話題ないわけ?あ、あれは?彼女出来たって言ってたじゃん。」大きく伸びをしてから、華が言った。華が目を瞑っている間に、彼は彼女の突っ張った胸を存分に目で堪能した。首を鳴らす。

 「凛のことだよ、それ。」

 「あ、そうか。」華はまたにんまりとした。

 「なんで別れちゃったんだよー。いいやつじゃんか。」

 お前のことが忘れられなかったからじゃないですかね。新島ならそう言ってブチギレられるのだろうが、彼にはできなかった。

 「うーん…。好きになれなかったんだ。別に嫌いっていうわけじゃないんだけどさ。」

 「じゃあまず付き合うなよ。」

 もっともだ。

 何度も口に付けてはいるが、ハイボールはなかなか喉を通っていかなかった。華が彼の缶を奪い取り、重さを確認する。にやりと笑った華の様子を見て、今度は彼が華の缶を手に取ってみる。軽い。「マジか。」

 気合を入れ、炭酸を拒絶する喉を無視してハイボールを胃にぶち込んだ。華と同じくらいの重さになる。二人ともほとんど飲み干したということだ。華は声を出さずに笑い、煙草を取り出した。彼はもうヤニを必要としていなかったが、最後の一本を咥えた。華がまだウィンストンを吸っているのが嬉しかった。

 「そっちは?彼氏とうまくやってんのかよ。」

 「うーん。うん。まあ。」

 いつ聞いてもこんな返事だ。だから彼は諦めきれずに、ずっと期待してしまっていたのだ。

 「どんくらいになるの?」

 「付き合って?一年ちょいだね。」

 「いい彼氏なんだな。」

 「まあね。」

 本心だった。こんな大変な女の子を一年間支え続けるというのは相当なことだ。すぐ病むのに、意志が固くてすぐキレる。そんな子の親代わりだ。実際、彼は華の一番になりたいと思いつつも、自分には重荷であると心の底では感じていた。だから健康的なアプローチができずに、ラーメン屋の床のように不安定な関係を築き上げてしまったのだ。

 「結婚すんのかなぁ。」腕を頭の後ろに回して、華がぼやく。

 「言ってたね、それ。」

 華はほとんど今の彼氏に依存してしまっている。それが彼女は嫌だった。彼氏の方はもういい歳だし、このままの関係を続けるのなら自ずとそういう道も見えてくる。

 「やっぱりまだしたくないの?結婚。」

 「うーん。まだ一人でやっていきたいかなぁ。」

 そうだろうな、と彼は心の内で口にした。華は人生の主役を他人に譲る気がない人種だ。最初から最期まで、よくも悪くも主観的に生きていくことだろう。そこに他者が内在しないわけではない。むしろ他者への思いやりは人一倍強い方だ。ただ、自分がこうと決めた生き方に土足で踏み込まれるのが許せないタイプなのだ。

 「でも一緒にはいたいわけだもんな。」彼が灰を落とす。

 「うーん。どうなんだろう。」

 いつもの調子だ。そのくせ、インスタのサブ垢には彼氏の顔のデッサンを載せて英語で『とても綺麗』とか言っているのだ。なんなんだ。そーびゅーてぃふる。

 「まぁ、マジで思うことはさ、絶対その彼氏大事にした方がいいってことだな。」

 彼はウィンストンを吸い終えた。喉が焼けるように痛くても、舌がどんなに痺れていても、最後に口の中に残るのはバニラの甘い香りだった。

 「お前もそう思う?」

 「うん。絶対そう。」本心だ。

 華も煙草を吸い終えた。「戻るか。」

 「そうだな。」空になった箱を握りつぶす。

 彼が歩き出すと、華の握りこぶしがすぐにそれを遮った。指には煙草が挟まっている。「やっぱ、あと一本。」

 手持ちの煙草がない彼は、華からウィンストンを手渡された。マジか。頭は幼稚園児か何かが中で遊んでいるのかというくらいに痛かったし、膝はがくがくと震え太ももの血管はぴりぴりと痙攣していた。そのことを告げ煙草を返そうとした彼だったが、上目遣いの華から艶やかな声で「えー。」と一言言われただけで押し黙ってしまった。華に火を点けられる。

 彼はずきずきと痛む頭になんとか片目を開けながら、葉を燃やし短くなっていくウィンストンを眺めていた。もう、煙草やめよう。

 彼は甘い煙で肺を温め、冷え込むことのない秋の夜空にゆっくりと吐き出していった。電灯には透明な羽虫が集まっている。

 「お前もこっち来るんだよ?」華の突然の発言に、彼は素っ頓狂な声を出した。「へ?」

 「こっち。うちらが飲んでる居酒屋。」

 限界まで短くなったウィンストンに指を燃やされ、彼は声を上げてそれを落とした。華が笑う。

 「いや、待って。」煙草を拾い灰皿に落としながらの彼の抗議を、華は遠慮なく遮った。

 「だってさー…。ま、とりあえず来なよ。とりあえずさ。」

 松本や伊波からは何の連絡も来ていないかった。行くのか?俺はあの居酒屋に。沖田に会うのか?今日、俺は。



 沖田は再び秋川と二人きりになり、彼との思い出をぽつりぽつりと漏らし始めていた。


 沖田と彼はほとんど毎週のように会い、様々な場所に行った。どこに行ってもやることといえば、手を繋いで他愛もない話を大事そうに語り合うのみだった。

 三年間も付き合ったのだ。東京のどこに出かけても、そこには必ず彼の面影があった。

 初めて二人で待ち合わせた浅草の駅と、小さな遊園地。考えられないような場所で初めてのキスをしたお台場。沖田の話に大きな声でリアクションを取る彼に驚き、涙目で注意をした渋谷の街。昭和記念公園ではやることがなさ過ぎて、何時間もずっと小さな子供たちを眺めていた。

