NOIR ABSOLU

明日出木琴堂

NOIR ABSOLU

そこは海辺に建つ古いレストラン。

元々は60年程前に、この地の若者がビーチに遊びに来る人を目当てに開いたホットドッグ売りの掘っ立て小屋。

時代と共にオーナーが変わり、職種が変わり、店舗規模が変わり、そして今はのんびり海を眺めながら食事ができる大人のイタリアンレストランになっている。

今のオーナーは20年程前にここを買い取った。オーナーでありヘッドシェフも兼ねている。

今の店舗規模は1坪の掘っ立て小屋だった頃から比べると100倍以上にはなっている。

お客様もフロアー席、テラス席の全席満席状態で100名お迎え出来る。

ただ、昔からの継ぎ接ぎ増築のせいで激しい雨の日は雨漏りするのが玉に瑕。

まぁ、土地柄、雨の日はお客様も激減するんでモーマンタイ(問題無し)。


私はここでサービスマネージャーをやっている桜山葉子。

海の側で働きたくってここに就職してもう6年になる。

あちこちボロボロだけどお気に入りの仕事場。

テラスの席からは天気が良ければ富士山を望みながら食事が出来る最高のロケーション。

夏は近隣の自治体が行う花火大会をテラスのどの席からでも一望千里出来るので、その日は3年先まで予約が入ってる。

先の天気なんて分からないのに、3年先までって凄くない?!


これ程までのロケーションを有しているから、お店には様々な方面から依頼がくる。

グルメ情報番組だったり、テレビドラマの撮影だったり、映画の撮影だったり、ファッション関係のスチールだったり、ミニコンサートだったり、…等々。

こういった大々的に店を貸し切りにする依頼もあれば、店内各所を期間限定で展示会場やギャラリーする依頼もある。

テラスを使ったフラワーアレンジメントの展示。ロビーやフロアーの壁面を使ったアート作品の展示。

こう言った依頼やイベント事は、お客様に少々ご迷惑、ご不便をおかけすることもあるんだけど、お店の宣伝にもなるので、オーナーは積極的に受ける姿勢を貫いている。

そして、これらの依頼やイベントの調整を一手に担っているのが、サービスマネージャーの私こと桜山葉子なのです!


今日も1件、ロビー、フロアーのギャラリー使用で画家の方との打ち合わせの予定があります。

今回の画家の方は上顧客様からのご紹介。

上顧客様のおすすめなので、事前審査もせず、展示は決定しているの。あとは、展示期間と展示設営の打ち合わせだけ。って感じ。

お約束は、うちのレストランのロビーで、ランチ終わりの15時からディナー前の18 時の間で行う予定です。

3時間もの時間を取っている理由は、うちのレストランに来る道は片側一車線の海岸通りしか無く、夕方には必ずと言っていいほど渋滞するので時間の約束がしにくいからなんです。

