第8話

「魚、捕ったよ。3匹」


「へぇ……凄いね。手で取ったの?」


 友美は頑張って少し大袈裟おおげさに感心する。子供は遠慮も前置まえおきもなしに話しかけてくるので戸惑ってしまう。男の子は水滴を散らしながら大きくうなずいた。


「あっちに、石で囲んで入れてる。本当は4匹いたけど、閉じ込める前に1匹逃げた。シュって逃げた」


「そう。みんな逃がしてあげないの? 持って帰るの?」


「見にきて」


 男の子はそう言うなり友美の左手を両手でつかんだ。


「あっ」


 その瞬間、友美はじっとりと濡れた手の感触に総毛立そうけだった。途端に胸がつかえて息が詰まる。足の爪先つまさきから氷に触れたような冷たさが伝わり、顔にがったような圧迫を感じる。


 目の前に、れ下がる髪に顔を隠した、女の暗い姿が浮かんだ。


 とっさに友美は左手を振って男の子の手を引き離す。それはまるで焼いた鉄板に手を置いた時のような無意識の拒否反応だった。


「どうしたの? 友美」


 隣の恭子が目を丸くしている。友美も自分の行動にうろたえた。男の子は両手を出したまま、不思議そうな顔を向けて固まっていた。


「いや……あ、だ、大丈夫? ごめんね。びっくりさせちゃって」


 友美は慌てて取りつくろう。男の子は小さくうなずくと恭子のほうに顔を向けた。


「魚、取ったよ。あっちに、3匹……」


「おお、やるねぇ。捕まえてるの? ヤマメ? イワナ? 分かんないかな。見せて見せて」


 恭子は男の子の手を取り一緒に河原を歩いて行く。それから友美に向かって、ちょっとそこで休憩しててと手振りで伝えてきた。


 友美は左手を強く握り締めてから開く。それでも血の気を失ったてのひらが小刻みに震えていた。突然の行動だったので対応できなかった。あんな小さな子供に掴まれただけでも取り乱してしまう自分が嫌になる。だが一瞬、頭をぎった光景には耐えがたい恐怖を覚えた。



「子供が嫌いなんですか?」


「え?」


 ふいに声をかけられて友美は振り向く。さっき見た女の子が川のほうを見つめたまま隣にやって来た。内巻きの髪を肩まで伸ばして綺麗にくしを通している。ふっくらとした子供らしい丸顔に知的そうな切れ長の目をたたえていた。服装はブルーのTシャツの上にライトグリーンのロングシャツを羽織はおり、七分丈しちぶたけのデニムズボンを穿いている。お洒落しゃれにも関心のある大人びた子に見えた。


「分かります。うるさいし、遠慮がないし、汚いですから。あれでもかなり成長したんです。自分で名前が言えるようになりました」


「あ、違う。そうじゃないよ」


 友美は慌てて否定する。おかしな誤解を与えてしまったことに気づいた。


「子供が嫌いってわけじゃないよ。あの子もお利口りこうさんだし、元気だし、とってもいい子だと思うよ」


「でもさっき手を振りほどきましたよね。気をつかわなくても大丈夫です。川から出たばっかりの汚れた手なんかで触られたら私も嫌ですから」


「ううん、そんなことない。私、汚いなんて思ってない。ここの川は水も綺麗だし、キャンプにきているんだから、あんなのは普通。手を離したのは私のせいだから」


 女の子に疑いの目を向けられて、やむを得ず友美は告白した。


「私、なんていうか、昔から人に触られるのが苦手なの。苦手というか、大嫌いでえられないの」


「人に触られるのが?」


「そう。女の人でも男の人でも、大人でも子供でも、誰にも触られたくない。そういう、ちょっと変な奴なんだよ。それであの子に触られた時も、いきなりだったから思わず払ってしまって。だから本当に、あの子は何も悪くないの。かわいそうなことしちゃった」


「それは別に気にしていないと思いますけど……潔癖症けっぺきしょうですか?」


「そうじゃないんだけど。人がね、駄目なの」


 友美はわざとらしく困った顔を作る。河津に触れられそうになって声を上げたのも、恭子から差し出された手をこばんだのも同じことだった。他人の手に対して強い恐怖心を抱いている。そうなってしまった決定的な出来事もあったが、それは思い出したくなかった。


 女の子は神妙しんみょうな顔つきになって、そうなんですか、とつぶやく。正直に答えたせいで、また新たな誤解を生んでしまっただろうか。この子は賢そうだが、ちょっと思い込みの強いところがあるかもしれない。友美は小さく咳払せきばらいをした。


「ところで君たちって姉弟きょうだい? あの子は弟?」


「そうです。私は北竹きただけ聖良せいらっていいます。あっちは弟の壱月いつき。私は小6で、壱月は5歳です」


「5歳……そう、やっぱりお姉ちゃんだったんだね。今日は日帰りで来たの? それとも泊まり?」


「泊まりです。あそこに見える橋に一番近いバンガローにいます」


 聖良は川の向こうに見える木造小屋を指差した。斜面に建っているのでここからだと見上げる形になる。張り出したバルコニーには大型の焚火台があるらしく、川や景色を眺めながらバーベキューなども楽しめるようだ。


「水瀬さんは、里見さんと来たんですか? この辺で見かけなかったけど、テントですか?」


「あの人とはここで知り合ったの。どっちもソロキャンプ。向こうにテントを張って一泊するの」


「ソロキャンプ……格好いいです。あとで見に行ってもいいですか?」


「もちろん。ああ、でもちゃんとパパかママに聞いてからね」


「ママはいません。パパは……」


 聖良は少し遠くに目を向けた。その先には一人の男が橋を渡ってこっちに向かってくるのが見えた。ブルーのストライプシャツにジーンズ、サファリハットの下に四角い眼鏡が付いている。格好は少し古臭いが真面目そうな中年だった。


「パパです」


「どうもどうも、こんにちは。この子の父親の北竹静夫しずおです。お日柄ひがらも良くて良いですね」


 北竹はサンダルきの足でざくざくと砂利を踏みしめる。娘に似た切れ長の目をしているが、少し目尻が下がっているせいか気弱そうに見えた。友美は会釈でこたえた。


「聖良、お姉さんに遊んでもらっていたのか? 迷惑かけちゃ迷惑だよ」


「迷惑なんてかけてない。遊んでもらっているのは壱月だよ」


 離れたところでは恭子と壱月が川面かわもに目を落として騒いでいた。恭子は靴を脱ぎ、レギンスのすそも上げて水に入っているようだ。


「パパ、壱月が魚を捕っていたら見に行ってあげて」


「おお、そうかそうか。どれどれ、どれどれ」


 北竹は友美に軽く頭を下げると息子のほうへ向かっていった。言葉を繰り返す癖が剽軽ひょうきんで、親しみやすそうに感じられた。


「素敵なパパだね。優しそうで」


「まぁ、悪い人ではないです」


「それが一番だよ」


 友美は思わず口にした言葉に自分自身で驚く。しかしその思いに間違いはないので、あえて訂正する気はなかった。

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