 沖田の地元にも彼は住み着いている。彼は一度電車を降りて、ほとんど毎回沖田を家まで送り届けてくれた。実家暮らしなので、そのまま一泊するとかいうわけでもない。「俺がまだ日和と一緒にいたいだけだから。」遠慮するといつもそうやって返事が返ってきた。沖田はそんな彼を抱きしめ、ある時からは面倒に思い始めていた。

 高校時代、時間を合わせて一緒に帰った学校から駅までの道のりでは、ちょっと寄り道をして別れを惜しんだりもした。行く当てのない二人は、その無知さゆえにむしろ大胆な場所で指を絡め合い、濃厚なキスをした。立体駐車場の隅とか、さびれた駐輪場の中とか…。改めて思い出すと、いつも恥ずかしさと呆れで笑ってしまう(彼は今でもその駐車場の隅でたまに煙草を吸っている。そのたびに同じような笑みを浮かべ、髪をくしゃくしゃと揉みこむのだった。)。

 「好きだったんだね。」秋川はそう言いながら安心した。彼の思い違いではなかったのだ。二人は間違いなく幸せな日々を共有していた。沖田の話をする彼の顔には、その時にだけ見られる確信の色があった。今の沖田と同じように。

 彼は沖田との恋愛で多くのものを得ていた。これからの人生においてもかけがえのない、いくつかの灯である。暖かく、先の道を照らしてくれる。しかしその関係は多くのものを犠牲にして成り立っていたものであり、いつかは破綻する運命だった。沖田を失って残るものは、ぼろぼろになった自分の体だけだった。焦点の合わないままどこかを見つめて語る彼の話から秋川は、そんな印象を受けていた。

 「どうして別れちゃったんだろう。」沖田の話も聞く必要がある。

 沖田は少しの間黙り込んだ。「冷たい話になるよ。」箸でサラダを小皿に盛る。

 その一言でおおよその見当は付く。秋川は「いいよ。」と答えた。秋川は沖田が左利きであることに気がつく。それだけでなぜか、彼女が歪んで見え始める。

 「彼が留年したから。」沖田は呟くようにそう言った。

 やはりそうか。「でかいよね。それは。」

 「うん。なんだかんだいって結果は残すのが彼だったの。ぜんぜん勉強していないように見えて、第一志望に合格したりね。かっこよかった。でも、大学に入ってからはただだらしないだけになっていって、ダメになった。」

 レモンサワーを一口飲んでから、沖田は続けた。「学校の話になるといつも言葉を濁すの。それにデートの遅刻も多くて。いろいろ重なったけど、決め手は遅刻の多さだったかも。」

 「クリスマスに一時間遅刻したって話は聞いたことあるよ。ブチギレられたって。」

 「あぁ…。」沖田が笑う。「もっと遅れてたはずだよ。スマホを忘れて一度取りに帰ったらしいの。連絡が取れなくて心配もしたし、たしかにあの時はすごく怒ったかも。忙しい時期に予定を空けているのに、これじゃなんにも楽しくないって。でも、溜まりに溜まってたものが爆発しただけだよ。その遅刻のせいだけじゃない。」

 彼によると、沖田は冷たくキレるらしい。「コォォ」というダースベイダーのような呼吸音と共に、口から白い息を吐く。足元にはどこから生まれたのか、水蒸気が漂っている。「あくまでイメージだけどね。」彼は笑っていた。

 何を話しかけても無視をされ、諦めた彼はショッピングモールの中でドラゴンクエストの仲間のように黙って沖田の後ろをついて回っていたらしい。「あれはほんとに終わったと思ったよ。」額の汗を拭きながら、彼はなぜかそれが武勇伝であるかのように秋川に語っていた。

 「長く付き合っていたし、これ以上関係を続けるならちゃんと将来のことも考えなくちゃいけないと思ったの。彼といると満たされた気持ちになるし楽しかったけれど、ただの恋愛ならもう続ける意味はないんじゃないかって。それで、ちゃんと考えて、彼には未来が見えないなって思ってしまった。だって、どうしようもない部分が多すぎるんだもの。リサちゃんもわからない?」

 よくわかる。彼はどうしようもないダメ人間だ。自分のすべてを曝け出してしまうから、一度親しくなってしまえばすぐにわかる。変なところで人を信用しすぎているのだ。みんながうまいこと隠す場所を躊躇なく開示してしまう。よく言えば素直だし、悪く言えば目も当てられないほどに情けなかった。

 「病気なのは知ってる?」

 「病気?」

 「双極性障害。日和ちゃんと付き合ってた頃はまだ適応障害だったかな。」

 沖田が箸をおく。「…そうなの?」

 伝えてなかったか。おかしいと思ったのだ。彼が病気であることを知っているのなら、あんな風に彼を貶めるような言い方をするはずがない。たとえ憤っていたとしても。彼女は沖田日和なのだ。

 なぜ彼は沖田にそれを隠していたのだろうか。

 「適応障害って、あの時からそうだったの?今彼、躁鬱病なの?」

 「そう。あの人、隠してたんだ。」

 「なんで…。」

 「言えなかったんじゃない?」

 秋川は不思議とすぐに結論を出すことができた。彼の肩を持つのは癪だったが、それが今の沖田のためにもなると考え、もう一度言う。

 「言えなかったんだよ。」

 沖田はショックだった。沖田は彼に悩みを何でも打ち明けていたはずだ(彼への気持ちが離れ始めている、という悩み以外)。何かに打ちのめされそうになったら、まず彼を頼った。彼はそれをいつも、冬の朝の毛布のように暖かく包み込んでくれた。