この間でしたら何時でもオーケーですよ。って感じですね。


電波時計のデジタル表示が15時を指した瞬間、お店の入口の自動ドアが開いた。

「申し訳ございません。お昼の部は終了しております。」と、レセプション担当の女の子が懇切丁寧な対応をしている。

「すみません。僕は客ではありません。絵の展示の打ち合わせに参りました。」と、入店して来た人が言った。

「あっ。あっ。私のお客様…。」私は慌てて入り口に駆け寄った。

そこには美しい銀髪で背の高い全身黒ずくめの紳士が立っていた。

目鼻立ちの整った細面の顔に黒縁の丸眼鏡。透ける様な肌に無駄のない体躯。

若い頃なら間違いなく【王子様】って、呼ばれてたはずだ。

「は、初めまして、サービスマネージャーの桜山葉子と申します。」と、名刺を差し出しながら、なぜか私は緊張していた。

周りで中休み中のフロアースタッフたちが笑っている。

「初めまして。浦戸紫門と申します。本日はお時間を頂戴し、誠にありがとうございます。」と、長身の紳士はゆっくりと美しい銀髪の頭を深く下げた。


私たちはロビーの待ち合い席に場所を変え打ち合わせをすることにした。

「浦戸さん。コーヒーと紅茶、どちらにされます?」

「ありがとうございます。ただ、水で結構です。」

「分かりました。すみません。ここに紅茶とミネラルウオーターお願い。」

「いえ。よろしければ、水道水をお願い致します。」

「えっ?!じゃあ、紅茶と水道水を…。」何かこだわりがあんのかなぁ…。

のっけから不思議ちゃん全開じゃん。まぁ…、アーティストタイプには多いけど…。

「無理を言って申し訳ございません。」

「いえいえ。」

「少々、内蔵が弱いもので、ミネラルやカフェインやカテキンで直ぐにお腹を下すものですから。」

「そうなんですね。」成程成程。だからこんなにスリムなのね。結構ざっくばらんなおじ様じゃん。

私はそんな印象を持ちつつ、楽しく打ち合わせをする事が出来た。

私は他の依頼と調整し、来月の第一水曜日から、浦戸さんの絵画を展示することに決定した。場所はロビーとフロアーの壁を使って。

展示期間は2ヶ月間。前日の火曜日のお店の定休日を使いの絵画の設置を行う。設置は浦戸さん本人が行うそうだ。



翌月の第一火曜日。朝の9時50分に私はお店の入口前に立っていた。

この日は浦戸さんが彼の作品をお店に飾り付けに来る日だ。

いつもなら誰かバイトの子に日給を出す代わりに入口ドアの鍵開け、鍵閉めをお願いするところなのだが、今回は私が積極的に受け持つことにした。

浦戸さんは10時から作業を開始するって言ってたけど、どうなんだろう…?って思っていたらアップルウオッチが午前10時を知らせた。

その刹那「おはようございます。」とアップルウオッチを見ている私の頭の上で声がした。

「お、おはようございます。」私は驚きと慌てでどもってしまう。

「今日はお休みなのに、僕の為に申し訳ございません。」と、浦戸さんはまた深く頭を下げる。でも今日は美しい銀髪は拝めない。なぜなら、彼は黒色のニットキャップを被っていたからだ。

