第5話 藤の花の天幕の下で・後編
好きな人にギュッと抱きしめられて、私個人としてはとても嬉しいのだが、タイミング!
どこに雰囲気があったのか、と物申したいがそれどころではない。
ギュッとされた時の肌に感じる熱、吐息、まっすぐな視線に、甘い言葉、むせ返るような藤の花の香り。情報量が多くていつものように受け流せない。
(と、とりあえず適切な距離を……)
抱きしめていると顔が見えないと思ったのか、鼬瓏の腕の拘束が緩む。
それに合わせて素早く身を躱して、距離を取ろうとしたのだが──甘かった。
東屋の壁を叩き、退路を絶たれてしまう。
「沙羅紗殿」
(こ、これが壁ドン効果!? 予想以上に近いし、逃げ場がないんだけれど!)
真剣に回避方法を考えるが、思考が回らない。こんなこと独房でお腹が空きすぎて死にそうになった時と、高熱を出した時以来だ。
「昼間は……こんな姿ですが──沙羅紗殿、貴女が好きです。貴女に触れたい。貴女にキスをしてもいいですか?」
「ふ、ふぇええ?」
自分でもびっくりするぐらいの声が出て、恥ずかしいやら情けないやらで、全身がカッと熱くなる。
唐突な求愛の猛アタックに恋愛初心者が流すことなどできるはずもなく、なんだか情けなくて涙まで出てきそうだ。
「沙羅紗殿……」
「そ、蒼月が鼬瓏の呪いを調べていて、だからその結果が出てからでも、いいと思うのだけど、その蒼月なら──」
自分でもびっくりするぐらい言葉が濁流のように溢れた。しかしそれが鼬瓏の逆鱗に触れたのか、私の唇を無理やり奪う。
「──んっ!?」
「ダメですよ、沙羅紗殿。二人きり、しかも告白している時に、他の男の名を口にするなんて、男を煽るだけですから」
(にゃななななああああああ!?)
「ふふっ」
「っ、ん!」
舌が入りそうになるのを、なんとか防いだが──鼬瓏は構わずに何度もキスをする。最初こそ強引だったが、二度寝の口付けはそっと触れるように優しくて、くすぐったい。
「沙羅紗殿、愛しています」とキスの合間に囁くのもずるい。惜しみなく与えられる愛情に、泣きたくなる。
「貴女が召喚で現れ、その美しい漆黒の髪に、青紫色の鋭い瞳を見た時から貴女に夢中なのです。私の剣を弾いたときは胸が躍りました。貴女に会いたくて、話をしたくて主上に無理を言って通わせて貰ったのですよ」
(知らない……。こんな、溢れるほどの愛情を)
「愛しています。普段凜とした貴女がとても可愛らしく笑うことを。貴女と会話をする夜の時間が楽しくて、夜が来るのを嬉しく思ったのも、何もかも貴女が現れてから――私の世界は変わったのです。今までの私の生き方は無味無臭で、心が揺らぐことも琴線が触れるものなど何もなかった……」
(こんなの……知らない。胸がいっぱいになって苦しくて、愛おしくて、どこまでも優しい。私のことを大切にしようとしてくれる)
お前が姉の代わりに死ねば良かった、と伯父夫婦に何度言われたか。
呪われた子、気味が悪いと言われ続けた。
視えることが特別なことだけれど、それを忌む人も多くて、普通になりたかったけれど普通が分からなくて。
沢山の人たちの輪の中に私は――入れなかった。
人間だけれど、人間じゃなかったのだろう。
平気だったのは――心の底から私を揺らがす誰かがいなかっただけ。
でも、今は違う。
(幸福すぎたら、潰れてしまうんじゃないかって思ったけれど、こんなにも誰かを慮って、慕ってくれるものが心地よいなんて……知らなかった……)
「沙羅紗殿……っ、泣かないでください」
「ふへぇ? ……あ」
気づけば私は視界が歪んで、ボロボロと涙をこぼしていた。
鼬瓏は私をギュッと抱きしめて、腕の中に閉じ込める。肩に頭を埋めて深いため息を吐いた。
「はあーーーーーーーーーー、泣き顔が可愛過ぎてめちゃくちゃにしたくなる」
「なっ、そんな心の声は聞きたくないですし! そういう趣味はないですから!」
「……そういう趣味?」
「めちゃくちゃにするって、痛いことなのでしょう? そういう趣向は」
「違うけれど。むしろどこもかしこも──いや、最初は痛いかも?」
「痛いのは……っ!?」
最初、という言葉でさすがの私もピンときた。
「やっぱり(
ふとなんでこんな話になったのだろう、と小首を傾げた。何か重大なことを忘れているような気がしてならない。
そんなことを考えている間に、鼬瓏を軽々と抱き上げた。
意味が分からず私は彼を睨んだが、嬉しそうに微笑むだけだ。
「沙羅紗殿が煽ったのですから、責任、とってくださいね」
「責任って何の!?」
色々おかしいのだが、何がどう可笑しいと問われると思考回路がまとまらない。
嬉しさと恥ずかしさと、愛おしさと色んな感情がごちゃ混ぜして上手く処理ができないのだ。
こういうときこそ弁護士なのでは? とよくわからない考えに行き着く。
「あ、え、弁護……ううん、この世界にいないし! ええっと……」
「ああ、まごついている貴女もこんなに愛らしいのですね」
(にゃああああああああ! 鼬瓏がこんな甘いセリフを吐くたびに天地がひっくり返るような浮遊感と、ふわふわと衝撃に襲われるんだ!)