 彼もそれを喜んでいると、少なくとも沖田はそう思っていた。「力になれることが嬉しい」と、彼はよく言っていた。次第にそんな彼の姿勢を、沖田は当たり前に思うようになっていった。彼氏とはそういうものなのだと無意識に形作っていった。沖田にとっても彼は初めての彼氏だった。一週間だけ付き合っていた中学の同級生を除けば。

 沖田の方から彼の悩みだけを聞こうとしたことはなかった。「何か思うことがあれば、お互いに言い合うようにしよう」と言葉にした時も、沖田自身に溜まっているものがあったからだった。

 「バカなところでかっこつけてたんだね。」

 無言になってしまった沖田に向かって、秋川はそう言った。気まずくはなかった。今の沖田に必要なのは、何か沈黙を埋める言葉を秋川に向かって絞り出すことではない。



 「二人、結構仲良くなった感じだよな。」

 「あたしもう未央奈ちゃんのこと好きだからね。」

 助けを求める彼からのメッセージを未読無視して、松本と伊波は会話を続けていた。

 

  少し前。

 「あいつめっちゃ困ってるよ。」松本は彼から「早く帰ってこい!!」という連絡を受け取っていた。

 「あはは、みんなのところに連れてかれるっぽいよ。」伊波が自分のスマートフォンを松本たちに見せてやる。華から「彼、うちらの方の居酒屋に連行します。」と敬礼の絵文字付きでメッセージが届いていた。


 かわいそうに。白井は素直にそう思った。さっきまでは神様か大金持ちみたいな遊び方をして楽しんでいたというのに。まぁ、自業自得か。私が華さんや日和さんにそのことをばらしたらみんなはどんな反応をするだろうか。特に凛さん。逆に喜ぶかもしれない。変な人だから。

 「ねぇ聞いてる?あたし告白したんだけど。」伊波が白井の目のすぐ前で手をひらひらと振る。

 「あ、すみません。なにがですか?告白?」

 「だからぁ、未央奈ちゃんのこと好きだよって。」

 まつげを瞬かせながら下から覗き込んでくる伊波のかわいらしさに、白井は笑った。

 「ありがとうございます。」

 沈黙が下りる。今日の私には何か発言すると場が静まる呪いでもかかっているのだろうか。朝の占いは三位で、それなりにポジティブな内容が書かれていたはずなのだけれど。ラッキーアイテムは『懐かしいおもちゃ』。黙って腕を組んだ松本とは、いつまで経っても目が合わなかった。

 「ねぇ、あたしフラれたよね、今?」

 「あ~。そうかもな。」松本は腕を組んだまま親指で鼻の先をぽりぽりとかいた。ほどけばいいのに。てか、え?

 「え?」

 「え~ショック~。でも、これからも絶対仲良くしようね?」伊波が白井の両手を握って、その目を見つめる。

 「え?待ってください。告白って、ガチの?」白井が手を握り返す。伊波は持ち前のプロポーションが目立ちづらい、メンズライクの服を好んでいる。

 「そうだよ!なに?いつでもガチだよこっちは。言っとくけど、だれかれ構わず告るような人間ではないからね。こんなに早く惚れたのは未央奈ちゃんが初めてだよ。誇れ!」伊波は白井の胸をどんっと叩いた。

 「おい。」松本が口を開く。

 「は~、なんだよぉ。みんなの話聞いてあたしも恋したくなっちゃてたのになぁ。未央奈ちゃん絶対いい女なのにぃ。」

 声が届かずぶつぶつとしゃべり続ける伊波の頭に、松本は優しくげんこつをいれた。カキンッと予想外の音が鳴る。

 「ちょっと!なにすんのよ。」

 「話聞けよ。」指の関節部分が赤くなった手を振りながら松本が言う。それを見た伊波は「ふふん」と得意げに笑った。

 「あたしガチで石頭だからね。いつでもガチだよ。」白井を指さし再度強調する。

 「子供の頃にねぇ…」と、石頭エピソードか『いつでもガチ』エピソードのどちらかを披露し始めようとする伊波を、松本は人差し指を立てて再びおさめた。伊波の口はいつになく回っている。照れ隠しだ。