「いえいえ。お気になさらずに…。」と、私はばばあみたいな返しをしてしまう。まだ28だっうんだよ。

「出来るだけ早く済ませますので、少しだけ桜山さんの大切なお時間を下さい。」と、このおじ様、私が赤面必須の台詞をシラーっと放ちやがる。

「心配しないでください。ずぶずぶのボッチ女ですから。」自虐ネタで応酬してやった。

「すみません。失礼なことを言ってしまったのなら、謝ります。」と、今日は黒色のスエットの上下姿なのに全然ダサくないイケおじがまた頭を下げる。

「大丈夫ですよ…。」こいつはどこまで紳士なんだよ。生まれた時代間違ってるしょ。


店内に入ると浦戸さんはロビーとフロアーの展示スペースの壁のあちこちに黄色のマスキングテープを貼りだした。

そして、そこから離れてボーっと見る。

近づいて黄色のマスキングテープを貼り直す。そして、また離れてボーっと…。

何回繰り返しただろう。よくもまあ飽きないものだ。これがアーティスト気質っうやつなんですかねぇ…。

「すみません。展示させて頂ける壁が先日の記憶よりも大きかったもので、何度も検証し直してしまいました。」

「大丈夫ですよ…。」こいつは初心な少年かっ。

浦戸さんはやっとこさ絵画を貼る場所が決まったらしく、黒色の大きなスタイリストバッグからこれまた黒色の生地に包まれた物を取り出した。

黒色の生地を解くと、筒状に丸められたまたまた黒色の物体が出てきた。

「僕の絵は布に直接描くので持ち運びが楽なんですよ。」と、浦戸さんは屈託の無い笑顔を私に向けた。

「浦戸さんの作品はそう言う作品なんですねぇ…。興味深々ですわ。」と、とりあえず、出来る女が言いそうな社交辞令的な返しをしておく。

浦戸さんは筒状に巻かれた生地の塊をゆっくりと解していく。かなりの力を入れて解していく。

手の甲の筋肉に力が入っているのが分かる。首筋に太い血管が浮いているのが見てとれる。イケおじの細い体のどこにこんな力があるの…?って感じ。

そうこうしているうちに、「ミシっ」っていう小さな音とともに筒に真っ直ぐな亀裂が入った。

浦戸さんは出来た亀裂に真っ直ぐで細く長い指を差し込んだ。そして、亀裂を力いっぱい広げた。

「メシメシメシっ」って、音を立てて黒色の筒は黒色の分厚い板にトランスフォームしていく。

全身黒ずくめの浦戸さんが黒色の物体を力任せに変形させていく様は、さながらヴェノムが超人的怪力で鋼鉄を粘土のようにこねくり回しているみたいだった。

その分厚い板をよくよく見てみると、それは何層にもなったミルフィーユ状のものだった。

浦戸さんはミルフィーユ状の分厚い板の角にクリアコートでも塗ってるような艶やかで透き通る中指の爪を立て、一番上の一枚を剝がそうとする。

思惑通り、一番上の一枚が浦戸さんの爪に引っかかる。浦戸さんはゆっくりとそれを持ち上げる。

まるで湯葉を持ち上げた時のように、その一枚の布は持ち上がった。


その一枚の布も黒色だった。私が思っていたものより薄かった。それは少しの風で消え飛んでしまいそうなほど軽かった。

浦戸さんは同じ様にして一枚一枚、布をミルフィーユ状の分厚い板から剝がしていく。

剝がしながら「この子は駄目ですね…。」「この子は良い。」「この子はここにはそぐわない…。」等々と、独り言を呟きながら選別していく。

『この子って、なに?』アーティストの感性はよく分からない。

しかし、剝がされた布はどれもこれも真っ黒クロ助。私には全くもって違いが分からない。

『これがアートってものなのかぁ…?これがアーティストっう生きものなのかぁ…?』私の頭の中はクエスチョンマークだらけ。


浦戸さんは1時間程でミルフィーユ状の板から全てを剝がし切った。

その枚数は優に100枚を超えていた。浦戸さんはその中から20枚程をピックアップしている。

徐にその中の1点を取り上げ、黄色のマスキングテープが貼られた壁へ進み、優しくマークした位置に布を引っ付けた。

貼り付け位置の微調整を行ったあと、マスキングテープを剝がし、浦戸さんは黒色の布から手を放す。

そして、浦戸さんは次の一枚を取りに戻る。

「えっ?落ちないの?」私は思わず口に出していた。

「ご安心ください。大丈夫です。」そう言って、浦戸さんは作業を続ける。

浦戸さんは同じ動きを続け、然程時間もかかること無く、作品の展示作業は終了した。

黒色の布には、正方形の物もあれば長方形の物もあった。

お店の乳白色の壁に貼られたそれは、さながら光ひとつ無い真夜中の窓の様に見えた。

ただ、そうにしか見えない。この20枚程の黒色の布に私は違いを見いだせないでいた。



「それでは、本日はありがとうございました。」浦戸さんは優しい笑顔で言う。

3時間程の作業を一人でこなしているのに疲れた顔ひとつ見せない。この人、スーパーマン?

「ええ…。これで…、いいんですよね…。」私は何か腑に落ちてない。釈然としない。

「はい。これで大丈夫です。」暖かい笑顔で言う。

「期間中に作品が落下するような…。」

「大丈夫です。僕が引き上げに来るまで、この子たちは落ちることはありません。安心して下さい。」心和らぐ笑顔で食い気味に返される。

「そうですか…。でも、万が一…。」

「万が一もございません。では、貴重な桜山さんのお時間、ありがとうございました。」と、癒される笑顔で頭を下げ、足音ひとつ無く、静かに去っていった。



月が替わり、私は毎日のお店の業務に右往左往していた。

季節が進むと旬の食材もかわる。サービスマネージャーとしては、食材の調達・確保、メニューの変更、ホームページでのご案内、顧客へのご連絡、…等々、目も回る程の忙しさだ。

おかげで、お店に展示している変わった絵のことなど頭の片隅にも無かった。

今日もご予約のお客様をこなす事で精一杯って感じだった。

「○○様、いつもありがとうございます。本日のメニュー、いかがでございましたか?」顧客の退店時に、テンプレートの挨拶をしに行った。

「美味しかったわよ。」

「ありがとうございます。」返しの常套句…、これしか出ない。疲れてんのかなぁ…。

「ところで、あれ、変わっているわね。」

「あれ?…。え…っと。」何のこと?

