The path of difficulty always lies within kindness.

第1話

「困難はいつも人の思いの中にある」


 私がジャーナリストを目指すきっかけにこれほどの言葉はない。亡き母親の座右の銘だった。


 学校帰り、家に着くなり唐突に父親に告げられたのは「母親が事故に遭った」というものだった。検視は既に終わっていたのか、父に従うまま病院に向かい、長い廊下の奥の部屋に入ると、燃え尽きた車両から回収されたという人の形をした黒い何かがあった。悶える姿でも安らかな寝姿でもなく、それは車の運転中に信号のある交差点に入り、信号が変わるのをゆったりと待つ姿勢で横たわっていた。


 母の死はその一瞬だった。


 警察の調べでは、エンジンルームの不具合とガソリンへの引火により大爆発を引き起こし、母は爆風に意識を奪われ、そのまま燃え盛る炎に身を焼かれ続けたのだという。


 たしかに、車のメンテナンスなど気にかけていられないほど貧乏だった私の家庭だ。母はフリーの記者、父はしがない町工場の職人。毒にも薬にもならない平凡な一家族。


 警察と医者の言葉に生気の抜けた表情で頷く父の横顔は今でも忘れられない。


 唐突に変わってしまった日常に追いつくには、温和で生真面目な父の頭脳は余裕がなさすぎたのだろう。その焦燥はやがて権力欲と結びついた。父は職人として働く傍ら、権力者に取り入って地位を与えてもらおうと画策した。


 何にも揺るがされない磐石な地位を──父はどんどん豹変し、夜な夜などこかへ出かけては、私の朝食のために帰って来てくれた。でも、シャワーを浴びたかと思えばまたどこかへ出かけてしまう。


 いっしょにいてやれなくてごめんな──いつからか父の口ぐせは謝罪が主としたものになっていった。


 父もまた蒸発したのは私が大学生の頃だった。最初の帰省を果たした夏の時季だったと思う。「思う」というのは、父が蒸発したはっきりした時期が私にはわからなかったからだ。家に帰るとやはり父はいなかった。驚くべきことに家具の一切すら残っておらずすっかり蛻の殻になっていた。残っていたのは床に裏返しに残された書き置き一枚。


「パパとママを許してくれ」


 意味がわからなかった。


 それだけを残す意味も。


 私は途絶えてしまった生活資金を自身で工面するほかなくなってしまった。戦争から10年以上が経っていたといっても、マイナスに振り切れた経済が立ち直るには何もかもが不足している。幸か不幸か、同時期始まった総督ヴァリ主導の給付型奨学金制度によって、父がそうしてくれたおかげで成績優秀な学生として選ばれた私は、他に選ばれた優秀な人間たちと共に総督ヴァリと会食する機会を得た。


 南北戦争の北軍が身に付けていたようなピケット帽と特注のブルカットパイプ、肖像画や写真でよく見られる出で立ちそのままの姿で、総督ヴァリは所作こそ洗練されていなかったものの妙な親しみやすさがあり、口数は少なかったがときおり漏れる素朴な笑みが私を虜にさせた。そして、彼の私を見る目がそういうものだったことが、会食なんてもう目的じゃないのだとわかった。


 その夜、毛布に包まれ疲労で寝入りかけていた私の背後で総督ヴァリが呟いた。


 君は聡明だ、と。


 そう言って肩に手をかけ振り向かせ、私の胸に顔をうずめた。かと思えば赤ん坊のように泣き始めてしまい、私は訳もわからず頭を撫でて泣き止むよう懇願した。けれど、しまいには総督ヴァリの方が先に泣き疲れて寝てしまった。


 私は思った。この人は無理して総督という地位に就き続け、国民のために、身を粉にして働き、戦中戦後ずっと息もつけない激務に追われ続けていて、こうして人に温もりを求めるのは彼に許されたほんの束の間の休息なのだ、と。


 私は思った。この人のためになりたい。母も父も消えてしまった今、愛情を向けられる相手は遠い存在だと思っていた総督ヴァリしかいなかった。その総督ヴァリが、誰にでもなく私に愛情を向けてくれるのならただただそれに応えたい。


 次の日には総督と一学生の身分に戻ったが、以前よりもずっと前向きに生きられるような気がした。


 昂った自己肯定感のおかげで学生時代はさまざまな労働を掛け持って顔がずいぶん広くなった。広くなった顔のおかげで、母親と同じように記者の道に進むことができた。


 記者生活は万事順調にこなしていた。総督ヴァリのためになりたい、彼がこの人生で受けた艱難辛苦の一切を少しでも和らげてあげたいと、国内に隠れ潜む反体制派地下組織に関して調べ上げては公安に情報提供し記事にした。記事にする価値もない反体制派の数多くは摘発のため最大限協力した。


 そんな日々の中、あるひとつの都市伝説を耳にした。肉の塊に異物を埋め込んで市場に流す〈サムの汚食事会サムズダートミール〉というふざけた名前の組織があるとの噂。その噂を追うさなか、「ind the clouds」と書かれた薄汚い奇妙な紙の切れ端を拾った。染み込んだ成分を知り合いの鑑識に頼んで、それらが汚水に由来するものと判明し、切れ端を拾った付近のマンホールから下水道に潜入した。


 懐中電灯の灯りだけを頼りに、どれくらい歩いただろう。時間の感覚が薄らぎはじめた時、下水道の一角の壁から、縦に筋状になった光が漏れているのが見えた。それだけで噂が確信に変わった。ひとまず写真だけは残しておきたい。そんな衝動があった。もとより目張りもできない連中に一体侵入者対策の何ができようか──と高を括っていたのかもしれない。


 だから私は後ろに迫っていた見張りに気づかず、殴られ、気絶させられ、こうして目隠しのまま後ろ手にされ椅子に縛りつけられながら急に、「出生からここに至るまでの記憶の全てを話せ」なんて意味不明な要求に答えながらここにいる。


 承知していると思うがあなたたちの思いどおりにはいかない。


 私はここから生きて脱出して、総督ヴァリと世間にこのことを報せる。


 そしてあなたたちは捕まり、拷問して洗いざらいぶち撒けてから総督ヴァリの崇高なご意思ひとつで銃殺刑になる。


 私の書いた記事があなたたちへの致命的な一撃になるのも同然。


 そして私の記事はまたひとつ総督ヴァリとこの国と国民のためになる。


 ああ……。


 ところで、私がここでどれだけの嘘を言ってもあなたたちにそれを調べ上げるほどの能力はない、ということだけ、最後に申し添えておこう。

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