原因判明。鼬瓏のせいだ。
足をばたつかせ抱き上げられている状態を回避しようとするが、がっしり固定されている。
「逃げようとしたって、逃がさない」
「だあああああああ! そうやってどれだけ私の心をかき乱せば気が済むの!? こんな……こんな胸が苦しくて、恥ずかしくて、嬉しくて心臓の音がバクバクすることなんて、今までなかったのに! 全部、鼬瓏のせいだ!」
「――っ、(そんなの告白めいたことを言ったら、もう、本当に言葉通り一時でも帰せないじゃないか)」
私としては元凶である鼬瓏に猛抗議したつもりだったのだが、何故か彼は目元を染めて嬉しそうに微笑むではないか。
その見慣れない姿に、不覚にも心不全的な胸の痛みが襲った。鼬瓏に身を任せる形になったのもあり、彼は私の頬にキスを落とした。
ああ、キスするのが普通の感覚になりつつある。
私にとってもっと特別で大事なものだったのに、あっという間に塗り替えて当たり前のように愛情を与えて――。
「……本当に……ずるい」
「沙羅紗……。本当に耐えていたのに、理性を吹き飛ばしたのは貴女ですからね。キスだけで終わると思わないでくださ」
(――この気配は!?)
ふと、藤の香りから腐臭が漂い始めた。
鮮やかだった藤の花が一瞬で枯れて灰となる。
「これは――」
「四凶でしょうね、恐らくは」
甘々な空気から一変して、鼬瓏は私を下ろして臨戦態勢に入る。
この異臭は第二王妃の宮の方からだ。こっちの王妃は、違う意味で大変だったりするのだ。というのも――。
ずるずるべちゃ……。
「……」
「沙羅紗殿、ヘドロのようなものが見えるのだけれど……」
「うん。近づいてきていますね……」
ヘドロがずるずると音を立てて近づいてくるのだが、もちろん敵ではない。
低級のアヤカシがヘドロになって、ある人間に取り憑いているだけなのだが、何度見ても慣れない。いや慣れたくないけれど。
「あ。沙羅紗様。ごきげんよう」
ヘドロの中で優雅に微笑むのは第二王妃、
(まあ、外見はヘドロに覆われているから、あれなんだけど……)
颯懍相手なら蒼月丸でズバッとやるのだが、こんな愛くるしい女性にそんな野蛮なことはできないので、弓を使って祓うことにする。調伏師にもなれば矢を使わず、弓の弦だけで祓うことができるのだ。
「――
雫一粒が水面にこぼれ落ち、周囲に波紋を広げるような――そんな音色にヘドロが一瞬で水となり蒸発して消える。
「鳴弦の儀は我が国にもありますが、あれだけで邪気を祓うとは……」
「私の持っているこの弓、
「なるほど(恐らく本人は貰ったと思っているのだろうが、たぶん求愛されていたのでは?)」
私は弓を自分の影に戻した後、
「……四凶の核があると思うのだけれど、
「ん~~~~、
「ただ?」
「不思議な犬っぽい子が宝玉をくれたの。ほら」
「それだ!」
「それね!」
そう言って手の平サイズの宝玉を出した途端、私は反射的の蒼月丸ですっぱりと切り捨てた。しかし宝玉が咄嗟に動いたせいで、邪気を少し奪う程度で完全に無力化はできず逃してしまう。
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