「あの絵よ。絵。」

「絵?…。ああ、絵。あの黒色の…。」ああ、ひと月前から展示しているあれね…。

「不思議な絵よねぇ…。」

「…。…?」不思議って、ただ黒色なだけじゃん。

「一見すると黒色だけなんだけど、目が慣れると見えてくるなんて…。凝ってるわぁ…。」

「見えてくる…?」何が…?

「見えるじゃない。女性の顔が。」

「女性の顔…。」この方…、目が悪いんじゃ…。


その後も次から次へと業務をこなしていくうちに、こんな意味不明な会話は忘れ去っていた。


その日の閉店準備を進めていると「桜山サービスマネージャー。桜山サービスマネージャー。」と、呼ぶ女の子の声がする。

取り急ぎ、呼び声のした所へ行ってみると、フロアーサービスの子たちが黒色の絵の前で話していた。

「どうした?何かあった?」

「これッ。見てくださいよ。」彼女は黒色の絵の一つを指差した。

「うげぇ。」私のヤバいって感情が訳の分からない言葉を口走らせた。

指差された絵は、真っ二つに裂けていた。

「片付けしてて、さっき気づいたんですよ。」

「どうしたのこれ?どうすんのこれ?」美術品の破損に対する責任問題を考えると目の前が真っ暗になる。

フロアーサービスの子たちに事情聴取はしたけれど、そこには絵の破損につながる手掛かりになるような証言は何ひとつ無く、しかたなく、オーナーに事実関係のみを報告した。

オーナーは「急ぎ、浦戸紫門氏に状況を連絡して…。」と、だけ口早に言った。


現在時刻は21時前。大丈夫かなぁ…。って、思いつつ浦戸さんの連絡先に電話をしてみる。

「はい。浦戸です。」ワンコールしただけで出た。

「夜分に失礼いたします。レストランテ□□の桜山葉子と申します。」胃が痛いよ…。

「桜山さん。お世話になっております。絵に何かありましたか?」鋭い!!!こっちの状況が分かっているかの如く、話を持ち出してくれた。

「大変申しにくいことなんですが…、絵の一枚が…。」

「破けましたか。すみません。僕の選択ミスです。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。」またまた鋭い!!!それも、食い気味で…。

「え…、と、言うと…。」

「明日、お店の開店前に交換に参ります。」と、めっちゃ爽やかに言われる。

「はい…。」なんか狐につままれたような感じ…。

「それでは明日。」という言葉とともに通話は切断された。


翌日、約束通りの時間に1分とたがわず、浦戸さんはやって来た。

今日は黒の出で立ちじゃなく、グレーのグラデーションコーディネートだった。より一層落ち着いて見える。

このおじ様は自分の見せ方をよくご存知のようだ。

「おはようございます。浦戸さん。昨日は遅い時間に申し訳ございませんでした。」

「桜山さん。おはようございます。こちらこそご心配をおかけして申し訳ありませんでした。」と、互いに決まり文句を交わし店内へ。


「浦戸さん。こちらの絵なんですよ。」

「この子ですか。しょうがないですね。でも、言った通りだったでしょ。」と、子供の様に話しかける。

「えっと…。」何が言った通りなの…?

「破れても、落下はしなかったでしょ。」と、また子供の様に答えを教えてくれた。

「え、ええ。そうですね。」その事ね…。今、必要?