 「だから、一回黙れって。」今度は殴らなかった。学習。

 「未央奈ちゃんはお前の告白を友達としての好きだと受け取っていたんじゃないか?」

 白井は大きく二度頷いた。松本の肩を揉んでねぎらってやりたい。よくぞ言ってくれた。

 「つまり、お前の告白はきちんと相手に届いてないんだから、まだフラれたってわけでもないだろう。」言い終えると松本は深く息を吐いた。「なぁ?」

 「はい。」白井が返事をする。

 「そうなの?」伊波が尋ねる。

 「はい。ていうか、いいですよ。」白井がそう言うのを聞いて、松本はにやりと笑った。バイセクシュアルの松本は、この手の勘が鋭い。

 「へ?」伊波が力の抜けた表情をする。

 「明璃さんは、私を彼女にしたいわけですよね?いいですよ。願ってもない話です。」再び手を繋いで、力強く握った。

 「やった。」伊波がぽつりと漏らす。

 「やったー!」繋いでいた手を高く上げた。白井が伊波をあやしているような格好になる。

 「やった!松本、彼女出来た!」

 松本が新しいマルボロを取り出す。「よかったな。」

 「お前も早く恋人作れよ!ばか!」

 「うるせぇよ。」笑って煙を吐き出す。「俺だって未央奈ちゃん、バチバチの恋愛対象だったのになぁ。あーあ。この世界から一つ可能性が失われた。」

 「盗撮盗聴するような人を好きになるわけないでしょ。」伊波に抱きつかれて、頬を赤らめた白井が松本に言い放った。

 「あっはは。違いない。」それを言うなら伊波も似たようなものだけどな。松本の目に映る二人は、仲の良い姉妹のようだった。



 新島が戻ると、秋川と沖田はお互いに黙って静かに酒を傾けている最中だった。この二人、気まずいのだろうか。

 「ただいまー。」その声に二人は顔を上げる。不思議に思った秋川はすぐに新島に尋ねた。

 「あれ、一人?」

 「あー。それがね…、すごいことがあったのよ。」

 電話で信頼のおける友人にハリケーンのような心情をすべて吐露していたので、新島はある程度冷静に話せるようになっていた。その子と飲みに行く約束は既に取り付けてある。

 「聞いて驚くなよ。」

 秋川は笑った。「なに?」彼がいたわけでもあるまいし。

 「あいつがいたのよ。」

 「は?」秋川は思わず地元にいた頃の乱暴な口ぶりに戻ってしまう。

 「あいつが、いたの。」

 「会ってきたってこと?」

 「うん。今は華が二人で話してると思う。」

 他の二人がどこに行ってしまったのかは、この際どうでもよかった。彼がいたのだ。そして四人と鉢合わせた。新島だけが戻ってきて、今は華が二人きりで話している。

 新島が戻ってくるまで、かなりの時間があった。華と彼は何を話しているのだろう。そして新島は彼を見て、どんな反応をしたのだろう。きっとなにかしらハイテンションになったに違いない。

 なぜ他の三人は華と彼を二人きりにしたのだろう。よく新島がそれを許したものだ。何があったのだ。四人が順番に彼と二人きりで話をする機会を与えられているのだろうか。それなら、沖田にも順番は回ってくるのだろうか。まさか、ここに来るのか?

 自分がそこに居合わせなかったことを秋川は酷く悔やんだ。煙草を始めようかと思ったほどだ。聞きたいことが山ほどある。まず何を聞こうかと口を開けたり閉じたりしているうちに、沖田が先に切り出した。

 「彼、煙草吸っているの?」

 「うん。」気軽に答えてから、新島は華の発言を思い出す。「うちが煙草教えちゃったからね。」

 秋川は沖田が今どんな表情をしているのか今日一番に気になったが、それ故に直視することができなかった。どうしても意識してしまって、なんでもなさそうに振り向くことができない。

 ドアが開く。「いらっしゃいませー。」店員が元気よく声を上げてしばらくしてから、細身の男が華に押されて入店してきた。彼だ。

 「あそこのお座敷、二人追加ってできますか。もう一人は遅れてくると思います。」華の明るいお願いを、女店員は快諾した。先輩店員と新人は目を閉じてキッチンの奥へと戻っていった。「男いるのかよ…。」

 秋川は彼と目が合う。彼はすぐにこちらを見つけた。まるで最初から場所がわかっていたみたいに。そしてすぐに目が合わなくなる。沖田のことを見つめているのだろう。

 沖田はドアが開く音にはっと顔を上げたが、彼の姿を確認してすぐにその顔を伏せた。

 華が彼の手首を握り、三人の元まで引きずってくる。それが私以外の二人を刺激する行為だとは思わないのだろうか。秋川まで顔を伏せてしまった。新島はしっかりと憤っている。

 「手繋ぐな!アホ。」

 「いや、これは違うよ。」華はすぐに手を放した。後ろに体重をかけていた彼が少しよろめく。

 華はすぐに新島の横に腰かけたが、彼は立ったままだった。空いているのは秋川の隣だけだ。

 「話は聞いたよ。そっちもなんとなくは聞いた?」秋川が沈黙に我慢できず口を開く。彼は頷いた。

 「まぁ、座んなよ。」新島が彼の座るべき場所を指さす。思いがけず彼と向かい合えることになった新島は、華の背中を叩き小声で「ナイス」と囁いた。華はただ新島の隣に座りたかっただけだったが、テーブルの下で親指を立てて応えた。新島の右隣には沖田が座っている。

 新島は腹が鳴りそうになるのをぐっと堪えた。彼女はここに来てから何も口にしていない。矯正器具に食べ物が詰まるので、すぐに歯が磨ける環境でないと食べるのが億劫になってしまうのだ。

 「久しぶりだな。」彼は席に着くと同時に秋川に向かってそう言った。

 「私は…、そんなに久しぶりでもないけどね。」秋川には苦笑いを浮かべるしか選択肢がなかった。その台詞、私に言うんじゃないでしょ。秋川は彼の膝を見えないところでつねった。驚いてこちらを向いた彼を一瞥して、顎で沖田の方をさす。目には力が入っていた。

 彼が鼻から息を吸い込み胸が大きく膨らんだタイミングで、再び店のドアが勢いよく開いた。

 「松本さん!」女店員が声を上げる。松本は腰を低くして、申し訳なさそうに女店員に告げた。「あのテーブルです。」

 先輩店員がのそのそとキッチンから姿を現す。松本の肩を掴み裏まで連れ込むと、大きな小声で訴えた。

 「おい!あの美女六人組、お前の知り合いかよ…!」松本が頷く。

 「お見合いか?人数合ってないじゃん。俺が行ってやるよ。」いつの間にか新人君まで松本の膝に縋り付いている。「いや、紹介してください。お願いします…!」

 二人の頭を軽く何度か叩いてから、松本は言った。「ごめんな、今日はそういうんじゃないんだ。」女店員に向かい肩をすくめる。伊波たちはもう席についていた。

 「あの六人みんなあいつの彼女って言ったら、信じるか?」彼を指さして、松本が店員たちに笑いかける。先輩は思わず声を出して笑ってしまった。

 「まさか!…、マジなのか?」

 「マジみたいなもんなんだよ、実際。」松本はよく考えないままにそう答えた。「ま、だから今日はおとなしくそこで指咥えて見ててくれ。」もう一度ポンと頭を叩いてから、松本は二人に背を向けた。ふと思い立ち、振り返る。

