第3話

 桜の蕾が開き始めた、春のある日。とても仲良くしていた男の子が街を去ってしまうのを見送ることになった。

 彼の母親は夫、つまり彼の父親に先立たれて精神のバランスを崩し、もう子供の面倒を見られる状態ではなくなってしまっていた。だから地元の祖父母宅に引っ越すことになったという話だ。

 彼も最初は引っ越しに反対したが母親のことを考えて結局折れた。彼は優しいから、自分のエゴを押し通すことが出来ない。そもそも小学生にそんなこと出来る筈がなかった。

 まったく、父親に死なれて動揺しているのは子供たちだって同じだろうに。自分の都合で子供を振り回す大人というのはどうにも好きになれない。

 こんなことを彼の前で言ったら絶対に怒られるだろうからもちろん口にはしない。嫌われたくはないから。

「お母さん、元気になるといいね」

「…うん」

 彼は、翼はとても落ち込んでいた。初めて会った時も暗い顔をしていたし、特段珍しい表情というわけではないけれどやはり心苦しい。

「二度と会えなくなるわけじゃないんだから。そんな顔しないで。私から会いに行ってあげるし、いつだって来てもいいんだから」

 そう励ましてもやはり彼の表情は晴れなかった。どうしたものだろうかと困り果てたその時、大きな声が響いた。

「翼、もう行くよ!」

 彼の姉、美月の声だ。車の前で手を振っている。

 ひと回り高い背丈と大人びた表情は大抵の人間に彼女を『子供らしくない』と思わせるが、内面は翼よりも遥かに幼く、脆い。他人に弱みを見せるのが怖くて取り繕っているだけだ。

 だからといって彼女のことが嫌いなわけではないし、むしろ好感を持っている。父親がいなくなって、母親もまともではなくなってしまった。その上で弟もいるのだ。気丈に振舞わなければ、自分が家族を支えなければ、と強い責任感を持つのはとても立派なことだと思う。

 けれどどうにも彼女は私のことが嫌いなようだ。内面を見透かされたくない、というだけではなく私という人間自体が気に入らないらしい。褒められた人格でないことは自覚しているが残念だ。仲良くなりたかったのに。

「ほら、お姉さんも言ってるよ。もう行かないと」

 翼は私の言葉には応えず、スッと手を差し出した。掌には彼がよく使っていたウォークマンが載っている。

「……これ、渡しておく」

「いいの?」

「いらないなら、渡さないぞ」

 つっけんどんな口調ではあるが、彼のことだ。私が本当に『いらない』と言えば傷ついてしまうだろう。しかしそんな風にふざける状況ではないことくらいは私も分かっている。

「いや嬉しいけど、お父さんの形見なんでしょ?私がもらってもいいの」

 彼の父親がよく使っていたものだということは彼の口からも、心からも聞いている。‘父親の遺品’なんて私だったらすぐに捨ててしまうが彼にとっては大切なものであることもよく理解している。だからこそ戸惑った。

「それは…その、オレはそこまで音楽好きじゃないし…欲しがっているヤツがいるなら…渡した方が…」

「忘れてほしくないからなにか残しておこう、みたいな感じ?」

 ごにょごにょと口ごもっているところを割り込んで、当てずっぽうな推理を突きつけると彼は顔を真っ赤にして目を逸らした。本当に分かりやすい。心を読む必要すらない。

「ち、違う。ただ、その…今までちゃんと礼とか言えなかったから、せめてなにか返したいと思っただけで…」

 頬を赤らめながら言い訳を続ける彼が可愛くて衝動的に一歩踏み出していた。

 そのまま間髪入れずに唇を重ねた。額をぶつけないように少し顔を横に傾けて。

 男の子だから硬いのかと思っていたけど、唇の感触は思いの外柔らかかった。まだ子供だから当然か。

 手を握ると彼の体温、緊張や興奮などの感情が伝わって、私まで体が熱くなる。

「…ん」

 しばらくそうした後、ゆっくり体を離した。もっとこうしていたいのは山々だけれど、時間は待ってくれない。

「ありがとう、大事にするね」

 照れくさくて顔が赤くなっていることを自覚しながら笑いかける。けれど、こういう風に胸が熱くならないのならそれは恋とは言えないだろう。

「……」

 翼は羞恥のあまり口をパクパクとさせて固まっている。ずっと眺めていたいくらい可愛らしいけれど急がなければ。

「別に見返りが欲しくてアナタと一緒にいたわけじゃないよ。ううん。ちょっと違うかも。一緒にいることが私にとっては報酬だったんだよ。だからそれ以上はいらない」

 私は彼のことが大好きだ。辛いことに向き合うのを止めて楽な方に逃げた私と違って彼には現実に立ち向かう強さが、他者を許せる優しさがある。隣にいてその心を感じられるだけで私は十分満足していた。

「でも、そんなに感謝してくれているならもう一つだけお願いしていい?」

 控え目に、それでも少しだけ嬉しそうに頷く彼に、私は望みを口にした。

「私が本当に困ったことになって、どうしようもなくなったら助けに来てね」

 なぜこんなことを口走ったのか自分でもはっきりとは分からない。けれど最近いやな予感がしてならないのだ。なにか恐ろしいものに狙われているような、迫ってきているような。ただの杞憂だとは思うけれど不安な気持ちが拭えない。

「…え?」

 翼はポカンとした顔で私を見つめていた。突拍子のない話だから驚くのは無理ない。が、からかいたくなってしまった。

「翼はちょっと頼りないから出来ないかな?」

「出来るし!大体そんなこと頼まれなくたって…ああもう、うるさい!」

「じゃあ頼りにするね、翼」

「…分かった、絶対守る」

「私を?翼かっこいい~」

「バカ!約束を守るってこと!」

「同じことじゃん」

 いくら彼が普通の人の何倍も強かったとしても所詮子供同士の口約束、あてになんてならないと私の中の冷めた部分は囁いた。けれどそうじゃないんだ。たとえ結果が伴わなかったとしても好きな人が『守る』と言ってくれたのなら喜んでいいんだ。

 そうして私達はお別れをした。車に乗って去っていく彼に手を振る。彼も泣きそうな顔になりながら応えてくれた。

 姿が見えなくなっても、ずっとそうしていた。

「……バイバイ、大好きだよ、翼」

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