「じゃあ、交換しますね。」と言うと、裂けた布を無造作に剝ぎ取り、新しく持ってきた真っ黒な布を優しく壁に貼り付けた。

「それはどうなさるんですか?」なぜか気になって尋ねてしまった。

「これですか…。」と、浦戸さんは剥がした布をぞんざいに広げて見る。

「修理とか…。」

「6…2…07…。もう無いな…。」と、小声で言うと、私に向かって「廃棄です。」と、明るく答えた。



また、月が替わる。

第一月曜日をもって浦戸さんの絵画の展示は終了をむかえる。

翌日の火曜日、お店の定休日に浦戸さん本人が撤去しにくる算段になっている。

浦戸さんの絵は全て黒色に塗り潰されているだけだと思っていた。

しかし、お客様から「女性の顔が描かれている。」だとか「ドレスの女が描かれている。」だとか「裸婦が描かれている。」だとか、沢山の様々な感想をいただく現象を巻き起こしていた。

でも、やっぱり、私には黒色に塗り潰されているだけにしか見えない。

いろんな角度から見ようと、照明を当てて見ようと、黒色なだけ…。

なんか…、心の清らかな人にしか見えないとかじゃないよね。

こんな愚痴っぽい話をオーナーにしてみたところ「黒に黒で描ける画家がいるらしいよ。」って、教えてくれた。

何でも、黒の背景にもっと黒い黒で描くみたい。

よく分からないけど、その作品は一見すると黒にしか見えないらしい。

でも、そこには、間違いなく、黒で何らかの絵が描かれているんだって。

なんか、一休さんのとんちみたい。

浦戸さんもそんな絵描きさんなのかなぁ…。



お店の定休日の火曜日の午前9時50分。

今回も私がお店の扉の鍵の担当をかって出た。

今朝は生憎の雨。車をお店の駐車場に停め、待ち合わせ時間まで、車内で待機することにした。

やっぱり、絵画には湿気は良くないように思うが、浦戸さんの作品にはいかがなものか…。なんて考えていたら、待ち合わせ時間の10時を過ぎていた。

駐車場からお店までは1分もかからないので、私は傘も持たず、扉の鍵だけを持って、慌ててお店の入口に向かった。

しかし、入口に駆け寄る私からはそこに待っている人影は見えない。

『浦戸さんが遅れるなんて…。だから雨なんじゃないの…。』なんて思いながら入口に急ぎ向かう。

『先に中で待ってよ。』入口には店名の書かれたアーケードは付いているが、雨の中、ここで待つのは気が進まない。

扉の鍵穴に鍵を差し込み回す…。

『あれ?!』鍵が空いている…。おかしい…。

一瞬、泥棒を疑ったが、お店にはセコムが付いている。侵入しても、セコムを解除しなければ、けたたましい程の音量でアラートが鳴る。

もし、施錠忘れで帰ってしまったとしてもアラートが鳴る。だから、セコムのおかげで閉店後の施錠忘れも絶対に考えられない…。

『誰か先に来てるの…?』

鍵は、私が今持っているお店用の物と、オーナーが持っている物、あとはセコムが管理している物の3つだけ。

そうなると…、何事も無くにここに入れるのは…、オーナーとセコムだけ。

私は意を決して中に入ってみることにした。

なぜか静かに扉を開ける。不思議と抜き足刺し足で歩を進める。

『これじゃあ、私が泥棒じゃん。』

馬鹿馬鹿しくなって普段通りに入っていった。


入口を入って直ぐにあるロビーには変わったところは無かった。

耳をそばだてる…。フロアーの方で人が動く様な音がする。

『誰かいる。』私は敢えて、大きな足音を立てながらフロアーへ入った。


「えっ?びっくりした。浦戸さんでしたか…。」

「おはようございます。桜山さん。」

「お店の鍵が空いていたもので…。」流石に不思議過ぎるでしょう。

「すみません。驚かせてしまって。」

「どうやって入ったんですか?」疑わざるを得ない。

「昨夜、オーナー様からお借りして。」と、オーナーが持っているはずの鍵とセキュリティキーをテーブルに置き見せてくれた。

「はあ?どういった経緯で…。」

「天気予報で午後から強い雨になる予報だったので、早朝の小雨のうちに絵を撤収しようと思いまして、昨夜、オーナー様にお願いして鍵をお借りしました。」浦戸さんは眩しい笑顔であっけらかんと言った。