 「あの中の何人かなら、いつか紹介できるかもな。」

 「ガチで!?」

 盛り上がる先輩店員たちに向かって、松本はウインクして指を立てた。「俺はいつでもガチだぜ。」

 「かっけぇ…。」新人君と肩を組んでそう言う先輩店員に向かって、「どこがだよ。」と女店員は小さくツッコミをいれた。

 松本は彼と飲んでいた居酒屋での会計を、ここに戻る前に終えていた。


 松本と話し込む三人をよそに、店長は新しい来店者からしっかりと注文を受け取っていた。「ハイボールいただきましたぁ。」

 「なにー?もしかして修羅場―?」店を出る前と比べて、ご機嫌度十割増しの伊波が切り出す。

 「修羅場よ修羅場。大修羅場。」新島が遠慮なしに言った。気持ちのいい女だ。彼は新島のようなメンヘラに対する評価を改めなければならないと思った。

 「原因は日和と彼ね。皆さんお分かりの通り。この二人が二人きりで話すべきなのかもしれない。華はもう平気なんでしょ?」

 「さっきよりは気まずくないかな。」

 「気持ち悪い空気流れてたもんね。今みたいに。」新島が情報番組のコメンテーターばりにズバズバと切り込んでいく。そんな調子では視聴率のためのおもちゃにされた後に使い捨てられてしまうぞ。

 「また席を外すのは癪だけど…、」新島が腰を上げるのと同じタイミングで、沖田が口を開いた。

 「明璃と未央奈ちゃん、随分仲良くなったみたいだね。」新島にむかついたとか、気まずさに耐えきれなくなったとかで話題を逸らしたわけではなく、純粋な興味から尋ねたようだった。沖田もやはり不思議な部分を持っている。秋川は思った。左利きだし。

 彼を前にして、五人の目の色はそれぞれに変化していた。沖田は瞼を下ろし、沈んでしまっている。華の目は内で静かに、めらめらと燃えていた。伊波はあらゆる光を吸収して、もはや彼にガンを飛ばしているようだった。白井の灰色の目は、カラコンではなく元からそうであったかのように顔に馴染んでいる。何を考えているのかわからない。何も考えていないのかもしれない。新島の目は真っ赤だった。化粧ではない。明らかに泣いた形跡がある。

 どの目もそれぞれに違う特徴を持ちながら、それぞれに見応えがあった。ずっと眺めていられる。秋川は彼の「目が好き」という発言の真意を知れたような気がした。

 では自分は?私も彼女たちのように芸術的で魅惑的な目を持ち合わせているのだろうか。そっとスマートフォンの暗い液晶画面を顔の前に持っていきかけたところで、伊波が沖田の質問に答えた。

 「そうなの!うちら、付き合いました!」

 「は?」秋川の意識が一気に会話へと戻っていく。

 「ほら!」と言って伊波は白井にいきなりキスをした。耳から汽笛が聞こえてきそうなくらいに、白井の顔が赤くなる。それを見た五人も、恥ずかしくなって目を逸らしてしまった。

 「ちょっと!ここではしないって約束じゃないですか!」白井が伊波の肩をはたく。伊波はギャラリーの反応を見て満足げだ。

 「おぉ、またキスしとんか。」松本が席に着く。

 「またとか言わないでください!何回もしてるみたいじゃないですか。」白井がソプラノ並みに高く細い声を出し睨みつける。

 「何回もしてたじゃんかよ。」

 「なっ。」

 白井の顔は真っ赤っかだ。『ここではしないって約束じゃないですか』の時点で、何度も口づけを交わしていることはわかっていたのだが。そんな三人のやり取りに、他の五人は全く付いて行けていなかった。秋川と沖田は松本の登場すらも受け止め切れていないのだ。

 「あ、ども。松本ヒロです。あいつの高校の友達です。」秋川に向かって松本が一礼する。

 「日和さんは、お久しぶりです。あいつと一緒に飲んでたんよ。」彼を指さす。

 松本は華の隣に座り、伊波と白井は彼の隣に並んで座っている。お座敷席は八人で座るには少し狭かった。彼と松本が座る場所には座布団すら敷かれていない。彼は座布団を白井に奪われていた。

 「え、どういうことよ。いつ?どうやって付き合ったの?」新島が身を乗り出す。今だけは彼のことも意識の外だ。華も驚きで膝の上に落とした枝豆に気づけないでいる。開いた口が塞がらない。

 「さっき。あたしが告白した。」

 それ以上のことは誰も尋ねなかった。ただ「ほえ~」とか「は~」とか言って息を漏らし、無い背もたれに寄りかかるのみだった。

 「おめでとう。」沖田が目を輝かせて言う。他の誰も、こんな素直な表情と言葉を出すことができなかった。伊波が沖田の言葉を無邪気に抱きしめて、「ありがとう!」と言った。秋川は自分を恥じた。

 「すごいな…。ここまでとはね。」新島の言葉に伊波は「なにが?」とクエスチョンマークを浮かべている。

 「いや、なんでもない。」新島が水を飲み干し、秋川が新たに人数分注文した。

 「いやぁ。にしてもこんな偶然があるとはねぇ…。ね?未央奈?」

 ちゃん付けじゃなくなった呼び名に胸を弾ませながらも、白井は伊波のいたずらに付き合ってやる。

 「ほんとですよ。ねぇ?ヒロさん。」白井からのパスを松本はがっしりとキャッチした。想定済みだ。

 「いやぁ、ほんとほんと。どうだよお気持ちは。当事者くん。」

 三人の素早い連携プレーと、松本からの回転がかかった鋭いパスに彼は追いつけなかった。「え、あ…。」と言葉を言い淀む。誰も助け舟は出さなかった。全員が、彼からの言葉を待っていた。

