第五話 リュクス

黎明の空の下

 結局、オトはまともな返事をすることができなかった。素直に頷けば無条件で幸せになれると理解しても、自分の無力さを知っているからこそ、簡単には頷けない。そんな風にうじうじと思い悩むオトを、ノアは一切責めなかった。その代わり……。


『お出かけ……?』

『ああ。君に大陸人のことをもっと知ってほしいんだ』


 翌朝。

 オトの姿は、総領事館の正面玄関エントランスに広がる庭園にあった。

 早朝から出かけることになったとサヨに告げると「でぇとですか!?」と興奮気味に飛び跳ねていたが、そういうことではないと思う。


 見事に手入れされた美しい庭園のすみっこで、消えかけのあけぼのと青が入り混じった空を見上げる。六時を告げる喇叭トランペットの音に、羽耳がぴくりと立った。


(……そう言えば、アタラはどうしてるかしら)


 目が覚めてからようやくほっと一息を吐いた瞬間、彼の顔が思い浮かぶ。結局きちんと謝罪もできていない。



 ――するときはいっしょにとぼうね。やくそくだよ。



 カージュに来てから泣いてばかりだった幼いオトに、アタラがくれた生き抜くための希望。いつだって彼に助けられてばかりだったのに、こんな形で離ればなれになってしまうなんて。


 心細さを覚えて丸まった肩にコートがかけられた。昨日と同じ麝香じゃこうの深く甘い香りに包まれ、驚いて背後を見上げる。


「すまない、待たせてしまった」


 朝の日差しに負けず爽やかに自発光するノア。

 灰色の胴着ウエストコートに品よく合わせた裾の長い背広ジャケットがとてもよく似合っていた。港の露店に出回る大陸の本の挿絵からそのまま飛び出してきたような造形美だ。

 片や、オトと言えば……。


「着物と羽織を届けさせたはずだが、気に入らなかったか?」


 カージュから連れ出した時と同じ地味な藍染の袴姿を見て、ノアの目が細まる。


 たしかに、朝一番でハンナに連れられた別室には、アタラと行った呉服屋と見紛うほどの上等な着物が列を成していた。衣桁に掛けられた艶やかな行列に呆然としながら「前の献上が使っていたものですか?」と問うと「全てノア様が新たに手配されたものです」と返され、あまりの恐れ多さに縮み上がったのだった。


「私なんかが袖を通すには、もったいない代物ばかりだったので……」

「君のための用意したのに、もったいないなんてことがあるものか」


 すかさずそう言われて、オトは返答に困ってしまう。

 あまりにみすぼらしい格好をしているせいで、気を遣わせてしまったのだろうか。領事であるノアは言わば友好国の公人。繕いだらけのボロ布のような格好は、却って彼に恥をかかせてしまっているのかもしれない。


「着物が気に入らないなら大陸のドレスも何着かあるぞ? あとで用意させよう」

「ほ、本当に結構です。次から気をつけます」

「気をつけるって、何を?」

「えっと……み、身だしなみを……?」

「よし、じゃあ次の公休日に仕立て屋を呼ぼうか。俺も一緒に選びたい」

「いえ、それは、あの……」


「困ります」と消え入りそうな声で言うものだから、思わずノアは後方に控えていたハンナに視線を送った。「女性の意思確認もせず服を贈るだなんて、最高に痛い野郎ですわ」と念を押されていたからだ。ほれ見たことかと物凄いジト目で見てくる。

 優秀な秘書官は助け舟のつもりで、仕方なくわざとらしい咳ばらいをした。


「コホン……お二人とも、そろそろ行きませんと。朝の荷下ろしが終わってしまいます」

「荷下ろし?」

「まずは港を案内しようと思って。大陸の蒸気船、近くで見たことないだろ?」

「蒸気船……!」


 不安でいっぱいだった声色がわずかに上がる。隠し切れない期待と高揚感に、ノアは清涼な瞳を見開いた後、柔和に微笑んだ。


「正面の階段を真っ直ぐ下りれば港だ。では行こうか、オト」


 手のひらを上に差し出す。どうしていいのか戸惑う寄る瀬のない手を、自分の右腕に優しく引き寄せた。

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