「そうだったんですね。」オーナーもオーナーよ。そうなら一言ぐらいあってもいいんじゃないの…。

「桜山さんには、ご連絡がいっているものだと思っておりました。」

「残念ながら…。確かに絵が濡れると大変ですものね。」大事な大事な作品ですものね。

「この子たちは雨は問題ありません。天気の良い方が弱いんですよ。」へぇ〜。

「そうなんですか。なんか、女性の髪の毛みたいですね。」

「よく分かりましたね。」

「えっ?」偶然。偶然。まぐれ当たり。

「この布は女性の髪の毛を織って作ったものなんですよ。」

「冗談ですよね。」またぁ~。

「本当です。僕が織りましたから。」浦戸さんは、真顔で自然に言い放つ。

「人間の…?」

「そうですよ。」と浦戸さんは明るい笑顔で肯定した。

「いくら黒色の布だからって、私をからかっているんでしょ。」こんな笑顔では信じがたい。

「いえ。桜山さんをからかうなんて、致しませんよ。」また、真顔だ。

「なぜ?」

「黒色の画布が必要だからです。」またまた、真顔だ。

「黒い絵の具で塗り潰せば…。」

「それでは綺麗な均一の黒はできません。」力説された。

「そうなんですね…。」

「はい。」やっぱりアーティストって分からない。

「女性の髪の毛は…、美容室とかで分けてもらうんですか?」私は何を聞いてるの…。

「いえ。それでは均一の髪の毛は得られませんから。」

「じゃあ…、髪の毛を切りたい人を募集して、買い取るんでしょ。」何を再び聞いてるの。

「いえ。それでは綺麗な髪の毛は得られませんから。」

「じゃあ、じゃあ、…。どうするの?」なんで私は聞き出そうとしているの。

「私が綺麗な髪の毛の女性を探し出して…。」

「それで、直接交渉するんだ!」私はもう話を止めたくって食い気味に言葉を差し込んだ。

「殺すんです。」浦戸さんの言葉を私は止める事が出来なかった…。



「はい? い、今、なんて?」聞き間違いだよね。

「気にいった髪の毛を見つけたら、その方を殺すんですと、言いましたが。」浦戸さんは何を言ってるの…。

「はぁ?」

「良い画材は、売って無いんですよ。」

「ええ…。」そうなんですか…。

「やっぱり自分の足で探し出さないと…。」

「へぇ…。」何の話をしてるの…。

「その時の最高なモノを見つけたら、どんな手段を使っても手に入れないと…。」

「ええ…。」その心情はなんとなく分かるけど…。

「だから、殺して手に入れるのです。」

「はぁ…。」その心情は分からない。

「でも、素材を傷つけるような殺し方はしません。」

「へぇ…。」

「素材を傷つけることなく、首の骨を折って殺します。」

「はぁ…。」首筋が寒くなった。

「女性の首の骨は細くって柔らかいから直ぐに折れるのですよ。」

「そう…。」この人は狂ってる。

「殺したら素材を工房に持ち帰って、解体します。」

「ほぉ…。」何を淡々と喋ってるの…。

「画材になるのは、髪の毛、血液、そして脂肪。」

「へぇ…。」そんなモノ並べられても分からないよ。

「だいたいの女性は、髪の毛がとても綺麗でも、体の中は汚いものがぎっしり。」

「はぁ…」そんな情報、いらない。

「それ以外は全て燃やします。電気焼却炉で時間をかけて燃やします。」

「ふぅん…。」そんな情報もいらない。

「そうすると、焼却炉の内部にに沢山の煤(すす)が、こびりつくのです。」

「へぇ…。」それがどうしたの。

「それを剥がして集めます。これは解体し終わったあとの工程なのですけど…。」

「はぁ…。」そんな工程どうでもいい。

「順番通りお話します。先ず一番始めに採取するのは髪の毛です。」

「そう…。」イチからなんていらないです。

「真っ黒な真っ直ぐな綺麗な髪の毛を傷めないように細心の注意をはらいます。」

「へぇ…。」そうなんですね。

「髪の毛は切りません。頭の皮を剥ぐのです。」

「ほぉ…?!」インディアンかっ!