 「混乱してるよ。」彼はようやくそれだけ口にした。

 「そうだろうな。」松本は流石に彼に同情した。しかし、これが彼にとって試練であるのと同時に絶好の機会であることも理解してほしいと、そう思った。ただ面白がるためだけに、松本と伊波はこの一件を計画したわけではない。

 二人が日々彼から話を聞いて感じているもどかしさを、彼に解消してほしいと思ったからだ。二人は彼に同情し、共感し、心から彼のことを想っていた。それ以上にこの状況を楽しんでしまってはいるけれど。

 伊波が手をパンと叩く。「うん、やっぱり話したい人は彼としっかり会話をした方がよさそうだね。華ちゃんと凛はもういいの?」

 華が頷くのと同時に、新島が「いいわけないでしょ。」と呟いた。「けど、もういいわ。今すぐに何か話したいことはないから。」

 新島が何故ぷんすかしているのかが伊波にはわからなかったが、無視することにした

 「未央奈はいいわよね?てか、二人きりでなんか絶対に話させないよ?」伊波が白井を抱き寄せる。白井の顔はまた熱くなった。いつになったらこの身体は慣れてくれるのだろうか。

 「あんた、もう未央奈のことは狙わせないからね。」伊波のその言葉に、彼は自然と笑顔になった。半分呆れ、半分諦めの笑いだ。今日の白井の言動を見れば、彼に一縷の希望もないことは明らかだった。そもそもこのメンツを目の前にして、白井と話すことの優先度は著しく低い。白井も伊波の一連の発言について異議はないようだった。

 膝の上に落とした枝豆を、華はこっそりつまんだ。

 松本の「えー。ちょっとくらい話したほうがいいんじゃないかー?もう会うこともないだろうしさぁ。」という発言に、白井と彼は同時に噴き出した。白井は「ふふっ」と声を出し、彼は「それもそうだ。」と口にした。

 彼が白井の方を向いて背筋を伸ばしたので、白井も彼の方に半身を向けた。白井の懐かしい甘い香り。間に挟まれた伊波はしばらく「むーっ」とタコのような口をして二人を睨みつけていたが、諦めて座布団を引き二人を向かい合わせてやった。

 「久しぶり。」彼は誰と会話を始めるにもこの台詞からだった。

 「はい。」白井が返事をする。

 「お幸せに。」

 「ありがとうございます。」

 二人とも薄ら笑いを浮かべている。

 「…こんなもんだわ。」彼の言葉に「もう終わり!?」と松本が驚く。すかさず伊波は二人の間に割って入る。「はい終わりね~。」

 「えぇ…。いくらなんでも短すぎないかぁ?」松本の言葉に、白井も「こんなもんなんです。」と返した。彼と白井の似たような表情を見て、伊波は細くゆっくりと白目をひん剥いた。

 「リサちゃんは?」しゃがれた声で伊波が秋川に尋ねる。

 「私も、特に今話すことはないかな。また後日、ゆっくり聞かせてよ。」隣に座る彼に笑いかける。

 「それは俺からも頼むわ。すぐに行こう。俺いつでも暇だから。」彼は心の整理を必要としていた。傾聴者との飲み会がいる。

 「学校始まる前の方がよさそうだね。」秋川とそんなやり取りをする彼に、先ほどまでの緊張の色はない。隣同士話し合う彼らを、沖田は向かいからまっすぐに直視していた。もう俯いていない。

 「夏休み中か。空いてる日連絡してよ。たぶん俺も空いてるから。焼肉行こうぜ。」

秋川が声を漏らして笑う。「いいよ。じゃあその日に話そう。」

 新島は、秋川までもが嫉妬の対象になってしまうのかと、気が狂いそうだった。松本と華は同じ皿の枝豆に手を伸ばしている。

 「いいねぇ~焼肉。」伊波が彼を突っつきからかう。

 「なんだよ。お前とは居酒屋な、学校帰り。」彼が目を細める。

 そこまで言ってから、伊波の身体越しに白井の顔色を窺う。オーバーサイズのスウェットを着ていても、伊波の胸の膨らみは確認できた。女性にはない敏感な嗅覚が、彼には備わっていた。背中にプリントされたコックは、ピザを片手に「Be the one.」と語りかけている。

 「いいよな?白井。」彼が尋ねる。

 「もちろん、いいですよ。裏切ったら二人とも殺しますから。」突然で久々のメンヘラ発言に、彼は首を引いて怯えつつも懐かしさを覚えた。伊波は例によって白井に抱き着き、白井の整った顔面をくしゃくしゃに崩している。新島は今日初めて白井に強烈なシンパシーを抱いた。

 「じゃあ、日和ちゃんだねやっぱ。日和ちゃんが何と言おうと、あたしは話したほうがいいと思う。てか、あんたの方は日和ちゃんと話したい、でしょ?」伊波がハキハキと二人に、そして八人に確認を取る。彼は静かに頷いた。

 新島は白井と彼が話し始めた頃からずっと、目を瞑り歯ぎしりを続けていた。華は彼のことをじっと見つめ続けている。こっちを向かないかなぁ、と考えながら。

 沖田も伊波の問いかけに答える。「うん。やっぱり、話したほうがいいと思う。」

 「じゃあ、」と伊波が皆に席を立つよう促そうとすると、「いや、」と沖田がおさめた。

 「みんないていいよ。」沖田はそう言った。皆が彼の方を見るが、彼は何も言わなかった。

 二人がここにいていいというのなら、六人は別にすすんで席を立とうとはしない。行く当てもないし、何より興味がある。

 ここまで二人の話を聞いてきた。約一年半ぶりに会った二人は、いったいどんな会話をするのだろうか。

 

 「久しぶり。」お決まりの台詞だ。

 沖田の白いブラウスに、彼は小さなシミを見つけた。彼女の人生には、一点だけ暗い部分がある。

 沖田も彼も、同じ場所に指輪をはめている。全員が気づいていた。最後に気が付いたのは華だ。右の薬指。全く違う種類の指輪に見えるが、これは彼らが二年記念の日に購入したペアリングであった。彼の大きな手にはめられた指輪がくすんで錆び始めているのに対して、細く長い沖田の右薬指は銀の輝きを遺憾なく放っている。

 リングを買った店は沖田の地元にあった。彼はもうその駅には降りられない。電車も各駅停車ではなく急行を好んだ。通り過ぎる一瞬だけで済むから。

 どんなに色褪せても彼がその指輪を外すことはなく、沖田は毎月のようにクリーニングに出して指輪を清潔に保っていた。

 彼にとって沖田は『正しい恋愛をした相手』だった。正しい青春ともいえる。大学生になってからも長く付き合ったが、やはり彼女は高校生活の輝かしいハイライトだ。対に重なり合う勾玉のように陰と陽の部分が混ざった高校時代において、陽の部分を司っていたのが沖田であり、陰が松本たち部活のメンツだった。

 沖田がすべてだった。若いというよりもガキだった彼らは、あの頃しかできないような恥ずかしいこともたくさんしていた。ほとんど降っていないような霧雨の日でも、一本の傘を分け合ってさした。改札越しに互いの姿が見えなくなるまで永遠に手を振り続けたりもした。結局我慢できずに戻ってきて、キスをしてみたり。

 「ほんとに久しぶりだね。」沖田が答える。

 それだけで彼は胸が押し潰れそうだった。その優しい受け答えだけで、三年間の想いが口と目頭から溢れ出てきてしまいそうだった。彼は背筋を伸ばした姿勢を保てなくなり、一度思い切り下を向いて表情を崩した。息が全く入ってこない。この感情は、今までどこに見事に身を隠していたのだろう。存在すら忘れていた。

 華と目が合う。沖田が甘酸っぱい高校生活のハイライトであるなら、華たちは憧れていた大学生のどろどろとした恋愛だった。遅れてきた青春。三年間も沖田のような女性と付き合ってきたその反動で、真逆の恋愛をしたくなってしまったのだ。しかしもう気は済んでいた。この六人以外にも様々な女性と出会い、彼はむしろ沖田の存在をさらに大きなものとして感じるようになっていた。このままではおかしくなってしまう。

 「いつ以来だろう。」沖田の問いかけに、「去年の三月かな。」と答える。実際には沖田も、最後に会った日の天気や道に敷き詰まった桜の花びらが綺麗だったことまで事細かに覚えていた。あの日は俯いてばかりだったから、くっきりと目に焼き付いている。

 「元気にしてた?」沖田が尋ねる。

 声のトーンが自分たちに話しかけるときとは全く違うことに、白井たちは妙に強い寂しさを覚えた。別に同じ声で話してほしいとかいうことではない。今の二人を見て、その関係に何か覚えのない懐かしさを感じ始めていた。

 「まぁ、ぼちぼちだな。」彼が答える。

 秋川の話から、彼が元気でないことはわかっていた。沖田は切なくなる。それが彼女の表情に表れ、彼は焦った。

 「ほら、友達も増えたしさ、こいつらとも仲良くやってるし。」伊波と秋川、そして松本を手でさす。新島は腰を浮かしかけたが、静かに目を伏せた。白井はかかってきた電話を無視し続けていた。

 「そうだね。よかった。」沖田はそう言って微笑んでから、静かに黙り込んだ。

 「そっちは?元気?」

 「うん。決まったよ、仕事。」沖田は来年から社会人だ。

 「おぉ、聞いてもいい?」

 「化粧品関係。」

 「すごい。行きたいって言ってたもんね。」

 「そう。行けたの。」沖田の声が震え始める。

 「ありがとうね。」そう言うと沖田は顔を手で覆ってしまった。鼻をすする音が聞こえる。周りの目が気になる彼は、肩をすくめて笑おうとしたが、皆の顔を見てすぐに思い直した。

 「どうすればよかったのかね。」沖田が涙を拭いながら言った。彼は何も返せない。

 心から、何もかも自分が悪かったと思っていた。遅刻したし、留年したし。ベッドの上で盛り上がってから、性器がうまく機能しないこともあった。

 沖田の無駄にエロくない清潔感に彼は惹かれたのだが、それは後になってあだとなっていった。沖田は胸がなくて、フェラが下手だった。そして彼はEDだった。今でもその時を思い出して恐怖し、勃たなくなることがある。

 「心の病気なんでしょ?」

 彼の心臓がきゅっと縮まる。部屋の温度が一気に低くなったように感じる。彼の見ていないうちに、秋川か新島あたりが話したのだろうか。この飲み会を許した時点でバレる運命だったのだから、責める気にはなれなかった。そもそも責める道理がない。

 「まぁ、ちょっと、ね。」彼は笑って答えた。努めてなんでもなさそうに。

 ちょっとではない。休学を余儀なくされるほどだ。電車に乗れば膝が震え、薬を飲んでいなければ感情が安定せず何も手につかない。部屋の壁には大きな穴が一つ空いている。頭で心臓の音が響き、血管や頬がビクビクと痙攣する。夜には幻聴が聞こえる。家族や友達が、何かを急かしてくる。「やばいよ!」「時間ないよ!」ぞわぞわと背中が疼き、身体がどこかに落ちていく。息が苦しい。

 「ごめんね、気づけなくて。」沖田はもはや号泣していた。くしゃくしゃな顔を真っ赤に腫らして、しくしくずびずびと泣いている。新島が背中をさすり、秋川がポケットティッシュを差し出す。華の目にもなぜか涙が浮かんでいるように見える。松本は何か大事な記号がそこに浮かび上がっているかのように、じっと畳を見つめている。伊波は秋川からティッシュを受け取り、勢いよく鼻をかんでいた。白井は何も考えていない。