「額から頬、頬から耳の裏を通り、それから襟足。グルッと一周、剃刀で切り開きます。」

「ひぃ…。」想像したくない。

「そうして、頭蓋骨から剥がします。少し力のいる作業になります。頭皮ごと剥がした髪の毛は一週間程放置します。」

「うぅ…。」やめてよ。想像しちゃうよ。

「それから一本一本、丁寧に毛抜きで抜いていきます。一週間、放っておいたので、頭皮が腐り、髪の毛は抜けやすくなっているので、思いの外、この作業は容易く行えます。」

「うげッ…。」ダメだ。想像しちゃう。

「髪の毛の付いた頭皮を一週間、放置している間に、血液を採取しておきます。」

「はぁ…。」そんな手際の話はいいです。

「殺した女性を逆さ吊りにし、首筋の太い血管を裂きます。」

「ひぃ…。」タロットカードじゃん。

「心臓が動いていないので、動脈を裂いても血は吹き出す事はありません。」

「えぇッ…。」そんなあるあるネタ、いらない。

「顔を伝わりながらタラタラと滴り落ちます。」

「げひッ…。」そんな、実況中継もいらない。

「血液はとても重要な画材なので、溢さないように大きな金盥で受け止めます。」

「うぎょォ…。」やばい。目に浮ぶ。

「その大きな金盥の回りには沢山の氷を置いて置きます。全ての血液が抜け切る迄に2日程必要です。血液が腐敗しないように可能な限り、低温にしておきます。」

「でぇ。」鮮度が命かっ!

「血液が採取出来たら、残りのを全て解体します。その際、脂肪だけは確保しておきます。これは煮詰めて、膠(ニカワ)を作ります。」

「ほぉ…。」何から何まで無駄のないこと。

「残りのは始めに話した通り、焼いて煤(すす)を取ります。」

「えぇ…。」うん。最初に聞いてる。

「集めた煤(すす)を膠(ニカワ)に溶いて黒い塗料を作ります。一人の人間から採取しただけあって、材料同士の相性はばっちりなんですよ。」

「ふぅん…。」そりゃあ、そうかも…。

「採取しておいた血液も膠(ニカワ)と混ぜます。黒い塗料程の粘度にはしません。卵の白身程の粘度にします。」

「へぇ…。」これは料理のレシピなの…。

「塗料が出来たら、画布作りに入ります。一本一本、丁寧に採取した髪の毛は、まず、汚れを落とすために洗います。」

「そう…。」やっとこさ次の工程ね…。

「この時、シャンプーなどは使いません。シャンプーほど、人間の皮脂を落とす洗浄力の強いものはありませんので…。」

「ほぉ…。」美容師さんですか…。

「一度煮立たせた水を人肌に冷まして洗います。決してゴシゴシ洗うような事はしません。静かに、絡まないように、3日、浸けておくだけです。」

「へぇ…。」浸け置き洗いなんですね…。

「洗い終わったら、乾かします。最上級の晒木綿で包み、余計な水分を吸い取らせます。」

「まぁ…。」最上級って、どんな肌触りなんだろう…。

「乾燥は直射日光の入らない部屋で、四方からサーキュレーターの柔らかい風を当て、残りの水分を全て取り去ります。」

「ふぅん…。」ドライヤーも駄目なのね…。

「少しでも水分が残っていると、織る際に髪の毛がささくれたり、切れたりする原因となるので要注意です。」

「そう…。」そんなトリセツ必要…。

「しっかりと乾いたら特製の機織り機に髪の毛をセットします。強そうな髪の毛をより優って5本で1本の経糸にします。緯糸は頭皮側から経糸に刺していきます。人間の髪の毛は、鱗状になっています。毛先側から刺すと滑らないのです。」