 周囲の視線を気にすることをやめた彼は、沖田の涙にもらい泣きしてしまいそうだった。それは二人で何か大事な話をするときのお決まりのパターンだったが、なんとか堪えた。泣いたって何にもならない。これは彼女と別れてから得た強さだった。今も沖田とアツアツだったのなら、二人してびーびー泣いていたに違いない。あの頃はお互いに相手にしかピントが合っていなかった。周りなんて少しも見えていない。無敵だった。

 「俺が隠してたからだよ。」流石に声が少し震えてしまう。

 「ううん。ごめん。」

 この台詞が来たら沖田の謝罪の姿勢が動くことはもうない。てこでも動かない。

 固すぎる彼女の意思を、いつも笑って受け入れるのが彼の仕事だった。そうやって振り回されるのが彼は心地よかったし、ある時には不自由だった。

 沖田と結婚するには、『普通』でいなければならない。彼にはそれが苦痛だった。年収八百万円以上の、安定した職についていなければならない。そもそも彼には結婚願望がなかった。沖田には細かな将来設計があった。二十五歳で結婚。専業主婦を望んでいた。好きな相手が「お母さん」になってしまうのが彼は嫌だった。相手にとっての一番が自分ではなく子供になってしまう。

 彼は間違いなく子供を溺愛する。どんなに嫌なことがあっても、子供の幸せのため全力を注ぐ自信がある。それも怖かった。自分の人生ではなくなってしまう。自らによる自らのための生活は、そこで終わりを告げてしまう。

 必死に働く両親の姿を見て、彼はいつも思っていた。「なんでこんなことをしているのだろう。」喧嘩も絶えない。子供のために働き、子供のために関係を続けているようにしか見えなかった。彼もそうなることはなんとなく想像できた。自分が誰かと一緒に暮らしていけるような人間だとは思えない。必ず相手の嫌な部分が見えてきてしまう。相手に不快感を抱いてしまうのが嫌だった。いずれ壊れる関係を、続けていく意味が分からなかった。彼は結婚に夢を抱いていない。

 沖田の父親は、毎日のように母親を泣かせているらしい。そんな家庭環境にありながら、彼女が結婚を望んでいることが不思議でならなかった。

 それでも沖田と一緒にいたいことには変わりなかった。彼女といるときにしか感じられない、暖かな充足の感覚があった。自分にはここしかないという、確かな感触。

 自分は彼女と共にいるために、妥協で結婚するのかなと考えたりもした。そんな半端な覚悟と沖田の気持ちとのすれ違いも、破綻の要因の一つとなったわけだ。

 摩擦による痛みを我慢し続けた結果、ばかばかしい反動が出てしまった。彼はどうしようもない恋愛に身を焦がし、さらに自分を傷つけた。まともではいられなくなり、ただただ悪い意味で『普通』ではなくなっていった。

 「あのさ、」思いのほか大きな声が出て、彼は自分で驚いてしまう。この声で一度沖田を渋谷で泣かせてしまったことを思い出す。

 沖田がこちらを向く。皆の視線もこちらに集中していた。

 「もし、まだ間に合うのなら、」彼の脳内では、沈没寸前の空母のように船員たちが慌てふためいていた。ある者は「やめておけ!」と叫び、ある者は「いけ!いけ!」と大声で捲し立てている。

 「やり直したい。」彼は遂にそこまで口にした。伊波と秋川は高揚でのぼせてしまいそうだった。松本は二人を肴にビールを煽った。新島は今すぐに煙草が吸いたかった。大声を出してテーブルをひっくり返し、台無しにしてやりたかった。白井は伊波の手に指を絡ませ強く握り、華はフクロウのように永遠と彼から目を逸らさなかった。

 「今俺、小説を書いてるんだ。大学の新人賞で佳作をもらったりして、少しずつ形になり始めてる。結局だらしない人間であることには変わりないんだけど、今は本気で力を注げることがある。成功したい。させる。」彼の目には涙が溜まっていた。

 「だから、また二人でいることってできないかな。日和と離れて、俺には日和しかいないって、改めて気づいたんだ。」

 ありきたりな言葉しか出てこなかった。話し足りないしまとめ足りなかったけれど、彼はそこで一度区切りをつけた。息を吸っていなかったことに気がつく。

 これ以上言ったって、空虚なだけだろう。彼は息を吸い込み、背筋を伸ばして沖田の反応を待った。心臓は大きく、乾いた音を立てていた。後頭部の血管がビクビクと脈打っている。

 彼は沖田を必要としていた。その結論を出すのに、対話の必要はない。一年半の月日が、とっくに答えを導き出していた。結婚したいかと問われれば相変わらず答えは曖昧だ。理屈は抜きだった。

 彼女といると落ち着くし、幸せだし、楽しい。自分にはこんな表情ができるのかと、驚いた瞬間が何度もある。初めての恋愛でわからないことだらけだったけれど、今ならわかる。沖田こそ運命の相手だ。付き合っていた三年の間に少しずつ変わっていった心情も、自然なものだったのだ。彼と沖田は上手くやっていた。お互いにもっといい恋愛があるのではないかと、魔が差してしまっただけなのだ。

 沖田は秋川から受け取ったティッシュで鼻をかみ、親指の付け根でごしごしと目を擦った。何度か深呼吸をしてから、彼と目を合わせる。沖田が微笑むのを見て、彼も笑みをこぼした。

 沖田が一口水を飲む。ごんっと大きな音を立ててグラスを置いたので、彼は反射的に竦んでしまった。沖田が穏やかに口を開く。

 「喫煙者は、お断りだよ。」

 



 海岸線を背にして、彼が煙草に火を点ける。銘柄は、




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ある居酒屋 @loveandpeace1234

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