「ほぉ…。」そんなトリビア必要…。

「隙間無く、しっかりと度目を詰めます。黒色の一枚板に見えるぐらいに詰めます。」

「へぇ…。」想像つかないわ…。

「織り終わった髪の毛は、機織り機から直ぐに外さず、そのまま一週間程、放置します。髪の毛の縮みを矯正するためです。」

「そぉ…。」縮毛矯正ね…。

「放置期間が終わったら、機織り機から外し、出来上がった布全体に煤(すす)で作った黒い塗料を汲まなく塗ります。塗り終わったら、乾燥させます。半月程放置します。」

「ふぅん…。」ローマは一日にして成らず。

「黒い塗料が乾燥し終わったら、出来たものを木槌で優しく叩いていきます。これは膠(ニカワ)のコシを折るためです。」

「へぇ…。」理由を述べられても…。

「コシを折って柔らかくしたものに、また、黒い塗料に塗布して乾かす。乾いたら木槌でコシを折り、また、黒い塗料を塗布。これを何度も何度も繰り返します。」

「ほぉ…。」千里の道も一歩から。

「そうすると、しなやかな布が出来上がります。ここ迄きて、やっとこの布を画布として使えるのです。」

「ひゃあ…。」お疲れ様です…。

「出来上がった画布に、絵を描きます。血液で作った赤い塗料を使って…。」

「そぉ…。」

「先にお話ししたように、この赤い塗料は粘度を緩く作っています。なので、この赤の塗料は、描いた途端に滲む事無く、布に染み込んでいくのです。」

「へぇ…。」はい。はい。

「一度、描き切ったら、しっかり乾かします。そしてまた、描いた絵を血液の塗料でなぞります。同じ工程を何度か繰り返します。」

「はぁ…。」焦りは禁物ってことね…。

「血液で描いた絵が完成し乾き切ったら、煤(すす)で作った黒い塗料を布全体に塗ります。そして、乾かして、木槌で叩き、また塗ってを、何度か繰り返します。」

「ほぉ…。」雨垂れ石を穿つ。

「そうすると、髪の毛で作った布はまるで天女の羽衣の様になるのですよ。」

「へぇ…。」これぞ職人技…。

「これでやっと完成です。」

「そぉ…。」おめでとうございます…。

「黒に、黒で絵を描くには、黒をより黒くする赤が下地に必要なのです。」

「はぁ…。」種明かし。これにて一件落着。

「血液の赤は、本当に黒をより黒くしてくれる…。」と、浦戸さんは陶酔した顔つきで言った。


私は腰が抜けた。尻餅をついた。足がガクガク震えている。

浦戸さんは私に手を伸ばす。

私は動けない。恐怖で体が弛緩する。

生温かい液体が股間に滴る…。

『殺される。』


「な・ん・て…、ジョークですよ。」

「はぁ…?!」涙が溢れる。

「これぐらい曰く因縁がないと、真っ黒な絵なんて誰も興味持たないでしょ。」

「…。」涙が止まらない。

「実を言うと、僕の絵は、布を黒く塗っているだけなのですよ。」

「はぁっ…。」怒りで涙が止めどない。

「な・の・で…、嘘八百のエピソードをくっつけて、ミステリアスに、って感じにしています。」と、浦戸さんは言うと、私の腕を取って引き起こした。

「桜山さん。怖がらせてしまって、申し訳ございませんでした。」と、きれいな銀髪の頭をいつものように深々と下げた。

「あははは…。あははは…。」私は気が狂った様に声を上げて笑っていた。



一瞬、雨が止んだ。

雲の切れ間から日光がレストランのフロアーに差し込んだ。

眩しい程の光がフロアー中を寸時に包み込む。

そしてその光は、浦戸さんの爽やかな笑顔を浮き上がらせた。

安堵させられるいつもの笑顔だ。



でも、私は見つけてしまった…。



浦戸さんには、影がない事を…。



終わり












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